第六話 どうしてどうして王女
第六話
「ライモの頬にキスをしそうになったとお父様に言ったら、お父様はよくないと言ったの。どうして?」
アイラの質問に、教育係のガード夫人は血相を変えた。
「アイラ王女! それは決してしてはなりません。なぜそんなことをしようと思われたのですか。ライモは宮廷道化師。清く誇り高い王女の身分であるあなたが、口づけなどしてはなりません」
ガード夫人はまくし立ててから、深いため息をついて、ティーカップをソーサーに戻した。
「これだから。わたくしはライモとあまり接触させるなと陛下に進言しましたのよ」
ガード夫人は陰鬱に言った。
「ライモはとびっきり私を喜ばせてくれたから、感激して自然とキスしたくなった。これって人として自然な気持ちでしょう」
「それはふしだらな気持ちです。ライモは子どもですが、男ですよ。夫となる者以外と接吻などしてはなりません。私は結婚するまで、親族以外の男性と手すら握ったこともありませんでした。それが淑女というものです」
ガード夫人が肩眉を上げ、澄まして言った。
「ですから今後は、宮廷道化師とは最低限の接触をしなさい。宮廷道化師の曲芸があなたにとって気分転換になることは認めてあげます。その代わり、慎みなさい」
アイラはガード夫人の説教にそっぽを向いて、返事をしない。
「慎みなさい」「清くありなさい」「淑女でいなさい」——アイラが嫌いな三つの言葉だ。
アイラはガラスのローテーブルに置かれた皿から、チョコレートのプチケーキを取って口に入れる。
ガード夫人はアイラの無言の抵抗に慣れている。
「それから、乗馬は却下します。王女が馬に乗る必要はありませんから」
「そんな!」
冷酷なガード夫人の言葉に、アイラは叫んだ。
「必要になるかもしれないじゃない!」
「必要ありません」
アイラは二個目のプチケーキを口に押し込んだ。
むしゃくしゃする。
十八歳まで城の外に出られないなんて。
「まったく、どうしてなの。どうしてこうなの。おかしいわよ」
アイラは文句を言い続けた。
アイラの疑問は増えていく。朝から晩まで「どうしてなの」と考え続けている。
誰に聞いてもろくな答えは返ってこない。
「あなたが王女だからです」
ガード夫人は、同じ答えしかくれない。
途方に暮れてはバルコニーから王都を眺めて、町娘になりたいと願う。
「王女だから」なんて、聞き飽きた。堅苦しい、懲り懲りだ。
読める本はすべて読み尽くした。教師はガード夫人が許可した者だけで、アイラが決められることはない。
女性の決定権は少なすぎる。
アイラは男と女の扱いの差に、腹が立っていた。
「アイラ王女、僕、読み書きができるようになりました。アイラ王女が読書を好まれるのがよくわかりました。本っておもしろいですね」
ライモが明るく話す。彼の花びらのような唇は、いきいきとよく動く。
ライモはジーモンの家に住み、午前は王について、午後からは城内の教室に通っている。
アイラは彼が、寂しくなる夕暮れ前に来ていろんな魔術を見せてくれるのが嬉しいが、一方で「王女を慰める」という役目を彼に背負わせていることを申し訳なく思った。
中庭のブランコに座るアイラの足元に座って、ライモはおしゃべりを続ける。
「城内教室にはいろんな子がいます。下町育ちの子とはすぐに仲良くなったんですけど、隣の席の令嬢様とは仲良くなれなくて。なんていうか、敵対心みたいなのを感じます。令嬢様が僕に敵対心なんて、変なのですけど」
「それはね、ライモ。あなたがその令嬢様より顔が可愛いからよ。どこのお嬢様も、美しいかそうでないかで人生を決められてしまう。男の人にとって美人は好まれるけど、醜いと馬鹿にされるのよ。なのにあなたってば、男の子なのに文句のつけようのない可愛い顔をしてる。だから見てると腹が立つのよ」
アイラが言うと、ライモは口を閉じて首を傾げた。
「おかしいよね。ガード夫人はよく私の容姿を褒める。でも、どんなに難しい公式を解いても褒めてくれない。それに私、自分の容姿がそこまで美しいと思わないわ。だって、あのお母様に似てるもの。この金髪を、あなたと同じ黒にしたい時がある」
「…………そんな、せっかく、きれいな金髪なのに。アイラ王女、自分を愛してくださいって、僕は言いましたよね。それなのにそんなことおっしゃって、ライモは悲しいです」
ライモが顔に手をあて、シクシク、と泣き真似をする。
「そうね、それはごめん。でも嫌いな人に似てるってイヤ」
「ごめんなさい。僕は両親の顔を覚えていないので、似てるのが嫌だという考えはなかったです」
「別に、あなたを責めるつもりはないのよ。ただ、男の子と女の子では区別されてて……ああ、私ってば何を言いたいのか。えっと、あなたがうらやましい。私もお父様の王としての仕事を知りたいし、いろんな子と一緒に学びたいの。私も城内の教室に行けたらいいのに」
アイラは溜息をつく。
それは、無理だ。
アステールのお姫様は、十八歳まで王家と貴族以外の者と会うことはできない。ライモだけが特例だ。
城から出ることも許されない、閉じ込められて大切に育てられる。
「このお城はとってもきれいで、いい所です。でも、アイラ王女様にとっては、そうじゃないのかな」
ライモは言ってから、距離を置いて椅子に腰掛けて監視しているガード夫人に顔を向けて、ハッとしたように動きを止めた。
「で、では。僕が教室で学んだことをお話ししますよ! それで少しはアイラ王女が城内教室に通っている気になれたらと思います」
ライモが袖をひらひらさせて、明るく言う。
また気を遣わせてしまった、とアイラは反省した。
「ありがとう。じゃあ、教室の話を聞かせてよ。その令嬢様に意地悪されたら、どうしてる?」
アイラは笑顔を作って言った。
「意地悪はされませんよ。ただ、すごくきつい口調で『ジーモン様の家にふさわしくない』とか、『ジーモン様が好きな食べ物を教えなさい』とか、『アイラ王女に失礼なことしたら許さない』とか、言ってくるんです。そんなとき、僕はこう返します。『僕わかんない、だって僕ライモだから、道化師だからわかんない』って」
「それ、令嬢様はさらに怒りそうだけど」
「その通り」ライモが指を鳴らす。「すっごい怖い顔で睨んで、『このぶりっ子!』だって」
けらけらとライモが笑う。かわいい男の子にぶりっ子されて、その令嬢様はかわいそうに。
「その子、面白そうね。名前?」
「リディア・ラボルド公爵令嬢です」
ラボルドは由緒正しい公爵家だ。
アイラは思いついた。
令嬢たちをお茶会に招待して、女の子たちの本音を聞き出したい。
自分だけではどうにもならない。他の女の子たちの力が必要だ。
「ライモ、お迎えですよ」
ガード夫人が立ち上がって呼びかける。
「では、失礼します。アイラ王女、良い夜を」
ライモがジーモンに駆け寄っていく。
厳格を彫像にして歩かせたようなジーモン大臣と一緒に歩くライモは嬉しそうだ。
「もしかして、リディアって子。ジーモン大臣が好きで、ライモに嫉妬してる?」
アイラは口にしてみて、まさか、と首を横に振る。
十二歳の女の子がジーモンに恋するとは、渋すぎる。