「化物怪奇譚」②
* * *
「土門君。この後、末崎さんとは会えるかな?」
その日初めて、墓地の方から戻って来た刑部さんを見て、僕は思わず声を上げそうになった。何故彼がこんな所に、と思った。考えてみると、彼の屋敷の立地から考えてここで供養が行われている事は当然と言えば当然なのだが。
「刑部さん、ですね?」
「覚えていてくれたんだね、土門璃紗君」
下の名前まで教えたっけ、と思いながら、僕は曖昧に肯く。彼程強烈な印象の人はなかなか居ない。参拝に来たのならば必ずここを通っているはずだし、何故僕は見逃していたのだろう。
「末崎住職に何かご用ですか?」
「前に君に届けて貰ったあるものの事で、彼と話したい事があるんだ。送り主は彼だったからね」
刑部さんは、にこやかな、それで居て何を考えているのか分からないような笑みを浮かべながら僕に言ってきた。
僕は少し逡巡し、それから何故か嘘を吐いていた。
「住職は今日の午後から夕方までずっと、何処かに用事があるみたいな事を言っていました。だから多分、今日は会えないと思いますよ」
「……そうなの?」
「多分ですけれど」
僕は、ぶっきらぼうに聞こえないように気を付けながら言う。
刑部さんは暫し神妙な顔で僕の座るカウンターに視線を落としていたが、数十秒の後「じゃあ仕方ないか」と言って身を翻した。
「これだけ、君から末崎さんに伝えておいてくれ。もう、私の邪魔をしようなどとは考えない事だ、とね。出来れば私としても、昔みたいに仲良くやっていきたい」
* * *
バイトが終わった夕暮れ時、僕がこの事を話すと末崎住職は少し困ったような顔になった。彼はその時、自分から箒を取って本堂の床を掃き清めているところだった。
安置された阿弥陀如来像が、僕と彼を見下ろしている。本堂は仏様の為の空間なので、誰もが無闇に入れる訳ではない、と仕事を始めた当初教えられた。だから必然的にここに集まる人数は二人、三人など少人数となる。
「刑部さんか。私と彼はちょっとした知り合いでね」
「僕も、以前のバイトで顔を合わせた事が何度かありまして。何となくですが、雰囲気が……怖い、と言うのですかね」
「そう見えるかもしれないね。でも、彼もここの檀家の方だから良い付き合いをしていかなきゃならない」
「刑部さんは、もう邪魔をしないで欲しい、みたいな事を言っていましたよ」
言ってしまってから、末崎住職が気分を悪くするのではないか、と不安になる。
住職は少し驚いたように、箒を左右に動かす手を止めたが、やがて納得が行ったような、迷惑そうな表情を浮かべた。
「思いがけない形で、私は君をあの人に関わらせる事になってしまったね。でも、この件に関する責任は全部私と彼にある。何が起きても、君が気に病む必要はないんだよ。私は少し……彼に会いたくないのかもしれない」
「その気持ちは何となく分かるような気もします。でも、一体何を?」
「何でもないよ。それより、ありがとう。私と彼を会わせないようにしてくれた事についても、以前彼のところにものを届けてくれた事も」
「いえ、後者に関しては、それが以前の僕の仕事でしたから」
何だか上手くはぐらかされてしまったような気がした。
だが、刑部さんと末崎住職の関係をあれこれ考える頭の片隅で、かつて僕が刑部さんに配達した「化け物」と記入された段ボール箱の事が過ぎり、それ以外の思考を次第に上書きしてしまった。
* * *
初めて僕が刑部さんに配達を行う時、先輩からしつこい程言われた。
「前にも言った通り、彼には絶対に深入りしない事。それだけは心に留めておくんだよ。頼むから、絶対面倒を起こしたり、因縁を付けられたりしないでよ」
僕は、はあ、と胡乱な気持ちのまま返事をし、自転車の後ろに配達物である六十サイズ段ボールを積んで縛り付けた。送り主までは覚えていなかったが、品物の欄には手書きで「化け物」と書いてあった。
辰巳の森の、不法投棄された粗大ゴミが両側に目立つ獣道を、そのやや重い箱を手に苦労しながら進んで行くと、彼の屋敷が見えた。ゴミから栄養豊富な化学物質でも漏出したのか、異常成長しギトギトした粘着質な液体が糸を引く熊笹や野蒜が鬱蒼と茂った森の奥に、暗い影を落とし佇むそれを見た時、何だかお化け屋敷じみた邸宅だな、というのが僕の第一印象だった。
庭なのかよく分からない空地を進み、呼び鈴を押すと、無言の息遣いだけが聞こえた後に扉が開き、むすっとした表情の刑部さんが現れた。
「山猫宅急便です」
僕が会釈しながら荷物を差し出すと、彼は「ありがとう」と申し訳程度に呟きながら、それを受け取ろうとした。手を伸ばしかけて、何かに気が付いたかのように僕の顔を覗き込んできた。
「山猫さんの人か? 見ない顔だな」
「ああ、僕は最近始めたばかりのバイト生でして」
「何ていうお名前かな?」
刑部さんが尋ねてくる。その双眸に、一瞬僕の瞳を貫き頭の内側まで覗き込んできそうな鋭さを見て、何となく先輩たちの妙な忠告の理由が分かった気がした。
「土門です」
「そうか。これからも宜しく頼む。私にはよく荷物が届くんだ」
彼は微かに笑みを浮かべ、今度こそ段ボール箱を受け取った。
手渡しする寸前、箱の中で何かが動き、蓋を蹴ったような気がした。
* * *
「この街にはな、化け物が居るんだよ」
僕に楽しげに教えてくれたのは、一年生の時写真サークルで最初に友達になった男子学生で、名前は木戸智也といった。
確か、この街は自然と共にあり、自然を敬う街だという話をした時だった。
自然豊かな小暮は、山や森が隣接している事もあり、時折街中にも猿や狸、鹿などが紛れ込む事がある。だが、自治体は害獣としてそれらを駆除したりはしない。無論住民に被害が出たら大事なので、その場合は警察が出動したりして捕獲には当たるものの、出来るだけ殺しはしないという。穏便に捕まえて、元居た山に返すだけだ。
小暮には民間伝承が多いとも話したが、代々受け継がれてきた伝統と観念は、常識という知識だけで完全に上書きされるものではない。
古い文献によると、この辺りの獣は日本の中でも平均的にかなり大きく、昔は神々として敬われていたものもあったらしい。龍神の眷属、我々人間の住む現世とは異なりながら、確かに人の世と重なる世界に存在するものとして。
そんな共通意識が根強く残っているからか、付近の山々は自然散策の目的でも立ち入ってはならないとされる禁足区域が至る所に設定されている。木戸は
「自然保護もいいけど、あんまり過剰なのはやめて欲しいんだよなー。昔ながらの自然を写真に収めるっていうのもこのサークルの目的なのに、本末転倒だって」
などと零していた。
「化け物っていうのは、元々そういう場所には怖いものが宿っているから近づいては駄目だぞ、って子供を脅かす為の方便だったんじゃないのかなって俺は思っているんだ。写真撮りに行ったりパンフレット作ったりする為に、歴史に関する本なんか読んでると、実際目撃しました、っていう人も居るらしいんだけど」
「神々……先人が民間信仰の対象にしていたっていう動物?」
「どうだかね。でも、アイデアとしては面白いと思う」
「アイデア?」
僕が首を捻ると、木戸は得意気に言った。恐らく、この手の話が好きなのだろう。
「『化物』は、”ばけもの”って以外にも”けもの”って読めるだろ? これは俺の仮説なんだけど、元々巷で妖怪変化って呼ばれる架空の存在は、昔の人が信じられないくらい大きな動物やら何やらを見て、自分たちの住む世界の存在だって認識出来なかった事が発端なんじゃないのかな。それか、何か理解出来ないような事が起きた時、人間以外の何かの存在のせいに出来たら気が楽になるのかも。それにさ、怖い怖いって思っていると、何を見ても妖怪に見えてくると思う」
獣のような妖怪、と聞くと、僕は真っ先に鵺を連想する。
鵺は、「平家物語」や「源平盛衰記」などに登場し、昔から日本に伝わる妖怪の一種である。文献によって差異はあるものの、一般的には顔が猿、胴体は狸、手足は虎、尻尾は蛇だと言われている。そして鳴き声は、夜に山野で悲しい声で鳴く鶫に似ているのだという。
元々、「鵺」とは雉に似て、夜な夜な野で悲しく鳴く鳥を指す言葉だったらしいのだが、平安朝時代の終わり頃この不気味な声で鳴く何かを清涼殿の二条天皇が恐れ、源頼政がその声の主と思われるものを射止めた結果、上に述べたような怪物だったという。
怖い怖いと思いながら対峙した獣が、妖怪や怪物に見える。確かに木戸の言う事には一理あるのかもしれない。
「俺の家もさ、少し郊外に近い方にあるんだけど、子供の時いつも外で不気味な鳴き声とか足音とかしてさ。怖かったけど子供心に覗きたくなって、遂に化け物と遭遇しちまって悲鳴上げた事あったっけ。そしたらそれ、デカい鼬だったんだよ」
確かにこの街には化け物が居るよな、と彼は笑った。本気で化け物とも共存していくなら、もっと自由に写真を撮れる場所を解禁してくれ、ともぼやいていた。
「おばけなんてないさ、おばけなんてうそさ」という、何処かで聞いた事のあるメロディを心の中で口遊みかけた。寝ぼけた人が見間違えたのさ、と。