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微・スタンドバイミー

 両肩を乱暴に揺すられる。前、後ろ、前、後ろ……頭が千切れそうなほど振れる。

「どうしてお前は気が使えない! 母さんもお前にうんざりしてたんだ」

 目が回って、親父の怒りの形相と天井のカビとが混ざり合いひとつの色になる。俺は父に肩を揺らされている時にだけ見えるこの色を『オヤジ・マーブル』と名付けた。

 ちなみに、俺の髪の毛を掴んで目鼻の先で怒鳴る親父の顔の色は『オヤジ・グレン』、酔っぱらったら必ず投げつけてくるタバコの煙の色は『オヤジ・ウルフ』、オヤジ・ウルフによって汚された壁の色は『オヤジ・オフホワイト』と呼んだ。他、父に関するものすべてに、小学校低学年当時のかっこいいと思う横文字をあてていた。こうやって遊びでもしないと、この親父の元に生まれて来てしまった不幸に耐えきれなくなりそうだったのだ。今日は、競馬の腹いせ。惨敗して帰ってきた不機嫌な親父を、いつものように正座して見ていたら「励ましの言葉も知らないのかよ」と絡まれ、今に至る。

 自慢じゃないが、僕には父の攻撃のパターンが全て頭に入っている。肩を揺らされ頭が二十二往復した、「どうして」と四回怒鳴られた、母が出て行った理由が僕だと罵られた……このルートは、平手打ちだ。それも往復。

 そろそろ来るぞ、歯を食いしばれ、俺。

「何とか言えよ!」

 髪の毛を上に引っ張られる。眉が吊り上がり、酒臭い吐息とともに親父の決まり文句が放たれる。右手はもう振りかぶられていた。




「終点ですよー」




■ ■ ■




 目の前にいるのは、父よりも遥かに気弱そうな見知らぬ男だった。「終点ですよ、起きてください」と、男がもう一度俺に呼びかけて肩を揺らす。

 「終点……」と小さく呟いて、咄嗟に振り返る。寝起きと酒のせいでぼんやりしていた脳みそが、窓の外に青白く照らされる駅名の看板を目にした、途端クリアになった。『(かんむり)駅』は自宅の最寄駅よりも三つ先だ。

 「すみません」と駅員に会釈しながら、慌てて電車の外に出る。別に慌てたところで、終電は戻ってはくれないのに。

 ホームを出たら木枯らしが肌に刺さって、今が二月だったことを思い出す。右手に丸めてあったトレンチコートを羽織って、早足で改札を出る。

 駅前は閑散としていた。そりゃそうだ、今は午前〇時半を回ったところ。それに冠駅は僻地の私鉄の終点だ。元々、駅の周りの灯りと言えばコンビニと公衆電話くらいしかない。

 さて、どうやって帰ろうか。タクシーを呼ぼうかと思ったが、携帯を居酒屋のトイレで壁に叩きつけて壊してしまったことを思い出した。一時の感情に任せて、乱暴をするものではない。しかし、公衆電話が目の前にあるから、すぐに呼べるのだけど――。

 青い闇に包まれている感覚が、心地よく、少しの間立ち尽くした。凍えるほどの空気のはずなのに、不思議と温かさに抱かれているような感覚で、微睡む。極寒の雪山で眠くなり遭難してしまう、という話はよく聞くが、こんな感覚なのだろうか。

 今夜だけは、この闇を体中で受けたいと思った。色々あった日だ。人生は今日を機に大きく変わったはずだ。それが吉と出るか、凶と出るかは今後次第だが、せめて明日までの数時間は、世俗とは切り離された澄んだ夜に、身を浸し、流されたい。ロータリー際の孤独が心地いい。

 俺は、徒歩で家路につくことにした。

 線路沿いの道を、自宅の最寄り駅に向かって、とぼとぼと歩き始めた。急いで帰る必要はない。何せ明日以降、ずっと休みみたいなものだ。今日、上司に辞表を叩きつけてきたのだから。


 俺の勤めていた地方新聞社は、報道の電子化による紙媒体の不況とは関係なく、廃刊寸前だった。

そもそも、一県の中の一地域だけにしか投函されない極少部数で、内容は「○○村の祭りが盛況」とか「△△町の名犬××が河流から子供を救出」とか、日本の中でもトップクラスで平和なこの地域を表すものだった。言い方を変えれば、何もない。


 歩いて十分ほどで、民家すらほとんど見えなくなった。田畑が広がっているらしい闇に、道だけを一定間隔で照らす街灯だけが、うねりながら続いている。そのさまは、白い人魂が行列をなしているようだ。小さいのは子供の魂だろう。怖さはなく、むしろ、この村で子供の魂が見えるのは道理だろうと思えた。

 

 小さな行方不明がまるで大事件に見えるのは、何も取り沙汰されることのない田舎の特性だろう。犬や猫の脱走・捜索なら何百回と紙面に起こしてきたが、人間の子供というのは初めてだった。

 今村(いまむら)初美(はつみ)ちゃん十歳の捜索願が父親の今村勇次(ゆうじ)から警察に届けられ、そのことが一面に載った。勇次によると「十六時半ごろに夕飯のおつかいを頼んで、それから帰って来ていない」とのことだ。二日経った今でも、捜索は続いている。

 この報道をしたのが、先輩。これを褒めてトップ記事に挙げたのが、上司。この事件を追及して真相をどこよりも早く報道しようとしたのが、俺だった。

 ここからは俺の解釈だ。これをただの迷子探しで留めるのは、自分の意とは全く関係なく足掻き苦しんだ者に対する愚行だと思う。これは、初美ちゃんのことだ。事件、と言ったのは、初美ちゃんがすでに死んでいるからだ。実父、勇次の手によって葬られたのだ。


 頼りになる灯りはまばらに立つ街灯だけだったが、いつの間に暗闇に目が慣れていて、周りの景色がはっきりと見えるようになっていた。いや、車の通行もない夜半だ、廃棄ガスのフィルターを通らず降り注ぐ月明りのおかげかもしれない。

 何十分歩いただろうか。携帯が壊れているので、時間がわからない。後ろを振り返ると、五つか六つ先の街灯当たりにコンクリートの大きな塊が寝そべっている。無人駅のホームだ。知らない間に、一つ、駅をまたいでいた。視界が広がっているようで、意外と狭くなっている。集中しているようで、意外と散漫になっている。俺は夜に呑まれていたのだった。

 夜を魔物と捉える考え方は、昔からどの国でもあった。暗闇こそが畏怖の対象だった。人類がまだ狩猟民族だった頃、暗闇からの猛獣や隣人の奇襲を恐れていたからだという説はよく聞くし、納得もいくが、それだけではないと思う。暗闇の前では、視界が制限され情報が断たれる。そうすると人間は、情報について考える脳をオフにし眠りにつくか、脳にあらかじめ存在した情報を深く考えるようになる。この後者こそが、魔物だ。恋に落ちた日には妄想を働かせ、興奮して眠れなくなり、深刻な悩みを持つ人は、より深刻に考え鬱になる。その時の感情が魔物となり、肥大化するのだ。

 俺は終電の中で見た夢のことを考えていた。何度となく繰り返し見た夢だ。


 ヤニと酒の飛沫が重ね塗りされた壁は傷だらけで、それが親父によるものだとガキの頃の俺は知っている。汗とアルコールとタバコと血の臭いが競争して、それが家の臭いになっていた。その中で酒の匂いが一等賞になったとき、親父から何かしらの八つ当たりを食らう。主にギャンブル、次点で水商売の女に振られた腹いせ、たまに思い出し殴り。俺はそれを必ず正座を崩さず受けなければいけない。そして、タバコの匂い、汗の匂いと続き、血の匂いが鼻をついたところで目が覚める。

 古い記憶の復唱だ。あまりにも嫌な記憶は脳から抹消される、という話があるが、あれは嘘だと思う。忘れたいと願い続けた記憶が、ガキの頃から数えて数十年、未だに悪夢に出る。

親父は酒が入ると、必ずお袋に手を上げていた。それに耐えかねたお袋が家を出て、暴力の標的が俺にシフトしてからたった一年だけの暴力の記憶。当時は親父ばかりを恨んでいたが、今となっては俺をオトリに置いて行ったお袋も恨めしい。これは俺の身の上話だが、初美ちゃんにも全く同じことが起きていたのだと確信してやまない。


 勇次は過去に離婚をしていて、その原因はDVによるものだった。当然、妻の方が勇次の日々重なる暴力に耐えきれず家から逃げた、という形である。つまりその妻こそが、初美ちゃんの母親だ。

 勇次は、外向きは決して悪い印象ではなく、よく初音ちゃんを保育園に迎えに行く姿も見られていて面倒見のよいパパと評判だった。家の中でも、亭主関白ではあったが、嫌味を言ったり、ましてや暴力を振るう父親ではなかったらしい。しかし、これは素面(しらふ)での話だ。

 酒を飲むと豹変し、ありとあらゆるものに難癖をつけ、妻に手を上げた。ある時などは、包丁や花瓶を投げてきたこともあるらしい。一番多かった勇次の言い分が、「初美の教育に悪いことをするな」というもの。初美が靴を揃え直さなかったことをほんの少し叱っていると、勇次が後ろから蹴ってきたそうだ。

 これらの情報は全て勇次の元妻への直接取材で得たものだ。「彼なりの愛だったのかもしれないですが、初美の行儀の悪さを全部私のせいにするって、いつの時代の人だよって」と語っていた。俺は、母としてはあまりにも他人事すぎる言動に吐き気をもよおしながら、取材を終え、記事を書いた。

 DVの対象が妻から初美ちゃんに移り、誤って初美ちゃんを殺してしまった。今まで成人女性に対して包丁を投げていた男である。同じ要領で初美ちゃんに手を上げていたのなら、悪魔だ。誤っても、何も、ない。

 初美ちゃんがいなくなった夜、警察に捜索願を届け出る前に、勇次が車に乗って家を出るのを目撃している人もいる。初美ちゃんの死体を遺棄したとしたら、その時だろう。そう考えると、警察に捜索願を出したのは狂言ということになってくる。

 勇次は周りから見て、善良なパパだった。それが、娘が息をしていないことに気が付いて「あちゃあ」と自分の額を叩き、手際よく自分の車に乗せて死体を捨てに行って、あたかも娘がいなくなって焦っている風を装い警察に捜索願を届けて「お願いだから、娘を探してください、私の命なんです」などとのさばる輩だった。

 俺の記事には何の狂いもなかった、はずだった。


 山にぶつかって、月明りが遮られた。

 道は山を避けて畑沿いに続いている。線路はトンネルを通って山の中へ吸い込まれている。帰るコースが二つに分かれた。

 畑沿いの道は舗装されていない農道と地続きになっていて、この辺一帯の道のほとんどと繋がるだろう。家に帰るためには、山を外から回る形になる。街灯も、先よりは少なそうだがないことはない。何より、畑に面した道なので、民家がある。万が一のことがあったら、ご厄介になることもできるわけだ。

 その利点をすべて理解していたつもりだったのだが、遠くで一瞬揺れた影を見て考えが吹き飛んだ。イノシシだ。田舎の人間こそが知っている、巨体が鋭利な牙を向け時速四〇キロで追ってくる恐怖。猪突猛進、なんて悪い冗談だ。奴らは平気でカーブする。警戒心は強いが、慣れるのも早い。一度、敵と見なされれば、牙を血に染めるまで帰ってくれない。この界隈の狩猟会では、イノシシの牙をこう呼んでいるそうだ。それを眼前に命を落とした何人もの者たちの供養の意も込めて、“真紅の盛り塩”と……。

 とは言うものの、遠目なのでそれがイノシシの影だかは定かではない。もしかしたら、熊かもしれないし、だとしたら尚のこと危険だ。狩猟会では魔除けの意を込めて、熊の爪を“真紅の鷹の爪”と……それじゃ、ただの唐辛子じゃないかとここに来てからずっと思っているが、片田舎で反感を買ってしまうと後が怖いので、黙っている。

 ともかく、影を見た途端、考えるよりも先に線路の脇へと足が動いて、トンネルに転がり込むように入っていった。

 光は完全に閉ざされた。片足の靴の側面に当たる鉄の感覚と、コツコツとした音を頼りにトンネルを進んでいく。時折、壁を触り、自分が線路脇を歩いているか位置を確かめる。暗闇の中、線路の真上では枕木と枕木の狭間にいつ足を取られるかわからない。

 真冬だがトンネルの中は思いの外、暖かかった。熱が籠るので、温度が上がるのだ。夏だったら、熱中症で倒れていたかもしれない。

 電車は来ない。終電後なのだから当然なのだが、奇妙な気分だ。線路脇を堂々と歩いている、という事実だけで、危険な感じがする。スリルがある。時刻は二時か三時を回った頃だろうか。プァーンという汽笛とともに電車が奥から走ってくることを想像すると、身震いがする。また、その震えも、電車が来て轢かれそうになる身体的な恐怖と、どうしようもない深夜に走っているわけのない電車が目の前に現れることへの精神的な恐怖とが、まぜこぜになって、どちらの震えかわからない。もしくは、ただ寒いだけかもしれない。 

 これも一つ、夜に呑みこまれた結果だろう。いくつもの感情が混ざって訳がわからなくなる感覚は、その原因を突き詰めようとすれば余計こんがらがってイライラしてくるが、放棄をした途端に、酒の酔いとは違う軽い浮遊感に包まれたような心持になる。原因不明の高揚感は深夜の醍醐味だ。

 そう思うと、線路の脇の散歩というのは深夜の肴には持って来いかもしれない。日常では味わえない恐怖感覚を刺激してくれる。

 俺がガキの頃なら、到底得られなかった喜び、恐怖だ。

 親父の暴力を受け続けると、始めの頃は保っていた恐怖がだんだんと薄れていき、慣れてくる。怖くないからといって、倍近くも身長差がある大人に反撃しようとは思わなかった。ただただ、時間に流されることだけに徹しはじめた。自分が何のために生まれたのかと、思い詰めてしまうときは、親父の暴言や暴力から連想して現実逃避をした。例えば、「ごくつぶしが」と言われたら『(ごく)・潰し()』という、いろんな物を潰して回る巨大な蛾のモンスターを想像した。『潰し蛾』の進化形である。ちょうど、通っていた近所の駄菓子屋がスーパーマーケットに負け潰れたので、『(ごく)・潰し蛾』にひどく恨みを持つ結果になってしまったが。

 親父もいつか死ぬ、時間がすべて解決してくれると、殴られ続けた。実際にその後、時間によってあっけなく解決されて、今は正常な恐怖心を持つに至っている。

 初美ちゃんはどうだっただろうか。時間に身を任せて、勇次の暴力を受け続けていたのだろうか。だとすれば、俺はこの持論を恥ずべきだ。もし、俺の推測が正しければ、初美ちゃんは時間に殺されたわけだから。いつか終わる、いつか終わると耐えてしまった結果なのだから。

 大概のことは時間によって流れる。その中に少しだけ、流れないものがある。それは必ず、強力な善意か悪意によってせき止められてしまったものだ。これを推測に終わらせてはいけない。


「推測で報道をするつもりか」

 俺の記事を見た編集長が吐き捨てた。零細新聞社とはいえ、報道に身を投じた人間の言葉とは思えなかった。世の情報の全ての発端は、推測だ。そして、各報道紙が推測を表に出し、無数の読者に事実を含めた結論を委ねる。新聞社が犯罪を直接抑えることなどできないが、抑える人間を動かすことはできるはずだ。

 俺は学術論文を書いているわけじゃない。新聞を書いているんだ。

「そんな仕事は週刊誌に任せておけよ」

 編集長はカビの生えた新聞社の腐ったプライドを手に込め、俺の頬を張った。口内が切れて、鉄の味が広がった。そして、目の前で、俺の記事は破かれた。

 こいつらは、娘殺しの狂気を野放しにし、警察から下りてくる事実を指をくわえて待つつもりだろう、今まで通りに。だとすれば、この新聞社は、勇次と共犯だ。

 破られた記事の裏に「一身上の都合で辞職します」と書き殴り、署名の下に血判を押した。それを編集長の机に叩きつけた時の、奴の呆気にとられた顔はお笑いだった。

 週刊誌にでも、何でも、この記事を売るつもりだ。元々の初美ちゃんが二日家を空けていること事態が大きく報道されていないため、認知度が低い。小さな集落の神隠しひとつの謎を解き明かしたところで、金にならない。しかし、そんなことはもはや関係はなかった。俺を動かしていたのは、初美ちゃんの父、いや、奴に父という呼称はもったいない。勇次への殺意だ。俺がガキの時分、胸中で持つことすら諦めていた親父への殺意が今、勇次に向いているのだった。


 闇は果てしなく続く。目がだんだんと暗闇に慣れてきて、すでに遥か後方に遠ざかったトンネルの入り口から差し込む僅かな月明りだけでも、壁の質感の気配を感じられるようになっていた。壁はまるで、防空壕や焼け残された蔵に苔の生えたそれに似ていて、恐怖を増幅させた。しだいに歩みが早くなる。

 恐怖。しかし、快感でもある。それはきっと、少年の頃に感じられなかった恐怖心を、今ようやく取り戻すように味わっているからだ。俺は今、恐怖によって遅い青春を謳歌しているのかもしれない。暖かいのに背筋にはひんやりとした汗が伝うたび、俺は通るはずだった架空の少年時代に戻っていく。これから次々と、色恋やヤンチャな遊びを経験できる気がした。

 「ひっ」、小さな悲鳴を上げる。柔らかい何かを踏んだ。生き物だと直感して、跳んで後ずさりする。しばらく、反応を窺っていたが、何もない。恐る恐る、足先でそれに触れるが、やはりクッションなどの人工的な柔らかさではなく、生き物のものだ。触れた時に鳴った音は、硬い毛のチリチリとしたものではなかったので、犬や熊ではなさそうだ。

 スリルに背中を押され、手で触れてみた。少年が初めて見つけた得体のしれない昆虫に触れるように。

 布の質感だった。よく着ていたパーカーの布地のものに似ていた。

 もしかして、人? スリルだけでは言い表せない興奮が、手をさらに伸ばさせる。これは、世に言う、好奇心だ。ザラザラとした感触はジーンズだろう。その先では、スニーカーらしきものの紐に触れられる。それの形を捉えながら、撫でるように反対側に手を伸ばすと、やはりパーカーのフードのようなものに触れ、そこに毛があった。髪の毛だ。それも長い。それは人間以外の何者でもなかった。

 目、鼻、口、すべて予想をしていた通りに配置されている。浮浪者や酔っ払いかと一瞬思ったが、この片田舎で浮浪者など見たこともないし、あの独特なすえた臭いも酒の臭いもしない。それに、失業するには、酒を飲むには、余りにも小さな身体だ。子供か。

 髪の長さからして、女の子か。もしもそうだとして、なぜこんなところに――。

 戻りかけた童心の中で、報道者としての欲や怒りが渦巻きだす。自分の記事の内容がフラッシュバックする。

 勇次は、初美ちゃんの死体を遺棄した。

 頬だと思う部分を軽く数回叩く。肩だと思う部分を揺らす。「おい、大丈夫か」と声をかける。何も反応がない。反応する気配すらない。肌の温度はトンネルの熱でよくわからないが、微動だにしない様子から、この子は死んでいると思った。それが初美ちゃんであるとも。

 俺が推測したことではあったが、これを初美ちゃんだとは認めたくなかった。ガキの俺が死んだように思えるからだ。暗闇だ、まだわからない。

 それをおぶって、トンネルの外まで運び出すことにした。明かりの下で、顔を見なければわからないではないか。子供の体は、想像よりも遥かに軽かった。

 トンネルを抜けるまでは早かった。これは速足だったから、ではない。一心不乱に初美ちゃんじゃないことを願って出口へ向かったからだ。しかし、願いは空しく――。

 願いなんて、ガキの頃から、思うだけ無駄だとわかっていたはずだ。それに、俺がつい先まで望んでいた結末だったはずじゃないか。

 それなのに、あぁ、あぁ、あぁ、と嗚咽がこぼれだす。無念さに押しつぶされそうになり、心の搾りカスが涙となって流れる。やがて、心は空っぽになり、ガキの頃の俺が死んだ。

 トンネルからすぐのところに、二つ目の駅はあった。相も変わらず、木々に囲まれた無人駅。その灯りに照らされた、初美ちゃんの顔は青白く、昔水墨で書かれた幽霊がみな麗しかった理由がわかったような気がした。そんな、どうでもいいことしか、しばらく考えられなかった。

 トンネルの外は、案の定、極寒だった。トンネルとの温度差で、一層寒く感じた。

 これからどうするべきか、なんて当初から「家に帰ること」に決まっていた。しかし、今の俺に、初美ちゃんを置いて帰れるわけがない。駅に置き去りにして、明日朝、誰かが見つけてくれるのを待つか。死体解剖すれば、すぐに暴力が死因だとわかるはずだ。だが、ただの迷子扱いになっている今のままでは、勇次が「愛しの娘をバラバラにするな」と嘘泣きしながら駄々をこねれば、断ることができるのだ。その後、勇次は娘に適当な本数の線香を上げ、適当に墓に押し込み、新しい女を作って、酒に溺れて、暴力を振るうだろう。

 どんな事件が闇に葬られても大抵そうなる。なかったことになる、ということは、現状を維持する、と同義だ。勇次の生活は娘ひとり殺しても変わらないのだ。

 俺は、気が付けば線路の上を再び歩き始めていた。

 初美ちゃんの亡骸をおぶりながら。

 記事の手柄のことはもうどうでもよかった。勇次の名を加害者として世に知らしめ、どれだけ人道から外れたことをしていたかを味わってもらわなければならない。お前が本来人間ならば、この程度の報いを受けるのだと。

 俺の親父は、その報いを受けないまま、あの世へ行った。勇次と同じく、人当たりだけはよかったため、親父は「可哀想な事件」の被害者として報道された。


 親父はギャンブルに出かけていた。この日は競艇場だった。俺はその間、家の中で畳の目を数えて時間が過ぎるのをひたすら待っていた。何をすることも許されなかったが、もはやその頃は何もストレスは感じなくなっていた。

 ピンポン、ピンポン、ピンポン、大変だよ、ピンポン、ピンポン、ドンドンドン、おい、お前のお父ちゃんが大変だぞ、ピンポン、ピンポン、ドンドンドン、いるんだろ、大変なことが起きた、ピンポン、ピンポン――。

 突然、大きな音とともに誰かがやってきた。普通じゃないチャイムの鳴らし方。急いでいるようだったし、焦っているようだった。

 今考えれば、それは親父の飲み仲間か誰かだったのだろうが、その時俺はいつも通り、居留守をしていた。「お前がへんてこな対応をすると、俺の恥になる。絶対、玄関から出るな」と親父に文字通り叩き込まれていたからだ。

 しばらくすると、本当にいないのかなあ、とつぶやく声がしてドタバタと走って去っていく足音が遠のいて行った。

 その日が親父の命日になったと知ったのは、無理やり警察に玄関を開けられてからだった。

 晩には親父のことがニュースで流れていた。『競艇場で男性を刺傷 無職の男を逮捕』と。


【東京都江戸川区の競艇場で四十代の男性を刺傷させた疑いで、無職で六十三歳の○○××容疑者が逮捕されました。刺傷された四十代男性は死亡しました。

 警視庁によりますと、今日午後四時ごろ、レースを観戦後の四十代男性の首元を包丁で刺した疑いが持たれています。

 ○○容疑者は調べに対し「万舟券を包丁で脅し取ろうと思っていた」「刺すつもりはなかった」と供述しているということです。】


 四十代男性である親父の持っていた券は大穴狙いで、倍率は確か七五〇倍。千円をベットしていた親父の元には七十五万円が、死んだ後に支払われた。それは、すべて葬儀代で吹っ飛んだ。親戚付き合いがなかった親父の通夜に来たのは、飲み友達と、親父をよきパパだと思い込んでいた近所のおばちゃん連中二人だけで、集まった香典はほんの些細。大赤字だった。

 突然、親父から解き放たれたのだった。かといって、スッキリも全くしなかった。

 喉仏の下に真一文字の手術痕をこしらえて親父は帰ってきた。俺の前では決して見せなかった安らかな、いや、無の顔をしていた。その、俺への仕打ちを他人事だと思っているような、充実した命を使い果たしたかのような顔を見て、俺は一年振りに燃えるような怒りを覚えた。脳が破裂しそうなほど頭に血が上った。口からは喘ぎ声しか出ず、代わりに殺意が塊となった涙と鼻水が出た。誰の力にも押し負けてしまうだろうガキの全力で、親父の冷たい首を絞めたが、表情は変わらず、悔しさが増幅しただけだった。「実の父親になにしてんだ! 親不孝もんが」と、親父の飲み仲間に平手打ちを食らい、痛かった。思えば、この痛みも久々だったのかもしれない。

 通夜では、親父の死が悔やまれた。涙を流す人もいた。誰ひとりとして、親父を恨んでいる人間はいなかった。

 俺が生きていた世界が、皆とは隔離された世界だったような気がして、めまいがした。目が回って、参列者の泣き顔と天井のカビとが混ざり合いひとつの色になる。俺はこの時に見た『どぶのような緑色』を忘れないだろう。

 俺の頬を張って怒鳴る飲み仲間の顔の『不健康な赤紫色』も、その仲間が親父との思い出を語りながら吐いたタバコの煙の『排気ガスそっくりのねずみ色』も、ヤニよって汚された壁の『猫のゲロを撒いたような黄ばみ』も、一生、忘れないだろう。

 情報は日の光だ。明るいところしか歩もうとしない馬鹿な我々人間に、進むべき道を照らしてくれる光だ。

 その太陽を照らしているのも、また人間だと誰も気づかない。

 俺は、悔やまれないはずだった親父の死を以て、報道者を志したのかもしれない。馬鹿な人間は、今まで足を踏み入れなかった闇夜を、泣きながら苦しみながら怒りながら歩くことで少しだけ利口になれる。その闇夜へ背中を押すのもまた、人間による報道だと、情報だとこの時に理解したのかもしれない。

 闇夜を新聞に書き起こして、もう二十余年経つ。


 線路は鉄橋に伸びていた。周りの木々が消え、眩しいほどの月光が鉄橋を照らす。真っ赤な塗装から顔を出す鉄錆がところどころ目立つ。森を揺らす音に、風が川を波打つ音が重なり、良質なアンビエント音楽になる。

 橋の中心には作業着とヘルメットを着けた男たちが、軽トラックに寄りかかるなり、荷台に腰掛けるなり、荷台の上で横たわるなどしてくつろいでいる。三人いるようだ。缶コーヒーを飲みながらブツブツと言葉を交わす男たちに、突然ガハハと大きな笑い声が上がる。線路の整備をしているようだった。今は休憩中か、サボっているか。

 初美ちゃんと一緒に、徐々に男たちに近づいていく。

 橋の上では、遮蔽物がなく風が裸のまま俺たちを横殴りする。よろけて橋の上から落ちないように、足を踏ん張りながら進む。線路に敷き詰められた石ころを蹴る音は、何だか西部劇の大げさな足音のよう。

 初美ちゃんを警察に届けて、勇次を断罪しなければいけないと燃え立つその怒りのせいだろうか、脳や体が興奮に溢れている。それは怒りに反して、いや並行して、青々しく若い充実感があった。やる気に満ちているというか、燃えているというか。初美ちゃんを悪党から守る、ヒーローのようなモチベーション。世の中に、今、初美ちゃんと自分しかいない気さえしてくる。

 初美ちゃんは俺の中で守らなければいけない存在になっていた。それは護送だとか、そういう意味とは違うもっと精神的なもの。なぜなら、かつて少年時代に経験できなかった、気になる女の子を守る緊張感、が今の俺に汗をかかせているのだから。

 軽トラックの男たちが、俺たちに気づいた。怪訝な目を向けて、男二人でごそごそと騒いでいる。一人は依然、荷台で盛大ないびきをかいて寝ている。

 近くに寄ると、男たちが手にしているのは缶コーヒーではなくカップ酒であった。荷台にも、空いたカップ酒や缶チューハイが二、三転がっている。寝ている男は、酔いつぶれたのだろう。

 鉄橋に走る線路のど真ん中に軽トラックが止まっている。線路から鉄橋の端までの距離は、人が二人並べば塞がるほどなので、そこを通るにはどうしてもトラックにもたれ掛かる男に話しかけなければ行けなかった。

「すみません、通してもらえますか」

 久々に出す声は、鼻声だった。さっきの涙の名残だろう。

「いや、ちょっと、何線路の上を堂々と歩いてんだよ」

 男が立ちふさがる。荷台に座っていた男も降りてきた。幾分、小ぶりだ。カップ酒を悪びれもなく持ったまま近づいてくる。

「っていうか、こんな時間に何でこんなところにいるの。ここ線路で、しかも橋だよ」

「先輩、多分ね、自殺ですよ」

 小ぶりの男が囁く。俺たちに配慮したつもりだろうが、丸聞こえだ。全然気が付かず続ける。

「多分、おんぶしてる娘さんと心中しようとしているんじゃ」

「あ、それで……そうか、うん。まあ、あれだよ。駄目だよ。生きていれば、いいことあるよ。俺たちなんかアルコール入るたび、ハッピー――」

「違いますよ、通してください」

 らちが明かないと思い、俺は無理やり通ろうとするが、「ちょっと」と男が割り込み、邪魔をする。

「勘弁してくれよ。この辺で死なれちゃったら、事情徴収やなんやらで迷惑するのは俺たちなんだよ。夜勤なんだから、昼に警察来られたら溜まったもんじゃないよ」

 本当ですねと、カップ酒を傾けて小ぶりの男が笑う。そこそこ酔っているようだ。

「別に死にませんよ。終電寝過ごしちゃったんで、歩いて帰ってるだけです。それで、道がわからないんで、線路沿いに行けば最寄りまで着くだろうと」

「終電て、もう三時間くらい前でしょ。何、どっから歩いてんの」

(かんむり)駅です」

 男二人で目を丸くする。小ぶりの男はしだいに腹を抱えて笑い始めた。先輩と呼ばれる男が心配そうな顔になる。

「おい、そりゃタクシー案件だよ。この辺の人じゃなさそうだし知らないのかな。どこまで帰んの」

「郷寺駅まで」

「あ、じゃあ次だ。それでも徒歩じゃまだ三、四十分はかかるよ。しかも、この辺たまに熊出るし」

 じゃあトンネルに入る前に見た影は熊だったのかと、変に腑に落ちた。馬鹿だねぇとつぶやく小ぶりの男に、先輩らしき男は「おい」と言って人差し指を口元に持ってくる。男は振り返り続けた。

「車なら十分もかからないから、送るよ。危ないし」

「いえ、大丈夫です。お仕事中断させるのも悪いので。ありがとうございます」

 俺は自分の足で送り届けたかった。

 女を守りたい意地のようなものが働いていた。それに、初美ちゃんを何も知らない大人の男に運ばせるのを考えると、無性に腹が立った。

「お仕事っつってもさ、見ての通り一服してたんだよ。遠慮しないで。背中の子も疲れてるみたいだし」

「本当に大丈夫ですから」

 男の手を肩で払いのける。「おい」と止める声からは酒の臭いがした。

 横から小ぶりの男が入り込み、さらに酸っぱいようなアルコール臭が漂う。

「じゃあ、女の子だけでも」と小ぶりの男が初美ちゃんの足を撫でた。

 勇次が頭に浮かんだ。

「ぶぇっ」。彼の胸倉を掴んで、鼻っ柱に頭突きを食らわす。

「何すんだよてめえ!」

 小ぶりは背中から倒れこみ、顔面の皺を中心に集めて鼻を抑える。指の間からは、鼻血が滴った。

 立ち上がろうとするが、酔って足がふらついている。中腰で体勢を取ろうとするそいつに、俺はもう一発、右から拳を食らわした。

 「痛てぇ!」とさらに後ろに転がり、その声は伸びながら小さくなっていった。鉄橋から転がり落ちたからだ。

 止めに入ろうとしたもう一人の男の目線が鉄橋の外に向き、「えっ」と声が漏れる。

 三秒ほど時間が凍って、じゃぼん。足元からちっぽけな音が聞こえた。

「おい、なんだよ、警察呼ぶぞ」

「どうぞ。でもあんたたちが業務中に飲酒してたのもバレますよ。帰りは堂々と飲酒運転するつもりだったんでしょう」

 俺は冷静だった。飲んだくれのセクハラ小人一匹屠殺したことなんかよりも、初美ちゃんの足を煤けたような色の手で撫でたことの方が遥かに罪が重いからだ。あんなやつが、初美ちゃんやガキの頃の俺に手を上げる。

 初美ちゃんは殴った時に背中から落ちて、線路の上に横たわっていた。

 男は狂人を見るような目を向けていたが、次第に細まっていった。初美ちゃんと俺を交互に見て、慌てだす。

「おい、その子、初美ちゃんか? 初美ちゃんだよな。え、お前――」

男の作業着を肩から引っ張り上げる。男は怯えながら続ける。

「今村さんに、初美ちゃんの親父に言ったんだよ、誘拐じゃないかって。こんなに見付かんないのおかしいもんな」

「あんた、今村勇次の知り合いか」

「昼番だよ。昼番の奴らは俺ら夜番の人間を見下してっけど、今村さんだけは差し入れくれたり、飲みに誘ってくれたりしてくれたよ。生活の時間が違うから飲みになんか行けるわきゃねえんだけどさ、冗談でも嬉しいじゃねえか。それが、お前みたいなロリコン誘拐犯のせいで、今村さんはゲッソリだよ。あんな人間の鑑みてえな人をぶっ壊しやがって!」

 頭の中で何かが切れて、男の腹を前に蹴り飛ばした。よろける男にもう一発、蹴り押す。「あ」っと声を空に投げて、男も小ぶりの後を追っていった。

「あんたみたいな何も見てないやつがガキの人生狂わすんだよ!」

 俺の叫びは川に反響して、山に消えていった。

 息遣いが荒くなっていた。立ち尽くして、怒りで火照った体を風に冷まさせる。呼吸が整うと、荷台でまだのうのうと居眠りをする男のいびきが自然の音をかき消していたことに気付く。初美ちゃんの元へ戻って、再び背負う。

「ごめんね、痛かった?」と声をかけるが、返ってくるわけがない。しかし、彼女の息遣いを感じられたような気がして、また少し涙が出た。

 目をこすると、端の方に黒い影が動いた。まつ毛かと思ったが、違う。遠くのトンネルの闇の中心で、別の黒色が動いている。風に乗って獣臭が漂ってきた気がした。熊だ。

 四、五歩、後ずさりをした間に、ゆっくりと線路沿いに歩いて来ていた熊の動きが止まった。六歩目を踏んだ瞬間、黒い胴体から白い牙が見えた。七歩目、熊が駆け出してきた。

 俺は全速力で逃げた。初美ちゃんを背負っているので、速力は遅くなるはずだったが、むしろ初美ちゃんが羽根になったようだった。

 すがすがしかった。風を切る感覚が、全身の筋肉を奮い立たせる。初美ちゃんも、俺も経験したことのないスリル溢れる逃避行。自分の正義を知らしめた後に、反対派から逃げる快感。この気持ちは数十年振りだ。ガキの頃、唯一、自分を世界の勝者だと思えた瞬間。それと同じだった。


 親類が誰も集まらなかった、親父の葬儀。遺骨は、自称親友の飲み仲間に渡された。

「こんなに小さくなっちまってよお」と飲み仲間が涙を骨壺に落とす前に、俺はそれを奪って火葬場を飛び出した。親父に反旗を翻すのはこの時しかないと思った。

 少年の全速力に敵うじじい、ばばあはひとりもいなかった。「こら!」「おい!」「待て!」と、いろんな二文字が俺を追っていたが、すぐに聞こえなくなった。

 行先は決まっていた。走って十分のところに親父が贔屓にしていた競艇場がある。そして、親父の処刑場になった聖地。

 汗が頬から跳ねる感覚。これからやってくる親父の結末を想像すると興奮が収まらなかった。一切疲れを感じなかった。

 俺はゲートを飛び越え、レース場に走った。人はまばらで、かき分けることなく一直線に走れた。レース場に続くコンクリートの短いトンネルをくぐると、人工の水面が視界一杯に広がった。骨壺を開け、濃い緑色の湖に飛び込むように、中身をばらまいた。

 風に舞った親父の骨の粉は、日光に当たってキラキラと光った。親父が喜んでいるような気がした。しかし、誤解しないでほしい。これには「親父の大好きだった場所なら安らかに眠ってくれるだろう」、なんていう慈善ぶった意味はない。親父を、親父が依存した場所に閉じ込めるのだ。幽閉するのだ。一生、いやもう生きていないのだが、永久に遊び惚けて、俺のもとに二度と戻ってくるな。そういうことだ。

 舞い上がる骨に唾を吐いて、中指を立てる。一年ぶりに二カッと笑ったら、親父に折られてなくなった前歯の居所に競艇場のカルキ臭い風が入り込んだ。

 俺は親父に、勝った。俺にとって世界のすべてだったアパートの牢屋が、爆散したような爽快感が脳天から足先まで広がった。

 空が青かった。雲が白かった。ボートの色は奥から、緑、黄、青、赤、黒、白。世界に色が付いた。

 その後、警備員に捕まって飲み友達の元へ連れ戻された。多少殴られたりしたが、親父にやられたことと比べたら何てことはなかった。反省の色が全く見られなかったからか、精神病院に連行され、検査まで受けさせられた。

 結果、普通。異常なし。周りの親父の友人らしきやつは驚いていた。俺は、何も特別じゃなかった自分を少し悔やんだのを覚えている。

 つまりだ。俺が普通だとしたら、普通のガキが、異常な親の毒にやられ、もしくはその毒が周囲に蔓延し、“異常なガキ”として見られている世界があるということだ。

 異常だと決めつけられた普通のガキは大人になり、報道者になった。


 走っているうちに、森を抜けていた。熊は追って来ていないようだ。

 橋を渡り切る時に、後ろから「ぐぶぉ」という溺れたような声と、鉄に何かが強かにぶつかり凹む凄まじい打音が何度も聞こえてきていた。熊の標的は軽トラックの荷台で寝ていた男に移り変わったらしい。

 足を遅め、徐々に歩きになる。ふと、我に返った瞬間に、息が上がっていることに気が付いた。膝も笑って、肩も上がり下がりしている。ダサい。ガキの頃に戻ったような気持ちでいたが、体はしっかりオジサンのままだった。

 足元はいつの間にか、木の葉からむき出す土から、コンクリートに変わっていた。周りには先まで疎らだった街灯が連なっていて、それは町の商店街まで繋がっていた。

「見えてきたよ、郷寺だ。初美ちゃんの家からは逆方向だから、暴力親父も追って来れないよ」

 勇次と初美ちゃんの家は、終点の冠駅から近くのアパートだった。これは時の運だが、トンネルで初美ちゃんと出会ってから、行先が逆だったのが幸いして、結果的に安全圏にたどり着くことができた。

 夜空が白んできたというのに、商店街にはまだネオンが光る店がいくつもあった。そのいくつかはバチバチと音を鳴らしながら点滅している。どこももう店じまいの時間で、スナックのままやチェーン居酒屋の店員に見送られながら、もしくは肩を支えられながら、千鳥足の客が追い出されていく。場末の明け方の風景だ。

 見慣れていたはずだったのに、新鮮で少し危ないことをしているような胸の高鳴りがあった。初音ちゃんには、初めての光景のはずだ。

「大人はこうして嫌なことを酒に流していくんだ」

 でも、俺が背負っているのは酒みたいな即物的なものでは決して流せない事実だ。

「俺たちの親父の外面さ。憐れだよな」

 でも、いまの初美ちゃんはその憐れさを見なくても済む。

「ねえ、俺が君の父親なら――」

 口をつぐんだ。すー、すーと、耳元で初音ちゃんの寝息が聞こえたような気がしたからだ。怪しげな夜の光に、初美ちゃんが驚いたのかも、いや、そんなわけない。

俺が初めて夜の店が立ち並ぶ光景を見たときも驚いただろうか。思い出せない。何十年も前のことだから。

 少なくとも、酒の臭いは親父の臭いだったから、いい思いはしなかったはずだ。それが、いつから酒を覚えて、飲んだくれ、終電を寝過ごすまでになったんだろう。

 今、もし、本当に初音ちゃんに魂が一瞬でも戻ってきているのなら、この僅かな時間で勇次の臭い、酒の臭いを嗅がせたくなかった。

 通り過ぎる人々が皆、俺たちを見る。夜の街では、俺たちの方が異様な様相だ。

 初美ちゃんを背中から降ろし、彼女を抱きしめた。酒の臭いが入らないように。それと、魂が戻った僅かな瞬間だけでもちゃんとした愛を受けられるように。

 これが、これから経験したはずの、友達の、恋人の、本当の親の愛だと、受け取ってもらえるように。

 人目が鋭くなる。色めいて騒ぐ奴もいる。

 どう思われようが、関係ない。これが人間のあるべき姿なのだから。


 ガツン。頭蓋に硬い重低温が響いて、めまいとともに初美ちゃんの上に倒れ込んだ。後頭部が根こそぎ削られたような激痛を覚えながら、意識が遠のく――。




◆ ◆ ◆




 ……………………。


 ……見たことない布に、見たことあるような天井。


 ここはどこなんだろう。天国かな。

 天国って、こんなところだったのか。なんか、思っていたのと違うな。


 どっかで見たことある天井だと思ったら、学校の保健室だ。教室には居場所がなくて、中指を立てられたりするだけだったから、ずっと保健室にこもってた。だからよく覚えてる。あの天井だ。

 じゃあ、ここは保健室? でもベットってこんなにきれいだったかな。

 ほら、やっぱり違う。お父さんに灰皿を投げられた時にできた傷から血が出て、汚しちゃった枕のシミがないもん。

「あ、初美ちゃん起きたの。おはよう」

 シャーって急にカーテンが開いたからびっくりした。ナースのおばさんがこっちを見て笑っている。病院?

「どこか痛くない? 大丈夫?」

 病気を治してくれるひとはみんな優しい。保健室の先生もずっと寝てても優しくしてくれたから大好きだった。

 でも、今日ばかりはありがた迷惑だよ。

「なんで病院にいるの?」

「びっくりした? 起きたら全然知らないおばさんがいるんだもんね。ふふ」

「こんなとこ、来るつもりなかった」

 いろいろ思い出した。わたし、お父さんから逃げるならおつかいの時しかチャンスがないと思った。それで、ともかく遠くまで、走ったんだ。線路をずっと走れば、わたしのことを誰も知らないとこまで行けると思って、電車と競争するみたいにずっとずっと逃げたんだ。

 おつかいのお金があったから喉が渇いたら自販機でジュース買って、それで行けるとこまで行ったんだけど、駄目だった。自販機もお店もない山ん中に行っちゃったから、お金を持っていてもムダだったんだ。トンネルまで行ったら、くたびれちゃって、座り込んだ。疲れてから気付いたけど、お父さんに蹴られたお尻が痛かった。だから座るにもいっぱいいっぱいで。体中痛いから寝るのも大変で。おなかも空いて。ああ、もう死んじゃおって思った。結局逃げてもツラいなら死んじゃってラクになろうって思った。遠くにクマさんが見えたから、いつか食べてくれるって思ってずっと待ってた。

 そうしたら、息するのもツラくなって、眠くなって――ここにいた。

 わたし、死にたかったのに。あーあ、これでまた、お父さんにお腹とか肩とか足とか殴られるんだ。最近知ったんだ、顔とか手とか傷つけたら他のひとにバレちゃうから、服で隠れるとこに暴力振るんだって。

 ナースのおばさんの笑顔がとっても憎いよ。

「そりゃ来るつもりなかったはずだよ。初美ちゃん、運ばれてきたんだよ」

「救急車なんて呼んでほしくなかった」

「救急車じゃないよ、優しいおじさんがね、連れてきてくれたんだよ。あ、違うか、最終的には救急車かな」

「おじさん? わたしを見つけたひと?」

「そうそう。トンネルの中で倒れてたんだってね。おじさん、すっかり死んでるかと思ったって。ふふ。大丈夫、ちょっと重めの栄養失調で気絶してただけだったから。点滴してたから、もう元気でしょ」

 腕を見ると、ひじの裏側から管が出ている。

 なにそれ。すごいはた迷惑なはなし。今度はそのおじさんが憎い。

 生きちゃったなら、お父さんのところに帰る前にどうにか死なないと。ここは何階だろう。飛び降りたらすぐ死ねるかな。

「でも、初美ちゃん、本当、大変だったね」

 トンネルの中で倒れてたのってそんなに大変なことかな。これからの方がよっぽど大変だよ、って怒鳴りたい。

「お腹とかお尻のあざ、全部先生が診てくれたよ。打撲だってね。ひび入ってる箇所もあったんだよ。その体でよくあんな遠くまで行ったって、先生、びっくりしてたよ。それだけお父さんが怖かったんだね」

 ナースのおばさんが涙目だ。声もちょっと震えてる。

 あざとか、見られちゃったんだ。お父さんが隠してたとこがバレたんだ。

ああ、きっとお父さんに怒られる。「せっかく気を使って服の上からヤッてたのに」とか耳がキーンってなるくらいキレられて。あ、でも、死ぬのか。なんだか、よくわからなくなってきた。

 でも何で、お父さんにやられたってわかったんだろう。

「お父さんのこと、知ってるの」

「知ってるも何も、わかっちゃうんだよ。お医者はすごいんだから。暴力の跡なんて、先生にかかれば一発。なにで殴られたとかまで、わかるの。あ、もしかして……」

 ナースさんは優しい笑顔に戻って、わたしの耳元で囁いた。

「大丈夫だよ。もうお父さんとは会わなくて、大丈夫」

 えっ。わたしはナースさんに振り向く。伸ばしっぱなしの前髪がナースさんの鼻先にちょっと当たった。

「どうして」

 ナースさんは、カーテンを全部閉めたあとに、顔を近づけて小声で話してくれた。

「お父さんはね、今おまわりさんのところにいるの。多分ね、初美ちゃんにやったこと、全部叱られてると思う。お父さんに会いたいの?」

「会いたくない」

「そう、ならきっともう会わなくても大丈夫だよ」

「なんで警察のひとに、お父さんのことがバレたの」

「うーん、初美ちゃんには難しいかもだけど……」

 ナースさんは斜め上を見てちょっと考えて、手振りしながら教えてくれた。

「わたしも聞いた話だから、詳しくはわからないんだけどね。初美ちゃんが通っている学校の先生? 保健の先生かな。その人がこの病院に運ばれたのを知って、お父さんのことを訴えたの。それで警察が動き出して、って、難しいよね」

 つまりね、って笑顔に戻ったナースさんが指を立てた。

「保健の先生が助けてくれたのよ」

 かけられたことがない言葉ばっかりで、どういう顔をすればいいのかわからない。

 なんだろう、こういう時は何て言えばいいんだろう。

 とりあえず、わからないことを全部聞いてみよう。

「じゃあ、おじさんは誰なの」

 ふふっと笑って、声が少し大きくなる。

「通りすがりの新聞記者だってさ。それこそ私、全然わからないんだけど、夜中の商店街の真ん中で初美ちゃんのこと守るみたいに抱きしめてたんだって。何でだろうね」

「そのひとは今どこにいるの」

 ナースさんは上を指差して、目を細めた。わたしは天国のことだと思った。

「え、死んじゃったの」

 思わず大きな声が出た。

「違うよ! 病院でそんなこと大きい声で言っちゃダメだよ。上の階で寝てる」

「具合悪いの?」

「全然。不審者だと思った人が、後ろからビール瓶で殴ったんだって。それで頭打って、周りのひとが呼んだ救急車で、初美ちゃんと一緒に運ばれてきたの。だから、バリバリ生きてるよ」

 商店街の真ん中で幼い子供を抱きしめてたら、たしかに危ないひとだ。でも、そのひとに助けられたのか。不思議な気分。

 助けられた、か。助けてもらった方がよかったのかな。

 

 さっき飛び降りようと思ってた窓を見た。鳥が二羽飛んでる。空が青い。雲ってこんなに白かったっけ。遠くの方でオレンジ色の電車が走っているのも見える。

 お父さんが突然、いなくなった。うれしい。うれしいけど、わたしは誰のために生きていけばいいんだろう。お父さんのための命だったら早く捨てたかったけど、これから先は誰のための命になるんだろう。


「どうしたの」

 ナースさんの声にびくっとする。ボーッとしてたみたい。

「まさか、死のうなんて思ってなかったよね」

 わざとらしくほっぺを膨らまして腰に手をやるナースさん。すぐに笑顔に戻って、また、ふふって。

「生きなきゃダメだよ。これから先は初美ちゃんの味方ばっかなんだから」

 ナースさんはわたしの頭をくしゃって撫でて、部屋の出口に向かった。

 味方……味方がいたんだ。

 味方のために生きるって、わたしでもできるのかな。

 目にうつる物がうるさいくらいカラフルに見える。わたしの手のひらが嘘みたいに真っ赤で、なんだか笑えてきた。

 これから何して過ごそうかな、なんてためしに考えてみたら、真っ先にお父さんの顔が浮かんだ。でも、怖くない。まだ笑える。

「ナースさん、ナースさん」

 部屋を出ようとするナースさんを呼び止めた。伝えたいことが、できた。

「私? あ、名前まだ教えてなかったっけ。看護部の――」

「さっき、もう会いたくないって言ったけど、会って伝えたいことがあったんだ」

「え、会うの。大丈夫? じゃあ聞いてみるけど、どんなこと伝えるの?」

「これ!」

 味方に囲まれたわたしは、たぶん、世界一だ。なんでもいい、なんかの世界一。

 わたしは二カッと笑って、腕を思いっきり伸ばして、中指を突き立てた。

 死んじゃえ、クソオヤジ!!




 終


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