4.記憶、忘却
テーブルがある場所に戻り、私はイスに腰掛けた。テーブルの上に乗っている辞書を見つめる。
昨日からいろいろあった。大きく息を吸って、それを全て吐き出してから、私は口を開いた。息を吸い込んで話し始める。
「あなたは私のことを『記憶力が良い』と言ってくれたけど、多分私はここに来る前の記憶がないし、せっかく覚えたことも、しばらくしたら忘れてしまいそうな気がする。それは困るし残念だと思う。それに、感情も、スキンケアのことも、自分とは何かという問いも、全部忘れてしまったとしたら、またあなたやウタさんに教えてもらわないといけない。それは、なんというか、ごめんなさいって思う」
《あなたのサポートが仕事ですから、申し訳なく思う必要はありません。遠慮なく頼ってください》
反射的に辞書に伸ばしかけた手を止めて、私は目を泳がせた。目だけで上を見る。
《会話の途中でもどうぞ調べてください。気にしませんから》
「ありがとう」
私は急いで辞書をめくった。今聞いた言葉たちを忘れないうちに記憶に留めておきたかった。
サポート、仕事、申し訳ない、遠慮、頼る、気にしない。
そこまで調べると辞書を閉じて、両腕を上に突き上げた。なんとなくとった行動だったが、肩まわりの筋肉が伸びて気持ち良かった。
《先ほどの続きですが、ウタさんも私と同じ気持ちだと思いますよ》
「え? なんだっけ?」
私は目を瞬く。
《同じ話を聞くのは申し訳ないっておっしゃってたじゃないですか》
「あー、その話ね。思い出した。……やっぱり私の記憶は、時間が経つとなくなっちゃうのかな」
私は全ての記憶を失った時のことを想像して、身震いした。
《そんなに、嫌ですか? 記憶を失うことが》
声はゆっくりと、文節ごとに区切って話す。その様子を私が最近覚えた言葉で表すならば、「困る」や「戸惑い」や「遠慮」あたりか。消極的な感じを受ける。
「嫌だよ。だって、今まで費やした時間が、なかったことになるってことでしょ? それは……うーん、えーと。なんて言ったら一番しっくりくるんだろう」
私が首を捻っていると、声が助けてくれる。
《もったいない、でしょうか?》
「それだ!」
思いがけず大きな声が出て、驚いた。咳払いを一つして、また口を開く。
「今まで費やした時間がもったいない、って思う。だから、これ以上何かを忘れたくない。せめて、言葉を知り始めた時点からのことは、忘れたくないの」
《そう、ですか》
黙って続きを待ったが、何も聞こえてこない。次に何を言うべきか考え込んでいるのか、はたまた話す気がないのか。
私は辞書に視線をやる。「あ」から順番に読んでいったらどれくらい時間がかかるのだろうと、ぼんやり考えていた。
辞書を開きかけた時、声が聞こえた。
《言葉を知らなければ、記憶がなければ、一生あんなことで悩まなくて済むのに?》
「え?」
私は疑問を口にする。
「あんなこと、って何?」
《忘れておいた方が良いこともありますよ》
「どうしてそんなこと言うの?」
《また苦しむことになっても、忘れたくないって思えますか?》
「え、どういうこと?」
私の問いには一切答えず、声は続ける。
《あなたは記憶力が良いのですから、心配です》
「あなたは、私の何を知っているの……?」
頭の方から足の方へ、血が下がってくるのを感じる。
「そういえば前も言ってたよね。言葉を知って、知識が増えれば、見えることも考えることも増えて、苦しくなるけどそれでもいいか、みたいなこと。私の記憶を、過去を、もしかして知っているの? 私が記憶を取り戻したら、何か悪いことが起こるの?」
自分で話しているはずなのに、まるで他人の話を聞いているような気分だった。耳から入ってくる私の声は震えていた。
「怖いよ……」
《そんな気持ちにさせるつもりはありませんでした。申し訳ありません。どうもあなた相手だと喋りすぎてしまうようです》
一瞬の空白があり、声は続けた。
《これだけは言っておきます。私はあなたの味方であり、サポート役です。あなたの要望を優先します》
「それって」
私はいつの間にか溜まっていた唾を飲み込んだ。
「忘れたくない、っていう私の気持ちを大事にしてくれるっていうこと?」
《はい、そうです》
「あんなに止めてたのに?」
《止めていたわけではありません。ただ、覚悟を問いたくて》
辞書を手繰り寄せる。
覚悟。危険なことや困難なことを予想して、それを受け止める心構えをすること。
調べている間も、声は話をやめなかった。
《傷ついたあなたを見るのはつらいので、なるべく良い方向に導いてあげたいという思いで。……いえ、ただのエゴですよね。ともかく、あなたの望みを叶えます》
「どうやって?」
《メモしておけば良いのです。少々お待ちください》
今日四度目の箱の上昇を見送る。今度は一体何が来るのだろうか。
私は壁際に移動して、箱の到着を待った。
甲高い音が鳴り終わる前に私はボタンを押した。
中に入っていたのは、本のような薄い物と、棒だった。棒を取り出してしげしげと眺める。
《これはノートとペンです。本の方がノート、棒状の物がペンです。ペンは上を押せば芯が出てきて書けるようになります。ノートに気になったことや調べたことなどを書き留めておけば、あとで読み返すことができます》
「なるほど。自分が書いたものを読んで、また思い出すことができるということね」
《そういうことです》
私はノートとペンを持って、テーブルの上に置いた。再びイスに腰掛ける。
ノートの表紙を開く。何も書かれていない真っ白なページが現れる。
不思議と初めてのような気がしなかった。何十回、何百回、数えきれないくらいやったことがあるような気がする。
その時、脳内で映像が見えた。
***
六才くらいの少女が、一人で机に向かってノートを広げ、何かを書いている。
物音が聞こえ、少女は慌てて立ち上がり、駆け出した。
「おかあさん。行っちゃうの?」
少女が髪の長い女性に向かって言う。ドアから出て行こうとする女性のスカートをきゅっと握りしめて、上目遣いで見つめている。
「うるさい。触らないで」
女性が少女の手を叩いた。少女は反射的に手を離す。
女性は何も言わず、前を向いたまま出て行ってしまう。
少女は、唇を真一文字に結んで、必死に泣くのをこらえている。
***
《どうかされましたか?》
「ううん。ただ、お腹すいたなあと思っただけ」
私はとっさに、今のことは口に出さない方がいいと判断した。また心配されたくなかったし、私の望みも叶えてもらえなくなるような気がしたのだ。
《そういえばそろそろ昼食の時間ですね。ご用意しますので、しばらくお待ちください》
私はペンを手に取り、ノートに視線を落とした。
忘れたくないことを書けばいいと言われたものの、何を書くべきか迷っていた。
とりあえず最初のページに「目を覚ましてからどれくらい経ったのだろう」と書いてみる。そして、昨日あったことを思い返す。
朝:サンドイッチ、牛乳
昼:オムライス、サラダ、わかめスープ
国語辞典
記憶がないと気づく
懐かしい気持ち、映像が見えた
これらが忘れたくないことなのかはわからないが、記録としては十分だと思った。読み返して意味がわからなければ辞書を引けばいいのだ。
次のページに今日の出来事を書き出す。
朝:トースト、牛乳、目玉焼き
ウタさんと会う
シロという名前をもらう
鏡
スキンケア
自分とは何か、一生かけて考えること
ノートとペンをもらう
ここまで書いたところで声が聞こえた。
《昼食の準備が整いました。一旦休憩されてはいかがですか?》
「ありがとう。今ちょうど終わったところ。昼の食事は何?」
私は立ち上がり、箱の方に移動した。
《親子丼と味噌汁です》
「えー、どんな物が来るのかさっぱり想像できないな」
《どうぞ、お楽しみください》
明るい声が聞こえた。もし声に顔があるなら、笑っているのだろうと思える声だ。
そういえば、最近は食事を味わっていなかった気がする。他のことを忘れて、楽しんで食事するのも悪くない。
私はボタンを押して、箱の中に充満する湯気を吸い込んだ。
なんだか、懐かしいような匂いがした。