3.ウタ、自分
食事を済ませて、少し落ち着いた頃、白い壁に四角い画面が映し出された。
中にいる人物が手を振っている。髪の毛は長いようだが、身体が胸のあたりまでしか映っていないので、全体の長さはわからない。私と同じく、イスに座っているのだろう。前髪は目の上できれいに切りそろえられていて、後ろ髪もすとんと真っすぐに下りていた。画面越しでも艶があることがわかる黒髪だ。私はそっと、自分のうねりのある髪を触った。
「こんにちは」
いつも聞いている声よりも高い声。
ぎこちなく手を振り返してみる。
「今回は女の子なのね」
「今回?」
私が聞き返すと、彼女は左側の髪の毛をかきあげて耳にかけた。
「他人に興味を持った子はみんな、私と最初に会うのよ。そうしてもらえるようにお願いしてるから」
「他人に興味ってどういうこと? みんなって何? お願いって? 誰に?」
私は前のめりになる。彼女は口元に手を当てて笑った。
「ふふ。一度には答えられないから順番ね。まず、『他人に興味を持つ』っていうのはね、自分以外の人について知りたい、人と喋りたいって思うこと。あなたもそうだったから私と会っているんでしょう?」
「はい」
声とのやりとりを思い返しながら答えると、彼女は再び口を開いた。
「次に、『みんな』っていうのは、ここにいる全ての人っていう意味よ。つまり、他にも人がいるっていうこと」
「そうなんですか……」
「どうしたの? 残念そうね」
「残念?」
机上の辞書を手繰り寄せると、彼女はくすりと笑った。
「勉強熱心だこと」
恥ずかしさを覚えて両手を膝の上に戻す。
「あら、調べないの?」
私は無言で頷いた。
「そう。……さっきの話だけれど、私達以外に人がいたら困ることでもあった?」
「よくわからないです。今まで、私以外にも人がいるとか考えたことなかったので」
「戸惑っているってことね」
「多分」
私は辞書を引きたいのをぐっとこらえて答えた。また笑われたくはない。彼女がコップに入った水を飲む。
「最後に、誰にお願いしたのかっていう質問の答えだけれど、それはね、お世話係によ」
「お世話係?」
彼女の言葉をそのまま繰り返す。
「あなたのところにもいるでしょ? 話しかけたら答えてくれる人。声が聞こえない?」
「聞こえます」
「その人のことを私は『お世話係』って呼んでるの。ご飯とか着替えとかそのほか必要な物を私たちに届けてくれたり、物の使い方を教えてくれたり、いろんなお願いを聞いてくれたりするでしょう?」
「確かにそうですね」
「あと、この部屋、温度が一定に保たれているでしょ? そういうこともやってくれているのよ」
そう言われて初めて気づいた。この場所で目を覚ましてから、暑いとか寒いとか思ったことがない。
「あなたはなんでも知っているんですね」
私が言うと、彼女の鼻の穴が膨らんだ。
「そうね。私、ここに来て結構長いから。わからないことがあったらなんでも聞いてちょうだい」
「ありがとうございます」
「そういえば、まだ自己紹介がまだだったわね。私はウタよ。あなたは?」
「え?」
何を聞かれたのかわからず、答えられずにいると、彼女が再び口を開いた。
「あなたのお名前は?」
「おなまえ……?」
「やっぱり、みんな知らないのね。名前っていうのは、自分のことを呼ぶ言葉のことよ。人と自分を区別するために必要なの」
「人と自分を区別するため?」
私は瞬きを繰り返した。
「そう。今は二人だから『私とあなた』で済むけど、三人以上になったら難しいでしょ?」
「なるほど」
「私、歌うのが好きだから、ウタって名乗ってるの。あなたの好きなものは?」
「す、き?」
首を傾げる。
「それもわからないのね。じゃあいいわ、私が付けてあげる」
そう言うと彼女は腕を組んで黙った。目を閉じているのを確認して、私は辞書を膝の上に乗せた。引きたい言葉はたくさんある。
残念、困る、戸惑う、世話、名前、自分、歌う、好き。
テーブルの下で「さ」のページを開こうとした瞬間、彼女が声を上げた。
「思いついた。あなたは今日からシロよ」
視線をさりげなく手元から彼女に戻す。
「どういう意味なんですか?」
「さすがに色の白は知っているわよね? 食パンとか牛乳とかの色よ」
私は縦に首を振った。
「良かったわ。白はね、まっさらっていう意味もあるの。これからいろいろなことを覚えていくあなたにぴったりじゃない?」
彼女の声が弾んでいる。
「わかりました。ウタさんありがとうございます」
私が言うと彼女は深く頷いた。
「よろしくね、シロ」
「はい」
「私、このあと別の人と約束してるから、今日はここまでにしましょう。またお話ししましょうね」
彼女が笑顔で手を振った。
「はい」
私も小さく振り返す。すると、壁に映し出された四角い画面がすっと消えた。
《どうでしたか?》
タイミングを見計らったかのように声が聞こえる。
「うーん。まだ言葉がわかんないから、会話が難しい」
《そうですか》
「調べたい言葉を忘れそうだから、先に辞書を引いてもいい?」
《どうぞ》
声がしなくなる。彼女と話している時には気づかなかった、ごうという音が聞こえる。これのおかげで温度が一定に保たれているのだ、と私は思い出した。
残念、困る、戸惑う、世話、名前、自分、歌う、好き、色、白、まっさら、約束。
一つずつ辞書で調べていく。
調べていくうちに、いろいろな思いが湧いてくる。
彼女の髪はまっすぐできれいだったな。私の髪の毛はくるくるだし、指も通らない。おそらく、彼女の髪に指を入れたら、どこにも引っかかることなく毛先までたどり着くのだろう。
彼女はいろんなことを知っていたな。「ここに来て長い」と言っていたけれど、どのくらいいるのだろうか。そして、ここに「来る」前はどこにいたのだろうか。
このあと、彼女は誰と会うのだろうか。その人とはどんな会話をするのだろう。
シロっていう名前は、どういう思いで付けてくれたのだろう。
……自分、って何なんだろう。
私は右手で顔の輪郭をなぞった。眉、まぶた、鼻、口、耳。触って確かめてみる。おそらく彼女のと同じ場所に同じパーツが付いている。
《どうかされましたか?》
私の行動を見ていたのか、声が尋ねてくる。
「ウタさんの顔は見ることができたけど、私の顔は見えなかったから。私はどんな顔なのかなと思って」
《……見てみたいですか?》
少しの間を置いたあと、質問が返ってきた。
「できるの?」
《お望みであれば》
「じゃあ、お願い」
《かしこまりました。少々お待ちください》
箱が上昇していくのを見送る。今日は早くも三回目だ。今まで意識していなかったが、短時間にこんなに物が来るのは初めてだと思う。
箱はすぐに降りてきて、ピーという音を立てた。
箱の中をのぞく。私の手のひらくらいの大きさの、四角く平べったい白い物が置いてあった。手に取ってよく見ると、二枚の板が重なっており、一辺が金具で留められている。
「これは?」
《鏡です。開いてみてください》
声の指示通り、恐る恐る開いてみる。突如現れた人の顔にぎょっとして、「鏡」を取り落としそうになる。
「これは、何? この奥にいるの?」
しかも私の口の動きに合わせて「それ」の口も動いている。とても不気味だった。
《それは、あなた自身です》
声の回答に、私の口が開いたまま塞がらなくなった。
「これが私……?」
まじまじと鏡を見る。
髪の毛はうねうねと不規則に曲がり、絡まり合い、肩の下まで伸びている。目の下が黒い。眉はぼさぼさで、顔全体に産毛が生えている。肌には凹凸があり、所々に赤い出来物がある。目、鼻、口、耳も彼女とは形が違っていた。
「ウタさんにはこんな感じに見えていたの……? 恥ずかしい」
私は鏡を閉じて、目を背けた。
《画面越しではそんなに細かくは見えませんから、ご安心ください》
「でも、私からウタさんの髪の毛と顔は見えた。ということは、あちらからもそのくらいは見えているってことでしょう?」
《まあ、そうなりますね》
彼女の顔を思い返してみる。黒目がちの瞳。長い睫毛。つんと立っている鼻。小さくこぢんまりとした可愛らしい唇。全てが私と正反対だった。
「どうしたらいい? どうしたら恥ずかしくなくなるかな?」
《……そうですね。お目覚めになってから今まで、スキンケアをしてこられなかったようなので、そちらをなされば今よりはいい状態になるのではないでしょうか》
「すき……?」
《ス、キ、ン、ケ、アです》
丁寧に一音ずつ区切って発音してくれる。
「何をしたらいいの?」
《まず、ユニットバスに向かってください》
言われた通りに、ユニットバスに通じるドアを開けた。
《そうしたら、洗面台の戸棚を開けてください》
トイレとバスタブの間にある、洗面台の上の扉に手をかける。
「ここ、初めて開けた……」
《では、それぞれについて説明いたします》
「お願いします」
私が言うと、声がそれぞれの名前と使い方を細かく教えてくれた。戸棚にはシャンプー、リンス、せっけん、洗顔フォーム、ドライヤー、化粧水、乳液、ヘアブラシ、かみそりがあることがわかった。
今まで私は、髪の毛も顔も体もシャワーのお湯で洗い流すだけで、その他の手入れは全然していなかった。
「ウタさんはこういう『スキンケア』をきちんとしているっていうことなんだよね」
《そうですね。あとお化粧もしていらっしゃいますが、それについては私よりもウタさんの方が詳しいと思いますので、今度お話しする時にでも尋ねてみてはいかがでしょうか》
「……わかった」
本当は「おけしょう」とはどんなものなのか聞きたかったが、あとで辞書で引けばいいと思い直して、言葉は飲み込んだ。
「これで私も大丈夫になるかな」
《先ほども気になりましたが、それはどういうことですか?》
不思議そうな声がする。
「私は、言葉も知らないし、何もしてこなかったし、ウタさんと比べて劣っているように思う。スキンケアをすれば、少しはましになるのかな」
胸のあたりが苦しくなり、目を伏せる。
《あなたはあなたですから。人と比べなくてよろしいのですよ》
いつにも増して穏やかな口調だった。
「私は、私……?」
もう一度鏡で自分の顔を見る。鏡の中の私は、うつろな目で私を見返してくる。
「私って、何? 鏡の中の私も私? どこからどこまでが自分? ねえ、自分ってなんなの?」
なぜか涙があふれてくる。体の中心から何かが迫り上がってきて、頭が急激に熱くなる。何かが喉元で爆発したような感覚があり、私は大声を出した。
「黙ってないでなんか言ってよ。本当はあなただって私のことを馬鹿にしてるんでしょ!」
《何言ってるんですか。そんなわけありません。落ち着いてください》
私は肩で息をしながら鼻水をすすった。
《一生懸命生きている人を、馬鹿になんてするわけないじゃないですか……》
もし考えごとをしていたら気がつかなかったような、小さな声。私が話し始めるのを待たずに、次の言葉を続ける。
《自分って何、という問いは難しくて、今すぐには答えられません。私もそれを考えながら生きてきて、未だに答えが見つかっていないからです》
ゆっくりと語りかける口調だ。私は手の甲で涙を拭って、声に耳を傾ける。
《性別、名前、肩書き、性格。それらを表すいろんな言葉を使っても、自分をつかめそうでつかめない。どんなに言葉を尽くしても、自分を表すことができない気がします。逆に、たくさんの言葉の中から、自分に合わない言葉を削っていっても、私を定義するにはしっくりきません。きっと一生かけて考えないといけないことなんだと思います》
こんなに長く話す声を聞いたのは初めてだった。言葉の意味を理解しようとしていると、突然《あ!》と大きい声が聞こえる。
《申し訳ありません。また喋りすぎてしまいました。大変後悔しております》
私は思わず吹き出した。いつの間にか、涙は止まっていた。
「大丈夫、私は後悔してないから」
鏡を見なくても、自然に笑えていることがわかる。
「ありがとう。私も自分で考えてみる」
《恐縮です。そして、できれば今のことは忘れていただけると助かります……》
「それは、できるかわかんない」
私は口を思いっきり横に広げ、笑ってみせた。
《はは……あなたは記憶力が良いですからね……》
力ない声が面白くて、私は大声で笑った。