6.テツ、本能
私は毎日本を読み続けた。初めのうちは、一ページごとに何度も辞書を引かないと意味がわからなかったが、徐々にわかる言葉が増えていき、読むスピードが上がった。一日一冊読めるかどうかだったのに、今では三、四冊難なく読めるようになっていた。
本を読み始めてから、寝食を忘れた。届けられる食事によって、時間の経過を知った。続きが気になって、食事をしながら本を開くこともあった。《そろそろ寝てはどうですか?》と声が聞こえてくることも少なくなかった。
訳がわからないまま読んだ本も、他の本を読んだあとに読み返すと、理解できるようになっていた。文字情報と挿絵だけでは理解できないことももちろんあったが、こんな物なのかなと想像で補った。
最初にもらった本を二回ずつ読み終わると、また次の本が用意された。絵本、ライトノベル、純文学、翻訳小説、エンタメ小説。いろんな本を読んだ。
私の思った通り、人々は同じ空間で生きていたようだ。しかし、私が思っていたよりも遥かに世界は広かった。
食事内容と起こったことしか書いていなかった日記帳は、いつしか、読んだ本のタイトルと内容を書くための記録ノートになっていた。そのノートも、もうすぐページがなくなろうとしている。
《あなたに会ってみたいという方がいらっしゃるのですが、ご興味ありますか?》
朝食のホットケーキにハチミツをかけている時に話しかけられ、手が止まる。珍しいと思った。
食事中、私が言葉を発していないのに声が聞こえることは、めったにないことだった。
「私に会いたい人? 『誰か』じゃなくて、私に?」
ハチミツが入った小さな容器をテーブルに置く。ことりという音がした。
《そうです》
「それはもちろん興味あるけど、どうして私なの?」
鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じた。息が浅くなっていることに気づき、慌てて深呼吸する。
《あなたの他にも人がいるというのはご存知ですね?》
私は頷く。
「前にウタさんに教えてもらったから」
《その中に『知識がある人に会いたい』とおっしゃる方がいて、それならあなたが適任かと思って推薦してみたんです。本をたくさん読んでいる人がいるとお伝えしたら、『ぜひ会ってみたい』とおっしゃいました。あなたさえよろしければ、会う場を設けます》
「知識がある人なら、私よりもウタさんの方が適任じゃない?」
言いながら心臓の音が大きく、早くなっていた。喉がカラカラだ。緊張しているのだ。
《先方はあなたをご指名です》
「わかった。推薦してくれてありがとう」
溜まってきた唾を飲み下す。
《この話を進めてもよろしいですか?》
「ぜひ会ってみたい」
《かしこまりました。先方に確認してから話を進めていきますね》
「よろしく」
ホットケーキにナイフを入れ、フォークで口に運ぶ。噛むとじわりとハチミツの甘みが染み出してくる。
どんな人なのだろう。
ウタさんよりも私を選んでくれた喜びと、失望されないだろうかという不安とを、ホットケーキと一緒に噛み砕いた。
《決まりました》
あと一口で食べ終わるという時に声が聞こえた。
「早っ!」
思わずフォークを取り落としそうになる。
《今日これから、あなたと彼が食事を終えたあとにセッティングします》
「彼、ってことは男性なのね」
《はい》
今まで物語の中でしか知らなかった異性に会える。私の胸がどくんと脈打った。
「初めまして」
画面の向こうで、眼鏡をかけた男性が言う。少し低めだが、聞きやすい通る声だ。
おそらく年齢は私と同じくらいだろう。左側に流した前髪は長く、眼鏡がなければ目に刺さりそうだった。それでも暗い印象を受けないのは、柔らかい笑顔でこちらを見ているからだろうか。
「初めまして」
私も言葉を返す。
「会ってくれてありがとうございます」
男性が目じりを下げて微笑む。その様子は、絵本に出てきたたぬきを想起させる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
頭が画面から見えなくなるほどの深いお辞儀をしてきたので、私もつられて頭を下げる。
「こちらこそ、です」
ふはっという音が聞こえて思わず顔を上げると、私と同じように元の姿勢に戻りながら、肩を震わせる彼の姿があった。
「なんか面白いね。あ、フランクに話したいし、ため口でいいよ。俺はテツ」
「あ、はい。じゃなかった。うん。私はシロ」
「シロちゃんね。よろしく。会いたかったよ」
画面越しなのに私の目を見てくれている気がして、顔がほてるのを感じた。
「ありがとう。でもどうして私だったの?」
ウタさんの方が知識が豊富なのに、とは言わなかった。言いたくなかった。
「なんで、かあ。直接的な理由はお世話係に勧められたからなんだけどね」
「待って」
話を続けようとするテツさんを遮った。彼は「ん?」と首を傾げた。
「お世話係ってその言い方……」
「ああ。ある人に教えてもらった言葉なんだ。それでね」
なんでもないことのように話すテツさんに、再び口を挟んでしまう。
「もしかしてウタさんに会ったことあるの?」
「うん。……あ、そっか。シロちゃんも会ったことあるよね?」
『他人に興味を持った子はみんな、私と最初に会うのよ。そうしてもらえるようにお願いしてるから』というウタさんの言葉を思い出す。
選んでもらえたことに舞い上がって、すっかり忘れていた。
ウタさんを差し置いて選ばれたと勘違いしてしまった私が恥ずかしい。同時に、ほの暗いおりのようなものが溜まっていく感じがした。
「私も最初に会ったよ。何度も遮ってごめんなさい。話の続きを聞かせて」
「うん。どこまで話したっけ。あ、そうだ。お世話係に本をもらってね、俺はずっと読んでたのね。そうしたらやっぱり人と話したくなるでしょ? それでお世話係に聞いたら、同じように本を読んでいる子がいるっていうじゃない。それでお願いしますって言って、セッティングしてもらったってわけさ。あ、そうそう。これもお世話係が教えてくれたんだけど、俺らみたいに本ばっか読んでる人のことを『本の虫』っていうらしいよ。どうして虫なんだろうね。不思議だよね」
彼の言葉はよどみない。自分で続きを促した手前、しっかり聞こうと思ったのだが、耳から入ってくる言葉は反対側の耳からそのまますり抜け、頭には留まってくれなかった。
お世話係という言葉を聞くたび、胸のどこかが痛む感覚があった。
嬉しそうに話す彼の口元に目がいってしまう。タ行、ナ行、ラ行の時にちらりとのぞく赤い舌が、やけにくっきりと見える。
眼鏡のブリッジを押し上げるときに見える手は、私のともウタさんのとも違う。節々がごつごつとしていて、血管が浮き出ている。
これがテツさんだからか、他の男性もそうなのかは考えてもわかるはずがない。ただ、彼の言葉ではなく、彼自身に強く惹きつけられている自分の存在をはっきりと認識していた。
本能、という言葉が脳裏をよぎる。
「あれ、シロちゃん? もしもーし」
テツさんの言葉が聞こえ、我に返る。
「あ、ごめんなさい」
「ううん。こっちこそごめんね。俺ばっか喋ってさ。久々に人と会えて楽しくて」
「楽しい? ありがとう」
「やっと笑顔が見られた」
テツさんがにこやかに言う。それを聞いて初めて、自分が笑っていることに気づいた。
「シロちゃんの話も聞かせてよ。まずは名前の話から聞こうかな。それは自分でつけたの? それともウタちゃんにつけてもらった?」
「うん。ウタさんにつけてもらった。それまで名前っていう言葉すら知らなかった」
「あ! 俺も一緒! 俺はね、いろいろ話してるうちにウタちゃんが『なんか哲学っぽいこと言ってるからテツね』ってそんな感じ」
大きな口を開けて、顔全体で笑うようなテツさんを見ていると、私の顔の筋肉も緩んでくる。
「私は、これから学んでいく私にぴったりだから『シロ』って言われたよ。まっさらの白、だって」
「えー、いいなあ。ちゃんとした理由じゃん。さては俺の適当につけたな。一生恨んでやる」
言葉とは反して、穏やかな口調でテツさんは言った。
私の口から空気が漏れる。
「ふふっ。テツさんって面白い」
テツさんは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔和な顔に戻って言った。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
胸の真ん中あたりが、きゅっと縮んだような気がした。
「そういえば、本の話をしたくてこの場をセッティングしてもらったのに、全然話してなかったね。俺が読んだ本の話からしてもいい?」
テツさんは私の返答を待っている。
「どうぞ」
「ありがとう。まず、俺が最初に読んだ一冊目なんだけどね、絵本で……」
私は手元にノートを開いて、ペンを持った。話を聞きながら、興味深いところはメモを取るつもりだった。テツさんの声が心地よく、不思議と気持ちも和いでいくようだった。
《そろそろお食事の時間ですが、いかがされますか?》
声が聞こえた。私たちの会話に遠慮しているような雰囲気があった。
「もうそんな時間か……」
テツさんが伸びをしながら独り言のように呟いた。
「あ、こっちの『声』聞こえた?」
「うん。俺のとこのお世話係と声が違う気がする」
「そうなんだ」
私はそこで言葉を区切って、テツさんを見た。
「どうする? とりあえずご飯にする?」
「また俺ばっかり喋ってしまったな。聞き続けるのも疲れただろ?」
私は手元のノートに視線を落とした。結局、話しているテツさんの姿を見ることに夢中で、会話の内容はほとんど控えていなかった。
「私は聞いてただけだから、全然疲れてないよ。それよりも喋ってたテツさんの方が疲れたでしょ?」
テツさんは柔らかく笑った。
「まあ、ちょっと疲れたかも。じゃあ、また今度ってことで」
「そうだね。それにしても、テツさんは本当に知識が豊富だね。なんでも知ってるんじゃないかって思うくらい」
私はノートを閉じて、机の隅に片付けながら言った。
「いや、そんなことはないよ。知らないことの方が多いと思う。標準的な知識がどれくらいなのかわからないけど、それよりは絶対に少ないよ」
標準的。聞き慣れない単語が聞こえ、私はとっさに辞書を引き寄せた。
標準、よりどころ、平均、普通。普通ってなんだろう。
「君は、勉強が好きなんだね」
辞書のページを見ながら考え込んでいると、テツさんの声が聞こえた。
両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せて、微笑みながら私を見ている。
「い。いや、そんなことないよ。ごめんなさい」
また人前で辞書を引いてしまった。私は恥ずかしくなって俯いた。
「どうして謝るの? 勉強熱心なのはいいことだと思うよ」
「だって、辞書を手に取ったら、ウタさんに笑われて。それで、会話の最中に言葉を調べるのはだめなんだ、と思って……」
テツさんの気持ちを探るように、目を泳がせながら顔を上げる。
「だめじゃない。ウタちゃんがどう思ったかはわからないけど、俺は、シロちゃんの行動をいいなって思ったよ。だから、俺の前では気にしなくていい」
力強い彼の声が、耳から入り、頭の中で言葉の意味を咀嚼する。そのあと、喉を通り、胸のあたりですとん、と落ちたように錯覚した。
「ありがとう。嬉しい」
「うん。やっぱり笑ってるシロちゃんはいいね」
彼がにこりと笑った。
「じゃあ、またね」
彼が手を振る。私も振り返す。
通信が切れた。
《食事の用意をしてもいいですか?》
声が聞こえる。
「あ、うん。よろしく」
私は生返事をする。
彼の最後の言葉が、いつまでも耳の奥に残っていた。