「化物怪奇譚」⑤
* * *
「それは何とも興味深い事だね。彼の方から私を気にしてくるとは」
最早日常の風景の一部のようになったカウンター前の刑部さんは、腕組みをしながら楽しそうに言った。
刑部さんは、住職が本当に居らず僕たちの手が足りない事もお構いなしにやって来ては、いつもと同じように長い話を始めた。階蔀さんたちが、バイト生の僕に遠慮していつも通りの仕事だけを頼んで下さっているだけに余計に彼らに申し訳なかった。
刑部さんはあたかも最初から知っていたかのように、
「末崎さんが私の事を気にするような素振りを見せなかったかい?」
と僕に尋ねてきた。何だか、末崎住職と刑部さんの間に目に見えない駆け引きがあり、目の前にありながら知らないところでそれが行われているようで、僕には少し気味が悪かった。
あなたが住職に何かしたんですか、という詰問の意を込めて僕が出掛けて行った際の末崎住職の言葉を話すと、刑部さんは「やっぱり」というように肯いた。
「彼は私との約束を破り、悪い事をした。だから、その報いを受けねばならないって事なのかな。私に対して何かすまない事をした覚えがあるんだろう。最も、私は彼を祟ったりしないし、あまり警戒されても仕方ないのだけれどね」
「刑部さんは、本当に住職に対して何かした訳ではないのですね?」
「勿論だよ」
刑部さんは莞爾と笑う。だが、人の好い表情を作ろうと意図して細められたかのような目の、瞼の裂け目から覗く瞳は、心なしか鋭いままだった。
「あの、住職があなたに送ったという荷物は、本当にあの化け物だったんですか?」
ふと思い立って、僕は彼に尋ねてみた。
言って、刑部さんがまた面白がるような表情になった時、僕は失言に気付いた。
「土門君、君は、彼が『化物』と呼んでいたあの動物を見たね?」
「いえ、そんな……」
「階蔀君に見せられたんだね?」
彼の口調には、それが予測でも確信でもない、現実だと断定する色があった。そして、僕もしくは階蔀さんが何か途方もない過ちを犯していたのだとしても、それを咎めるのではなく憐れみながらも楽しむかのような響きが。
「階蔀君があの籠を解いてしまってから、末崎さんのお母上の容態が悪くなった。これは、どういう事なんだろうね」
僕は、彼の神経を疑った。一体、どのような気持ちでそんな事を口にするのだろうか。冗談でも言っていい事と悪い事がある。
「僕はまだ何も言っていませんよ。それに、仮に僕や階蔀さんがあの化け物を見たとして、一体何に問題があるんですか? 住職が何かの怒りを買うような事は絶対にないはずです」
「君も言葉が鋭くなってきたね、土門君」
刑部さんは、カウンターに身を乗り出してきた。
途端に、夏の茹だるような辺りの気温が、一気に下がった気がした。
「さっき私は、彼が私に対して何かすまない事をした覚えがあるのでは、と言っただろう? 私は彼と、彼の言っていた『化物』にとって、全くの無関係という訳ではないんだよ」
* * *
刑部さんは、例の噂話や妖怪話を語るような口調で、次のような事を語り出した。
だが、今までと違うのは、その話の中に刑部さん自身が当事者として登場する、という事だった。
「末崎さんは、いや、この呼び方も私には合わないね。私にとって『末崎』と名の付く人物は、今の末崎住職と先代の二人だから。私は当時、今の彼の事を彰人君、と呼んでいたっけ。
彼があの動物を捕まえて、それが翌日死んだ事は知っていたよ。彼らはそれを、死んだままの状態で封じて騒ぎを終わらせたみたいだけど、それが本当に終わった訳ではなかった事は、先代と私だけが知っていた。階蔀君や弘津ちゃんも知らない事だ。
動物が死んだ事は、私はすぐに分かった。その晩、どうにも私は眠れなくてね。夜の散歩でもしようかと、辰巳の森に出てみたんだ。そしたら、十二時もとうに過ぎた時刻だというのに、森の中を先代が歩いていたからびっくりしたよ。彼は私の屋敷が途中にある獣道を、屋敷の裏手まで抜けて森の奥の方に進んで行くんだ。加苅神社の方角だった。
神社に行くなら、何故参道を通らないのかって思ったよ。しかも彼は仏教徒だから神道の神社へ参拝が目的な訳じゃないだろうし、仮にそんな事が夜中に起きていたら丑の刻参りってやつだ。私は気になって後を着いて行ったんだが、そしたら彼は神社の裏から境内に入って、龍神社を訪ねたんだね。
その光景は、私が言うな、と言われるかもしれないけど、異様だった。
彼は無人の境内で、地面に這い蹲って龍神社に頭を下げたんだよ。許して下さい、勘弁して下さい、と何度も呟きながらね。泣いているようにも見えた。やがて、彰人は何も知らないんです、知らないでやった事なんです、と言い始めてね。
私はすぐに悟ったよ。彰人君は、末崎家と私とが龍神を介して結んだ契りを、知らないで破ってしまったのだな、と。私に、彰人君が祟り殺されるとでも思ったのかもしれない。
気が付くと、いつの間にか私は獣道へ引き返していた。もうすぐ屋敷に戻る、という時、刑部さん、と子供の声が私を呼んだ。振り返ってみると、そこに彰人君が立っていたんだ。
全部知っているのかい、と私は尋ねた。彼は私を睨んだまま、何も言わなかった」
* * *
出鱈目だ、と僕は思った。
化け物。龍神を介して結んだ契り。夜な夜な父親を追ってきた幼い末崎さん。
あまりに非現実的すぎた。全部、質の悪い冗談なのではないか、と思った。刑部さんが、呪縛のように構築した虚構に、僕や末崎住職の周りの人たちが巻き込まれているのであれば、それは残酷な事だ。
「仮に刑部さんが、化け物たちと何らかの関わりを持っていたとして」
僕は、言葉を選びながら尋ねた。
「先代が封印した化け物を、自分たちで開けて見てしまった僕や階蔀さんはどうなるんですか?」
今でもそれで刑部さんが末崎住職たちを何らかの形で苦しめているのなら、と僕は考えたが、刑部さん本人は何事もないかのようにまた笑った。
「去年の事を忘れたかな? 彰人君は……末崎さんは自分から進んで、第二の禁忌を犯したんだよ。もう懺悔する人も居ない。彼は、君たちがした事とは何の関わりもないさ。まあ、階蔀君は階蔀君の罰を受けるのかもしれないけれど」
「僕は……?」
「土門君、君に一つ頼みがある。階蔀君の服を一枚、私服でもスタッフ用の制服でもいい。こっそり私の所に持って来て欲しいんだ」
要するに、と頭の中で誰かが言う。僕の無意識かもしれないし、刑部さんかもしれない。末崎住職かもしれないし、先代かもしれない。
要するにこれは、刑部さんが僕に与えた機会なのではないか。階蔀さんを差し出す代わりに、これから僕の身に起こる何らかの”罰”を免除してあげよう、という。
そんな馬鹿な事があるか、と思った。だがそれでも、僕は誰かが不幸な目に遭うのは見たくないと思い、否定の意を込めて首を横に振った。
すると刑部さんは「可哀想な事だ」と、本当に悲しそうに呟いた。
「階蔀君の事だよ。彼はもう、駄目だ」