8.塊、化粧
「こんにちは。久しぶりね」
ウタさんが私を見てにこりと笑った。
「久しぶり」
私は軽く頭を下げた。ウタさんが大きな目をますます大きくして、右頬を手のひらで触る。
「もしかして誰かと会った?」
「テツさんと会ったよ。どうして?」
「話し方が変わっているからよ」
ウタさんは顔をしかめると、不快だわと呟いた。
「あなたは私に教えを乞う立場でしょう?」
それを聞いた瞬間、腹の奥底から、実体のない塊のようなものが迫り上がってくる。顔がかっと熱くなる。喉元を通り、口から出そうになる塊を、唾とともに飲み込んだ。左手でみぞおちをさする。ふと視線を落とすと、手が小刻みに震えていた。
これは、怒り?
以前読んだ本の記憶を手繰り寄せ、今の状況と結びつけようとする。
怒りだとしたら、なぜ?
「ともかく、調子が狂うから元の話し方に戻してちょうだい」
私は両手を髪の毛の中に入れて、ぐちゃぐちゃとかき回した。
「わかっ……。わかりました」
私が言うと、ウタさんは真っ赤な唇を引き上げて笑った。
「いい子ね」
塊がまた上がってきそうな気配がある。深呼吸してごまかす。
「そうそう。テツといえば、彼に会ったのは、シロに初めて会ったのと同じ日だったわ」
「そうなんですか?」
私は思わず身を乗り出した。ウタさんは満足げに笑う。
「懐かしい。シロの直前に会ってたのがテツだったの」
ウタさんは胸の前で手を組んで、その時のことを思い出しているようだった。
「彼、いい人よね。ずっとニコニコと笑っていて、相槌のタイミングも絶妙で。すごく聞き上手だったわ」
「え! あんなお喋りな人が?」
声が大きくなってしまう。ウタさんが目をぱちくりとさせた。
「もしかして別の人のことを言っている? でも私、同じ名前をつけた人なんていないし、同一人物よね?」
ウタさんが首を傾げた。
「多分」
あなたの話が長いから、喋る隙がなかったのではないでしょうか。そう答えたくなったことに驚く。続く言葉を辛うじて飲み込むことができた。彼女には、ただの相槌として伝わるはずだ。
「言われてみれば、難しい話をしていたような気もするわね。……まあいいわ。そろそろ本題に入りましょうか」
ウタさんが髪の毛をかきあげた。
「ありがとうございます」
「今日は、化粧を教えてほしいってことよね?」
「はい、そうです」
「教えるのは構わないのだけれど、少し質問させてほしいの。いいかしら」
「はい」
一体何を聞かれるのだろう。少し身構える。
「どんな顔を目指したい?」
「え?」
私が瞬きを繰り返していると、ウタさんが再び口を開いた。
「難しかったかしら。質問を変えるわ。あなたはどんな自分になりたい? どんな人として見られたい? かわいい人? かっこいい人? それとも美人?」
答えられない私を見て、ウタさんは言葉を続ける。
「この答えによって、使うメイク道具が変わるの。例えば色とかね」
「えーと。少し時間をください」
私は天井を仰いだ。声が言っていた「化粧をして、何を得たいと思っているか?」という問いと重なる部分だろう。
どんな自分になりたいか。
どんな人として見られたいか。
見られたい。誰に?
その時思い浮かんだのは、テツさんの柔らかい笑顔だった。
戸惑いながら答える。
「かわいく見られたい、かな」
「わかった。お世話係にお願いするから、ちょっと待っててね」
ウタさんはそう言うと、私に背を向けた。
「シロのところに届けてもらいたい道具を今から言うわ」
〈かしこまりました〉
向こうの「お世話係」の声が聞こえて、ウタさんは呪文を唱え始めた。
耳をそば立てていると、辛うじて「ファンデーション」だけ聞き取れた。この前読んだ本に出てきた女の子が、顔に塗っていたはずだ。
その女の子が、「化粧が長い」と彼氏に怒られていたことを思い出す。
あの子は一体、どんな自分になりたくて化粧をしていたのだろう。
こちらの壁の箱が昇っていき、ウタさんは私に向き直った。
「今からそちらにメイク道具が届くから。もう少し待っててね」
ウタさんが身を乗り出す。私をじっくり観察している様子だった。緊張して、思わず髪の毛で顔を隠したくなる。
「前に会った時よりも、肌も髪の毛も調子が良さそう。スキンケアを頑張ったのね」
私は目を見開いた。
「はい」
「シロって頑張り屋さんなのね。すごいわ」
ウタさんが微笑む。
彼女に怒りを抱いてしまったことを、恥ずかしく思う。
きっと彼女は悪気がなかったのに。私のワガママに付き合ってくれるのに。私の肌の調子まできちんと見てくれて、褒めてくれるのに。
居心地が悪く、私は椅子に座り直した。
「あ、届いたみたいね」
箱の音を聞き取ったウタさんが呟く。ボタンを押すと、化粧道具らしきものが出てくる。
四角いキラキラした薄型の箱を手に取り、かざしてみた。
「かわいい……」
思わず声が漏れる。
「ふふふ。そうよね。化粧品って、かわいいのよ」
画面に目を向けると、ウタさんが優しい目で私を見ていた。
「全部テーブルに持ってきて、並べてちょうだい」
私は七つの道具を手に抱えて移動し、イスに座った。
テーブルの上に一つずつ並べる。
「左から、化粧下地、ファンデーション、アイブロウ、アイシャドウ、チーク、色付きリップ、化粧落としよ。化粧水と乳液、かみそりは持ってる? あと、鏡も」
「はい」
私は頷いた。
「じゃあ持ってきてちょうだい」
ユニットバスに向かい、戸棚を開けた。
戸棚から出したものを持って画面の前に戻ると、ウタさんが、自分の前に化粧道具を並べて待っていた。
「さあ、ここからが本番よ。本当は直接教えるのが一番良いのだろうけど、私はそちらには行けない。私が実際にやってみせるから、シロも真似してみてね」
まずは化粧水からと言われ、私は化粧水の瓶を手に取った。
ウタさんの教え方は丁寧で、とてもわかりやすかった。それなのにどうしてこうなってしまうのだろう。
私は鏡を片手に首を傾げた。
画面には、明らかに笑いをこらえているウタさんが映っている。
「ふふっ、ごめんなさい。初めてだものね、ふっ。おてもやんみたいでかわいいわよ」
意味はわからなかったが、褒められていないことだけは確かだ。
「何回もやったら、上手になれますか?」
私が聞くと、ウタさんは力強く頷いた。
「大丈夫。シロは頑張り屋さんだもの」
胸がきゅんと締め付けられた。
「ありがとうございます」
「頑張ってね。応援しているわ。私、メイクの本を見ながら勉強したのだけど、もう使わなくなったものがあるの。シロに渡せるか聞いてみる。それも良かったら読んでみて」
「本当に至れり尽くせりで、ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「いいのよ。同じく『ここ』に生きている者同士なのだから、支え合って生きていきましょう」
ウタさんが「またね」と言って、通信が切れた。