第二話 新しい生活
宮廷道化師の試験を終えて失神したライモは、見知らぬ部屋で目覚めた。二段ベッドがあるだけの質素な部屋だ。サーカス団の寝場所もこんな風だけど、部屋が狭い。
薄いベニヤ板の隙間からいい匂いがする。ライモは起き上がってドアを少し開けた。
そこは厨房で若い女と中年の女性が、椅子に座ってじゃがいもの皮を剥いている。
「しかし、すごかったねぇ。あの坊や。わたしゃサーカスなんて興味なかったけど、今度ニコルスのサーカスに行ってみようかな」
中年の女が陽気に言う。
「ほんとにすごかった。ライオンなんて初めて見た、あれはかっこいい」
若い女も同調する。
「それにさ、王女様が笑顔になってよかったよ。よくも眠れず大好きなショートケーキも召し上がれなかったのに。辛い思いしてきたんだ、楽しい遊び相手の道化師の坊やでも側にいてやらないと」
「そうだね。母親におまえなんか産まなきゃよかったなんて、言われて」
若い女が悲しそうに言う。
「継子になれる男の子を産んでいれば私はもっと尊敬されていたのに、なんて。あの人が尊敬されなかったのは、わがままな性格と浪費癖なのに」
「ほんとに。そして一言も謝らなかった、まったく。ああはなりたくない。ほんとにいなくなってくれてよかったよ、あの人がいたときはこうしてゆっくり椅子に座って作業をする暇がなかった」
「浪費した分、厨房の人員を減らすなんて、とんでもなかった!」
ライモは会話を聞いて驚き、立ち尽くした。
産むんじゃなかった。
ライモも母親に同じことを言われた。
あの言葉は目の前が真っ暗になる。思い出すと心の芯が真っ黒になる、命の根っこが抜かれた気がする。
気が遠くなったライモはドアに体重を預けてしまい、ギィ、と音が鳴った。
「あら、起きてきたのね。疲れたでしょう、さあコーンスープをお食べ」
中年の女が優しく声をかけて鍋におたまを入れる。若い女がライモを椅子に座らせて作業台に湯気が立ったコーンスープを出してくれた。
「ありがとうございます」
「あなたも私たちと同じ、お城の住人ね。よろしくね」
「よろしく。お腹が空いたら、ここにおいで」
二人の女性に笑顔を向けられて、ライモは、はにかんでぺこりと頭を下げた。
コーンスープはライモの腹に染み渡って力をくれた。
アイラ王女を笑顔にしよう。身分は違えど同じ痛みを持った彼女を。
厨房を出ると広い廊下に出た。
「ライモ殿!」
名前を呼ばれた方を見ると、サーカス団にスカウトにきた官僚シモンズがいた。
「お疲れさまでした。もう大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。お世話をおかけしました」
「いいえ、素晴らしい曲芸でした。宮廷道化師に選ばれたこと、心よりお喜び申し上げます。私も鼻が高いです」
シモンズが胸を張って言う。
そうだ、宮廷道化師に任命されたのだ。まだ実感がない。けれどシモンズが喜んでくれたのは嬉しい。
「ライモ、大丈夫か」
どたばたとニコルス団長が走ってきて、ライモの肩に手を置いて顔色をうかがってくる。ライモはうなずいた。
「では、明日に荷物をまとめて来てください。あなたの新居にご案内いたします。これからは私たちは城で働く仲間です、頑張りましょう」
ライモはシモンズと握手をした。
官僚さまとしがない道化師が仲間だなんて、変だとライモは思ったけれど大人たちが喜んでいるなら受け入れるしかない。
サーカス団のテントに戻るとライモは抱擁とキスの嵐を受けた。強面の火吹き男が歓喜の涙を流しながら火を吹き続け、一晩中止まらなかったので、その夜のテントは明々としていた。
サーカス団最後の夜、ライモは大熊に変身したホルオー師匠のお腹の上で眠った。
「主よ、主。ありがとうございます、ありがとうございます、かわいいこの子をあずけてくださってありがとうございます」
師匠ホルオーは言って、夜空遠くの遥か向こうを想って、泣くのだった。
道化師ライモとアイラ王女が出会った日の真夜中、世界樹が108個の星を散らばせた。
※
「やあやあ、ライモがいっぱしの宮廷魔術師だ。わしはおまえが偉大な者であると気づいていたぞ。よくがんばった、よう頑張った」
師匠ホルオーはずるずる泣きながら言った。
「何をおっしゃいます、すべては魔術を僕に教えてくれた師匠のおかげです。そして僕を拾ってくれたニコルス団長、そしてサーカス団みんなのおかげです。でも、正直に言うと、本当に僕でいいのかなって気もして。期待に応えられなかったら、ごめんなさい」
不安だ。知らない、それも自分より身分が上の人ばかり、王様と王女さまに仕えるにふさわしい者になれるだろうか。
ライモが下を向くと、掬い上げるようにホルオーが熊に変身して抱きしめた。
「おまえはまだ十二歳、これからだ。周りに甘えてゆっくり大きくなりなさい。使命はどこまでもおまえを追って城に戻すだろう。辛い時や悲しい時はこっそり帰ってこい。どこに行こうと、おまえはわしのかわいい弟子だ」
「師匠、僕はあなたの永遠の弟子です。お願い、もう誰も弟子にしないで。僕だけにして」
ライモは師匠に抱きついた。
師匠の言う通り、運命に身を任せてみよう、逆境があっても乗り越えて。自分ならできる気がする。ライモは微笑む。泣きながらも笑える強さを持っているのが、道化師だ。
ライモはニコルス団長と城門へ来た。門番が二人を通し、跳ね橋が降ろされた。
「ライモ、それじゃあ、またな」
団長はあっさりとそう言って去っていったが、「またな」という言葉が嬉しかった。
ライモはおそるおそるの足取りで城内に入った。
正門に大階段があり、いろんな身なりの人が行き来するエントランスに立ち尽くしていると、背の高い黒衣の男が近づいてきた。
怖い顔の男だ。細い眉と目の距離が近く、眉間の間がへこんでそこからは怒りの力を感じる。細い鉤鼻で一文字の唇は薄く色がない。
灰色の髪を後ろになでつけていて、額は広く分厚く四角い。灰色の瞳は眼光鋭く、ライモを見た。
「貴様がライモ・マックスだな。私の名前はジーモン・アイプス、大蔵省大臣だ。貴様は今日から私の家族の一員だ。私の家に住み、ともに城に出勤する」
ライモは背負ってきた袋を床に落とした。
この人と!
叫びそうになって、ライモは慌てて口に手を当てる。
師匠、いきなりの試練です。