第六十六話 孤独の試練
修行二日目、ラウエー・マッチによる格闘技。
三日目と四日目はエルサによる剣術指南。
驚くべき速さでアイラは習得した。
「我々が教えることは、何もありません。あとはアイラ女王、あなたが一人で修練を積むことです。基礎的な体力作り、練習、そして一人で生活することがあなたにとって最大の修行です」
ラウエーが言った。
「アイラ、じゃあ、あとは一人でがんばれ」
エルサが言って階段を上がっていく。
「そんな、もっと学びたいのに。練習相手がいないと」
アイラは引き止めたが、ラウエーも笑顔を見せて階段を上がっていた。二人が闇に吸い込まれるように消えて、階段も消えた。
無音の、光だけが眩しい何もない稽古場で、アイラは立ち尽くす。あと二十六日、ここで一人で過ごす。かろうじて部屋に時計があるから日数がわかるが、太陽が上り沈んで夜がくるという世界から、ここは隔絶されている。
アイラは深呼吸した。
ラウエーから教わった柔道の腹式呼吸を行う。
左足を半歩後ろに引き、両手を顎の下で上げる。
肘を少し曲げて、空中を殴る。これをアイラは疲れるまで続けた。
水分をとって休憩し、次は腹筋と腕立て伏せ。息を吸って吐きながら体を隅々まで伸ばす。稽古場を走る、これも疲れるまで。
次は模造刀を手にし、重心を中心におく。そしてへその高さに剣を構え、素振りを五十回行った。
これを、ずっと一人で。
無音の中、ただ自分の息の音しか聞こえない。
「何時だろう」
アイラは呟き、ベッドの上に掛けられた時計を見に行った。
まだ三時過ぎだ。
時間が経つのがこんなに遅いなんて。
アイラは部屋の中を見渡した。かろうじて本が棚に五冊並べてあったが、嫌いな作家の恋愛小説、でたらめな化学の本、レディのたしなみマナー本、童話集、聖書だ。
ため息をつく。そしてなぜか棚にはチェスがあった。一人でするチェスなんて虚しいだけだろう。
アイラは仕方なく一番まともな聖書を手に取って読んだ。すでに読んだことのある重厚なものではなく、変に不気味な絵柄で文章も下手な聖書だ。
『そうして七人の大天使が人間を作って、これには魔術が使える者とそうでない者に分けられており、そうしたことは不平等ではなく神の教えであり、太母女神におきましてすべての人類を愛するゴッドマザーでありまして、そうして世界は作られております』
聖書の酷い文章と、やたら胸が大きく描かれたゴッドマザーの裸の絵にアイラは目眩がした。
『七人の大天使さまにおかれましては、指導者ガラ様と人間に教授しギラ様、医療伝授のギグ様、この世界を走り抜け観察して人間に体の運動能力を授けましたクグ様、世界のあらゆる物を設計しましたオグ様、そして芸術を与えしアグ様であられまする』
「なんでみんな裸婦なのよ! 大天使七人はみんな女じゃないし。なんなのこの本、やたら裸婦の絵ばかり。気持ちが悪い」
アイラは聖書を閉じて愚痴った。
この怒りを発散するため、また稽古場でラウエーとエルサに教わった基礎を練習する。
ぐったり疲れて居住スペースに戻ると、ようやく六時だ。アイラは小さなバスタブで汗を流し、食事を作った。一人で初めて最初から料理をした。少し塩辛いが、野菜の茹で具合は良い。
柔軟体操をして、アイラは眠った。
目が覚めて時計を見ると六時。
太陽が見えないと、朝なのか夕方なのかもわからない。アイラは陽光が恋しくてたまらなくなった。くよくよしていても仕方ないので、パンを食べて訓練を開始する。
ベッドの布団をぐるぐる巻きにして、背負い投げの練習道具にした。
「さすがに龍は背負い投げできない。っていうか私、龍がどんな生き物でどこが弱点か教えてもらってないじゃない。絵本の龍殺しには詳しい殺し方は書いてなかった。バティスト様…………それだけは情報ちょうだいよね」
ぶつぶつ言いながらアイラは剣を手にして、斜め切りの練習をする。
「もし剣が使えなくなったら、龍を殴る。いや、鱗でこっちの手が痛む」
アイラは目の前に、巨大な蛇のような胴体は固いうろこで覆われ、顔は獅子のような龍が存在すると想像して、剣で何度も斬る。
「ダメだ。情報が少ない。まず作戦よね。さすがに私一人では龍を殺せない。魔術で龍の動きを封じてもらって、そして斬る。そう、私一人では…………無理だ」
アイラは呟いて、がらんとした稽古場を見る。
一人っきりだ。
アイラの周りにはいつも人がいた。メイドたちが世話をしてくれて、リディアたち三官女がそばにいて自分を信じてくれてた。
ライモはいつも笑顔をくれた。
いつもエドワードと夕食を食べて、ジーモンと国政を語った。
ぶわっと涙が溢れた。
いつも人がたくさんいる城でアイラは守られて生きてきた。
誰もアイラを一人にしなかった。
「寂しい…………」
他者の顔が見たい、声が聞きたい。
「だめだ、こんなことで泣いてたら。勇者になれない!」
アイラは自分に喝を入れて、剣を置いて柔道の受け身の練習、間の詰め方を練習した。空中を鋭く殴りつけ、息が荒いまま走り回った。そうしてめちゃくちゃな運動をしたせいで、足首を痛めてしまった。
泣きそうなのをこらえ、水で冷やした。
気分転換に読み始めた恋愛小説は少し面白かったが、主人公が惚れる相手が強引な態度で、「自分に惚れているならなんだってするだろう」という態度が気にくわなくてすぐに閉じた。
痛めた足首を休ませるため、次は仕方なく一人でチェスをした。これは少し楽しかったが、すぐに飽きた。
「チェックメイト」
自分自身にチェックメイト。
一人で食べる食事は、おいしくない。
人間は、一人では生きていけない。
どんなに有能でも人から支えられている。
自分が強い者だ、なんでも一人でやれると思いあがっている人間は弱者に助けられている。
「私の試練は、孤独」
アイラは呟いた。
足首を動かさないようにして、ストレッチをしてベッドに入る。なかなか眠れない。
ライモは、どんな修行を受けているのだろう。きっと自分と同じぐらい過酷だろう。さっき読んだ恋愛小説の嫌な男、自分と重なってしまう。アイラはライモが自分についてきてくれることに、甘えていた。彼をいつも自分の世界に巻きこんでしまう。
君の世界に連れて行って。
それでも、ライモはそう言って手を差し伸べてくれた。
ずっとずっと、愛している。
大切にしたいのに、いつも彼を自分の世界の道連れにしてしまう。彼の本当の幸福ってなんだろう。ライモは勇者に選ばれたことが本当に正しいのか。
あの清らかな手で龍殺しをさせるなんて。
アイラは体を丸めて泣いた。
ライモの水色の大きな瞳を見つめて、あの白くて柔らかな頬に触れたい。
ごめん、愛してる。
運命共同体、ライモそう言ってくれた。
孤独の底でもっとも求めるのは、ライモだ。
ともに、生きていきたい。
「ライモ、愛してる。愛しているの」
アイラは呟きながら眠りについた。
一ヶ月が経過した。アイラは無茶な稽古をして、体のあちこちにアザを作った。勢い余って顔面から転び額に鬱血の跡がある。
アイラは孤独を生き抜いた。くだらない科学の本も嫌いな恋愛小説もマナー本も、「それが好きな人と話のネタになるなら」と読了した。
「修行、お疲れさまでした」
天井からバティストの顔がした。
稽古場の真ん中に光の柱が現れ、螺旋階段が登場した。
「最後の試練です。その階段を一分以内に駆け上がってください。さあ、位置について。スタート」
アイラは階段を駆け上がった。階段は足を置くとすぐに崩れる。すぐに次の足を出して上がらないと落ちてしまう。アイラは下を見ないようにして、全力で階段を上がった。
光の中に出た。
アイラは机の上に立っていた。
窓から差し込む陽光に目がくらむ。
「アイラ、合格よ!」
リディアが叫んだ。
部屋には魔術協会と平和連の人々、エルサとノラもいる。
「お父さま!」
アイラは机を降りて、エドワードに抱きついて泣いた。
「よく頑張った、よくがんばったね、アイラ。心配すぎて修行に行く前にそばにいてやれなくて、すまなかった。おまえが龍を殺す使命を受けて私は悩んでいたが、おまえは試練を乗り越えたんだ」
エドワードが言う。
「まったく、早く降りろよ! 首しめやがって何回か死ぬかと思った」
ライモが怒鳴る。
「だってぇ、階段ボコボコ下に落ちてめっちゃ怖かったわ」
ライモの首にぶら下がってるヤグが泣きながら言う。
「バティスト様、僕だけお荷物で背負って大変でした!」
ライモの声が聞こえて、アイラはエドワードから離れてライモに抱きついた。
「…………アイラ。僕たち、無事に修行を終えたね。アイラ、怪我してる。額にあざが。どんな過酷な修行を乗り越えてきたの。とても痛そうだ」
ライモの暖かい手がアイラの額のあざをなでる。
「もっと、なでててほしい」
「うん、たくさんなでる」
アイラの欲求にライモはすんなり答えてくれた。
人のぬくもり。
これがないと、生きていけない。




