序章
☆世界のはじまり
世界は白紙だった。黒い点が落ちて、世界は漆黒となった。金の光がほとばしる。きらめきは一つとなり、燦然と太陽になった。上から白銀の球体が落ちてきて太陽と重なると、太陽は金のリングになった。
リングから世界をのぞく瞳が現れた。
まばたき、一つ。
世界は青になった。
天使たちが白い翼をぱたぱたさせて、瞳を祝福するために集まる。青空に虹をかけて、天使たちは歌う。
ようこそ、ここはとっても楽しい世界なんだよ、笑って泣いてケンカして仲直りして力を合わせて光り輝いているんだ。
それがあまりにも眩しかったので、瞳は涙を流した。
すると大雨になって風が吹き荒れ、天使たちはバラバラになった。天使たちは羽根を失い真っ逆さまに落ちていく。
大陸が隆起してすべての天使たちを受け止めた。
天使たちはみんな無事だったが、性別、肌の色、瞳の色、見た目がてんでばらばらになって混乱した。
ひどい争いになった。
「おまえなぜ、自分と同じじゃないんだ。きっと悪魔だ」
「おまえこそ悪魔だ」
「自分は魔術が使える、おまえは使えない」
「魔術に頼らないと生きていけないくせに。自力で生きられる方が賢い。魔術なんて使える方が悪魔だ」
「魔術は神聖な力だ」
「けれど地上に落とされた」
言い争っていると、だんだん話す言葉も違ってしまった。
やれやれ、と大陸はあまりにうるさいので、一つだった体をバラバラにした。
「まったくわからん、俺にとってはみんないい子なんだがね。足よ、その良い子たちを頼む。腕よ、その良い子たちを任せた。胴体、まあ気長にいい子たちが良い世界を作るのを待ってやろう」
こうして、世界が誕生しました。
序章 少年道化師
少年の前に扉がある。黄金の巨大な扉だ。この向こうに王様がいる。少年の細い肩は震えている。道化師のてらてらとした黄色の衣装が恥ずかしくなってきて、下を向いてしまう。先の尖ったメッキのブーツ、これもまた恥ずかしい。
「いいか、ライモ」
サーカスの団長、ニコルスがかがんで、少年の顔をのぞきこむ。
ベストのボタンに突き出た腹を圧迫されて苦しそうな表情から、ニカッと歯を見せて笑う。
「チャンスは一度しか巡ってこない。やってやれ、やるんだ。おまえはまだ十二歳、失敗したってどうにかなるさ。おまえのかわいい顔なら、ちょっとぐらいの粗相も許される。大丈夫」
ニコルスがウインクをした。
ライモはほっとして、大きな水色の瞳を潤ませて、花びらのような唇で笑う。
少年の名前はライモ・マックス。
ニコルスサーカス団の人気少年道化師だ。
愛らしい顔と魔術の技術で観客を虜にする。その噂を聞いた官僚が、宮廷道化師を募集しているので試験を受けにこないかと勧めに来た。ライモは戸惑ったが、ニコルス団長の強い勧めで試験を受けに来た。
「行くんだ、ライモ」
ライモはニコルス団長に背中を強く押され、扉に両手をついた。深呼吸をする。
やればいい。
笑われても、けなされても、ひどい失敗をしたとしても。
扉を開けるしかない。
ライモは腰から力を入れて、扉を押した。
謁見室はとても眩しい場所だった。シャンデリアの光がこぼれ落ちてきそうで怖い。天井画の大天使たちの翼が今にも羽ばたきそうだ。本物の金の装飾には触れられそうにもない。
大勢の民衆の服装の人がいた。それにライモはホッとした。観客がいれば怖くない。しかしその上を見ると、天井桟敷には厳しい顔をした大臣たちがいた。ライモはそこから目を逸らす。
浮ついた足で謁見室の中央まで歩く。柔らかな赤い絨毯を踏みしめて、深々とお辞儀をする。
王は目の前にいらっしゃるはずだ。畏れ多くて目視できない。
絹のカーテンが春の心地よい風を受けて揺れて、大理石の床に優雅な影を描く。
「来てくれてありがとう。名前はライモ・マックスくんだね。いつも通り、君らしい道化師を見せてくれるかい?」
低く落ち着いた声を聞いて、ライモは顔を上げた。
エドワード王は、優しく微笑んでいる。
王座はライモの一歩先にあった。
エドワード王は胸を張って背筋を伸ばして座り、手をひざの上に置いている。栗色の眉と口髭と顎髭が豊かで、鷲鼻は隆々と高い。
なんと鷹揚で品位のあるお姿だろう、とライモはエドワードに見惚れてしまった。頬に強い視線を感じると、隣にアイラ王女がいた。三白眼の緑色の瞳が、きつくライモを見ている。その迫力に息を呑む。頬や唇はあどけないのに、同じ歳の十二歳の眼光とは思えない。ライモは怯んだが、アイラの全体を見ると、金色の三つ編みを肩に垂らした細身の少女だと確認した。
ライモはアイラ王女にも、深くお辞儀をする。
そして後ろに下がって、もう一度エドワード王に一礼した。
「では、道化師のライモ・マックス。これより、魔術によるショーを始めます」
ライモはうわずった声で宣告した。
努力は裏切らない、師匠との特訓の日々を信じる。
ライモは下げた頭を床につけ、くるんと転がっておどけた声で笑い立ち上がり、片足立ちになると、尖ったブーツの先を軸にして右足首を左手でつかみ、回転した。空いている右手は指をそろえて、天に向ける。しなやかな細い体は、回転しながらひとつの輪っかになった。
ライモは消えてしまった。
ざわめきが起きると、輪が浮き上がり、再びライモを登場させた。ライモは宙に浮いて、あたりを見回して、目を伏せて、両手で顔を覆った。
「…………そんなに見ないで、恥ずかしい」
か細い声でライモは言う。
「あんまり見ないで。僕、恥ずかしいよ。…………でも、特別に鼻だけ見せてあげるね。僕のこの三角に尖った鼻、かわいいでしょ? ここに願いをかけてごらん!」
ライモはそう叫び、顔から手を離すとにこっと笑って、宙で回転した。
背中から白い翼が生えて、大きく羽ばたき風を起こす。
白い羽根が散らばり、人々の手に落ちていく。
「すべてをあなたに捧げ尽くしたら
僕は消えてしまうのだろうか。
たとえ消えても愛は残る
愛は残る」
ライモはボーイソプラノを謁見室に響かせる。熱っぽい瞳で天井桟敷の貴族たちを見て、涙を流す。
ライモは矢のように素早く跳び、エドワード王の目の前に浮かぶ。
「さあ、この手を」
ライモは呆然としている王に手を差し伸べる。
「引っ張って」
エドワード王がおそるおそる手を差し伸べたとき、ライモの翼は消えて地に落とされた。謁見室の中央に旋風が起きて、濡れた鱗で体が覆われた大蛇に変貌した。
ライモは立ち上がって大蛇に立ち向かう。
握りしめていた天使の羽根を一振りすると、細い剣となった。噛みつこうと襲ってきた蛇をかわして、ライモは剣で大蛇を突こうとするがすべてかわされ、体に巻きつかれた。眼前で大口を開けて威嚇する大蛇を睨みつけ、ライモはすり抜けて天井に逃げる。
ライモは天井に足の裏をつけて、逆さまの世界を見た。
アイラが、目を見開いてこっちを見ている。
印象的な目、すっと通った鼻筋、凛々しい眉。赤いドレスの王女の瞳の中に自分がいる。ライモは頬を赤くした。こんな綺麗な子、初めて見る。
みんな驚いて、静止している。耳をすますと謁見室に集まったすべての人の心臓の音が聞こえてきた。
ライモは首まで赤くなっているのを感じる。
アイラ王女に見つめられて恥ずかしい。でも、続きをやらないと。
ライモはスゥッと深呼吸をして落下し、蛇を剣で貫いて着地した。
大蛇が閃光する。
巨大なライオンが現れて、どん、と足をつく。
大蛇の次はライオンになった。ライモは腰を抜かして尻もちをつく。
ライモは高い叫び声を上げて、慌てて立ち上がり、走り出す。ライオンがたてがみをなびかせてライモを追いかける。手足をばたつかせ、前のめりになって、ライモはひょうきんに逃げ回った。
ライモは派手に転んで、とうとうライオンに追いつかれてしまう。太い前足で踏みつけられ、ライオンにパクリと食べられてしまった。
アイラが立ち上がった。
ライオンは満足げに前足をなめて、尻尾を左右に揺らし、後ろ足を伸ばして床に腹をつけた。
天井から小さな黄色いボールが降ってくると、ライオンの背中に落ちて、ライモの姿となった。
歓声が上がる。
ライモはライオンの背中に立って手を振り、身をよじるライオンに鎖付きの首輪をつけた。たてがみをつかんで頭を片足で押さえつけ、服従させる。
鎖を引くと、ライオンは吼えて立ち上がる。ライモはライオンにまたがって、謁見室を一周した。
ライオンが大口を開けると、花びらが発射された。バラにユリ、ヒマワリ、マーガレット、ライラック。あらゆる花が咲き誇る。
石造りの柱にツタが絡んでバラが咲き、大理石の床はシロツメクサの絨毯に、シャンデリアからはフジの花が垂れ下がる。天井桟敷にはアザミの花で赤く彩られた。
エドワード王の金の冠にはスイレンの花が咲き、アイラ王女のティアラは一際大きな赤いラナンキュラスの花冠に変化した。
観客たちには、花びらの祝福を。
ライモはみんなに、笑顔を見せた。
「以上です。ご観覧、ありがとうございま——」
——した、までライモは言えなかった。
体に熱がぶつかってきた。
「あなたよ。宮廷道化師はあなたがなるべきよ」
ライモはアイラ王女に体当たりされて、胸ぐらをつかまれていた。ライモは息ができない。
「あなたは世界一、美しい」
アイラが微笑する。ライモは激しく首を横に振った。
「ち、ちがいます」
「違わない。さあ、城に来るのよ」
アイラがライモの襟から手を離して、手首を掴んだ。
「宮廷道化師はライモ・マックスに決まりです。この者以上に素晴らしい道化師はいません。お父様、いいでしょ?」
アイラが言い切った。
ライモはすがるようにエドワード王を見る。エドワード王はうんうんと頷いた。
「とても素晴らしい曲芸であった。ライモくんからは、とても可能性を感じる。そうしよう」
「さすがお父様、わかってるわね。宮廷道化師はこのライモに決まりました、皆様、拍手を!」
アイラがライモの手を握り、そのまま腕を振り上げる。
二人の手は、高く示された。
距離が近い。手を繋いでいるのがくすぐったい。
「さあ、ライモ。就任の挨拶を」
アイラが手を急に離したので、ライモは少しよろけた。
左胸に手をあて、足をクロスさせてお辞儀をする。
「よ、よろしくお願いいたします」
そう終えて、ライモは気絶した。