1.白、世界
角に置かれたベッド。向かいの角にはユニットバスがある小部屋。全体の真ん中にある小さなテーブルとイス。そしてベッドとユニットバスとは逆側の壁にはめこまれた、不思議な箱。
全てが真っ白なこの場所が、私の世界の全てだ。
私は生まれた時から、ずっと一人だった。
いや。「生まれた時から」というのは間違っているかもしれない。この場所で目を覚ます前、自分がどう過ごしていたのか知らない。でも、服の脱ぎ着はできたし、トイレで排泄することも、バスタブでシャワーを浴びることもできた。
この場所にある物の呼び方は知らずとも、使い方は知っていた。これが本能というものなのか。
確かなのは、目を覚ました時にはこの場所にいたという事実だけ。だから、「生まれた時からずっと一人だった」と思うことにしている。
「お腹空いた」
《お食事になさいますか?》
どこからともなく声がする。耳元で聞こえるというよりは、この空間そのものが響いているような感じだ。男とも女とも判別できない声。初めて聞いた時には驚いたが、今ではすっかり慣れてしまっている。
「うん。そうして」
《かしこまりました。少々お待ちくださいませ》
声が答えると、壁の中にある箱が昇っていった。幅は肩幅くらい、高さはへそから肩くらいという小さな箱だ。正面には真ん中から左右に分かれる扉があり、箱の横にあるボタンを押すと、開くようになっていた。
目を覚ましたばかりの時に、ここから着替えやタオルが出てきたことに驚いていると、声が《これはエレベーターというものです》と教えてくれた。仕組みはわからないが、物を上下に運搬するための機械らしい。
程なくして、箱がピーと甲高い音を立てる。食べ物を乗せて降りてきたのだ。ボタンを押し、食べ物が乗ったトレーをつかんで引き寄せると、湯気がふわりと漂う。
今日は黄色い丸い何かと、様々な種類の葉っぱ、緑の何かが浮いた薄茶色の液体のようだ。黄色い丸い何かの上には、赤いどろりとした物がかけられていた。
トレーを落とさないように慎重に持ち、方向転換をした。小さなテーブルへと少しずつ近づく。その度に液体の表面が揺れ、それを見ながらゆっくり歩いた。
五歩くらい歩いたところでテーブルにたどり着く。トレーをテーブルに乗せると、ふうっと深く息を吐いた。今まで息を止めていたことに気がつく。
イスに腰掛け、トレーに乗っていたスプーンを手に取る。そして、トレーの上を眺める。
「今日の食べ物を教えて」
《本日のメニューは、オムライス、サラダ、わかめスープです》
「ふーん」
一番大きな皿に乗っている黄色い塊をスプーンでつついた。
「これが『オムライス』?」
《そうです》
「サラダは知ってる。でも、前に見たサラダと違うね。前のは『ポテトサラダ』だっけ?」
《そうですね》
「どちらもサラダなの?」
《はい》
「こんなに見た目が違うのに?」
《はい》
「ふーん、不思議。で、この液体は何だっけ?」
《わかめスープです。緑のが『わかめ』で、味のついた液体のことを『スープ』と呼びます》
「わかめが入ったスープってことね」
《その通りです》
「へえ。私の知らないことばかり」
《そうですか》
「どうしてあなたはそんなに言葉を知っているの?」
《さあ、どうしてでしょうね》
「私もいろんな言葉を知りたいな」
返事はない。聞こえなかったのだろうか。
オムライスにスプーンを差し込む。黄色い食べ物だと思っていたのに、中から赤い粒々が姿を現し、思わず手を止めた。
「これは何?」
《オムライスです》
この問いに対しては即答だった。
「それはさっき聞いた。この黄色いのと赤いのの正体を聞きたいの」
《外側は、卵を薄く焼いたものです。中はケチャップライス。ご飯をケチャップで炒めたものです。ちなみに卵の上にかかっているソースもケチャップです》
「……あなたが言っていることはさっぱりわからない」
《そうですか。申し訳ありません》
「やっぱりもっといろんな言葉を知りたい」
再び沈黙。この要望に応える気がないということなのか。
「言葉だけじゃない。いろんなことを知りたい。あなたともっと話したい。でも、今私が知っている言葉だけではあなたとうまく話せない。だからもっと言葉を教えてほしい」
《どうして?》
言葉を重ねると、ようやく返事があった。
「何が?」
《どうして、話したいと思うのですか?》
「それは……」
つま先に目をやる。靴下の上の方が少し余っているのが見える。大きさが合わないのかもしれない。
「よくわからない。でも、あなたの言葉が理解できないのは、嫌なの」
《そう、ですか》
次の声が聞こえるまで黙っている。待っていると、再び声が聞こえた。
《言葉を知ることで、今まで見えなかったことが見えてきて、苦しくなったとしても、知りたいと思いますか?》
「……今あなたが何を言っているのか、理解できない。もちろん、言葉は聞き取れるし、それぞれの言葉の意味も大体知っている。でも、全然わからない。この状態が、嫌なの」
《知識が増えれば、その分考えることが増えます。それでもいいですか?》
おそらく、易しく言い換えてくれたのだと思う。だが、私はまだ理解できていなかった。
でも、この機会を逃したら教えてくれない。直観めいたものがあり、大きく縦に首を振った。
「いい。教えてほしい」
《……わかりました》
声が答えると、突然箱が動き始めた。体がびくりと震える。
《お渡しするものがあります》
箱が上昇し、再び下がってきた。ボタンを押して扉を開き、中をのぞく。
本だ。
形状を見て、唐突にそう思った。
右手を差し込み、中に入っているものを引き出してみる。
重い。片手でやっとつかめるほどの厚みがあった。
その本の表紙には文字が書いてある。そう、私はこれを文字だと認識している。
声に出して読んでみる。
「国語辞典」
《文字は読めるようですね。良かったです》
「私が言葉を知りたいって言ったから、これで勉強してってことね」
《そうですが、随分理解が早いですね》
「思い出したの」
《何を、です?》
声に少しよどみが生じた。
「これは『本』で『辞書』で、言葉を勉強するための物ってこと」
《その通りです。それを読んでみてください》
声はまたいつもの調子に戻って答えた。
私は手に取った辞書をじっと見つめる。
思い出した。確かに私はそう言った。
思い出す?
そうだ。思い出すということは、ここで目を覚ます前の記憶があるということだ。
記憶?
記憶。私は記憶をなくしているのか?
頭が、重い。
『知識が増えれば、その分考えることが増えます。それでも、いいですか?』
先ほどの声が脳内で響く。
《料理が冷めますよ》
突然の声に驚き、体を固くする。そして、言葉の意味を理解して、力を緩めた。
「そうだね。まずは食べようかな」
辞書を手に、テーブルに戻る。イスに座り、辞書をテーブルに乗せる。一口分のオムライスが乗ったスプーンを持ち上げる。
そのまま口に入れる。ふわふわした食感。舌の上でほろりと崩れる粒々。初めに感じるのはすっぱい味。そして塩味。そのまま噛んでいると、甘みも増してきた。
この味は、なんだか、素朴で、そして。
「懐かしい」
《……どうかされましたか?》
私の言葉から一拍おいて、声が尋ねてきた。
「いや、なんでもない」
誰かがそばにいて、オムライスを食べる私を見ている映像。
一瞬脳裏によぎったものは何だったのか。懐かしい、とはどんな感情なのか。
わからないのに口から漏れていた言葉。言葉の意味どころか、この言葉自体忘れていたはずなのに。
……忘れていた?
ああ。やはり、私は記憶がないのだ。
記憶を取り戻せばわかるのか? 私がなぜここにいるのか。ここで目を覚ます前は何をしていたのか。
《大丈夫ですか?》
声が聞こえる。きっと私の手が止まっているからだろう。
初めて心配されていると思うと同時に、心配ってなんだっけとも思う。
「ごめんなさい。少し休ませて」
私は立ち上がって、トレーを箱の中に戻した。ボタンを押して扉を閉める。箱が昇っていくのを確認する。
ベッドに潜り込み、目を瞑った。もやがかかったような映像が時折見えたが、呼吸に意識を集中させていると、そのうちに眠ってしまった。