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5.愛、関係

今回はいつもより短いです。

 昼食を終え、トレーを箱の中に戻すと、私は椅子に腰かけ、辞書に手を伸ばした。

 一ページ目から順番に読んでみようと思ったのだ。「あ」だけで何ページもある。読み切れるだろうか。私は一項目ずつ目を通していく。


ああ

あい

……。


 最初は、意味を理解するまでしっかり読み込んでいたものの、ページが進むにつれてどこを読んでいるかわからなくなってきて、まぶたが下に降りてくる。頭の重さで首も下がってくる。

 辞書に頭を突っ込みそうになっては目覚め、再び読み始めるということを何度か繰り返しているうちに、私は完全に意識を手放した。




 目を開けると、いつもより暗かった。重ねた腕の上に、頭を乗せて眠っていたみたいだ。腕とおでこが、じんじんと痺れた感じがしている。

 顔を上げ、まぶしさに顔をしかめる。瞬きを繰り返してようやく明るさに慣れてきた時、辞書が机の上にないことに気がつく。


 立ち上がって周りを見渡すと、床の上に落ちているのを見つけた。寝ている間に押しやったのだろう。

 屈んで辞書を拾う。落ちた衝撃で本は閉じたらしいが、直前に開いていたページの角が、少し折れてしまっている。指を使って伸ばそうとするも、折れ目は取れない。

 ちょうど「あい」のページだった。


 愛。親子や兄弟などが慈しみ合う気持ち。特定の人をいとしく思う気持ち。大切に思う気持ち。


 私は深く息を吐いた。

 愛という感情はわからない。でも、「自分以外の人」に関わる言葉だということはわかる。

 まただ、と思う。

 ウタさんや声との会話の中で理解できずに辞書を引いた言葉たちを思い返してみると、人が関係する言葉が大半を占めていた。

 記憶がないことと何か関係があるのだろうか。

 心拍数が上がってくる。


「ちょっと話を聞いてくれる?」

《どうしましたか?》

 聞こえてきた声は、いつもよりも固いような気がした。

「ウタさんの話について考えてみたくて」

 声は聞こえない。沈黙を肯定と捉えて、話を続けた。

「ウタさんは、他にも人がいるって言ってた。でも、みんな自分の『名前』を知らないんだって。名前は人と自分を区別するための言葉のこと。それって、さ」


 一旦言葉を切る。

 いつの間にか口内が乾いていた。舌で唇をなめる。心拍数が更に上がっていくのを感じる。

「人と自分を区別する必要がないからだよね。ウタさんも、私と同じように一人で過ごしてるみたいだった」

 私はイスに座った。手に持っていた辞書を机上に置く。

「でも、会話の中で出てくる言葉は、人に関わる言葉ばかり。私はウタさんに会って、辞書を引いて、やっと自分の感情を理解した。たった一人では自分の感情もわからないのに、辞書にはどうしてこんなにたくさん、感情を表す言葉があるの?」

 無意識に天井を見上げる。

《なぜだと思いますか?》

「かつて、人と人は、関わり合って生きていたと思う。それも、こんな風に、一人ひとり違う場所にいるんじゃなく、同じ空間で顔を合わせて生きていたんじゃないかな」

 さっき頭の中で見た、少女と女性を思い返しながら話した。

《なるほど》

 続く声は聞こえない。


「どう思う?」

 否定でもいいから、反応がほしかった。

「私の話が間違っていたとしたら、遠慮しなくていい。間違いを指摘してほしい。もしあなたが答えを持っていないのであれば、あなたの考えを聞かせてほしい」

《感情は、言語化されて初めて自覚できるものだと思っています》

 今までの話とつながっているように思えないが、頷いて続きを促す。

《だから、もっと言葉を勉強してみたらどうでしょうか。人のことも、自分のことも、わかるようになるかもしれませんよ》

「私の話とどう関係するの?」

《ウタさんと会ってみて、どのような感情を抱きましたか?》

「……それも何か関係があるの?」

《感情を言語化してみてください。自分の気持ちが整理されますよ》

 質問をうまくかわされているように感じた。渋々答える。

「話すと楽しい。でも苦しい。ウタさんと比べて、私のだめなところをたくさん意識してしまった。比べるのは、苦しい」


 突然、カタンという音が聞こえた。箱の方向からだ。視線を向けると、箱が昇っていくのが見えた。

《辞書よりも効率的に言葉を学べる。そんな物をお届けいたします》

「えっ、なんだろう」

 いつもよりも高くて大きい声が出た。楽しみな気持ちが声に表れてしまったようで、少し恥ずかしい。

《本です》

 声が答えを教えてくれた。

「本?」

 聞き覚えのある単語だと思った。ふと視界に辞書が映る。これが届いた時に、唐突に閃いた言葉だと思い出す。


 ピーと箱が音を立て、私はボタンを押して扉を開いた。

 横向きに積み重ねられた、様々な厚さ、大きさの本。

 私は一番上の本を取り出して眺めた。手のひらより少し大きいくらいで、人差し指と親指でつまめるくらいの厚みだった。

《それは文庫本です。まずは絵本、一番下の、絵が書いてある薄い本から読むといいですよ》

 私は持っている「文庫本」を元の場所に戻し、一番下の「絵本」を持って、全てを箱から引き出した。そのまま歩いて、机の上に並べてみる。

 表紙を左から順番に見ていく。文字だけのもの。たくさんの色が使われているもの。女の子らしき絵が描かれたもの。人ではない動物が描かれたもの。合計四冊。

 厚みも大きさも、全てバラバラだった。

《今回お渡ししたのは、全て小説や絵本などの物語です。つまり、現実とは異なるものですが、感情や言葉を覚えるには最適だと思っています。わからない単語があったら、辞書を引きながら読むといいですよ》

「わかった」

 私は右端の「絵本」を手に取り、めくってみた。絵がページ全体にあり、文字が少ない。これならすぐに読めそうな気がした。

《ところで》

 絵本を読み始めようとしていた私は首を傾げた。

《そろそろおなかがすきませんか?》

 声に反応するかのように、私の腹が音を立てた。

《かしこまりました。すぐにご用意いたします》

 声は笑い交じりだ。

「まだ私は答えてないんだけど!」

 不快を訴えるために語気を強くしてみたが、声は聞こえない。私の声は届かなかったかもしれない。

「もう!」

 私は腹を軽く叩いた。

「どうしていつもお前は。いや、これも私か……」

 ぐう、と再び音が鳴った。その通りだとでも言ったつもり《ところで》

 絵本を読み始めようとしていた私は首を傾げた。

《そろそろおなかがすきませんか?》

 声に反応するかのように、私の腹が音を立てた。

《かしこまりました。すぐにご用意いたします》

 声は笑い交じりだ。

「まだ私は答えてないんだけど!」

 不快を訴えるために語気を強めてみたが、声は聞こえない。私の声は届かなかったかもしれない。

「もう!」

 私は腹を軽く叩いた。

「どうしていつもお前は。いや、これも私か……」

 ぐう、と再び音が鳴った。その通りだとでも言ったつもりか。

「もう……」

 私は本を机の端に積み重ね、空いたスペースに突っ伏した。

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