雨の日には彼女の棺に物語を
老婦人の咳のような音を立て、図書館のドアが開いた。僕は傘を閉じ、良く水を切ってから傘を傍の本棚にかけた。
雨の日の図書館はどこかよそよそしい。水を餌に本たちが知識という栄養をため込んでいるのだろうか。耳を澄ますと本がその身を大きくしているぎちぎち、という音が聞こえる気がした。
わざと大げさに歩いてみたが、足音はしない。どうやら敵意は持たれていないようだが、歓迎もされていないらしい。
さほど広い図書館ではないが、天井だけは異様に高い。突き抜けるような、という表現がぴたりとはまる。試しに声を出してみると良く響いた。体が温まってきたので今度は歌ってみる。
出来るだけ無意味な言葉を選び、出来るだけ早いテンポで歌う。言葉が意味を持ってはいけない、文字が物語を紡んではいけない。誰にも聞き取れないような速さで僕は歌う。
歌い終わると、無数の雨の拍手が僕を称えてくれる。木造なので喝采とまでいかない、じとじと、と染み込んでくるような気の無い拍手だ。
悪くない、僕は呟き、上着を脱いで近くの椅子にかけた。すぐに思い出し、上着から三冊の本を取り出す。赤いのがショーンおじさんの本、青いのがバンおばさんの、そしてこのぼろぼろのが僕のだ。
生まれて初めて作った物語。何度も読み返したせいで、自分では面白いのかどうかさえ分からない。だけど何とかして形には出来た。
僕は彼女の棺の前で立ち止まった。彼女の棺を囲むようにして無数の本がそびえ立っている。その様はまるで不出来なピラミッドのようにも見える。いつか彼女が目覚めた時、読んでもらいたくて村の人々が書いた物語だ。
そんな風景を見ていると僕は不意に、村の外れに住んでいる青年が書いていた絵を思い出した。黒々とした世界にいくつもの崖が描かれている。崖の上では数人の人間がたき火を囲んで生活をしており、他の崖の人も同じように暮らしている。しかし、彼らが交流を持つ事は決してない。
「これはね、隔絶した社会を描いているんだ。それぞれのコミュニティが交わる事はない。あとね、このたき火が意味しているのは……」
なんてその青年は説明してくれたけど、僕が感じていたのはどうしようもない虚しさだった。他の世界に向かうには、死を覚悟して崖から崖へ飛び立たなければならないのだ。残された者に出来る事は余りにも少ない。
僕は無数の物語で囲われた彼女の世界の前で、片膝を付いて屈んだ。くだらない日常を描いた物語を額にそっと当てる。面白くないかもしれないけど、君に読んで欲しいんだ。
この物語を君に捧ぐ。
彼女は幼い頃から病気持ちだった。いや、自分たちの理解出来ない事を病気に押し付けて安心していたに過ぎない。それほど、僕たちと彼女はかけ離れた存在だった。
音を色で感じ取れる人がいるように、人をオーラで判断出来る人がいるように、彼女は文字で物語を想像する事が出来た。何を当たり前な事を、と思うかもしれないが、僕たちと彼女で決定的に違う点はその想像力だった。
彼女はたった一つの文字で一つの物語を想像する事ができた。つまり彼女にとっては一つの文字が一冊の本と同じ分量だったわけだ。じゃあ、彼女にとって一冊の本は?
だから彼女は子供の頃、良く「迷子」になった。死人のような顔付きで本を開き、目を閉じている彼女を僕は何度も見た事がある。そうなると、彼女は食事も睡眠も必要としなかった。彼女にとっては現実の世界より物語の世界の方がよほど生き易かったのだろう。
医者に診せに行っても治療方法が分からない彼女の両親が採った方法は、余りにも原始的な方法だった。
一切の文字を見せない事。
それ以来、彼女は瞳を閉じた。
小さな村は得てして排他的になりやすいものだ。村人たちは遠巻きに瞳を閉じたまま歩く彼女を珍しそうに眺め、彼女の両親は人目を気にして彼女をあまり外出させないようにした。
そんな大人の態度に子供はすぐに影響を受けてしまうもので、村の子供のほとんどが集まる小さな学校でも、彼女は一人、席に座りまっすぐに前を向いていた。閉じられている瞳が向けられているのはこの世界ではなく物語の世界だったのだろう。
なぜ、そんな彼女に話しかけたのか、と問われれば無邪気な好奇心を以って、としか答えられない。まあ、当時の僕は、何だか面白そうだな、としか思っていなかったのだが。
「何で目、閉じてるの?」
僕が問うと、彼女は一瞬、体を震わし、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「迷子になっちゃうから、かな」
ふうん、と呟き、僕は彼女の前の空いている席に座った。しばらく考えた後、
「逆じゃない?」
と言うと、
「そうかも」
と彼女は笑った。瞳を閉じたままの笑顔、というのはどこか不思議な印象を与える。まるで未完成の絵画のようだ。完成すればもっと美しくなるだろう、と期待を感じさせるが、今の繊細な美が一番かもしれない、とも思わせる。どちらにせよ、彼女は魅力的だった。
それからぽつぽつ、と話をし、僕は彼女の病状をおぼろげながらも把握し、
「じゃあ、話すのは良いんだよね」
とくだらない空想の物語を彼女に披露した。雨に濡れた羊が大きな銀時計になる話やミルクティーがポッドから逃げ出す話なんかだ。耳で聞く物語なら大丈夫なのか、それとも僕の物語が入り込む事が出来ないほどひどいのか、は分からなかったけど彼女は僕の話を笑って聞いてくれた。僕は彼女が笑ってくれた事が嬉しくて、調子に乗って歌を歌った。
いや、歌なんて言えるもんじゃない。歌詞もないし、意味もない。音とリズムをバケツの中で掻きまわし、そのまま放り投げたような歌だ。そんな歌なのでクラスの皆にも不評だ。その時も、クラスのガキ大将のマルスが僕の名前を呼び、
「うるせーよ」
と言おうとして、その動きを止めた。僕のひどい歌を間近で聴いていたにも関わらず、彼女が嬉しそうに拍手していたからだ。マルスは引きつった顔のまま、彼女に近づいてきて、
「なんで喜んでんの?」
と素直な疑問を口にした。
「だって、良い歌じゃない」
彼女は当然でしょ、という風に口にする。マルスは最初、信じられない、と驚いていたが、次の瞬間には大声で笑い始めた。
「おもしれーな、あんた」
そんなマルスの声に、何事か、と周りの生徒たちも集まってくる。たちまち、彼女は質問攻めにあっていた。
子供は影響を受けやすい。彼女が自分たちと何も変わらないという事に気付いたのか、すぐに彼女と仲良くなり、良く遊ぶようになった。当時の僕は、彼女が他の男の子と遊んでいるのを少し寂しくも感じていたが、楽しそうに笑っている彼女の姿を見ていると単純に嬉しかった。
今度は子供たちの態度に大人が影響を受ける番だった。彼女が家に遊びに来たり、親に連れられ村に買い物に来たりする内に、村の大人たちも彼女を受け入れるようになっていた。
彼女の方も昔より積極的に外出するようになった。彼女の親も、もう彼女を隠したりはしなかった。彼女が特に懐いていたのが宿屋のバンおばさんだ。学校の授業だけではついていけないから、とバンおばさんに文字の書き方を習っていたらしい。
バンおばさんとの授業の後、彼女はいつも僕の所にやって来て、得意げに文字を書いてみせては、
「合ってる? 合ってるよね?」
としつこく聞いてきた。
「合ってるって」
本当はかろうじて判別出来るかどうかのものだったが、僕がそう言うと、
「やった」
と彼女は喜んでくれた。
僕は彼女が楽しんでいたり、喜んでいたりする姿を見るのが好きだった。いつか瞳を開いて僕の事を見て欲しかった。
でも彼女は僕の事を、僕のいるこの世界の事をどう思っていたのだろうか。
今ではもう分からない。彼女は「死んで」しまったから。あくまで、この世界では、ということだけれど。
影のような雨の日だった。空から降ってくるのではなく、地面から付いてくるような雨だった。
僕が宿屋に羊の毛皮を届けに行くと、バンおばさんが心配そうな面持ちで話しかけてきた。
話を聞くと、彼女が授業の時間になってもやって来ない、らしい。
「こんな事、今までになかったんだけどねえ」
顎に手を当て呟くおばさんを横目に僕は宿屋を飛び出した。
嫌な予感がしていた。
先日、全部の文字を覚えた、と自慢しに来た彼女が呟いた言葉が胸に引っ掛かっていた。
「これで、私も物語が書けるね」
確かに彼女はそう言ったのだ。
そしてこの雨だ。バンおばさんの所へ行く途中に雨が降り出し、普段は寄る事のない図書館に雨宿りのために入ったのかもしれない。
僕は傘を投げ出し、更に足を速めた。体中に当たる雨が鬱陶しかった。
図書館の扉を開けると、彼女が机に顔を突っ伏しているのが見える。
駆け寄ろうするが、足は動かない。雨の音がだんだんと小さくなっていく。それと逆行するように鼓動が何かを告げるように大きく響く。
瞳が彼女を捉え、脳に情報を送る。
眠っている? いや、違う、そうじゃない、そうじゃない。彼女はもう……。
僕は反射的に瞳を閉じていた。不完全な暗闇が僕を包む。雨も鼓動も何も聞こえない。臆病な静寂はすぐに破られる。
何処からか妙な音が聞こえた。雨の音ではない。暗い崖の底から吹く風のような音だ。それが自分の呻き声だと気付いた時、僕は彼女の傍に駆け寄っていた。
何度名前を呼んでも、体を揺すっても彼女は反応しない。歌おうか、と思ったがかすれた声しか出ない。糸が切れたように体がガクンと崩れる。視界が涙で溢れ、彼女の顔がぼやけて見える。
彼女は「迷子」になってしまった。この世界から飛び立ってしまったのだ。
泣いてはいけない、僕は自分に言い聞かす。泣いたら全てが現実になってしまうような気がした。
ふと、彼女の手の下に何かが隠れているのに気付く。
ぼろぼろになった一冊の本だ。題名には、
「時計になった羊」
と書かれている。
彼女の字だ。何度も確認させられていたんだ、見間違えたりしない。拙いけど、真っ直ぐで、なのに切実さを含んだ文字。
震える手でゆっくりとページを捲る。間違いない、僕が初めて彼女に語った物語だ。何回も書きなおしたのだろうか、所々は黒ずんで見えなくなってしまっている。最後のページ、隅の方に小さな文字で何かが書かれている。
「怖かった、ごめん」
とかろうじて読める。
何がだよ、と気付けば叫んでいた。
文字じゃ伝わらないよ、起きて言葉で伝えてくれよ。
涙が溢れ、ページに染みを作っていく。滲んでいく物語を見ていると、涙が止まらなくなる。
雨漏りだったら良いのにな。
僕は顔を上げ、大声で泣いた。
こうして彼女は死んだ。棺はショーンおじさんが作ってくれた。彼女の両親の望みで棺は図書館に設置された。せめて物語に囲まれて眠って欲しい、とのことだった。
初めに物語を書いたのはマルスだった。ガキ大将らしい汚い、だけど力強い文字で書かれた物語だった。その本を、放課後、府抜けたように彼女の席に座っていた僕に手渡し、
「お前があいつの所に持って行ってやれ」
と言った。
「何の為に」
と僕は聞いた。
そんな事したって彼女は戻って来るはずがない。
「あいつが戻ってきた時の為だ。今までろくに本も読めなかったんだ、だから……」
「ふざけるな」
気が付けば立ち上がり叫んでいた。誰もいない教室に声が響く。マルスは顔色一つ変えず、真っ直ぐな瞳で僕を見つめていた。
「そんな事したら、彼女はまた……」
急に力が抜ける。椅子に寄り掛かると溜め息が漏れた。大声を出したせいか、数日間、胸に巣食っていた思いが言葉になり口から飛び出す。
「僕のせいだ、僕のせいで彼女は……」
マルスが、もう良い、とでも言うように僕の肩に手を置く。僕の前の席に座り、こちらを向く。僕が彼女に話しかけた時と同じだ、とふと思う。僕の目にはマルスが映っている。だけど彼女の目に僕は映っていなかったのだろう。
「確かにそうかもしれない」
マルスが静かに言う。いつもの乱暴な口調では無い。それだけにマルスの真剣さが伝わってきた。
「お前はもう気付いてるんだろ? あいつがきっと戻ってくるって事も、戻ってきた彼女の為に何が出来るって事も」
そう僕は分かっていた。彼女がもう戻って来ないと決めつけて、辛い時間から逃げようとしていただけだ。なら僕は彼女の為に何か出来るんだろう。
彼女が死ぬ前に残した最後の言葉。
「怖かった、ごめん」
僕はその言葉の意味にようやく気付く事が出来た。文字通り彼女は怖かったのだ。
彼女が居たのは完全なる暗闇の世界だ。それこそ崖の下のような。周りにはもちろん誰もいない。崖の上からは暖かな光が漏れている。
そんな中、崖の上から投げ掛けられる声を彼女は信じる事が出来ただろうか、いや、出来なかったのだろう。だから彼女は僕の歌を好んだのだろう。そこには意味なんて無かったから。そして、彼女は文字という確実なものに頼り、物語という幻想の世界に逃げた。
僕が彼女に掛けるべきは、逃げ込む為の物語ではなかった。たった一言で良かったのだ。目を開けて欲しい、と。僕は君が好きだ、と。
僕はマルスの本を手に立ちあがった。
「行ってくるよ」
とマルスに告げる。
「中、絶対見るんじゃねえぞ」
そう言ったマルスはいつものマルスだった。
「愛の告白でも書いたのか?」
「ふざけるな、それはお前の役目だろ」
くだらないやり取りに笑みがこぼれる。これが僕たちの日常だ。戻ってきたら彼女も入れてあげよう。
外は雨が降っていたが、僕は構わず一歩を踏み出した。
それ以来、僕は雨が降る度に彼女に物語を届けている。最初はマルスだけだったが、それにバンおばさん、ショーンおじさんと続き、今では村人全員が彼女の為に物語を書いている。まあ、物語といってもほとんどが日記に近いものだが。彼女が眠っている内に起こった出来事を起きた時に伝えたいらしい。
そして今日、やっと僕の物語が完成した。小さな村での小さな物語だ。登場人物はもちろん村の人たち。
彼女が本当の意味で目覚めた時、一緒に楽しんでもらいたくて書いた物語だ。
僕は彼女の棺の上の「時計になった羊」の上に僕の物語を重ねる。
ずっと待ってるから。
そう呟き、彼女の棺に背を向ける。
ふと、気配を感じて振り返るが、誰もいない。何か彼女に言おうとしたが止めた。言いたい事は彼女が戻ってきたら全部言おう。
ドアを開けるとまだ雨が降っていた。
そう簡単にはいかないか、と苦笑しつつ歩き出す。途中、雨に濡れた羊が僕を見ていた。僕は何だか馬鹿にされている気がして、羊を追いかけた。
意外とすばしっこく、尻もちをついてしまう。雨が全身を打つのが心地良い。何だか気分が良くなってきたので雨に向かって歌った。
何だか雨を好きになれそうな気がした。
ファンタジーのつもりで書きました。
掌編のつもりで書いたので情報量が少ないかもしれません。