ナンパでチャラい代表取締役の唯一無二ならば。〜after story〜
「パンプスが……少しだけキツいです」
「え、でもヒナちゃん、足の大きさって24㎝だったよね?」
「は、はい。でもかかとが少し……」
「歩きにくい? 実はね、申し訳ないんだけどさあ。『ヒナ』用に用意したのって、これしかないんだよね」
円谷ひなたは、ベージュのパンプスの中に入れた足をぐぐっとひねると、無理矢理にもかかとをねじ込んだ。そして、すっと立ち上がる。
大きな等身大の鏡の前。
その前でうろうろと歩いてみる。両足のかかとにパンプスが食い込んで、慣れない痛みが走った。
ひょこひょこと、アヒルのような歩き方に、スタイリストの男が苦く笑った。
「とりあえず、これ」
差し出されたのは、大きめのバンドエイド二枚。
「クッションの分厚いやつだからちょっとはマシになるよ」
「……ありがとうございます」
ひなたはそれを受け取ると、頭を軽く下げた。
「じゃあ、ヨロシク」
スタイリストの男が衣装部屋をさっさと出ていく。数多くのモデルを抱えたトップスタイリストにとっては、モデルの『ヒナ』はまだまだヒヨッコの域だ。用意してもらえるドレスも三着だったはずが、いつのまにか今着ているビロードのドレス、一着となっていた。
鏡を見る。艶のある黒。上半身はぴったりと身体のラインに沿った、タイトなもの。けれど下半身、裾はひらひらと金魚のように余裕のある形だ。
それは近々に、社交界へと進出を果たした若手デザイナーの作品。
若年層にも目をつけてもらいたいとの観点から、若手モデルの『ヒナ』が選ばれた。
『ヒナ』といえば、乳がん検診の啓発活動をするモデルとして有名で、二度の乳がんを経験した癌サバイバーでもある。
時にはそれが売名行為と取られることもあったが、そんなことは気にせず、ひなたはいつも右手首に乳がん検診啓発のシンボル、ピンクリボンを巻き続けてきた。
「キツキツだから、バンドエイドなんて貼る余地もないくらいなんだけどな……」
苦く笑いながら鏡に映った自分を見る。
乳がんを患ったバストの部分は大きめのリボンで隠されており、それがそのデザイナーとスタイリストの配慮なのか、それともただの意地悪なのかはわからない。
けれど。
(隠したいわけじゃないんだけどな……それに、ドレスが一着になったからって、こんなことで落ち込んでちゃだめだ)
右手首に巻かれたピンクリボンを、左手でそっと触る。
(匠さんに怒られちゃう)
薄っすらと笑った。
「明日のステージ、俺がリボン結んでもいい?」
昨夜、ひなたの恋人である大同 匠がベッドの中でそっと右腕に手のひらを滑らせてきた。
「でも匠さん、明日はお仕事なんじゃ……」
「ふふん、そんなの祝日にしてもいいんだからなー」
得意そうに大同が笑う。
大同は中堅の不動産管理会社の社長なので、多少横暴ではあるがもちろんそういうことにも融通が利く。それこそ鼻高々な言い方に、ひなたは苦笑した。
「祝日だなんて、」
「何言ってんの。明日は記念すべき、『ヒナ』復活の日なんだぞ。もちろん、鹿島たちも来るしな」
「そういえば、小梅ちゃんからもライン来てた」
「だろー。俺が大々的に宣伝しておいたからなー」
「うわあ、緊張する。めちゃプレッシャー」
大同がニヤニヤしながら布団の中で顔を近づけてきて、ひなたの頬に軽くキスをした。
「それが緊張してる顔かあ?」
ひなたの表情筋の少ない顔を、大同が両手で包み込む。
「でもまあ、ひなちゃんなら大丈夫だろ。俺がついてる。ちゃんと客席を陣取ってるかんな」
そして、大同は次にはひなたのおでこにキスをした。ひなたは、ふふと笑う。その笑った唇をぱくっと食べると、大同はしっとりと、ひなたの唇を吸った。
(……匠さんが、ステージで待ってる)
貰ったバンドエイドをポーチに入れる。少しでも慣れるためにと、パンプスは脱がずに部屋を出た。廊下を歩く。カツンカツンと音がする度に、かかとに痛みが走った。
✳︎✳︎✳︎
(一発勝負でいこう)
痛みはあるが、今回のランウェイは往復でもそれほど距離は長くない。
(……耐えられる)
今回のドレスは裾は広がっているため、比較的歩きやすいデザインだ。ただ上半身は細身のデザインのため、身体のラインははっきりとわかってしまう。だから、足が痛いからと言って、変な動きはできない。
ひなたは、深く深呼吸をした。新鮮な空気を肺に入れたかったが、強烈なスポットライトのせいで、空気は生ぬるく、微細な塵が無数に舞っているのが見える。
(耐えてみせる)
右手首に巻いたピンクリボンをそっと触る。
乳がんを二度、患った。地獄のようにきつい治療に耐え、そして乗り越えてきたと言っても許されるなら、それこそ自信を持って大声で叫びたい。
けれど、それは。
一人ではない。支えてくれたのは家族であり、友人であり、そして。
(匠さん、)
ひなたが大同の名を呟く。その名を呼べば、心が真っ直ぐを向いてくれる。
(私にとって、匠さんは……)
舞台袖から踊り出る。
ひなたはランウェイを歩き出した。
顔を上げると、太陽のように光を放つスポットライト。
視界は途端に、光の中の世界に包まれる。
大同の顔は見えやしないが、この広い世界の中で必ず自分を見ているはずだ。
(匠さんは……私の太陽だ)
ひなたは、足を一歩一歩、噛みしめるようにして進めた。
✳︎✳︎✳︎
様子がおかしいとは思っていた。大同は、客席の一番前を陣取っている。ヒナの出番を待つ間、会議やパーティーなどで平気で大演説をもいとわない大同が、そわそわと身体のあちこちを揺らしていた。
『ヒナ』復活の日の前日、大同の会社はちょっとした歓喜に包まれていた。
「うそだろ、マジでか。お前らあ、やってくれたなあ」
「まあ、いつも俺らお世話になってるんで……大同社長の代わりにマキタの件も処理しておきました」
部下である相葉と馬場が、満面の笑顔でエヘヘと頭に手を当てて、はにかんでいる。
「待て待て、俺、こんなことされたら泣いちゃうだろ」
二人の部下が率先して仕事を片付け、大同に休みをくれたのだ。それも、ひなたのショーの日が明日へと迫るまで内緒の、サプライズだった。
午前中に仕事を切り上げて、ショーまでには間に合う予定ではいた。けれど、マキタ産業との打ち合わせの件では、その午前中の準備に少し時間がかかるかもな、と気を揉んでいたのも事実だった。
「マジでやめて〜、こんなことしてくれなくても全然休むつもりだったけどもー」
両手で恥ずかしげに顔を隠す大同の姿を見て、他の社員も満足そうに笑う。
「あはは、さすが溺愛社長。でもまあ、心置きなく行ってきてくださいよ。ヒナちゃんのショー」
「おうっ、ありがとなー。精一杯、応援してくるなっ」
そして、今日。
関係者のフリして入った裏側。ちょうど控え室から出てきたひなたに声をかけようとして、やめた。
元々、表情の薄いひなたではあったが、今日はいつもより引きつった顔をしているように見えたからだ。
(具合でも悪いんかな)
緊張しているのもあるだろうが、それがひなたらしくないような気がして、大同はその後ろ姿をいつまでも目で追った。
そして、訝しげな思いの大同を置いて始まったショー。若手である『ヒナ』の出番は、三番目。
モデルが歩き出す。
(もう直ぐだ、頑張れ、ひなちゃん)
心で祈るように思う。
そして、『ヒナ』の出番。
ひなたが踊り出すようにステージ上へと踊り出た。その姿を見て、大同の胸に熱いものがせり上がってきた。
ようやく克服したと思った乳がんが、再発したと知った時、大同の世界は見事に崩れ去り、瓦礫の山と化していった。
世界の。
終わりだと。
けれどひなたは、そんなどん底の世界から立ち直り、そして今、このステージに立っている。
「愛してる、愛してるよ、ひなちゃん」
口をついて出る、言葉。
ひなたは大同にとって、唯一無二の存在で。
ナンパでチャラい自分、適当に女と遊び、真っ当な恋愛をしているとは決して言えない人生を送ってきた自分を変えてくれた人。
そのひなたが、この崩れ去った世界でも、精一杯に生きようとしてくれている。
目頭が熱くなった。熱いものがこみ上げてきた。大同の目に涙が溜まり、そして一筋流れていった。
(ひなちゃん、頑張れっっ)
そして、大同がその涙を手の甲で拭おうとした時。
ぐら、と。
ひなたの身体が左右に揺れた。倒れそうになり、バランスを取ろうと手を伸ばす。その拍子に膝ががくっと前へと折れた。
「あっっ‼︎」
「きゃあっ」
客席から悲鳴に似た声が上がった。
大同も思わず立ち上がり、ステージに近づき、ひなたを見た。
「ひなちゃんっっ」
ひなたが顔を歪めている。足が不自然に曲がっているのを見て、そしてひなたが痛みを我慢している顔を見ると、大同の身体は自然に動いた。
✳︎✳︎✳︎
「……い、痛っっ」
ぐら、と傾く身体を支えるため、ぐっと足を踏ん張ると、かかとに激痛が走り、ひなたは顔を歪ませた。
客席からは、驚きの声が上がったのを耳で聞いていたし、あーあやっちゃったという観客の空気感を、ひなたは全身で感じ取っていた。
失敗した。
直ぐにもそう思った。
けれどただ、恥ずかしいというよりも、匠さんをガッカリさせた、それが悲しかった。
慌ててパンプスを履き直す。けれど、かかとにかなりの痛みがあり、なかなか履くことができなかった。
じわっと目尻に涙が滲んだ。
もう一度、パンプスに無理にでも足をねじ入れようとした。
その時。
「ひなちゃん」
大同の声がしたかと思い、そちらを見る。すると大同がランウェイにひらりと上がってきた。
ざわっと客席が騒がしくなる。思わぬハプニングで、観客がどよめいた。
「た、匠さ、ん」
もちろん、ひなたも予想外の出来事に、どうしていいかわからないというような面持ちだ。けれど、なぜか大同が出てきてくれて、ざわざわとしていたひなたの心は、少しづつ落ち着きを取り戻していった。
大同は、すっとひなたの前にひざまづく。
「ひなちゃん、クツ。俺が預かっておくから」
そう言って手を伸ばしてくる。その大同の動きに合わせて、ひなたは足を上げてパンプスを脱いだ。
開放感。裸足になる。かかとの痛みもどこかへ去っていき、そして障害は何も無くなった。
「俺が預かっておくから。さあ、行っておいで」
優しく、大同が笑う。
ひなたは唇を引き締めると、泣きそうだった顔を笑顔で満たした。
そして。
振り向くと。
ランウェイを真っ直ぐに。
真っ直ぐに見つめる。
裸足になった両足は、その開放感からか、今にも踊り出しそうに軽い。
今の今まで耳に入ってこなかったラテンの音楽が、するすると入り込んできて、脳を刺激し細胞を潤す。
ひなたは、軽い足取りで、ランウェイを歩き出した。
(匠さんが見ていてくれる)
そして、その美しいビロードのドレス。ひなたの動きに合わせるように、その裾は波をうって、ゆらゆらと舞う。その度に光沢のある黒のビロードが、光を吸収して、放出する。
生命力。
自信。
輝きに満ち溢れた姿。
ドレスを生かし、そして。
(私、……生きている。……匠さんと、この世界に生きているんだ)
ランウェイのセンターまで進み、そしてドレスを見せつける。
観客に、そして自分自身に。
振り返ると、ステージの上には大同が立っていた。右腕にはパンプスを抱え、そして左手をパンツのポケットに突っ込んで。
(ふふ……匠さんこそ、モデルみたいにカッコイイ)
大同へ向かって歩く。ランウェイの床のひやりとした冷たさを、裸足の足が吸収していく。きんと冷えた体温は、全身を駆け巡って脳へと届けられる。
(……匠さん、)
心が求めるのだ。一度は別れ、けれどもう一度、いや、出会った時からずっと、惹かれていたのだ。
大同という存在に。
(匠さんっっ)
視界に入れていた大同が、ゆっくりと動く。ポケットに突っ込んでいた左手を出し、そしてひなたにおいでと誘うように伸ばす。
堪らなくなり、あと少しのところで、ひなたは走り出した。
両腕を伸ばし、大同へと目がけて走る。
治療で抜けた髪はまた伸びて、一陣の風と一緒にひなたの頬に触れては散った。
大同が右手を伸ばす。
その右手から。
パンプスが床へと落ちていくのを、ひなたは視界の端でスローモーションのように見た。
「匠さんっ」
大同の首へと手を伸ばす。
ひなたを両腕で迎え入れると、大同はその細い身体を抱き締めた。
✳︎✳︎✳︎
「あーあ、これ本当にいいのかなあ」
「良いんだって」
「でもなあ、これ」
「いいのいいの」
ひなたがかかとの折れたパンプスを、くるくると新聞紙で包んでいく。
「……弁償」
「そんなことナガトさん、一言も言ってなかったよ」
「でも、俺のせいだよな」
大同がパンプスの折れたヒール部分を、摘まみ上げる。
「アロンアルファでくっつかねえかな」
「無理無理」
「うわーん、マジでごめんなさーい」
「大丈夫だって」
ひなたが笑いながら、大同からヒールを取り上げる。くるくるとパンプスを巻いた新聞紙の中に、一緒に放り込んだ。
「こんなものもう要らないっ」
「パンプス、キツかったんだな」
「本当だよ、あの黒メガネやろうっっ。こんなクツ、履かせやがってっっっ」
「うお、ブラックなひなちゃん、出た」
「こうしてやる、こうしてやるっっ」
ひなたが新聞紙をぎゅうぎゅうと丸める。ガムテープでぐるぐる巻きにすると、ふーっと息を吐いた。
「そんなにこのパンプスのこと、憎んでたんだね……」
大同が苦笑しながら、ゴミ袋を広げている。その中に持っていた新聞紙の塊をポイっと捨てると、ひなたはニコッと笑って言った。
「でも、いいんだ。ステージで堂々と匠さんに抱き締めて貰えたから」
「いやあ、まさか俺もあんなことするなんて自分でも何やってんのかよくわかってないっていうか何というか……アホ?」
「ふふ、」
ひなたが不敵な笑みを浮かべながら言った。
「でもこれで、匠さんに近づくモデルどもを牽制できたもんね。だから、結果オーライだもんね」
大同が呆れた顔で手を伸ばす。ひなたの唇をちゅうっと吸うと、おでこをひなたの額にくっつけて笑った。
「ははっ、それどこじゃないっての。俺こそ、全国放送でひなちゃんは俺のもんって、宣言できたもんね。だから結果、……」
二人で笑い合う。
「オーライだっつーの‼︎」
そして唇を重ねながら、いつまでも笑った。
Fin