2.恥、後悔
私はぼんやりと目を開けた。いつもと同じ、真っ白な天井が見える。どれくらい経ったのだろうか。ここは常に明るいから、よくわからない。
ベッドから体を起こすと、声が聞こえた。
《ゆっくり休めましたか?》
目をこすりながら答える。
「うん。どのくらい寝ていたの?」
《お食事一回分抜かすくらいです》
「そう。結構寝ていたんだね」
《お食事はどうなさいますか?》
私が口を開くよりも先に、おなかの音が鳴る。
《ふふっ》
息が漏れる音が聞こえる。
「……ちょうだい」
顔にほてりを感じた。
《かしこまりました》
声はこの言葉のあとに続ける。
《恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ。生理現象ですからね》
恥ずかしい?
顔が熱い。心臓がどきどきしていて、汗もかいてきた。
あ、もしかしてこれが恥ずかしいということなのか。
私はテーブルに駆け寄る。辞書を手に取り、本を立てた。
あかさたなは。右から六つ目の四角の右寄りの部分に指をかけ、開く。「は」のページだ。次は、さしす……。指でたどりながら目的の語を探す。
「あった!」
初めて見たはずの辞書を、誰にも教えられずに引くことができた。
私は何者なのだろうと少し怖くなる。
「欠点、過失などを自覚して体裁悪く感じるさま。他人に顔向けできない気持ち。人前でどう振舞っていいかわからない気持ち」
辞書に書いてある文字を読み上げる。
欠点、他人、人前。
そうだ。私はかつて、恥ずかしい気持ちも味わったことがある。
かつて。それはいつ?
私は頭を押さえる。痛い。
《大丈夫ですか?》
また心配されている。
「何かを、思い出しそうで……」
《そうですか。一旦辞めますか?》
「何を?」
私は顔を上げた。そこにいるわけではないのに、なんとなく天井を見上げる。
《言葉の勉強ですよ》
「辞めることもできるの?」
《はい。あなたが望むのなら、リセットすることも可能です》
「リセット?」
そう言った瞬間、箱が音を立てた。
《ほら、食事が来ましたよ》
声が私を促す。先ほどの会話をはぐらかされたように感じる。
私は重い足取りで箱に向かい、中からトレーを出した。
中に入っていたのは、トーストと牛乳と、今まで見たことのない物だった。白く平たい物の真ん中に黄色い丸い何かが乗っている。
「この白と黄色のものは何?」
テーブルにトレーを運びながら尋ねた。
《目玉焼きです》
「何でできてるの?」
《卵です。割ってそのまま焼くとそうなるんです。昨日の昼に召し上がったオムライスと同じ卵です》
昨日の昼。その言葉に引っ掛かりを覚える。
「昨日、昼。……時間」
どうして今まで忘れていたのだろう。私は、時間と共に生きてきたのに。
テーブルにトレーを置き、イスに腰掛けた。
「オムライスが昨日の昼ってことは、私が食べなかったのは夜で、今は朝ってことだよね?」
《そうです》
声が曇ったような気がする。
「じゃあ、今は何時なの?」
返事を待つが、ごうという低い音がかすかに聞こえるばかりだ。
「私がここで目を覚ましてから何日経ったの?」
しばらくして、諦めたような声が聞こえる。
《申し訳ありません》
「どうして謝るの?」
《お答えできません。私は喋りすぎてしまいました》
声が「私」と言うのは初めて聞いた。なぜだか少し心臓の音が早くなる。
「謝る必要はないよ。濁されると気になるけど、事情があるんでしょう? 私は私の希望通り、たくさんの言葉を覚えているのだから気にすることない」
自分の心臓の音をかき消すかのように、私は喋りつづける。
「ううん、覚えているというか、思い出してきたという方が正しいかな」
少し間があり、声が聞こえた。
《後悔していませんか?》
「後悔?」
言葉を聞き返して、辞書を引く。
後悔。してしまったことを、あとになって失敗だったとくやむこと。
声は聞こえない。私が話し始めるのを待っているように感じた。「後悔」という言葉を人差し指でなぞる。
「まだよくわからない」
《そう、ですよね》
歯切れが悪かった。
「あなたは?」
だから思わず聞いてしまった。
《え? 何がですか?》
声が上ずっている。こんな声は初めて聞いた気がした。
「後悔してる? 私に辞書をくれたこと」
沈黙。返答を考えているのだろうと私は思う。
水滴がついたグラスを手に取り、牛乳を口に含んだ。少し甘い。
目玉焼きの真ん中、黄色い部分に箸を刺してみる。一瞬抵抗を感じたが、そのまま力を入れると、間もなくプツンという感触があり、鮮やかな黄色い液体が流れ出した。粘り気のある液体が、白い部分を汚していく。
私は食べることはせずに、その様子をじっと見つめていた。
黄色い液体が皿まで到達したのを眺めながらトーストをかじっていると、ようやく声が聞こえた。
《後悔、していないと言ったら嘘になります》
消え入りそうな声で言う。
「何その言い方」
私の口から空気が漏れる。腹の底から何かが湧き上がってくるような感覚があり、腹筋が痙攣する。顔の筋肉が緩む。
「ふふ、はははははは」
気がつくと私は、大声を出していた。
おなかが痛い。涙も出てくる。
《どうしたんですか。どうしてそんなに笑うんですか?》
「わからないけど、可笑しいの」
私は生まれて初めて笑った。目頭に溜まった涙を指で拭う。
「後悔、しなくて大丈夫だよ。私は後悔してないから」
天井を見上げる。
「あなたと話すのがこんなに楽しいなんて、知らなかった。言葉を知ると、感情もわかるようになるんだね。私のも、あなたのも」
声は聞こえない。でも、私の言葉はきちんと届いているような気がした。
「ありがとう」
するりと口から滑り出た。調べずともわかる。感謝の言葉だ。これを言うのも生まれて初めてだ。体の熱が上がるのを感じる。頬に手を当てる。やはりいつもよりも熱い。
《こちらこそ、ありがとうございます》
声が答えてくれる。ますます私の体は熱を帯びる。
「恥ずかしい……」
今の感情を言葉にしてみる。でも、先ほどの「恥ずかしい」とは少し違う。お腹の音を「笑われた」時は不快な感じだったが、今回のはむしろ快に近い。
なんとなくこのことを知られたくなくて、私はトーストを目玉焼きに擦りつけた。黄色い液がパンに染み込む。そのまま口に運ぶ。
湿り気を帯びたトーストは、咀嚼しやすい。牛乳を飲む。ぬるい。先ほどよりも甘くなっているような気がした。
私は思いついたことを呟いた。
「あなたの表情も見られたらいいのに」
《申し訳ありません。それはできません》
感情のこもらない声。慌てて自分の口に手を当てる。体がかっと熱くなる。
「そうだよね。ごめんなさい」
のどが渇いて、私は再び牛乳を飲む。甘みで口内がべたつく。それを無理やり飲み込んだ。
「あなたと話せるのが嬉しくて、口が滑ってしまったの。そんなの無理だよね。だって、あなたは《声》なんだから」
太腿の上に置いた左手を見る。軽く握った手は少し震えている。鼻の奥がツンとして、目の方に何かが上がっていく感覚がある。それを抑えるために拳を強く握り直した。
この感情を何というのだろうか。辞書はあっても言葉がわからなければ調べようがない。
手のひらに爪が食い込むほど握りしめるが、上がってくるものはこらえきれなかった。目頭から温かい液体が滑り落ちる。
「あ、ごめんなさい」
反射的に謝ってしまう。
カタンと音がして、箱が昇り始めた。私は驚いて顔を上げた。その動きを目で追う。少しすると箱が下がってくる。何が来たのか確かめるために、私はゆっくり立ち上がった。
箱の前に立ち、ボタンを押す。扉が開く。四角く畳まれた一枚の布が入っていた。それを取り出し、手で広げてみる。私の顔がすっぽりおさまるくらいの大きさだ。
《ハンカチです。涙を拭くのにお使いください》
涙。そうか、この目からあふれる液体は涙というのだった。
「ありがとう」
私はハンカチを顔に当てて答えた。いつも通り発声したつもりなのに、声が震える。
わずかな間のあと、声が聞こえた。
《会ってみますか?》
私は動きを止めた。今聞こえた声を反芻する。
会ってみる? それは直接話ができるということなのか?
ハンカチを下ろし、天井を見上げる。
「会えるの?」
《直接対面することはできませんし、私ではないですが、それでもよろしければ》
「会いたい」
考える間もなく答えていた。ハンカチが床の上にひらりと落ちた。