こどもの笑い声
これは、俺がI県の大学に通っていたころの話である。
時期は梅雨があける直前か、あけた直後だったと思う。
同じ学年でバイト仲間のSがしばらくバイトを休んでいた。バイト先の店長にはSから「しばらく休ませて欲しい」という連絡があったらしい。
店長から「ちょっと顔を見てきてくれない?」と頼まれた俺は、そこでようやく「そういや、しばらく学内で顔を見てないな」と思った。
特に親しかったわけではなかったが、Sには今のバイトを紹介してもらった恩もあるし、暑さで体調を崩してるなら不便にしてるだろうな、と思ったので顔を見に行ってやることにした。
午後の講義がない日、昼飯を学食で食って、Sの家に向かった。
大学の寮になっているボロアパートには、インターホンなんてこじゃれたものはない。俺は何度か色のはげたドアを叩いた。
返事はない。
留守? まさか中で倒れてる?
大家さんを呼んでもらうか……?
少し考えたが、大事にするのもな、と思ったので、呼びかけて返事がなければ帰ろうと思った。
Sの家に行くことを話したら、何人かが食べ物や飲み物をもたせてくれていた。
くさりそうな物は置いていけないが、ペットボトルの飲み物くらいならドアノブにかけていくか……そんなことを考えていると、ドアが細く開いた。
「なんだよ、いるじゃん」
倒れていたりしてなくてよかった、と思い、いつも通りに話しかける。
Sはぎょろぎょろと目玉を動かし、「おまえ、だよな……?」と言った。
俺はSの言葉の意味がわからず、「え? なに?」と言った。たぶん半笑いだったと思う。
昼夜逆転でねぼけてるのかな、くらいにしか思わなかった。
「店長に様子見てきてくれって言われてさ。バイト休んでんだって?」
「あ、ああ……ちょっとな」
「体調悪いの?」
会話を切り上げるために、そう聞いた。そのころにはSの異様な雰囲気に気がついてきたからだ。
Sの頬はこけ、半開きの唇はかわいて、目玉だけが異様に目立っていた。
「ちょっと寄ってかないか……? 聞いて欲しい話があるから……」
Sは俺の質問には答えずに、じっとこちらを見て言った。
俺はやめておきたい気持ち半分、興味半分で、結局Sの部屋に入った。
Sの部屋は、昼間なのにカーテンを閉め切っていた。
「たまには換気してんのか?」
そう言って、カーテンを開けてやろうと手を伸ばしたら「開けるな!」とSが叫んだ。
「……んだよ、そんなに大声だすことないだろ」
「……ごめん。隣の家が近いからさ……」
「ああ、丸見えになっちゃうのか」
俺は持ってきた食べ物や飲み物を、ちいさなテーブルにひろげた。
「ちょっと温くなっちゃったけどさ、みんながSにって」
「……悪いな。もらうよ」
Sは温くなった炭酸をちびちびと飲んだ。食べ物は受け付けないみたいだった。
俺も適当にペットボトルを1本あける。
「で、話ってなんだよ?」
Sはしばらく言いづらそうにしていたが、炭酸を半分ほど飲んだところで話し始めた。
「こないだの飲み会でさ……」
「どの飲み会だっけ? Sと一緒だったのは……OBのHさんが来てた時の?」
「……そう。その時にHさんがしてた話、おぼえてるか?」
「あー、あれな!」
俺はSの口からその話が出て、かえってホッとした。
「霊がついてるとか言うやつだろ? なんだよ、そんなこと気にしてたのか?」
俺はわざとらしく明るく話した。
「気にすることないって! あれ、Hさんの鉄板ネタらしいぞ? 先輩から聞いたんだよ」
あれ、みんな言われてんだよ。俺はなんて言われたんだったかな。落ち武者の霊がついてる、だったかな。女の子には愛犬の守護霊がついてるとか言ってるらしいぜ。
そんなことを笑いながらSに話すが、Sの表情は晴れない。
「お、おれは……こどもの霊だって……」
ペットボトルに目を落としたSの瞳は、どこを見ているかわからなかった。
「こ、こどもの霊が恨めしそうに見てるって……」
「そ……そんなこと気にすんなって! 第一、俺もSも幽霊なんて見えないだろ?」
見えないものを気にしてもしょうがないだろ。そうやって落ち着かせるつもりだった。
Sがそこまで幽霊を怖がっているとは意外だったし、正直すこしは情けないと思う気持ちもあったのだが、本気で怖がっているSを茶化す気にはなれなかった。
「幽霊なんているかわかんないだろ? そんなもん気にし過ぎたら、ほんとに体調が――」
「声が聞こえるんだよ! 笑い声が!」
Sが大きな声を出したことに驚いて、俺は「笑い声……?」とだけ言った。
「はじめは、こどもの笑い声だと思ったんだ。
隣の家からよく、こどもの笑い声が聞こえてきてて……。
うるさいとは思ってたけど、文句言ったりはしなかったよ。
こどもが大きな声だすのはあたりまえだって……。
でも、ある時、気づいたんだ……。隣の家からこどもの声が聞こえなくなったことに。
あんなに毎日聞こえてたのに……」
「旅行とか、行ってるんじゃねーの……」
俺の言葉を聞いて、Sは頭を掻きむしった。
「おれだって、そう思いたかったよ」
でも、と言ってSが窓を指さす。
「カーテンを開けてみてくれ……」
カーテンを開けたくないという気持ちと、好奇心がせめぎ合い、俺は好奇心に負けてカーテンを開けて――
「うわああああ!」
自分の口から出た悲鳴だと気づくのに時間がかかった。
窓にはびっしりと、ちいさな手の跡がついていた。
こどもの、手の跡。
「おれ、おれ……気づいたんだよ……。こどもの悲鳴は、笑い声に似てるんだ、って……」
おれがいつも聞いてたのは、笑い声なんかじゃなかったんだ……。
あれは、あれは……。
もっとはやく気づいてれば……。
おれが悪かったよ……。だからそんな顔で見ないでくれ……。
どこかを見ながら懺悔を口にするSの言葉が、ちゃんと頭に入ってこなかった。
数日後、Sのアパートの隣の家のまわりには、黄色いテープが貼られていた。
Sはアパートから引っ越したが、大学に来ることはなかった。
アパートの隣の家は、俺が大学を卒業する時には更地になっていた。
今もそうかもしれない。
俺は卒業してからずいぶんたつが、こどもの笑い声を聞くと耳を澄ますようになってしまった。
俺が聞いているのは、本当に笑い声なのだろうかと……。