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第二十四話 息子との生活

 西部の街にある小さな別荘を父から譲り受けが、ジーモンは一度も休暇で使ったことがなかった。主に書庫として使用しており、過去の文献が必要な資料作りや、一人でやりきりたい難題を考える時に、別荘に行く。


 田舎の山のふもとにある別荘で、ジーモンは存分に狂気じみた仕事ができるからだ。思索にふけると大きな声で独り言を言ったり、急に歩き出したと思ったら石のように固まったり、自分の奇行をジーモンは知っているが、止められないときがある。

 田舎の一軒家だと、それを気にせず存分に仕事ができる。


 二年ぶりだろうか。

 管理者を雇い月に一度は窓を開けて換気してもらっている。オレンジ色の屋根に漆喰の壁、庭も門もなく、大きな楠の下に突拍子もなくある小さな家だ。

 到着したのは昼過ぎで、ジーモンは途中で食材を農家から買ってきた。鶏が朝に産んだばかりの卵でオムライスを作ってやろうと、米は炊いたものを買ってきた。

 ドアを開けると、掃除が行き届いていて、快適な空間であることに安心した。ライモは少しおびえた表情で家に入り、あたりを見回す。


「腹が減っただろう。飯にしよう」


 ジーモンはまっすぐキッチンに行った。


 見知らぬ少女がいた。


 キッチンの壁に、筆で絵を描いている。


「あっ、しまった!」


 少女がジーモンに気づき、画材を抱えて逃げようとしたが、首根っこをつかんで捕まえた。


「よろしい。オムライスを作るから食べていきなさい」


 ジーモンはキッチンに連れていき、少女を椅子に座らせた。

 画材を床に置いて、少女は縮こまる。

 赤い髪の三つ編み、そばかす、丸い青い目。管理人の女性によく似ている。着ているオーバーオールは絵の具だらけだ。


「この人、だれ?」


 ライモがジーモンの体に寄り添い、少女に怯える。


「おそらく、管理人の娘だろう。おてんばなのは知っていたが。大きくなったな。名前はなんだったか」


 ジーモンは言いながらてきぱきと持ってきたピンクのエプロンをつけて、ボウルやフライパン、皿を出した。どれも汚れずさびつかず、手入れされている。


「…………アン、です。すんません、二年も帰ってきはれへんから、もうこの家必要ないんかなっと思って、勝手に使わせてもらってました。あの、物取ったりはしてないですよ。大切なご本もちゃんと日陰干しとかしてます。あの、あまりにも殺風景やなーと思って壁に絵描いてます、ほんま、すんません」


 アンは西なまりの言葉で言った。


「そうか、ならばいい。本さえ無事ならばな。こちらも管理を任せっきりで、便りの一つもせずに申し訳なかった」


 ジーモンは謝罪し、オムライスを作って出した。

 まだジーモンの傍にまとわりついて落ち着きのなかったライモの肩を抱き、椅子に座らせてやる。


「いいか、オムライスは最後の仕上げが大事だ。ケチャップでこのオムライスに何を書いて欲しい?」


 ジーモンはアンとライモに聞くが、二人ともポカンとしている。アンがぷっ、と笑ってからすぐに「すんません!」と謝る。


「あの、厳格なお顔してはるのに、えらいかわいいことおっしゃいますね。そうやな、うちはお花描いてほしいですわ」


 アンが言った。


「花? なんの花だ」


「え、そんな細かく。あの、なんかこう、簡単な花でいいですよ」


「そうか」


 ジーモンは五枚の花びらの花を描いた。


「うわっ、上手ですね。へぇ、すごい。しかも美味しそうやわ、さっそくいただきます。んーー玉子とろとろや」


 アンが笑顔で食べてくれる、嬉しい。


「ライモは、何がいい?」


「僕わかんない。何がいいかわかんないな」


「ふむ、じゃあこれにしておこう」


 ジーモンはオムライスに、大きなハートを書いてライモの目の前に差し出した。


「ハートだ。いただきます」


 ライモがはにかんで言い、美味しそうに頬をふくらませて食べ始める。なんとかわいいのだろう。元からかわいい顔をしているが、息子だと思うとなおさらに愛らしい。


「息子さんいてはったんや。すごいきれいな顔してはりますね」


 アンが言う。


「そうだろう。実の子ではないが。愛する息子だ」


「それは見てたらわかります。食べるのじっと見て。息子さん、おいくつなんですか?」


「もう十五歳だ」


「ほう、うちの二つ下か。お名前は?」


 アンがライモに尋ねた。


「ライモです。お姉さん」


 アンに警戒が解けたのか、ライモは微笑んで答えた。


「お姉さん! どっひゃー、嬉しいなぁ。お姉ちゃん、一緒に遊んであげるからな! んー、なんてこう、母性本能をくすぐる子なんやろ」


「わかる。私の中にも母性がある。父性もあるが」


 ジーモンが真面目に言うと、アンはケラケラ笑った。


「壁は自由にしろ。あの、今描いていたあの絵、なかなかに良いな。青空にひまわりか。たしかに絵があるだけで殺風景なこの台所が明るくなった。君は絵を学んでいるのか?」


「勝手に描いたのにほめてもらって、おおきにです。うちの絵は独学ですわ。誰かから学ぶ気なんかせぇへん。自由きままに描くのが好きやねん。うちが描いた絵、土産物屋に置いてもらってんねんけど、たまーに売れますねん」


「ごちそう様でした。美味しかったです」


 ライモが手を合わせて言い、壁の絵をじっと見た。


「アイラ…………」


 ライモがつぶやいた。


「このひまわり、明るくて強くて、アイラみたいだ。お姉さんの絵、いいね。明るくて力強く」


 ライモが壁画の前に立つ。

 青い空と太陽、ひまわり。その光の世界にライモを戻してやりたいとジーモンは切なくなった。精神科を出てから、ライモはまだ不安定で子供返りしている。一人で眠れなくなり、ジーモンの姿が見えなくなると泣き出してしまう。それだけ、性暴力は心身を傷つけるのだ。


「息子の体調が悪くてな。しばらくここで療養することになった。また世話になる、よろしく頼む」


「そうなんですね、オカンとオトンに言うときます。そいじゃ、ごちそうさまでした。そろそろ仕事戻らんと」


 アンが立ち上がって、ペコリと頭を下げる。


「絵の続きを描きにきてくれ。息子が気に入ったから」


「はいっ!」


 アンがにっこり笑って、去っていく。


「お父さん、オムライス、美味しかったよ」


 ライモが抱きついてくる。


「そうか。腹もふくれて、疲れたな。寝室は二階だ」


 ジーモンはライモを二階に連れていく。寝室もきれいで埃はかぶっていない。ライモはベッドに横になり、部屋を見渡す。


「ベッドが一つしかないね。お父さんはどこで寝るの」


 ライモに言われて、そういえばそうだったな、とジーモンは思う。


「ああ、そうだった。今夜は床で寝る。明日、ベッドをここに持ってきて、ちゃんと同じ部屋で寝てやるから安心しなさい」


 ジーモンは毛布を持ってきてライモにかぶせ、トントンとお腹を叩いてやる。


「ここは、静かで安全な場所だ。大丈夫だ。安心しろ」


「うん。街と音が違うね。この寝室も殺風景だから、お姉さんに絵を描いてもらおうよ。お父さんはここに一人でいて、寂しくなかったの?」


「お父さんはいつも仕事でここに来ていたからな。寂しいと思う暇がなかった。だが、一人で休暇でここに来たら、寂しいと思ったかもしれない。だからおまえがいて、よかったよ」


「そっか。僕も、お父さんとここに来れてよかった。あした、ホルオー師匠が来てくれるんだよね?」


「ああ、そうだ。楽しみだな」


「うん。きっとホルオー師匠もここを気に入るよ」


「そうだな」


 話していると、ライモはすやすやと眠り始めた。

 肌の血色は良くなり、寝顔は少し安らかになってきた。


 ホルオーはライモに起きた出来事を知り、自分を責めた。高齢で寝ている時間が長くなり、ニコルスの犯罪に気がつかなかった。そのせいで大切な弟子が被害に遭ったと嘆きながら、ニコルスの動向をすべて警察に話した。


 ニコルスは表向きは世話好きな良いサーカスの団長だったが、サーカスの海外公演先では夜になると売春街に行っているとの噂だった。それも子供を買っていたという密告が元団員からあった。ニコルスの性的な嫌がらせで辞めたという元団員が、事件を知って何人も証言をしに来たそうだ。


 新聞がこれを大きく報じて、ライモは名前こそ出されなかったが「元団員の十五歳の被害者」と書かれた。それがライモのことかもしれないと、勘の良いアイラ王女なら気づいてしまったかもしれない。


 ニコルスは買うだけでは飽きたらず、子供は高く売れると味をしめて売春の斡旋を始めた。人間とはこうも醜く落ちぶれるものかと呆れる。

 田舎に来て正解だった。

 街にいたら、心を病んでしまっただろう。


 ジーモンは安楽椅子を書斎から持ってきて、ベッドの横に置いて、そこに座り居眠りをした。

 ジーモンが昼寝をするのは、約三年ぶりのことだった。

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