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ライオンハート

「科学に触れれば触れるほど、私はオカルトを感じて仕方が無いんだ」


 白衣も脱がないまま蠱惑的な芳香を楽しみ、褐色の液体を一啜り。強い酸味が特徴的な豆から淹れた、その珈琲が彼女のお気に入りだった。もっぱらブラックを好んでいるようだが、どうにも彼女には似つかわしくないと人は言う。


「大げさだな、俺たち所詮はまだ修士なんだぞ」

「もう修士だ。その感慨を抱くには充分なほど、生物学はこれまで学んできただろう」

「ほっとんど覚えてねえよ。俺は成績そんな良くなかったし」

「ついでに言うなら君は有機化学の人間だしな」


 生物学が興味の範疇の外にあったのなら仕方ない。血の色が透けた、特徴的な赤い瞳と正面から視線がぶつかる。ぶつかると同時に和らいだ表情の上、彼女の赤い目が細められた。真っ白な肌に端正な笑みが浮かべられる。


「しかしだ、私たちの歩むこの道は総合力の問われる学問だ。有機にばかりかまけていては今後壁に……」

「分かった分かった、ちゃんと最低限のことは覚えてっからさ。で、本題は何なんだよ」

「ああ、そうだったな。私はとりわけ分子生物学や生化学を学んでいると、時折怖くなるんだ」

「自分の頭がよすぎて?」


 そんな事思う訳が無いだろうと、一笑。まんざらでもないような声と共に、一瞥。お世辞だとは理解していても、褒められて喜ばないなんてことはない。ただしそれでも彼女自身己の分はわきまえている。幻想的なプラチナブロンドをかき上げて、私などまだまだ未熟者だと遠くを見る。眺めた先には教授のデスク、確かにそれは遠い場所だ。

 話しているうちにまた口の中が渇いたのか、まだ湯気が勢いよく昇るマグカップに再び口を付ける。できるだけ小さな音を立てて啜り、飲み下したと同時にまた語りだした。


「茶化すな。それでだな、私は今でも核酸合成をしているが、以前からDNAやタンパク質というものが、興味深いにも関わらず、恐ろしくて仕方が無いんだ」

「昔赤点でも取ったのか」

「君と同じにするな、馬鹿たれ」


 どっちも学部で三番目くらいの成績だったよと、事も無さげに一言。これで本心から大した事ないと思っているだけ、その才覚が窺える。まだ上に二人「も」いた。それだけで彼女には、三位という立場に甘んじることなく、より高みに向かおうとするだけの理由足り得る。


「生命なんて、大きく複雑なだけのレゴブロックに思えてな」

「あー、何となく読めてきたぞ言いたい事」

「話が早くて助かるな」

「でも続けてくれ」

「私の雑談に付き合いながら、自分の実験時間を削ろうとしているな?」


 ばれたかと舌を出しておどけた彼に、また彼女は破顔する。口調こそ固く、冷たいと思われがちだが実のところ愉快な性格で、ユーモアとて分かってくれる。世間一般から彼女は遠ざけられがちだけれど、その隣に立つのも正面に座るのも、至って心地が良い。

 アルビノによく見られる弱視、それゆえかけている眼鏡の分厚いレンズを拭く。珈琲の湯気で曇ってしまったようである。拭きながらも彼女は議論を進めていた。


「まあ君も実験は上手いしな、順調なようだし多少時間をもらっても良いだろう」

「実験は、って何だ。実験は、って」

「座学も得意だったか、それは申し訳ない」

「いいえ、不得手にございました。申し訳ございません」

「よろしい。それでだ、結局のところ生体内、とりわけ我々人間を構成しているタンパク質はパーツに分解してみると、たかだか20種類のアミノ酸でしかない」

「そうやって考えるとそうだけどよ。タンパク質はそれこそ星の数ほど種類があるだろ」


 ジペプチド、要するにアミノ酸が二つ並んだだけのものだが、たったそれだけで組み合わせの数は400に達する。20を二乗する。それだけで爆発的に組み合わせの数は増える。

 組み合わせと聞くと、人によっては『AC』と『CA』はひっくり返しただけで同じであるため、ちゃんと計算したらもっと少ないだろうと主張するかもしれない。だがそれは短絡的だ。アミノ酸の結合にはアミノ基とカルボキシ基の双方が関わる。それゆえ、順番が入れ替わってしまえばそれは別の代物だ。『AC』と『CAをひっくり返したもの』は同一の分子ではない。

 そして生体を構成するタンパク質は、基本的に千近い、あるいは千をも超えるアミノ酸が連なっている。間を取ったとしても、その組み合わせの数は20の千乗である。20の十乗の時点で千億を超える。これだけで多様性は理解できるだろう。

 天文学的な数字は、何も成層圏を超えずとも出会える。掌を太陽にかざし、生きていると実感する。それだけで充分だ。


「さらに、アミノ酸配列だけにとどまらない。ベータシートやアルファへリックスといった二次構造。ジスルフィド結合などの折り畳みを支配する三次構造。その様相によっても全く違った物性を示す」

「ヘモグロビンみたいにサブユニットが何個かくっついてようやく機能するのもあるしな」

「それが四次構造。さらに多様性をもたらすものとして、糖鎖修飾なんかもあるな」

「ヒストンだったらもっとえげつないな。メチル化にアセチル化、リン酸化にユビキチン化まである」

「それらの修飾によって、働きが変わってしまう。そしてそれらは意図的に引き起こすことも可能だ」

「in vitroだったらな」

「ふふ、どうせいつかin vivoでできるようになるさ」


 怖い事言うなよなと、男は眉を八の字に寄せた。それは暗に、彼の中でも、いつかそれが実現するやもしれぬと予感してしまったからに他ならない。


「そして結局のところアミノ酸の配列自体も、たった四つの文字の羅列だけで表記されている。人体の設計図はATCGの四種の文字だけで書き表され、そのオーダーはAUCGの四種の文字で下される」

「それ言い始めたらパソコンなんて0と1の二文字だぞ」

「それは知っている。だがどこかで我々は、天然ものの自分自身と、人工物のパソコンの間に線引きをしているものだろう?」

「そこは確かに否定できないか」


 ロボットに、アンドロイド。人工知能なんてものもあったろうか。昔から人間は機械をより一層人間に近づけようと研究を重ねている。それこそ、不気味の谷なんてものを知る程度にはその研究は進んでいるのだ。それでもそれら機械が、人間と全く同一の代物であるとは誰にも思えない。研究が進んでも、ヒトにとって代われるとは到底信じられない。


「何でヒトと違って見えるんだろうな。狡猾さが無いからか、嘘を吐けないからか。感情を持たないっていうところなのかもなあ」


 嘘を吐いたり我慢したり、本心を隠す方法は、人間であれば多々理解している。しかしそれを機械の知能にインプットするためにはどうすれば良いのかなんて分からない。人間だと、耐えられる時と耐えられない時がある。見抜ける嘘と見抜けない嘘がある。ロボットならば、嘘でも真実でも同じように口にできるだろう。だからだろうか、AIがヒト足り得ない最後の一手は。

 そしてその返答は、どうやら彼女が待ち望んでいたものだったらしい。


「そう、それだ。感情というものは、私達誰もが古来から抱えている、内因性の目に見えぬオカルトだ」

「目に見えるオカルトって何だよ」

「人魂だ」

「科学的でも何でもない発言だな……」

「ちなみに外因性の目に見えぬものは幽霊だ」

「そいつは霊感があれば見えるだろうが」

「君も充分科学的じゃないな。霊感があるとはそれすなわち特殊な人間だ」

「だったら、特殊な人間だったら他人の感情見えるのかよ」


 言ってから男は後悔した。瞬時に己の失言を理解した彼は、その自責を隠すことができなかった。もうとっくに台詞なんて口から零れてしまったのに、慌ててその口を押さえつける。間抜けた後悔が、漏れ出てしまわないように。


「そう、私だ」


 大して気にしていない様子でほほ笑む彼女に、何とか男は胸を撫でおろす。寵児【チョウジ】と話す際には、気を使って仕方ない。彼女は比較的愛されて育ってきたのだろう、それゆえ今まで彼が目にしてきた寵児の中で、一番素直で、世間に溶け込めていた。


「感情の有無に応じて、我々は、ヒトと機械とを分けている」

「まあ、そんなとこはあるな。アシモに心があるとは今一思えないし」

「だがその感情とて、結局のところ生体内の物質によって支配されている」


 愛情ホルモンというものを知っているかと彼女は問う。ゆっくりと首を傾げる男の動作に、すぐさま嘆息を一つ。薬理学で習っただろうにと、眉を顰めたまま左右に頭を振った。


「オキシトシンと呼ばれるホルモンだ」

「ん? 浮気防止ホルモンってやつか?」

「何だ、知っているじゃないか。性交渉を通じて多幸感が得られるのはこれ故だな」


 対人関係が良好な時に放出されるこのホルモンは他にも、闘争欲に遁走欲、恐怖心を減少させる効果も知られている。ただ最も有名なものが先ほど二人が挙げた愛情を実感させる効果、それゆえ浮気防止ホルモンなどと呼ばれて近頃有名になった。


「で、お前はさっき言ってたヒストン修飾みたいに、それさえ制御できるんじゃないかって言いたいわけだ」

「そうだ。意図的に、狙ったホルモンを効果的なタイミングで投与することで生物は感情を自己以外の他者から制御されるんじゃないかと思う」

「まあ、実際オキシトシンの効果とかが確認されてるならいけるんだろうな」

「そうだろう。結局、私達が心と読んでいて、目に見えず、触れることも能わないと思っている代物は、実は化学物質の分泌と電気信号で成り立っているんだよ」

「そしたら人間とロボの違いは、体が金属か、タンパク質であるか程度にしか思えない、と」

「その通りだ。外から命令式を書き換えることでロボットの嗜好など変えられる。行動パターンも意のままだ」

「それと同様に、欲求を無理やり起こさせてやればどんな人間にどんな事をもさせることはできてしまう」


 それは確かに怖いものだと彼は納得したつもりになった。将来的に全人類が研究者の手先になっても可笑しくは無いなと、冗談めかして笑って見せる。しかし、彼の抱いたちょっとした危機感と、彼女の抱く恐怖の本質は、全く異なっていた。

 それを見逃すことなく、気付いていたのだろう。彼女はカップの半ばほどまで減り、ぬるくなってしまった珈琲を一息に飲み干して、立ち上がった。


「そうじゃない。私は至極恐れているんだ。この想いが実は、ただの錯覚に過ぎないのではないかという疑念を」

「錯覚?」

「ああ、私達が嬉しいと、悲しいと、気持ちいいと、不快だと感じるこの想いが、ただ物質に支配されて引き起こされる動悸や息切れの様子をまとめただけに過ぎないのではないか。その兆候を取りまとめたものを感情だと錯覚している可能性。私達が思考だと思い込んでいるのが、ただただ過去の経験と現状を照らし合わせて成功率だけ推測し、リスクと欲求のシーソーゲームの最もバランスのよいところを選んでいるだけの機械的作業なのではないか。その無機質な選択を意思ある判断と錯覚し、信じているだけなのではないか。それを考え始めると夜も眠れないし飯も喉を通らなくなってしまう」

「昨日の晩御飯は?」

「ハンバーグ」

「昨日何時に寝た?」

「昨日は実験が十時まで長引いてな。寝たのは十二時だった」

「快食快眠じゃねえか」

「何せ昨日はそんな事考えもしなかったからな」


 アフィニティーでのタンパク質単離が中々上手くいかず、二度も三度もかける羽目になったと彼女は溜め息を吐き出す。修士ともなり、学士の後輩も出来、自分のことだけでなく尋ねられた事にも答えられねばならぬ。セミナーの度には講師たちから厄介な質問は飛んでくるうえ、適当にやっていても認められない。


「なまじ感情なんて見えちまうだけ、そう思っちゃうんじゃねーの?」


 お茶室のスポンジでカップを濯ぐ背中に、彼は呼びかけた。洗う手を動かすのに合わせてプラチナブロンドは踊っている。そうかもしれないと、肯定する彼女の声が彼には、この上なく空虚な返答にしか聞こえなかった。

 獅子心(ライオンハート)寵児(ちょうじ)。彼女の出産に立ち会った産婦人科医から、新人類学者の重鎮から、そして何よりも世間から、彼女はそんな風に呼ばれている。

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