アクアリウム・アンティーク
きっと太陽は殺意を帯びている。
熱に冒されて、そんなあり得ない夢想をしてしまう。
現実に戻らねばと、私は茹だった頭を上げた。
白光に目が灼かれる。陽光はアスファルトに反射し、そこら中に散らばって、視界に紗を掛けた。
道の先には陽炎が立ち、終点は見えない。
この坂を登り始めてどれくらい経ったろう。
もう八分目くらいには至ったろうと期待したが、目的地の影すら見当たらない。
殺人的。そう形容するしかない酷暑。近頃の夏はそんな日が増えた。
拭っても拭っても汗が吹き出してくる。
首に当てたハンカチが濡布巾みたいになってしまった。これでは汗をべたべたと塗りたくっているだけで、不快感は一向に減らない。
吐いた溜息もまた、熱い。
体温と外気が同じくらいか、もしくは外気の方が温度が高いのではないか。呼吸をしている感覚がしない。外界は蒸し風呂になってしまった。じっとりと身体中の汗腺から滲み出した汗でシャツが背中に張り付いて気持ちが悪い。
あと少し。あと少しで着く筈だ、と言い聞かせてここまで何とか来た。地図で見た限り、そんなに長い道ではなかった。だからきっと、本当にあと少しなのだと思う。けれどもう、そんな希望に縋っている場合ではない。このまま進めば、死んでしまう。水。水だ。水が欲しい。
ぱしゃ。
音がした。間違いなく。水が立てる音だ。
朦朧としていた頭が一縷の希望に復活する。
膝に手をつき、目を凝らす。
ぱしゃ。
水打ち。
眩光の向こう、坂の途中の民家の軒先で、水を撒いている人影。
私は何も考えてはいなかった。ただ水に吸い寄せられて、その人を目指した。生命の危機を前に、身体は驚くほど早く動く。死にかけていたのが嘘かのように。
手桶の水を柄杓で掬う作務衣姿の男。
私より随分と年若いその男は、目の前で足を止めた私を凝然と見つめ返している。不審者と思われているのかもしれなかった。違う。私は、水が欲しいだけなのだ。そう説明したいが、脳の命令が身体に伝わらない。言葉が出てこない。
「大変だ。早くうちで涼んで行かれませ」
助かった。私は彼の申し出に一も二もなく頷いた。
都会で何不自由なく暮らしていてこんな心地を味わうことがあろうとは。いい大人が情けない、と母が生きていれば叱られていたに違いない。
男が入っていったのは、古民家然とした屋敷だった。郷里の家に似ていたせいか、妙に懐かしさを覚える。私の実家は、地元で代々続く郷士の家系であり、母はその家の一人娘だった。家を守ることに自尊心の全てを捧げてしまえるような古い人間で、私はそれに反発し、大学進学を機に実家を出てしまった。母の葬儀が終わって以来、暫く郷里にも帰っていない。
戸をくぐれば、やっと日射しの及ばない世界があった。
肌に触れる空気が冷たい。篭っていた熱が放出されて、身体が軽くなったように感じる。
「どうぞお掛けください。今、お水をお持ちしますから」
男は椅子を引いて示し、私が頷くのを見届けると暖簾の向こうに姿を消した。
年季の入った木組みの椅子に腰掛ける。
中は薄暗かった。
土間の床に小上がりがある。壁沿いに並んだ棚には食器やら装飾品やら、書物もある。天井に近い方には、書画の類も飾ってあった。並んだ品の数々は、一人の人間の趣味で集められたにしては雑多すぎる。どうやらここは民家ではなさそうだ。
「どうぞ」
戻ってきた男が一杯の氷水を差し出した。
私はそのよく冷えた透明なグラスを受け取ると、一気に飲み干した。清涼感が全身に沁み渡る。男は空になったグラスに水差しからもう一杯注いでくれた。それを何度か繰り返し、やっと身体がまともになる。
「すみません。助かりました」
頭を下げるしかない私に彼は優しく微笑みかけてくれる。
「いいえ。お顔があんまり真っ赤だったので、放っておけませんでした」
いやはやお恥ずかしいと頭を掻き、私は男を窺う。
「ところで、ここは、お店ですか」
「ええ。まあ」
男は室内を見渡した。
「ご覧の通り、骨董屋です」
何十年と生きてきたが骨董に触れる機会はなかったので、ご覧の通りと言われても、あまりピンとこない。しかし言われてみれば確かに、数ある品々は、総じて新品ではなさそうだ。手入れはされているのだろう。綺麗ではあるが、どこか人の手を経た感じがした。
「もしよろしければ、私に何か見繕っていただけませんか」
私の申し出に、男はきょとんとしている。
「いや、助けていただいたお礼に。何か買わせてください」
「そんな。僕はお水をお出ししただけですよ」
「私は命を救われたと思っています。商いをしているなら、お金を出させてください」
食い下がる私に男は困ったような笑みを浮かべた。
「剛情なお客様だ。さては、先生ですね」
「どうして」
「うちのお客様に何人か坂の上の大学の先生もいらっしゃいましてね。偏屈で頑固、かつ純粋。研究者には、そういう方が少なくないと推察しております」
「私もそう見えますか」
「ええ。こんな暑い日に、この坂を徒歩で上ろうとするような人はね、偏屈です。しかも偶然立ち寄った店で商品を勧めさせるなんて」
男はふふと笑声を溢した。
「高値の品物を売り付けられるかもしれませんよ」
「別にいいです。それだけのことをしてもらったんだから」
大真面目に返すと、男は瞠目して、再び口元を綻ばせた。
「やっぱり。僕の見立ては合っていますね」
首を傾げる私に男は更に笑みを深めた。
「ここにある品々は、私の一存で単純にお勧めできるものではないのです。人の手を経た物には、誰かの思い出が閉じ込められている。その思い出に共鳴できる方に、もらっていただきたい」
「つまり、買うなら自分で選べということでしょうか」
「有り体に言えば、そうですね」
私にはよく理解できない価値観だが、この男が言うならそうなのだろうという気がしてくる。しかしこの雑多な中を吟味していたら、約束に間に合わないのではないか。
「実は時間があまりないのです」
知人が教鞭を執る大学での講演に呼ばれているのだ。この店が坂のどの辺りにあるのか解らないが、まだまだ目的地が先だとすれば、ゆっくりしてはいられない。
「ご心配には及びません。ここでの時間は外とは違いますから」
「どういうことです?」
「店を出たら、解りますよ」
不思議な男だ。物腰柔かな好青年といった感じなのに、それ以上の追及も異論も許さないという雰囲気を纏っている。
はて、困った。しかし自分から言い出したことなのだから、選ばねばなるまい。あまり時間をかけないようにしよう。私は改めて店内を見回す。
骨董といえば美術工芸品の印象が強い。名窯の茶碗とか壺とか。しかし私がそのような代物を手にしたところで箪笥の肥やしになることは目に見えている。絵であれば飾っておけばいいから手を出しやすいかもしれない。壁を見上げて周る。額に入っているのは、西洋画もあれば浮世絵と思しきものもあった。美術に関しては素人だから、それがどういった時期の何という画家の作品かは解らない。浮世絵のような木版画の作品は何となく良いと思いはしたが、欲しい、とまでは思わなかった。趣向を変えて壁際の棚へ目を移してみる。彫金細工の施された豪奢な本。繊細な波模様のティーカップ。柘榴石で繋がれた銀のロザリオ。この辺りは洋風のアンティークといった感じだろうか。やはりどれも、私が持っていいものには思えない。
小さく溜息を吐き、椅子に戻る。慣れない買い物をするものではない。物に飽きたか、目線は自然と外へ向かった。
小さな窓の向こうは、依然として白い光で満ちている。
相変わらず暑そうだ。一度涼しさに慣れてしまうと、再びあの炎天下を歩むのが億劫になる。せめて、何か涼を感じられるようなものが側にあれば気休めになるかもしれない。
そう思ったらふと、窓辺に置かれた品に目が留まった。
あれは何だろう。半球状の硝子。金魚鉢のような。しかし中に魚影はない。底に敷き詰められた瑞々しい若緑の苔。揺蕩う幾条かの水草。あとはたっぷりの透明な水。それだけしかない、涼しげで寂しげな空間。
「あれも、骨董品ですか」
私はその硝子の鉢に目を釘付けにされたまま、男に尋ねた。
「ああ、それは。古道具、と言った方が良いかもしれません」
いつの間にか小上がりに腰掛けていたらしい。男はゆらりと立ち上がり、窓辺に近寄った。
「作家の名前が残るような代物ではなく、昔は一般に流通していた、名もなき職人の手仕事による一品ですね。実のところ、うちはこういった物の方が多いのです。機械製造では出せない、微妙な形の歪みが何とも言えず愛らしい。吹き硝子特有の気泡も涼しげで美しいでしょう」
すらりと長い器用そうな人差し指が硝子の縁をゆっくりと撫でる。何故だか見ているこちらが擽ったくなる。
「一昔前の道具でも、使い途を与えてやるとまた息を吹き返すのですよ。その例をお示ししたくて、この器に苔や水草を植えてみたのです。アクアリウムというやつです」
「売り物ではないのですか」
「そうですね。この子はちょっと、難しいので。ご興味のある方には、似た品をお持ちしています。ご検討くださるなら、裏から出して来ましょうか」
「いや…」
私は言葉を濁す。
私の興味は、あくまでもその鉢にしかなかった。厳密に言えば、その鉢の中に収まっている空間に。その中に、私の意識は既に囚われかかっている。
——綺麗ね。由幾夫さん。
指を浸したら、きっと冷たい。あの池と同じくらい。
夏でも清かで涼やかなあの故郷の、唐松の森を抜けた先の、彼女が待っていた、あの池と。
******
滅多に人が寄り付かないあの場所は、私と彼女だけの秘密だった。どちらから約束をしたわけでもなく、そこに行けば彼女に会えた。隣町の県立高校へ通う私が彼女に会えるのはあそこだけだった。会えない日も当然あったが、夏休みにはほとんどの時を共に過ごした。
高校へ上がって自我が目覚めつつあった私は、旧家然とした実家が居心地悪く感じるようになっていた。家にいるのに嫌気が差すとついあそこへ足が向いた。そしてそれは、彼女も同じであるようだった。会えば池の畔に並んで腰掛け、どこまでも透き通る池の水を日暮れが迫るまで眺めていた。
あれは、初恋、だったのだろう。
私はそれまでの人生で初めて、四六時中側に居たいと思う他人に出会ったのだ。
——実也子。
私が彼女について知っているのは、実也子という名と、彼女が今は既に廃校となった地元高校の生徒であったということ。それと、実の親ではなく遠縁の老夫婦に養われていたということだ。
実也子は笑顔の美しい少女だった。私が気の利く会話ができないことも笑って受け入れてくれるような優しい子だった。しかし、水面を見つめるときだけ、寂しそうな目をしていた。
「綺麗ね」
実也子の呟きに私はうんと頷いた。
「だけど、少し怖いわ」
「どうして?」
「綺麗だけど、お魚もいないし。この世のものじゃないみたい」
「水が酸性だから、大半の生物は生きられない。でもその分、これだけ透明な水になる」
「そっか」
実也子は膝を抱えて丸まった。
私がかける言葉はきっと適切でないことの方が多い。内容は正しくても、彼女の望む言葉ではないような気がする。
「由幾夫さんは物知りね」
顔を上げた実也子は莞爾とした。
また、笑わせてしまった。実也子の笑顔を見ると不安になる。
先刻まで寂しさを露わにしていたくせに、人前では颯とそれを隠してしまう。
気丈に振る舞うその姿に、私の胸底はちくりと痛んだ。
けれどいつも、そこから彼女に声をかけることが私にはできないのだ。
夏休みも残り一日となった頃、この関係は唐突に終わりを告げた。
その日の実也子は、常よりも暗い瞳をしていた。
その理由に大体の想像はついた。きっと家族と何かあったのだ。そうと察しながら、私はやはりかける言葉を見つけられなかった。どう訊いたものか考えているうちに、日はどんどん西へ傾いていく。もうすぐ、帰らなければならない。しかし、今の彼女に帰宅を促すことは酷に思われた。
「由幾夫さん」
実也子に呼ばれて、はいと返事をする。
「私、帰りたくない」
己の心臓が止まったかと錯覚した。別に疚しいことを考えたわけではない。彼女から聞くにはあまりに衝撃的な言葉だった。いつも帰りを申し出るのは実也子の方からだった。その彼女がそう言ったのだ。それは単なる気紛れや遊びで口にしたのではない。相当に思い詰めて、覚悟した結果の言葉のはずだ。
「一緒に、逃げようか」
自分でも知らぬ間に、私はそう言っていた。
実也子は黒目勝ちの丸い目を更に丸くした。
「もうすぐ暗くなる。今日出たんじゃきっとそんなに遠くへは行けないよ。今日は帰って準備をして、明日の朝、出発しよう」
私の提案に実也子は涙を溢しながら、満面の笑みを浮かべた。
「ここで待ち合わせよう」
実也子はうんと頷いた。
「由幾夫さんが遅れても、私、ずっと待ってるわ」
そのとき見せた実也子の微笑みを私は一時たりとも忘れたことはない。きっとこの先も一生、記憶に残り続ける。泣いて赤く染まった眦に濡色の瞳。含羞のためか頬は薄紅に上気して、唇は期待に綻んでいる。思わず触れてそこに在るのを確かめたくなる、儚い少女の面影。
私が堪えきれず浮かせた手に、怖ず怖ずと実也子の指先が触れた。臆病な少年少女の手は、どちらからともなく固く結ばれ、やがて名残惜しそうに解かれた。
翌朝、私が身支度を整えて玄関へ向かうと、母が立っていた。
私の絶望的な気色を読み取って、母はほくそ笑んだ。
「どこへ行くのか解っていますよ。親無しの娘になどいつの間に目をつけられたのか。きっとお前に取り入って、この家を乗っ取るつもりなのだ。ああ、おぞましい」
私は己の耳を疑った。何を言っているのだ、この女は。この人が私の母だとは信じたくなかった。やはり捨てるべきなのだ。こんな家。
「通してください」
横を通り抜けようとすれば、肉の落ち、骨ばった女の手が私の腕を掴む。振り解こうとすれば、指先がめりめりと腕に食い込んだ。どこにこれほどの力を秘めているのか。頑なに掴んだ腕を離さない。
「どこの馬の骨とも知れない女のところへなど行かせません」
鬼女の様相で私を睨む。
私も負けじとその女を睨み返した。
「彼女は立派な人です」
実也子を侮辱されるのは我慢ならなかった。彼女ほどひた向きに生きている人を私は知らない。実の親への不平も、養い親への不満も、彼女が口にしたことはない。自身の境遇を恨まず、生まれ育ちに囚われず、ただ己の心にのみ忠実であった。その純粋さを知らぬ者が外聞だけでとやかく言える資格はない。
「貴女よりずっと、立派な人です」
「なんてこと!」
母は金切り声を上げた。
「私の息子はもうすっかり誑かされてしまった!」
しがみつく女は身をわなわなと震わせた。
「もういいでしょう。僕はもう、貴女の息子には相応しくない」
説得する気は起きなかった。手を離してくれればそれでいい。
女は私の言葉を拒むように、俯き頭を振る。
「いえ、いいえ。お前は私が産んだのです」
急に、女の手に力が入った。
油断していた。私は呆気なく引き摺られ、玄関から遠ざかる。
いけない。待ち合わせに遅れてしまう。
——実也子。
未熟な私の身体は痩せた女の手に突き飛ばされ、物置部屋に放り込まれた。ぴしゃりと閉ざされた戸の外でがたがたと音がする。閉じ込められた。私は慌てて身を起こし、戸を拳で叩いた。
「開けてください!」
力の限り声を上げる。
「一日反省なさい。親無しの小娘一人、どうすることもできるのですよ。私が誰か、お前が誰のものかよく思い出すことです」
冷徹で慈愛に満ちた声音だった。全身から力が脱けた。
結局、私はこの女に逆らえないのだ。
暗くて狭い密室で蹲るしかなかった。
母から許されて物置部屋から解放されたときには、夏休みは既に終わっていた。
高校生活最後の二学期の初日。
学校へ向かう途中であの池に寄った。
遅れても待つと言った彼女を信じて。
けれど当然、そこに実也子の姿はなかった。
午前中で終わった学校の帰りにもまたあの池に寄った。
やはり実也子はいなかった。
それでもまた彼女が現れるかもしれないと思って、日が暮れるまで待った。いつものように畔に腰を下ろし、澄んだ水面を眺めて。
空が茜色に変わっても、彼女は来なかった。
見捨てられたのだ。そう判断するしかなかった。
駆け落ちに等しい誘いをしておきながら、約束を反故にした無責任な男だ。
母親に負けて大事な人の側にいられないような男だ。
私は彼女を裏切ったのだ。見捨てられて当然だ。
情けなくて涙も出ない。
感情の涸れた目で辺りを見渡す。
池を囲む木立の隙間の闇が濃くなっていた。白樺の幹がぼんやりと際立ってくる。葉は若い爽やかな緑から、深く妖しい緑へと移ろう。水面はさざめきながらその色の変遷を反射している。
夕暮れの美しい景色のどこにも、彼女はいなかった。
自分を嘲る乾いた笑いが虚しく響いた。
******
「大丈夫ですか」
思わずびくりと肩が跳ねた。
若い男に顔を覗き込まれている。
誰だったか。そうだった。ここはこの男の店だった。
「失礼。少し頭がぼうっとしていたようだ」
「まだ熱が抜けませんか。お水、どうぞ」
男は空になっていたグラスに冷水を注いでくれる。
「アクアリウム、差し上げますよ」
え、とグラスを口に運びながら私は男を見返した。
「どうやらあれが、貴方の思い出に繋がっているようですから」
「しかし売り物ではないと…」
「ええ。なので、差し上げます」
「代金を払わせてもらえないということですか」
「売り物ではないですからね」
「それではお礼になりません」
更に施されることになってしまう。
「では、箱代を頂きましょう」
男はそう言って店の奥から桐の小箱を持ち出してくる。件の硝子鉢に柿渋紙を被せ、口を緋色の紐で縛った。鉢を桐箱の中に収め、隙間に綿を詰めると、蓋をする。更にそれを藍染の風呂敷で包み、持ちやすく結んでくれる。
「これで水も溢れないでしょう」
「本当に、いいんですか」
男は嬉しそうに頷いた。
「物は自ずと持つべき人の手に渡るものです。それは貴方が持つべきだ。何より、その子も貴方を気に入ったようですし」
男の言葉の意味を捉え損ね、訊き返そうとする私を遮るように男は言葉を重ねる。
「どうぞ、月の光をたっぷり浴びさせてください」
謎めいた指示に益々この男のことが解らなくなる。
「月夜の硝子は現世では見えぬものをも映し出します。貴方にとっては、きっと素敵なものが見えるでしょう」
私は理解することを諦めた。男があまりにも清々しく、晴々とした表情をするものだから、言葉の意味も真偽もどうでもよくなってしまった。
箱代として示された金額を渡して、私は店を出た。
元来た坂道へ戻り、行く手を見上げる。
特徴的な尖塔の屋根が見えた。私が招かれている大学の聖堂だ。
先ほど死にかけていたときには全く影も形もなかったのに、今はすぐそこにある。
どうなっているのだ。
困惑しながら腕時計を見る。
まさか。最寄りの駅を出た時点から数えて、十五分。ここまで坂を上ってきた分の時間しか経っていない。
どれくらいの間、あの店の中にいた?
一時間は経っていなかったと思うが、いくら短く見積もっても五分十分どころではなかったろう。
私は慌てて背後を振り返る。
生垣の奥に、燻んだ色の古民家が確かにひっそりと佇んでいる。
『骨董・環』と書かれた木彫りの看板も立て掛けてあった。
右手に持つ藍染の風呂敷包みもずしりと重い。
熱に浮かされて夢を見ていたわけではないらしい。
いっそ夢ならば全て納得できたのだが。
何が起きたのか煩悶しながら、私は再び坂を上り始めた。
宵の口にはまだ街の何処も熱が冷めない。外気は湿気を含んで重く、容赦なく呼吸を阻害しにかかる。家路を辿る間に、シャツが肌に張り付く不快感に何度も悩まされた。帰宅してすぐにでも汗を流したい衝動を抑え、私はテーブルの上で風呂敷包みを開くと、桐箱からゆっくりと硝子鉢を取り出した。
窓の外を見遣る。
いつもより、闇が明るい。
どうやら今宵は満月であるらしい。
これならば店主の言いつけを守れるだろう。
月がよく見える窓辺に鉢を置いてやる。
それからやっと、浴室へ足を向けた。
さっぱりと生まれ変わったら、気兼ねなくアクアリウムと向き合える。濡れた髪を適当に拭って、窓辺に椅子を引いてきた。頬杖をついて硝子の中を眺める。
やはり、似ている。
あの池にもこんな苔が群生していた。
強酸性の水質のせいで棲息できる生物は絞られる。限定的な植生のあの池と同じ種類の植物が、この小さな丸い空間に再現されているのは、偶然だろうか。
もっと間近で観察してみようと鉢を持ち上げて顔を寄せた。
月光に翳してみると、水の世界に薄明が射し込む。暗闇の隙間で色彩が踊り出す。雪洞の如き苔は青々と。手の傾きに従って水草はゆらゆらと。蒼白い光から虹色の粒子がプリズムみたいに溢れて硝子の中で輪舞する。
光の帯の間に、そこにあるべきでないものが映った。
私は両手で硝子を支え、ぶれないように固定する。
少女の姿が見える。
見慣れた制服。髪型。記憶の中で何度も反芻したその表情。
「実也子?」
少女は嫋やかに微笑んだ。
実也子だ。
硝子に添えた指先が震えた。
喜びと戸惑いで視界が滲む。
どうして? 何故そこに実也子がいるのだ。
水の中では喋れようはずもない。実也子はただ私を見つめ返している。
外に出してやりたくて鉢の口を上から覗き込んだ。
——いない。
見えるのは群生する苔の緑ばかり。人影はどこにもない。
水面の波紋で遮られているわけではない。水は限りなく透明で、綺麗に水底まで見通せる。
硝子越しにしか、見えないのか。
私は再び、球面状の硝子を覗いた。
小さくとも明瞭と認識できる。苔と水草の森に佇む少女は決してミニチュアの人形ではない。生きている。
私はもっと実也子を見たくなって、硝子鉢を持ってベランダへ出た。
煌々と輝く白い月の下に立つ。光が沢山注ぐようにと空へ掲げて、下から鉢を見上げた。
浴びる光量が増えたからか、像は更に鮮明になる。
ああ、実也子。実也子だ。
私の記憶と寸分違わぬ、あのときの幼気な少女のまま。
「ごめん。一緒に行けなくて、ごめん」
私はずっと伝えたかった懺悔をやっと吐き出した。
不甲斐ない未熟な少年だった己が憎い。
一日中でも戸を叩き続け、声を上げ続ければ家の誰かが出してくれたかもしれないのに。結局、私は母が怖くて実也子から逃げたのだ。
あの日から実也子の姿を見ることはなかった。あの池に実也子が現れることもなかったし、郷里の狭い村の中で見かけることもなかった。
きっと彼女の方も私などには会いたくないのだろうと思っていた。
私は自分を責めながら大人になった。彼女の顔を思い浮かべる度に、罪悪感に苛まれた。しかし忘れたいとは思わなかった。もしももう一度会えたなら、どんな恨言も罵倒も受けたいと思っていた。——なのに。
実也子は微笑んでいた。私は、泣いていた。
彼女は約束を守ってくれたのだ。ずっとそこで、待っていてくれたのだ。
月が欠けていくにつれ、硝子の中の実也子の姿は薄くなっていった。別れが近付いていることを私も実也子も悟っていた。残された時間を大切にしたくて、夜にはなるべく実也子の側で過ごした。睡魔に負けるまで、実也子に話しかけ、視線を交わし合った。
そして次の新月の晩。アクアリウムの中から実也子の姿は消えた。
翌日、郷里の旧友から連絡が入った。
あの池から身元不明の少女の遺体が見つかった。外傷はなく、事故か自殺の線で捜査は進められているらしい。ただ、遺体の着衣については警察も周辺住民も首を傾げているという。その少女が身に付けていたのは、もう十数年も前に廃校になった地元高校の制服だったそうだ。
彼女が誰なのか。私だけが知っている。
「#web夏企画(http://un09.net/s2/)」様のお題【水草、宵、少女】から書かせていただきました。
お題はどれか一つでOKとのことでしたが、綺麗なものが揃っていたので全部入りでやってみました。