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「化物怪奇譚」⑦


          *   *   *


 配達員の仕事を辞めようと決意した刑部さんとの出来事は、今思い出すだけでも嫌悪感が胸焼けのように襲い掛かって来るものだった。

 その日、僕が彼に配達したのは家電製品だった。中身は見ていないが、大きさからして小型の掃除機か扇風機、もしくは丁度気温の変化が大きい秋の終わり頃だったので、ヒーターなど暖房器具の類だったのだろう。

「最近こういう電化製品をよく買うんだよね。独り暮らしだから掃除も大変じゃないし、私が納得すればしなくても誰も困らない。だけど、文明の利器っていうのはやっぱりいいものだね」

 刑部さんは、重かっただろう、いつもすまないね、と珍しくこちらを気遣うような事を口にした。夕方の、バイト終わり間近でその日最後の配達、という時刻だったので、そんな事を言ってくれたのかと思った。

「この間は特にいいものを買ったんだよ。見せてあげようか?」

「あ、いえ。まだ僕は仕事中ですし……」

 僕はやんわりと断り、お辞儀をして引き返そうとした。刑部さんは残念そうな表情を浮かべたが、仕方がないと言わんばかりに肩を竦め、僕の差し出した段ボールを持って家の中に引っ込んだ。

 刹那、あっという彼の呻きとも叫びともつかないような声が上がり、僕は思わず振り返った。そこで、どうやら大きくて重めの荷物を運んでいる途中で、姿勢が悪かったのか腰を痛めてしまったらしい、と分かった。

 少々躊躇ってから、僕は「大丈夫ですか」と声を掛け、彼の家に足を踏み入れた。

 それが、僕の最大の失敗だった。

 彼は矢庭(やにわ)に僕の手を掴み、取り落とした段ボールに目もくれないまま、凄い勢いで薄暗く闇の揺蕩う廊下を駆け出した。低姿勢で、鉤爪のように関節を曲げた指を振りながら走る様は、初老の男性ではなく大きな四つ足の肉食獣にも見えた。

 僕は頭の中が真っ白になり、逃げる事など考えられなかった。辰巳の森の奥深く、人知れぬ獣道の奥の暗がりに通じているかのような、迷路の如き廊下を抜けると、刑部さんは窓のない、黒く塗り込めた壁の四方に広がる部屋に駆け込んで、不自然な程ぴたりと停止した。

「刑部さん……?」

「これだよ」

 先程までの狂気じみた様子とは打って変わって、静かな声で言った彼は、奥の壁に元々用意してあったらしい巨大な白い紙を降ろし、プロジェクターを設置し出した。

 僕のみならず、ここ最近業者の人たちが配達したものを思い返せば、確かに心当たりのあるものだった。だが、何故刑部さんがそんなものを使おうとしていたのかはよく分からなかった。

 片手で器用に準備を進めながら、もう片方の手は僕の手を掴んで離さないので、逃げ出す事も出来ないまま僕は立ち尽くしていた。

 その間金縛りに遭ったように動けなかった僕は、意図せず目線だけを動かして部屋の様子を窺った。窓がないのも肯ける。スクリーンのつもりらしい紙を降ろした壁以外の二面の壁は、今入ってきたのと同じような引き戸だった。そのすぐ上の鴨居に、何故か五寸釘のようなものが大量に打たれている。ハンガーなどを掛けるならフックでいいような気がしたが、考えてみれば下が通路なのにそんな所に服を掛けるのはおかしい。

 そう気付いた時、僕は目を逸らしていた。ここに居てはいけないと胸の中で何かが叫ぶのだが、僕はその五寸釘で足を地面に打ち留められてしまったように動けない。

 いつの間にか刑部さんの準備は終わっていて、逸らした視線は映し出された映像を捉えていた。僕はその時、刑部さんに頭を押さえ付けられたのかと錯覚した。

 全身の血液が、凍結してしまったのかと思った。

 映像には、恐怖に顔を歪める僕が映っていた。カメラが視点であるかのように、その僕に忍び寄る何者かの姿はない。ただ、鋭い爪のある毛むくじゃらの前足のようなものが二本見えた。

 口をぱくぱくと動かして僕が何かを言っている。そこに、前足の持ち主はゆっくりと近づき、配達員の制服の上から僕の腹部をその爪で大きく切り裂いた。

 血が溢れ、ぐちゃぐちゃしたものがカメラに跳ねる。苦痛に身を捩る僕を甚振るかのように、前足の爪はその体の破壊を続ける。襤褸(らんる)のような皮膚がその爪に絡む。こんなものが自分の一部だったのか、と思うような汚い肉片が飛散する。だが、そんな状態なのに画面の中の僕は無音の叫喚を発するばかりで一向に藻掻くのをやめない。

 破壊者が、中指の爪をすっと伸ばして僕の喉に当てた。(とど)めを刺されると分かったらしく、僕は顔を濡れた紙の如くくしゃくしゃに歪めて涙を流す。

 その顔が、僕から木戸、霞さん、写真サークルの仲間や同業者たちの顔へと変わっていき、最後に刑部さんの顔になって不敵な笑みを浮かべた。同時に首筋が引き裂かれ、カメラのレンズが真っ黒に染まり、何も見えなくなった。

「びっくりした?」

 プロジェクターを操作していた刑部さんが、ゆっくりとこちらを向く。その顔を直視出来ず、僕は無我夢中で彼の手を振り解いた。いつしか金縛りは解けており、僕はプロジェクターを蹴飛ばして部屋を飛び出た。

 廊下が一直線だったのは覚えていた。逃げなければ、という一心で僕は駆け、屋敷を出て獣道を転がるように抜けた。土足で彼の屋敷に上がっていた事を思い出したのはずっと後になってからだった。逃げないと、あの映像に映っていた破壊者のような姿になった刑部さんが追い駆けてきて、僕をあの真っ赤な血の池と汚物のような肉塊に変えてしまう、と本気で思った。

 怒りが湧いてくるより、恐怖が先に立って僕を動かした。

 僕が山猫宅急便に辞職願を出したのはその翌日の事だった。


          *   *   *


 一週間後、末崎住職の母親が亡くなった。

 入院以降体調は悪化の一途を辿っていたとは言え、単なる疲労による体調不良だと本人を含め皆が考えていたようなので、僕たちのショックは大きかった。

 中でも、実の母親を突然亡くした末崎住職の衝撃は計り知れなかった。電話を受けた時も、病院から荷物を持って帰ってきた時も、彼は泣いていなかった。だが、僕たちの知らない場所で泣いていた事は、その赤くなった目の縁が物語っていた。

 不幸な事に、その日は盆の入りだった。

 僕は末崎住職と顔を合わせる事が(つら)かったが、ただでさえ忙しくなる時にこのような事だったから、欠かさず量仁寺を訪れ、仕事に励んだ。

 末崎住職は、

「私も身辺整理で迷惑を掛けるかもしれないから、落ち着くまで土門君はお休みしていいよ。アルバイト代はそれでも払うからさ」

 と言って下さったが、僕はそれでも寺に行くのをやめなかった。

 本当に、住職の母は突然死だった。死因は彼女の夫、先代の住職と同じく急性心不全だったという。前日の夜に異常はなく、静かに息を引き取ったのだそうだ。


          *   *   *


 子供の失踪事件は終わっていなかった。

 霞さんが怪我を負い、階蔀さんが逮捕された事件は十一件目だったらしい。階蔀さんは相変わらず黙秘を続けているようだ、と霞さんは言ってきた。そして、彼が量仁寺のスタッフだった事を知ったらしく、過剰な程僕を心配してきた。何でその事を黙っていたんだ、とも責められた。

 僕は寺で彼におかしな様子がなかった事は正直に話した。無論、ミイラ化した化け物を見せられた事など、一部の出来事は隠して。

 霞さんの、階蔀さんに引っ搔かれた左腕は間もなく完治した。だが顔の傷、獣のような歯痕は血が止まっても、いつまでも治らなかった。彼女だって幾らあのような雰囲気とは言え女性なのだから、気に病んでいる事だろうと思った。

『こういう時、”お嫁に行けなくなったらどうしよう”とか言うんだろ?』

 冗談めかして言うものの、彼女は一度は救った子供が事件解決直後に消えてしまった事が余程応えているようだった。どうやら顔の傷は、それ自体が嫌というより、自分が救えなかった子供を連想させるのが悩みの根幹らしい。

『”俺が貰ってやるよ”、みたいなのはないのかよ?』

「反応に困るような事は言わないでくれよ」

 僕と彼女が話していたのは、電話だった。彼女がわざわざ電話を掛けてきたのは、階蔀さんが逮捕された以上絶対起こり得ない十二件目の事件が起きたからだった。

『……で、肝腎の事件の事なんだけど』

「ああ」

『今度もまた人攫いなんだよ。また顔は映ってなかったんだけど、防犯カメラにまた不審者に連れて行かれる被害者の子の映像があったんだ』

「この間映っていた階蔀さんと同じような感じの人だったの?」

 もしかしたら全ての犯人は階蔀さんではなく、複数犯だったのではないか、と僕は考え始めていた。可能性が微々たるものである事を思いながらも、それ以外にこの不可解な事件について思い付く事はなかった。

『似ているっちゃ似ていたみたいだね。黒いコートを着ていたってさ。さすがに悠長な事もやってられないと思ったのか、その写真が警察から各町内会に配られて、私も近所の人から少し見せて貰ったんだけどさ』

「それで」

『気付いたんだよ。そのコート、璃紗のじゃね? って』

 俄かに曇り出した空を吹き抜けた、雨の降る前のような冷たい風が、アパート裏を抜けて植木をざわざわと揺らした。窓の外を、何か細長い影が駆け抜けて行ったように見えたが、外を見ても何も居なかった。

 成長の早い背高草が、やはりぽつりと立って僕を見ているようだった。

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