悲しき行旅死亡人
❶
戸上康之が「お伊勢方面に旅行する」と家族に言って家を出て消息を絶ってからすでに七年半を超していた。
この間全く連絡のない状態が家族を惑わせていた。
妻は勿論の事子供たちもその安否を気遣う七年半であった。
警察にも弁護士にも相談しながら月日が流れていて、「行旅死亡人」と言う言葉さえ聞かされる事となった家族は心が塞ぐ毎日であった。
行旅死亡人とは正に旅行などする目的で家を出て、どこかで死んでしまった人を言うのであるが、まさに戸上康之はその言葉通りのように消息を絶っていた。
この男には多額の負債があり、妻は心のどこかで夫がすでにこの世には居ないかも知れないと思う様にいつの間に成っていて、営んでいた商いも七年前に整理し、更に住み慣れた自宅も処分し債務返済に充てられ、八畳一間とキッチンのアパートで三人で密かに暮らしていた。
春が来れば夫が消息を絶ってから正確には八年に成る
若かった子供たちも今じゃ姉の戸上理恵は大台に乗る歳になり、弟も二十代後半である。
「もうすぐ八年よ、お父さん一体どうしているのかね。」
「母さん叱らないでね。私は正直忘れるように毎日努力して来たから、もうどっちでもいいわ。関わり合いになりたくないわ。寧ろどこかでくたばってくれている方がいいわ。だってあの日から人殺しの汚名を掛けられているわけだし」
「俺も、ただ無実でどこかで苦しんでいたり、辛い思いをして生きていたなら可哀想だけど・・・」
「でも、それなら連絡をしてくるべきだわ。どんな状態であっても・・・そうでしょう母さん?」
「そうだね。」
「母さん、行旅死亡人って何時か弁護士さんが言っていたけど、この世に居ないと思って父さんの籍を抜いたら、犯罪者の妻なんて嫌でしょう?」
「そうだよ、可哀そうだけど、父さん商売が上手く行っていなかったから、金策にいつも駆け回っていてそれで本当は旅行なんかじゃなく、どこかへ逃げたんだと思うよ。
だから俺に言わせれば、もしそうなら無責任だと思うよ。或は本当に犯罪に走ったかも知れないし、
春に成れば八年だよ、八年って長いよ、母さんばかりに辛い思いをさせて、そうだろう。それに警察が言っているように、お父さんが本当に人を殺したって思うと母さん可哀そうだよ。」
「ありがとうね。でも私からは何も出来ないわ。
このまま待ち続ける以外に方法なんて知りたくないわ。春に成ったらまた警察の方にお願いして、これまでと同じ事を繰り返そうと思うの。」
「警察に笑われるわよ。でもそれでいいの母さん?」
「仕方ないでしょう。あーぁこれで何回同じ話をしたでしょうね。二人に辛い思いをさせてごめんね。父さんも根の優しい人だから信じたいの」
「でも父さんは重要参考人だからはっきり言って迷惑だよ。みんな無茶苦茶になったよ。」
「だから誰にも判らないようにこっそりと生きないと」
八年近く前の秋 戸上康之は自ら経営する鍍金工場が、行き踏まり始めている事で気を揉んでいて、つまり頭の中が借金の事で一杯に成っていて、こんな時は神頼みと三重県のお伊勢さんに詣でる事を頭に浮かべて急場を凌ごうとしていた。それは気休めであったがそのようにしたかった。
そして家族に簡単にその事を話し伊勢へと向かったが、嫁の理沙は出不精であった事から敢て誘う事もしなかった。
お伊勢への旅は厳格なものであった筈が、戸上康之には誰にも言えない心が育っていて、それは趣味が高じたちょっとした金策の為の芝居であった。
その為新幹線を名古屋で降りる事なく、誰にも知らせる事もなく、大坂駅まで足を延ばしていた。
大坂駅で降りた戸上は更にローカル線に乗り、適当に降りた駅から一時間も歩いて、人里離れた大阪府北西部の古民家の前まで足を運んでいた。
着いた所は岩下純さんと茜さん夫婦が暮らす、築百年を越す風格のある佇まいで、戸上はその家の近くから岩下家を見張る様に見続けていた。
実は戸上には目論見があった。
それは戸上が趣味としていた骨董品にヒントを得た、言わば経験をヒントにした思い付き犯罪行為であった。
その企みを今から岩下夫婦に嗾けるのである。
「突然ごめんください。私立派な古民家をお尋ねして骨董品を探して居る業者の石丸道具店と申します。時代物の映画の撮影などでよく使われている道具を、日本中から買取れせて頂いて集めています。こちら様がお持ちの物の中に気に入った物があり、更にお譲り戴けるものであればとなれば買取させて戴きたく思うわけです。
何かご先祖さまから伝わり、然程重要にも思わない物など御座いませんでしょうか?思わぬ高値で買い取らせて頂く事も御座います。如何でしょうか?」
その言葉に亭主の岩下純と茜夫婦は顔を見合わせて笑顔を浮かべて
「ガラクタの様な物なら御座います。何しろ築百年以上経っていますから、それに貴方よい所へお越しになられた。実はこの家も雨漏りが酷く成ってきて息子夫婦に相談すると、もっと小さな家を建てればと言われ、其れでこの家も取り壊す事が決まっているのです。
蔵にある物は先祖にすれば、その頃は大層な物であったかも知れませんが、私たちにしてみればその価値などわからず、今と成ってはじゃま物になっていたのです。何方かは知りませんが、その様なご商売があるのでしたら、是非お買い上げ下されば私共も助かります。」
「そうでしたか、いいタイミングで来させて頂いたわけですね。不躾で御座いますが、どの様な物があるのか気に成ります。それをお見せ戴く事など出来ないでしょうか?」
「今ですか?」
「ええ、出来れば・・・」
「それはあまりに唐突ですから後日と言う事では?第一埃塗せだと思いますよ。」
「そうですか・・・でも正直今お見せ頂くほど都合は宜しい事は確かで、
何故なら私は忙しい身で、その名刺に書かさせて頂いているように、富士山の近くから来させて貰っていますから出来るだけ経費節約のため、一度で済む事ならその様にしたいのです。
それに全く必要でないものなら、もう一度来させて頂く事も無駄になりますし、この様にして飛び込みで家々を訪問している関係で、無駄に成る事も多々あり、何しろお客様の対象は全国津々浦々ですから、ご無理でしょうか本日お見せ戴く事は?」
「解りました。」
「ありがとうございます。」
「ではご案内致します。この家もおそらく近々取り壊す事になると思いますから、丁度良い機会かも知れませんね。槍とか鉈とか随分前の物があるようです。しかし私は然程関心など無いので」
亭主の岩下純がそう言いながら 戸上康之を古びてやや屋根の一部が朽ちている蔵に案内した。
中には埃まみれになった骨董品が姿を見せ、如何に長らく放っていたかを物語っている。
「こんな恥ずかしいもので」
「いえいえ決してそうでは御座いません。私今、正直ドキドキしてきて興奮してきました。
本当に関心が無いのですね。実に埃まみれになっているようですね。でもまるでタイムスリップしたようで緊張しています。」
戸上はそう言いながら埃に埋もれた骨董を目を細めて睨むように見続けた。」
「何かお気に入りの物がございましょうか?」
案じるように岩下の亭主は戸上の背中に後ろから声を掛けて、入口近くで黙ったままで突っ立っている妻の茜と目を合わせた。
「今はこのような姿でも明治や江戸時代には光り輝いていたのでしょうね。」
戸上は振り向く事もなく岩下夫妻にそのように口にして、
「写真撮らせて戴いても良いでしょうか?実は会社へ持って帰り検討させて頂こうと思います。
相当点数もあるようですので手っ取り早く撮らせて頂こうと思います。」
「ええ構いません。」
「それで埃を取り除いてから撮らせて頂こうと思いますから、箒かさんはたきか何か御座いましたらお願い出来ないでしょうか?」
「はい解りました。」
妻の茜が元気な声で即答して姿を消した。
掃除が始まり亭主の岩下は外へ出てタオルで口を隠して、戸上はせっせと埃をはたき続けた。
部屋中が埃塗せに成って前すら見えなく成ってしまい、ゴホンゴホンと咳払いをしながら、戸上は居ても立っても居られないと言う仕草で蔵の外へ飛び出すように出た。
「戸上さん、埃が落ち着くまでこちらでお茶でも」妻の茜がそう言って笑顔で口にした。
少し傾いているように見える構えであったが、風格のある屋敷に案内され、戸上は応接室のソファーに深く腰を下ろし、
「ご主人、随分蔵へは行って居られないようですね。
相当埃を被っているようですね。箒で触るだけでどれだけ埃が舞い上がるか・・・いやー参りました。」
「そうですね。然程私は興味が無いのと、これまで貴方のような方が一度も来られた事など無かったですから、まさにお蔵入りですね。」
「掛け軸などもあるようですから、また陶器類も」
「そうですね。何度かは父と一緒に見た事はありましたが、所詮私は父と違って骨董品など全くと言って良いほど興味が無いので」
「それはもったいない話で、あの蔵で今でも無事に眠っている事自体が奇跡かも知れませんね。」
「ええ何しろ放りぱなしです。父が怒るかも知れませんが、父だけじゃない、お爺さんだって同じ思いだと思います。」
「ではどうして貴方様は骨董に興味がないのでしょうか?お父さんもお爺さんも好きであったものを?」
「解りません。でも父もお爺さんも実は女性道楽の過ぎた人で、我が家の女性共を困らせたようでそれで何か同じ趣味である事が子供なりに嫌だったのでしょうね。
何度か蔵から女性に電話をしている親父の姿を見た事がありましたから、そんな時は親父ではなく男に成っている様な何かを子供ながらに感じていたのでしょう。
だから私にはあの蔵は何とも言えない空間であったと思います。
それは親父にしてみても同じであったかも知れません。骨董品を提げて出かけた事がよくありましたが、あれって他に目的があった事を薄々感じていたように思います。」
「そうでしたか・・・子供ながらに辛い思いをさせられていたのかも知れませんね。」
「いえ私なんかより母が辛かったと思いますよ。だから母も私も進んで蔵へ行く事など全く無かったわけです。」
❷
それから半時間ほどが過ぎ、江上康之はカメラを手に蔵へ向かっていた。
百枚にも及ぶ写真を撮り
「今日は突然お邪魔をしましてご厄介になりました。早速会社へ戻り検討させて頂きます。
鑑定が必要な物は時間がかかりますが、大まかな物は私どもが必要としているか検討させて頂きます。
なおご子息や家族の方々には今の時点では一切口にされないように、お買いする事が決まったわけではありませんから、売れるとか売れたとかは・・・むしろ何も口にされないで下さい。
捕らぬ狸の皮算用なんて諺もありますから」
「解りました。それでこれから?」
「はい会社へ帰って調べさせて貰って、適切な価格を付けさせて頂く予定でございます。鑑定の必要なものは後日会社の鑑定士を来させますから」
「解りました。私も先祖と相談します。」
「ご先祖に?そうですね。」
「死人に口は無く文句も言わないでしょう。」
「唐突にこんな運びになって申し訳ございません。」
「いいえ、良い機会ですよ。私たちもいい歳だし、気になさらないで下さい。」
嫁の茜が声を高めてそう口にした。
戸上康之はこれまでも骨董品に興味を持ってから同じ事を繰り返していた。仕事とは別に趣味として休みの日などは妻の事さえ忘れる様にして趣味に勤しんでいた。
そしてこのように今回もふらっと訪ねた岩下邸で存分に骨董品の写真を撮り、岩下邸を後にしたのは二時間も過ぎてからであった。
田舎を離れビジネスホテルへ入ったのはすでに薄暗くなっていて、戸上は頭の中で湧き出すように蠢くものを感じながら、落ち着かない心が重く圧し掛かっていた
実は岩下邸の蔵の骨董品の中に、戸上が相当な物であると読んだ品物があったのである。
それは以前に骨董店で同じようなものを見つけ気に入って、そこの主人に価格を尋ね聞かされた価格が、あまりにも高くて竦んでしまった事があった事を鮮明に覚えていたからで、その品物が当時何よりも気に入った居た事もあり、記憶に特別はっきり残っていたからである。
ホテルの一室で悶々としながら、自分が今何をするべきであるかと鬱積した気持ちを整理出来なく、ベッドに寝ころび天井を見上げながら重い心で時間が流れていた。
借金の事で頭が一杯に成っている真っ暗な未来が延々と続く予感。
袋小路に陥ったような抜け出せない現実に打つ手を失くしていた。
死にたかった。この儘どこかへ消えてしまいたかった。思えば今回の旅行はこれ迄と全く違っていて、現実からの逃避であった。
浅はかであったが、実は戸上は岩下邸の蔵を舞台に善からぬ事を考えたのは、ずっと以前から気に成っていた物と同じ物で、岩下邸の蔵に在った品物の事であった。
鍵の開け方もその品物を置いてある場所も全部判っている。鍵は決して頑丈でない事も、また主人の岩下純も決して骨董には興味がなく、関心など然程無い事も知った。更に何よりも埃塗せに成っていて管理が行き届いてないと思われる事が戸上の背中を押した。
戸上は翌朝ホテルを出て、一日中人目を避けて暗くなるまで時を過ごす事にした。
それは深夜まで待ち警戒の全くなかった岩下邸の蔵に押し入って、昨日見つけておいた、おそらく江戸前期から伝わる磁器の骨董品を盗む事を企てていたのである。
その品物は以前骨董品店で値を聞いて高価のあまり竦んだ物と同じで、これまでから何度も調べ上げていたものと同じ物で、五百万円の値が付く筈であると読む品物であった。
そんな事岩下夫妻は全く知る事などありえないと推察していた。戸上にとって小動物を見つけた鷹の気持であった。
深夜に成り戸上は岩下邸に向かいながら、決して穏やかでない心境である事を感じながら、つまり罪悪感が漲っていることは言うまでもなかったが、それ以上にあの品物が窮地である何もかを乗り越えさせてくれるように思えてきて、罪悪感を心の隅に追いやっていた。
岩下邸の蔵の前に忍んだ時はすでに夜中の一時に成っていて静まり返っていた。
そして初志貫徹とばかり蔵へ忍び込んで目的の獲物を物色する事にした。
鍵は簡単に開けられ、音がしない様に忍者のようにゆっくり足を進め、一番奥に置いてあった狙っている磁器に手をやった時、
「誰だ!」と大きな声がして振り返ると主人の岩下純が蔵の入口に小走りでやってきた。
「だれだ!」
「何をしている?」
その声は甲高く殺気立っているようにさえ思えた。
観念したように戸上は顔を持ち上げ振り返り亭主の岩下純と目が合った。
「あんたは・・・・」
亭主の岩下はそれ以上の言葉を忘れて睨みつけていると、戸上はその瞬間から心が狂い始めた様に側に置いてあった紐で、岩下純の首にそれを回して思いっきり占め続けた。
寝起きの亭主は抵抗も出来ず、紐で首を絞められ苦しみながら気を失った。ぐたっとした亭主を蔵の中へ寝かせる様にして、抵抗する事すらなく微塵とも動かなくなった亭主を興奮しながら見つめていた。
一撃であった。戸上はそれでも容赦なく目的の骨董品を盗み、頭の中でまた善からぬ事を描いていた。
《このままこの男が死んでしまったなら、この男の妻は私が昨日来た事を警察に言う事は間違いない。それに何故この亭主が早々に蔵へ来たのかは、泥棒除けのセンサーがあり、それに引っ掛かって見つけられた事は間違いない。ならばこの際妻の息も止めるべきである。》
そのように考えた戸上は本宅へ向かい、一人で眠っていた妻の茜に襲いかかり出刃包丁を突きつけた。蔵から出て目指し帽で顔を隠していたから誰かなど判らない。
「金を出せ!」大きな声でそのように口にして妻の茜を睨み乍ら出刃包丁を振り続けた。
無理に起され、何の事か解からないまま茜は震い始めた事を感じながら、今何が起こっているのかと薄々気が付いてきて、目指し帽の男の目を見つめるようにして更に体を震わせた。
「金、金を出せ!」
男は更に声を荒げてその様に繰り返した。
「お金などありません。」
「無い?こんな大きな家で住みながら・・・嘘を言うなよおばさん。旦那の様に成ってもいいのか?」
「・・・」
「旦那はなぁ蔵の中で死んでいるから」
「まさか?」
「いや死んでいる。」
「貴方が父さんを?」
「そうだよ。だから素直に言って貰わないと、あんたも死ななければならないから。わかるでしょう?」
「・・・」
「お金は?」
「父さんの部屋にならあるかも知れません。」
「では案内して貰おうか?早く!」
「解りました。」
夫純の部屋に男を案内して金庫の前で佇んだ茜は男の方を見て、
「私にはわかりません。ここに入っていなかったなら無いと思います。夫は株を再三買っていて証券会社の方が良く来ていましたから、お金があるとすればここに入れていると思います。」
「解った。鍵は?」
「机の中に入っていると思います。よくその引き出しを触っていましたから」
妻茜の言う儘に男は机の引き出しから鍵を見つけ金庫に順番に挿していった。
ダイヤルを触る事なく鍵をさすと金庫は簡単に開いて、中から運転資金なのか大金があり、きちんと並べられていてざっと三千万円に及んだ。
バッグにそれを全部入れ、男は妻茜の顔を見ながらそっと近づき、夫純のベッドに茜を押し倒して思いきり力を込めて、茜のお腹に出刃包丁を突き刺した。
抵抗する事もなく茜は「うぅー」と微かな声を残して、縮まるようにしてベッドに沈んでまるくなった。
戸上康之は目指し帽を取り、大きく息をしてから証拠に成るようなものを全部消し、本宅から出て更に蔵に戻り、小細工をしてから人気のない田舎の道を駅に向かった。
漆黒の闇の中で「はぁーはぁー」と息切れしそうな戸上の声が足音と共に戸上を包む。
新聞配達の様なバイクの灯りが見えたなら、慌てて草むらに身を隠して下へ下へと田舎道を急いだ。
足跡は初めからすり減った靴であった事で証拠にはならない。岩下邸の蔵でも足跡はしっかり消してきた。
戸上は自分の趣味が骨董品を扱う事であった事から、今回の犯行はとっくの昔から既に机上論として出来上がっていた。
しかし誰もがそんな事を思う事など僅かでもあったとしても、実行する者など居ない。嫌いな者が側に居て、死んでしまえば良いのに等と冗談で思う事はあっても、決してその様になる事など願ってなどいない。
それは戸上にも言える事であって、まさかこの様な犯行に及ぶ事など彼自身も想定外な事であった。
ところが人の心は弱いもので、バブルの頃は忙し過ぎて贅沢を言い、それは言い換えれば儲け過ぎてと言う事であり、金メッキされた全ての物を毎日見ていると、心の中がおかしく成って来ていたのである。
女遊び、ギャンブル、株式は勿論、お酒に溺れて外国にまで足を延ばして悪ふざけ。それでも仕事は未曽有にあり、儲かって儲かって、僅かの土地もうなぎ上りに跳ね上がり、銀行も緩みっぱなしで、日本中が浮かれていて、骨董好きであった戸上は、暇があればそれに触手を伸ばし、買い集め贅沢と無駄を繰り返してあった。
そして突然バブルが弾けて地価は下がり、株は急降下し、気が付けば金に包まれた筈の鍍金工場は、さびた鉄のように経営難に陥り、丁重に買い集めた骨董品はガラクタのような値となり、二束三文で売り払い、預金や生命保険を見直した挙句解約し、そんな事を繰り返しながら、それから何年も耐え忍んで来たのである。
そして今戸上康之は大きなバッグを提げ乍ら、その心は鬼畜となり、漆黒の闇の中を息を荒げて、急ぎ足で彼方に見える街のネオンに向かっている。
二時間以上走り歩きをして、国道まで出た戸上は、時計に目をやると深夜の四時前に成っていて、暫く国道を歩き続けていると一台の車が遠くからライトを照らしている。
その時戸上はある事を思いつく。
ヒッチハイクである。
国道の真ん中に立って助けを求めるようにして、両手を盛んに振り続けていると、そのトラックが何事かと止まり、まだ若そうな風体の運転手が窓を開けたので戸上は大きな声で
「すみません。車が故障して何分深夜ですから困っています。其れでどなたかに乗せて戴いて市内まで行って貰えないかと」
「そうなの、大変だね。それなら乗ってくれていいから。」
「有難うございます。なにぶん時間が時間ですから、それに私は小田原の方から来ていますから大変困っています。」
❸
「いいよ。乗ってくれて」
戸上康之は五十六歳の初老である。初老と言うにはまだ早いかも知れないが、この数年間の苦労は彼を誰よりも老けさせていた。
ドライバーは頑丈な筋肉質の若者で、警戒心など全くなく、信じられないほど気持ちよく乗せて貰うこととなった。
トラックは大阪市内どころかナンバープレートは練馬と成っていて。広島を出て大阪を経由して東京に帰ると運転手の男が口にした。
気さくそうな男であった。運転手の名前は城島聡と言い、三十の歳でまだ独身である事も戸上は聞き出していた。
「俺この前にもヒッチハイクの奴を乗っけてあげた事があるから、かえって眠気覚ましになるから、だから気にしなくっていいから」
運転手の男は楽しそうにそのように口にして笑った。
「助かりました。 まだまだ夜は開けないと思うから本当に助かりました。」
「そうだね。あと二時間もしないと明るくなって来ないだろうね。寒かったでしょう?」
「ええ、それはもう。でもかなり歩いてここまで出てきたからそれも無我夢中で」
「其れで車は?」
「ええ、道の隅に止めてあります。寿命です。おそらく、何しろ私がまだ四十過ぎに買った車だからポンコツで」
「其れって何年前なのですか?」
「二十年にはならないけど」
「そんな車で?」
「ええ、女房と一緒で車も親しみやすいからつい長らく・・・」
「そうなの。其れで明日にでもまた車のある所へ行かなければならないのですね。この辺にホテルでもあれば良いのですがねー。モーテルでも在ればいいのにね。」
「ええ、でも正直廃車の手続きをしなければならないかもと思っています。ラジエターも水漏れしているようだし」
「それは怖い。寿命かも知れませんね。」
「ええ、とりあえず早く小田原へ帰ってこれを渡さないとと思いまして、この鞄には大事なものが入っていますから」
「そうですか・・・そりゃ大変だね。」
「運転手さん、実は私今日の朝には小田原に着く予定で居ました。ところがこんな事に成り予定が狂いました。それで今思いついたのですが、朝まで待って新幹線で大阪駅から始発に乗っても遅くなると思います。第一貴方にどこかで降して頂いてもそこから新大阪までうまくタクシーがあるかも判りません。
運転手さん。もし構わなかったなら貴方の車にこのまま乗せて戴いて、小田原まで帰るって無理でしょうか?」
「でも俺名古屋の手前でひと眠りする積りだからそれでもいいのかな?急いでいるようだし」
「それでも構いません。無理だと成ればそこでまた考える事にして、其れに言い遅れましたが、小田原までの新幹線代に匹敵するお金を払わせて頂きます。いえ新幹線代以上の額を払わせて戴きます。五万円で如何でしょう?いや六万円でも」
「そうですか。在り難いです。そんなに頂けるなんてヒッチハイクと思っていたから。
でも最近はこの仕事、長距離運送もきついから、若い人が離れて行って正直大変なんですよ。第一給料が安くて」
「では渡りに舟かな?私の我が儘聞いて頂けるのですね。」
「ええ、喜んで」
「ではひとまず半額の三万円をお渡ししておきます。それでですね、出来るだけ早く小田原へ行きたいから、構わないのなら私の方で高速代を払わせて頂きますから、名神と東名で御帰りになって頂けないでしょうか?」
「そうですか?でも良いのですか?高くつきますよ」
「ええ、貴方さえ問題なければその様にお願いいたします。私がお支払い致しますから。」
「解りました。」
大坂市内に入ることなく二人の和やかな会話が交わされる中で大坂を後にした。
名神高速道路に入ったトラックは快調に東へと向かっていた。京都を超した所で朝を迎えて、パーキングエリアで朝食を取る事をドライバーの城島聡から提案された戸上は快く応じた。
「せめてこれ位は俺が出させて貰うから」
城島の言葉に笑顔で頷いた戸上はほっとしたものを感じていた。それはこれから始まる戸上の頭の中で描いている事を口にすれば、このドライバーの城島は間違いなく頷いてくれるだろうと言う憶測が更に強く成った事であった。
食事を済ませトラックに戻り、城島は煙草をふかし目をつむり至福の時を味わっているようにさえ戸上には思えた。
「城島さん、まだ半分しか着ていませんが、少し休むのなら丁度いい、ゆっくりした今残りの分をお渡しさせて頂きます。構わないでしょうか?」
「良いですよ、慌てなくっても」
「でも私大坂で半分だなんて生意気な事を言いまして、どうも隣で乗せて頂いていて失礼な事を言ったものだと、何所となく居心地が悪くて反省していました。」
「いいえ、そんな事ないですよ。先に頂いた分でも十分だと思っていますから、気を使わないで下さい。
本当に充分だから・・・」
「いえいえ、お約束ですから。ではこれをお支払いさせて下さい。残りの三万円です。」
戸上は内ポケットの財布から三万円を取り出し城島に手渡しした。
「面目ない。小田原まで責任を持ってお届けいたします。この三年間でこんな裕福な思いをさせて貰ったのは初めてです。でも良いのですか?大阪に車を残しているのですから、いくらポンコツで廃車にするとしても、それなりのお金がいると思いますよ。本当にいいのですか?」
「ええ気にしないで下さい。ご心配なく」
「それでは頂きますよ。」
「ええ、私こそお世話になって感謝申し上げます。
貴方に出会わなかったなら、第一あんな時間に手を挙げただけで止まって下さる方などあまり居ないと思いますから、本当に感謝申し上げます。」
「じゃぁ走りますか?」
二人を乗せたトラックは戸上の目的地小田原と城島が帰る東京に向かって走り続けた。富士山が見えて来たころには、冬にしては日より良くガラス越しに暖かな日差しが二人を照らしていた。
目的の小田原に着いた時は昼時に成っていて、今度は戸上のおごりで二人は食事にありついた。
夜中に二人の初老夫婦を殺してきた戸上であったが、この城島と言うドライバーと七時間も八時間も話し合っている間に、まるで父親のような気になっていて、鬼畜な心が宿っていた筈が、穏やかに笑顔を作り城島の言葉に合口を打っていた。
食事を済ませいよいよ別れの時が来た時、城島から優しい言葉が飛び出していた。
「戸上さん、この儘貴方に乗って頂いて、東京まで行けたらなんて思っています。楽しい時間でした。まるで死んだ親父の事を思い出して」
「お父さんはもう亡くなられたのですか?」
「ええ、俺がまだ小学生のころに癌になって」
「そうだったのですか・・・お気の毒に、辛い日もあったのでしょうね」
「まぁね」
「でも貴方は今並の三十歳じゃないと私には見えます。第一お父さんが今の貴方の姿を天国で喜んでおられると思いますよ。」
「そうでしょうか?でもこの仕事も遠くない時期に辞めるでしょうね、重労働だし結構危険だから、それに留守がちに成るから、彼女もあまり賛成してくれていないから」
「そうなのですか。身内で心配している人がいると言う事はプラスにはならないですね。頑張っても頑張っても報われない事って現実問題幾らでも有りますからね。
私の知り合いにもその様な人がいます。長年商売をされていてバブルが弾けてから急下降して、にっちもさっちも行かなく成っている人が」
「それは俺達だって同じで努力すればするほど、なんか安売りのようになって荷物の単価は下がる一方で」
「みんな同じですね。城島さん折角お知り合いに成れたのですから、お別れを言う前に貴方に聞いて頂きたい事がありますが」
「何でしょうか?」
「実は貴方の人柄を信じて話させて戴きます。
貴方に一つお願いがあります。勿論只でお願いなどしません。それなりの報酬と言いますかお礼をさせて頂きます。」
❹
「待ってください。俺ここまで貴方を乗せさせて貰って、こんなに多くのお金を頂いたのに、これだけでも何か不自然と思うのに、これ以上何かをお聞きする事は嫌な事でも始まるのではないのですか?」
「ですからそれなりの報酬をさせて頂きますから」
「其れって幾ら位の報酬を考えて下さっているのですか?正直なところ・・・それをお聞きしてから断る事だって構わないですね?」
「ええそれは貴方次第です。貴方が判断してくださればいい事です。」
「ではお聞きします。出来るだけ手短に、そろそろ走らせなければならない時間に成りましたから」
「解りました。ではお話申し上げます。実はこの話を聞いて戴いても何方にも話さないで下さい。たとえ貴方の家族や恋人にも。何故ならお聞き頂く事も貴方の報酬に繋がるからです。
僅かのお金では無いと思ってください。
「はい」
「ではお話し致します。実は貴方にこうして乗せて頂きましたが、この事実は誰にも話さないでください。貴方はあくまで一人でトラックに乗って広島から東京まで帰って来たと思って下さい。どこで誰かを乗せたなど思わないでください。
今後何かニュースなど見て腑に落ちない事があっても絶対私の事は忘れてください。
それに今も言いましたが、貴方はあくまで一人で東京へ帰って来たと思い込んでください。ここでこうして食事をした事も京都で朝ご飯を一緒に食べた事も全部忘れて下さい。」
「それは何故なの?」
「それは聞かないで下さい。何も関心を持たないで下さい。それから私の言う事を守って頂けるなら、いえ必ず守ってください。くれぐれもお願い致します。
城島さん、私が言った事をお解り頂けるでしょうか?私の存在を打ち消す事です。」
「ええ、戸上さんがそれでうまく事が運べば、俺には何か解からないけど構いませんよ。約束しますよ。」
「では城島さん、貴方にご無理を言っていますから、初めに言わせて頂いたように、貴方に報酬を差し上げようと思います。これは三十万円あります。差し上げます」
「待ってください。おかしいでしょう?三十万円なんて?俺何もしていないのに・・・何かやばい事をされたのですか?それで俺が・・・俺の車に乗った事に大きな意味があるのですか?」
「だから何も聞かないで下さい。これから何かを目にしたり耳にしたりしても、貴方は黙って下さればいいのです。何も語らず私と出会った事など無いと思い続けて下さればいいのです。それだけです」
「でも怖いです。はっきり言って」
「城島さん、今貴方に三十万円払わせて頂き、それとまだあります。一年後の今日ここでまた貴方とお会いしたいです。」
「一年後?」
「そうです。その時貴方が誰にも私の事を話していなかったなら百万円差し上げます。」
「ますます怖く成って来ました?」
「でも冷静に考えて下さい。私は貴方に何かして下さいとお願いしているわけではありません。
何か犯罪に成るような事をお願いしたならそれはいけない事です。
でも私は貴方に何もしないで下さいと言っているだけで、何か行動に移して下さいと言う話ではないのです。貝に成って黙って一年を過ごして下さいと言っているだけなのです。
城島さん一年後の今日貴方とここでお会いしたいです。百万円用意して来ます。」
「なんか雲を掴むような話だけど、こうして六万円も貰って更に三十万円、それから一年後に百万円・・・戸上さん俺何もしないんだね?何もしなくっていいんだね?」
「ええ、その通りです。引き受けて下さいますね。」
「わかった。約束する。何も聞かないし何も言わないから。」
「ええ、一年後楽しみにしていて下さい。」
「解ったよ。其れであんたが助かるなら。それがこの三十万円だね。解ったから、ありがとう。」
トラックは東へ走り去った。
戸上は大きなバッグの上に敢えてカメラを置き伊豆方面に向かうバスに乗り込んだ。
まるでカメラを持って観光しているかのように振る舞って、バッグには三千万円程の金が入っている。
その重みなどその金を手にした経緯を思うとまるで感じない。
大坂で岩下夫妻を殺害した行為は実に残忍であった。
夫の岩下純を紐で気絶させ、その妻を出刃包丁で刺し殺し、金庫から三千万円近くのお金を奪い更に蔵から五百万円にも及ぶ江戸時代初期の磁器を奪い、夫は蔵で首を吊った様に小細工し、その妻茜は夫によって無理やり殺されたように企て、おそらく無理心中ではないかと思わせる状況を作って大阪を後にした。
完璧であったかなど判らないが、とりあえず戸上なりに完全犯罪と思えた。
いずれ誰かに発見されてもその無残な姿から、夫婦間に何かトラブルがあり、夫岩下純が妻を殺した様だと新聞に第一報が載る事に成るだろうと戸上は目論んでいた。
それが俄芝居の精一杯の演出であった。
そもそも戸上は岩下夫妻を殺すなどとは思いもしなかった。骨董品を拝借してそれをお金に出来ればとそれだけであったが、岩下邸の蔵を物色していて、突然亭主の岩下純が入口で仁王立ちになって、がつがつと角張った声を震わせたので気が動転したのである。
咄嗟に側に落ちていた紐で岩下純の首を絞め、気を失わせた事で何もかもが始まった。あまりにも唐突だったにしては、躊躇うことも戸惑うことも無かったのが不思議な位であった。
ただ心の底で潜在意識として、この様な結末は次第に身に付いていたのかも知れない。其れと言うのもこの数年間の間に戸上の心の中で多くの感情が育っていた。
妻がたった一人の従業員と親密になっている事実についても、殺して仕舞いたいと思って眠れなかった事もしばしばあった。
自宅兼鍍金工業が火の手に包まれればいいのにと思った事もあった。そんな潜在意識が蔓延っていて今に繋がったのかも知れない
だから城島のトラックに揺られながらも、当たり前のように次の作戦を考え付いていた。
《城島は私に貰った三十万円を返す覚悟で警察へ行くだろうか?そして一年後に貰えるかも知れない百万円を棒に振る事が出来るだろうか?出来やしない。絶対あの男は私との約束を守るだろう・・・会社も辞めたがっていたから尚更余計なことはしないだろう。だから私は捕まることなどありえない・・・》
その様に思いながらも戻れない何もかも始まってしまった事は確かで、何も無かったように振る舞って自宅へ帰って「旅が楽しかったよ。」などと言えるだろうか・・・どこへも戻れない現実に、その時心に突き刺さるように、これからの己の姿が浮かんできて、深みに嵌ってしまった己の顛末を感じていた。
石廊崎近くまでバスで行き、鄙びた旅館近くでカメラを手に街を散策する様にぶらぶらと歩いた。
バッグは可也重かったが、中には何台ものカメラが入っているように振る舞い、まさか早朝に二人の初老を殺した等とは誰の目にも判らなかった。戸上自身も出来るだけ忘れたかった。
夕方に成った。まだ四時前であったが冬の夕ぐれは何か物悲しくて、明るい性格の者でも心が重く成りそうな時間である。
まして戸上には人知れぬ思いが心の中で蠢いていて、旅館に急いで入って足を延ばし、小さな金庫にバッグを詰め込んで、早速お風呂に入り、湯船の中でこれからの事を想像し、急いでテレビを見るべきであるのか、それともテレビなど見ないでネオン街にでも繰り出すべきか、或はこの儘静かに誰とも会わず眠りに就くべきであるか…などと色々考えていると逆上せてきてお風呂を後にした。
部屋に戻って夜風に当たると、流石伊豆の温暖な気候は、真冬だと言うのに気を許すほどの快適さに心が洗われて行くようであった。
それでも鬱積したものは消えない。取り返しのつかない事をしてしまった事は、肯定しても悔やんでもどうにもならない事は解っている。
言わば心に詰まった何もかもが耐えられないほど溢れていた。
仕事が不調に成ってからでもすでに何年にもなる。たった一人の従業員の磯村洋一が妻と抱き合って口を重ねている所を見つけてからでも何年にも成る。
それからも二人は続いている様であるが、二人には私が全く知らない事に成っているようである。
表面上は何の変化もない家族であり、どれだけ苦労しても磯村洋一には、一日も遅れる事なくきちんと給料を渡して、金策に苦労している私が居る。
理不尽と思いながら抜け出せない私がいつまでも存在し、心の何処かで何もかもをぶち壊したがっている私が存在する。
そして心の中に雑念が鬱積している。
戸上は居ても立っても居られなく成って来て、部屋を出ておかみさんの元へ近づいて行き、
「おかみさん、大きな声で言えないですが、この当りで遊べる所ってあります?」
「ここまで来ればあまり無いですが、タクシーで走れば一杯ありますよ。タクシーお呼びしましょうか?」
女将は笑顔を一杯にしてその様に口にした。
女将が手配したタクシーが玄関前に止められ、戸上は吸い込まれるように乗り込んでネオン街に向かっていた。
「若い子が相手にして貰える様な所案内して貰えます。」
「はい。」
「何もかも忘れる事が出来るような気立ての好い若い子ですよ。」
「はい。私が行きたく成るような子が居る店を案内致しますから、お客さんがその後の事はご自由に」
「なんかぞくぞくして来ました。いい歳をして」
戸上は硬く成って来そうな自分の一物を感じながら、己が男である事を久しくして知る事となった。ドキドキしながらネオンの中に吸い込まれた。
金ならある。時間もある。捨て身に成った己が居る。明日をも知れぬ状況である。捕まれば命は無い。そんな複雑な思いが五十六歳に成った戸上を一層興奮させ、天国へ行くかの思いで何度も何度も果てていた。
忘れていたものが湧き出るように蘇り、あのバブルの頃に味わった何もかもが再度繰り返されていた。
気が付けば日が変わるまで遊んでいて、深夜になり旅館に辿り着いていた。
翌朝番頭らしき男氏から挨拶を交わされ、昨夜の夢のひと時を口にしていた。
「よかったですね。いい思い出になりましたね。」
「罪もない。お金が何もかもを解決してくれるってある意味幸せな事でしょうね。」
たわいもない会話を交わしながら朝食の準備が整った食堂へ案内され、戸上は深く椅子に腰を下ろした。
テレビの音がホールから聞こえて来ていたが、その音を遮るように意識して、戸上は両手で耳を押さえながら大きく欠伸をした。
昨日からの何もかもが気の張る事であった事だったから、全身の疲れに成っていて、今テレビの音に耳を傾ける事も新聞に目を通そうとも決して思わなかった。
出来る事ならこの儘何も知らずにこの旅館を出て行きたいと思えていた。
食事を簡単に済ませ朝風呂に入りながら、今日の事を考えていた戸上は、朝から石廊崎方面に行き写真でも撮って観光客らしく振る舞う事を考えていた。
観光したいわけでも無かったが、心が砕けそうで堪らなかった。
警察が自分を探しているとは思わなかったが、それでも凶悪犯罪を起こした事には違いない。捕まれば死刑に成る事も言うまでもない。
家を出てから三日目になっていた。
長い二日間であった。この間に何が起こったか計り知れないほどの事が起こっていた。人殺し買春など考えられない事が起こった。骨董の寸借程度を考えていた事は確かであったが、三千万円もの大金を掴む事となった。金品強奪殺人と言う考えもしなかった恐ろしい犯行に及んでしまった。
石廊崎から眺める海は果てしなく、それは戸上にこれから始まる「苦悩の後世の日々」にも思えて重く圧し掛かっていて、「死んじまえばいい」とも思った。自暴自棄に成った過去が今も続いている様で、 裏切られた妻も、苦難して給料を払い続けている従業員の磯村洋一も勝手にすればいいと思った。
一日中観光するように散策を繰り返し、気が付けば薄暗くなっていて、「二泊三日で帰る」と言っていたから、帰らなければならなかったが、今の所何の連絡もよこして来ない妻理沙は、従業員と宜しくやっているのかと思うと、辛くさえ成ってきながら、それでも意地で彼の方から電話を入れる事はしなかった。
娘の理恵も息子もまた冷え切った夫婦に思えているのか、二人の間には敢て入ろうとはしなかった。
そんな家族。それでも三十年続いた夫婦。
沈んでしまいそうな夕日を見つめながら、心なしか寂しく成って来た戸上は、その時家族の絆はすでに無くなっている事をはっきり知る事と成った。
戸上が腰を下ろしている所は綺麗な海が見える幹線道路から少し入った所の休憩場所である。
途中酒屋で買っていたワンカップ三本とつまみのスルメを取り出してテーブルの上に置き、ちびりちびりとやりながら、沈む夕日を情緒たっぷりにして眺めていた。
幾ら真冬と言っても伊豆下田は春を感じさすほどの陽気であったから、陽が落ちた今でも刺すほどの寒さなどない。
すでに河津の桜が咲き誇る時期に近づいていて、ワンカップを飲み干した戸上は、すっかり上機嫌になって、三千万円の入ったバッグを抱き枕にして深い眠りに就いてしまった。
心の中にある雑念が戸上を苦しめ、更には追いつめ、思う以上に酔いが回ったのかも知れない。
疲れ切った体が堪えられなかったのか、グウーグウーと鼾まで掻いて眠ってしまった。
通りすがりの観光客も近くへ来ていたが、まさか人を二人殺したとも三千万円を抱いて寝ているとも誰も知る事はない。
戸上が目を覚ましたのは既に深夜近くに成っていて、その事実に驚いたのは戸上本人で、犯罪者である事など忘れて、早くホテルで熱いお風呂へ入り、暖かい布団の中で眠りたいと思えて来た。
誰もいない。まして真冬の深夜、車などどこからも来ない。真っ暗闇の中をぼそぼそと歩きながら幹線道路を灯りのある北の方へと向かっていた。
❺
やがて一台の車が南の方から来て、戸上は咄嗟に千鳥足でふら付きながら、バッグを持ち上げてその車に止まってくれる様に合図をしたが、その場所はカーブに成っていて、車は戸上の方に向かって来て道なりに曲がる事なく、戸上はふら付いて鞄の重みでバランスを崩し躓き、前に倒れそうになった所へ車が突っ込んだ。
「ドン」と大きな音がして戸上は草むらに撥ね飛ばされ道の下の崖に消えた。バッグはボンネットに乗り上げたのち道路脇に転がっていて、助手席の若者が車から降り、
「やばい事になった。行き成りおじさんが出てきて鞄を上げたから、幸雄はそれが気になったんだな」
「そう、いきなりだったから、大変なことになった・・・」
「やばいよ本当に。崖から落ちたかも知れないな」
「助けないと」
「なぁ、見当たらないよ。この儘逃げようよ。俺たち飲んでいるじゃないか」
「逃げるって?」
「だから誰も来ない内に。あの鞄も拾うから、さぁ早く!誰も来ない内に逃げよう」
助手席から降りた若者は急いでバッグを拾い後ろの座席に放り込んで、飛び乗るようにして「速く走って」と言って車を走らせた。
撥ねられた戸上は雑木と草むらの中で気絶して、夢の中で死んだ様に成っていた。
戸上を撥ねた若者たちは東京在住の大学の同級生で、下部幸雄、柏谷誠、飯村博の三人で、この日四月から社会人に成る事でお別れ旅行を企てていたのであった。
すでにお酒が過ぎる位まわっていて、更にこれから男の遊びにふける積りであったので、心は興奮状態であった。
そして人を撥ね、怖さとお酒が入っていた事の罪悪感、更には将来の姿を思うだけで、撥ねた男の事など構っていられなかった。
「不味いんじゃないの?今からでも遅くはないよ、戻らない?警察にも救急車も」
飯村博がその様に言ったが柏谷誠が頑としてその言葉を打ち消すように、
「そんな事したら何もかも終わるじゃない。採用通知を貰っている事も帳消しに成ると思うよ。」
「でもこの儘では豚箱に入る事にならないかな、俺嫌だよそんな事」
「飯村、ビビるなよ。あの場所は木や草が生い茂っていて簡単には見つからないと思うよ」
「でもまだ生きていると思うから、今なら助けられると思うんだよ。違う?」
「・・・」
返事のしない二人に苛ついて飯村は、柏谷が投げ入れた鞄のチャックを何となく開けるなり、大きな声で叫ぶように口にした。
「なぁ柏谷も下部もこれを見てみろよ。」
「なに?」
「これ、万札が詰まっているよ。」
「何だって?」
「だから一万円札がぎっしり詰まっているよ。」
「じゃーあの男一体何者?あんな夜更けにこんな大金提げて?」
「訳アリだね」
「密輸?それとも何かの取引?俺達を誰かと間違えたのかな?俺達には手に負えない事件が潜んでいるかも知れないよ」
「どうする?」
「裏社会の者とか言われると俺達おしまいだね」
「飯村お前どうする?誰よりも慎重だから」
「怖く成って来たね。この儘逃げれるものなら逃げようか」
「そうだね。岩村がその様に思うのならそれが正しいと思うよ。俺たちにとってそれが得策だよ。」
戸上康之は誰にも発見される事なく全身打撲と内臓破裂などが重なり、衰弱して草むらの中で息絶えた。幾ら伊豆とは言えやはり真冬、五十六歳の体では耐えられなかったのである。
神様は戸上がこれ以上生き続ける事を許さなかった様である。
それは意識が戻りつつあった彼であったが、助けを求めたりする事なく、朽ちていく己に酔っているかのように息を引き取った。
四日目になり帰宅予定を過ぎた戸上の妻は、面倒臭そうに警察に相談していた。
妻の理沙は子供たちには大事な夫であるかのように振る舞っていたが、従業員の磯村洋一とは可也の仲に成っていて、子供たちに付く嘘と本当の心がぎくしゃくしていた時期であった。
「もう少し様子を見てみましょう。」
無責任な結論にも妻は何も言わなかったのは、不倫の最中であった事が大いに影響していて、正直このまま帰って来なくても良い様に思えていた事も確かであった。
人身事故を起こした三人の大学生は、東京の大学へ帰り、ハンドルを握っていた下部幸雄は些か参った様子であったが、柏谷誠は何が何でも隠し通す決意を固めていた。純情な心の飯村博も柏谷の迫力ある言葉に屈し静観を貫いていた。
そして三千万円ものお金は柏谷の考えで隠し金にする事を決め、万一事故が明るみになり三人の将来がめちゃくちゃになっても、その金で耐えれば良いと判断したのである。
外国へ逃げる事だって可能であると飛躍した事まで考えて、お互いの不安に成る心を静めあっていた。
戸上康之は誰にも発見される事なく白骨化し始めていた。
それからとうとう丸一年近くになり、捜索願が出されている戸上康之は、誰からも何の情報もなく時が流れていたが、戸上の鍍金工場もまた主人の居ない事業となり行き詰って解散していた。
そして多額の借入金の返済に家財の何もかもを処分して、残された家族は小さなアパートで暮らす様に成っていた。
丁度丸一年を迎え、また一年前と同じ様に冬が来て、そわそわする毎日を重ねていた一人の男がいた。
あの戸上から「一年後に今日ここでお会いしましょう」と言われたトラックドライバーの城島聡である
「一年後の今日貴方に百万円をお渡しいたします
約束します。」
戸上のそのはっきり言った言葉を信じて貝に成り、この日を首を長くして待っていた。
小田原にやってきた城島聡はあの時と同じドライブインで疑うことなく戸上康之を待った。
一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、七時間待ったが、とうとう出会う事はなかった。
そして待ち続けて時間つぶしを重ねていて、夜になり交番で見つけた一枚のポスターに驚かされる事となった。
それは戸上康之が笑って写っている写真であった。
「この人捜しています」
戸上の顔はよく覚えている。ましてこの写真のように顔の右側の眉毛の所に小さな黒子がある事もはっきり覚えている。
彼をトラックに乗せて、何度も彼の顔を見て笑いあった事があり、その時右側の顔を何度も見ていたから特に右側はよく覚えている。間違いない。
「せっかくここまでわざわざ来たのに・・・何時間待った俺は・・・なんてことだ・・・馬鹿みたいだな。」
百万円は夢物語になり、城島は少々がっかりしたのと、僅かばかりであったが腹が立ってきて、信じた自分が馬鹿だったと思いだしたが、それでも諦めきれずポスターをじっと見つめていると、いつの間にか後ろにおまわりさんが城島を見張るように見つめていて、
「何かお気付きの事がございますか?」
その様に口にして軽く笑い顔になった。
「いえ、」
「そうですか・・・何かお気付きならご協力ください。」
「はい」
城島は交番から慌てるようにして離れて駐車場に向かったが、それでも何故か気に成って、捕らぬ狸の皮算用などせずに心のケジメを付けたいと思い、思い切って交番に引き返していた。
「実は今日表のポスターの人からお金を戴ける事になっていました。」
「それはどう言う意味でしょうか?」
「はい、私にもはっきりしませんが、あの方がお金をあげるからここへ来て下さいと言われまして」
「それはいつでしょうか?」
「去年の今日です。」
「去年?」
「ええ、実は私トラックの運転手をしていたのですが、この方を大阪と神戸の間の国道2号線で、あの方がヒッチハイクをされ私の車に乗って貰ったのです。」
「関西で、ですか?」
「はい、それでこの方が小田原まで乗せてくれないかとなり、更に高速代も払って下さり、それに
それに」
「それにどうされましたか?」
「言っていいのか・・・実はこの方はお礼として三十万円のお金をくれたのです。
それはあの方が言うには、私があの方を車に乗せて小田原まで来た事や、私と出会った事も全て忘れて下さいと言う事でした。
誰に聞かれても家族であっても恋人であっても、誰にも言わないで下さいと言う事でした。
更に別れ際、約束を守って下されば、一年後に百万円を差し上げますと言われたのです。それが今日でこの場所なわけです。」
「なるほど。ミステリアスな話ですね。」
「ええ、現実離れしています。だから当時三十万円もの大金を頂いたので、犯罪の匂いがして怖かったですが、その時この方は私に、何もしないで下さいと言う事だから問題ないでしょうと念を押され、
逆に何かをして下さいと言われれば断っていたと思います。
犯罪で手を汚すような事はしたくないですし、ただ私も仕事を辞めたかった事もあり、正直お金があれば何より在り難かった事もあり、雲を掴むような話でありましたが、引き受けさせて頂きました。車に乗せたことを誰にも黙っていることだけでしたから
あの方が可也前から行方知れずになっている事など全く知らず、今日こうして夢膨らませて浮き浮きして来たのです。」
「当てが外れましたね。そうですか・・・一年前の今日ですか?」
「だからあの方を車に乗せてあげたのは一年前の今日の早朝です。真っ暗な時でした。まだ早朝の三時過ぎとか四時とかだと思います。」
「大坂と神戸の間の国道2号線でですね。」
「はい」
「構いませんでしたらもう少し詳しくお話お聞かせ下さい。妻にお茶でも出させますから」
「はい。」
「これから大阪府警と兵庫県警に何か起こっていないかお聞きしてみようと思います。あのポスターの人が消息不明になった時、どうも商売の板金工場が行き詰っていて大変な状況だったようで」
さっそく制服の巡査は電話を手にし、
「大阪府警尼崎署ですね。お尋ねします。実は神奈川県警から捜索願の出ている方の事で、その人物を見かけたと言う方が来られ、今こちらで詳しい事をお聞きしていますが、捜索願の出ているのは戸上康之と言う男です。
実はこの人物を一年前の今日の早朝、大阪の尼崎近くの国道2号線で車に乗せてあげたようで、この小田原で降したそうです。
其れでお礼にと三十万円もの大金を手渡され、更に車に乗せてあげた事も、小田原まで来た事も黙っていてくれれば、一年後の今日、百万円渡すと言われたそうです。
❻
嘘のような話にも思えますが、三十万円貰ったのは事実のようで、そこでちょうど一年前尼崎に限らず大阪もしくは兵庫で、現金強奪事件等御座いませんかお聞きしようと思いまして」
「よく解りました。実は一年前奇妙な事件がございまして、本日の朝礼でもその事象を幹部から聞かされています。
大阪郊外で丁度一年前、資産家の初老夫婦が亡くなっていたのですが、それで妻は夫によって出刃包丁で刺殺され、夫は蔵で首を吊って死んでいたと言う出来事がありました。
夫による無理心中ではないかと思われましたが、検視の結果、夫は首を吊る前に絞められた跡がある事がわかり、どうも他殺された可能性があることも事が判りました。
更に銀行や証券会社を調べると、多額の現金が金庫に入っていた事も判ってきて、強盗殺人であると我署は捉え捜査本部を立ち上げています。」
「強盗殺人ですか?丁度一年前にですか?」
「はい。極悪非道な事件と捉えています。恐れ入りますが、今そちらへ来て頂いているその方に二、三お聞きさせて頂けないでしょうか?」
「ええお聞きします。お待ち下さい。」
そう言って巡査は城島を見つめ
「大阪の尼崎署の方がお聞きしたい事があるようで構わないでしょうか?」
「はぁ・・・」
「ではお願いします。」
それから尼崎署の刑事が城島の東京の自宅まで来る事となり素直に協力する事となった。
更に城島は戸上康之の家族とも会う事となり
詳細を何度も口にし、戸上は大阪の現金強奪殺人事件の重要参考人として全国に指名手配される事となった。
城島はこの時期になって戸上との約束を破棄した事を悪く思い躊躇したが、事既に遅く戻れない状態になっていた。
それにしてもあの大らかで金離れが爽やかであった戸上康之が、家族の話では悲惨な経済状態であった事を聞かされ愕然とした。
それは言い換えれば戸上康之が金銭的に追い詰められていて、凶悪な犯行に及んだ事が頷ける結果となった。
百万円を貰いそこねた事のショックも手伝って、事が思わぬ方向へ急転してしまった事も懸念され、城島は余計なサイコロを投げてしまった事を後悔した
大阪府警から強盗殺害事件の容疑者として指名手配された戸上康之であったが、消息は二年目になっても三年目になっても掴む事が出来ないまま時が流れ、四年目に成った時に思わぬ事が起こる事となった。
それは戸上が提げていたバッグにお金とカメラと、更に新聞紙に頑丈に包まれていた江戸時代の磁器で、その磁器が骨董品店に出回ったからである。
実はその品物は大阪の岩下邸の蔵から盗まれた物である事が判ったのは、その品物は岩下夫妻が殺された後日に盗難届が出されていて、大阪府警から文書で骨とう品店や質店に知らされていたのである。
その品物を骨董品店に持ち込んだのは、東京都在住の柏谷誠の父親で柏谷栄一郎と言う人物であった
栄一郎の子の柏谷誠はかって伊豆で下部幸雄の運転する車で、戸上康之を撥ね飛ばし、崖っぷちに放置した仲間であり、更に戸上が持っていたカバンを取り上げて三千万円入りの鞄を持ち去った人物である。
「柏谷栄一郎さんですね?」
「はい」
「私、警視庁の刑事の坂谷岩男と申します。」
「どのような御用でしょうか?」
「実は貴方が先日骨董品店に磁器を持ち込まれましたね?」
「ええ子供に頼まれて」
「お子さんにですか?」
「はい、子供が売ってくればって言うから近くへ行く用事がありましたから。でもあれってどうも偽物のようで五千円でならって言われがっかりでした。其れでその様に子供に電話すると、『ガソリン代位に成るじゃない』って言い。それでもいいからって売ってしまいました。」
「どうしてその様な物をお子さんが手に入れたのでしょうね。」
「それは判りませんが、あの子は家庭教師もしていた事もあり、何方から頂いたのでしょうね。卒業に成れば田舎へ帰る同期生も沢山いますから貰ったのかも知れません。でも刑事さんが何故あのような物に関心を?」
「今日はご子息は御在宅でしょうか?」
「いえ彼は今はここには居ません。大阪へ昨年から転勤しています。」
「そうですか?大阪のご住所お判りですね?」
「ええ勿論」
「メモリます。仰って頂けるでしょうか?」
「はい、」
紙に書かれた住所をもう一人の何も口にしないで立っていた刑事の田川が、外へ出て大阪府警へ電話を入れた。
「実は栄一郎さん、貴方が骨董品店に持って行かれた磁器はとても高価な物で、江戸時代前期の物のようで、時価五百万円は下らない物らしいです。」
「まさか?私騙されたのでしょうか?あの骨董品店に?」
「まぁその事はともかく、よくお聞きください。
其れで問題は、あの品物は実は大阪の岩下純さんと言う方の所有物で、盗難届が出されている品物なのです。
実は岩下さんはすでに亡くなられていて、盗難届はご子息が、お父さんが亡くなられた直後に出されています。
そしてこれから話す事はとても重要な事ですからしっかり聞いてください。
あの磁器は四年前岩下邸の蔵から盗まれたものです。そしてそれだけではありません。あの磁器が盗まれた日に岩下さんご夫妻が殺され、更に金庫に入っていた数千万円のお金も消えているのです。
つまり凶悪な強盗殺人事件が起こったわけです。
当然犯人として浮かび上がったのは、今重要参考人として指名手配されている戸上康之と言う神奈川の六十歳の男です。
その男が持って逃走している筈のその磁器を、貴方が骨董品店に持ち込んだわけです。」
「待って下さい。私がそんな事に係わったと・・・」
「ええ、」
「息子に聞かなければ解りません。あれは息子が持っていたものだと思います。誰かから頂いた物かも知れません。とにかく息子に・・・」
「ええ、至急に息子さんの身柄を大阪府警に拘束して貰います。」
「まさかそんな事に・・・」
「何方かに貰っただけなら良いのですがねー」
大阪府警に職務質問され事情を聞かされた柏谷誠は、刑事たちの顔色を見るなり、意気消沈したように項垂れ、抵抗する事もなくパトカーに乗り込んだ。
そして逃げられない事も承知であったのか、或はこれまで彼なりに気にして生きていたのか、草臥れた顔が何もかもを物語っていた。
それでも柏谷誠は頑として父が骨董品店に持ち込んだ磁器に関して口を割る事はなかった。
口を割れば何もかもが明るみになり、下部幸雄が人を轢き逃げした事や、お金を奪ったことなど、その状況を口にしなければならなくなり、それだけは絶対口にしたくなかった。
勿論三千万円の金は未だ誰も手を付ける事なくある所に隠してあり、万が一警察に捕まった時にその後の生活費に置いておく事を誓っていた。
もしこの様な形で警察に身柄を拘束されるのではなく、やばく成って来た事を感じる時間や余裕があるなら、海外に飛び出す事も三人で何度か話し合った事があった。
それは事件に関係なく疑われる迄に日本から離れるべきだとも話し合ったのである。逮捕されると言う脅える気持ちも、海外に行けば無くなる事が考えられ、その様にしたいと飯村博などはよく口にしていた。
「正直に言いなさい。あの磁器は大阪の岩下さんの物である事は判っている。柏谷さん、貴方あの磁器をどのようにして手に入れたのですか?それを詳しく言って下さい。」
「誰かに貰ったと思います。いえもしかして拾ったのかも知れません。ですから俺あの入れ物をペン差しにして机の隅においていましたから、冗談のように父に言って売って貰ったら、あの磁器は五千円だって言っていましたから」
「それは骨董品店の亭主にそのように言われたからで、つまり亭主は盗難品だと言う事が判っていてそのような値を付けたんだよ。
だから五千円で納得した貴方の親父さんは犯人ではないと判断したわけ、でもお父さんが言うには貴方も五千円で納得して売ってくれと言ったようだな」
「ええ、面倒だったから。でも俺正直もっと高いものだと思っていたよ。頑丈に包んであったから」
「そうだよ。あの磁器は五百万円の値がついているのだよ」
「五百万円?まさか!」
「そのまさかなんだよ。其れであの磁器をどのようにして手に入れたか言ってくれるね?それをはっきりさせないと帰って貰えないから、会社にも迷惑掛けるだろう。よく考えて、貴方の将来の為に」
「・・・」
「それともう一つ聞きたい、話は別なんだけど、四年前の冬に貴方小田原へ行かなかった?
戸上と言うこの事件の重要参考人は、四年前の冬に二人の人を殺して後数千万円のお金や磁器を奪い、小田原へ行っている事が判っている。覚えがないかな?」
「・・・」
「思い出せない?
答えられない?貴方が思い出せなくても徹底的にホテルや旅館を調べるから、それでいいよね。伊豆方面も調べないとなぁ。貴方が大学四回生の時だな。」
「・・・」
「思い出してくれたかな❓貴方の年齢で磁器なんかくれたりするって事先ず無いだろう。何故あんな物を持っていたかだな。生れてこの方仲のいい友達に磁器を何度貰ったかな?あの磁器が初めてだろう?あんな高価な物誰かの結婚式で貰ったとも考えられないし、幾ら偽物であっても。さぁ言って貰おうか、どのようにして手に入れたか?」
「・・・」
「柏谷さん、今何を思っているか知らないけど、いいか二人の人が殺されているんだよ。犯人と思われる戸上康之は未だに逃走して第三の犯行を企てるかも知れないんだよ。よく考えてくれる。一刻も早く犯人を逮捕しないといけない事を。」
「一日考えさせてください。じっくり考えて何方から貰ったのか思い出します。或はどこでどんな風にして手に入れたかも」
「今は判らないと言い切るんだな」
「ええ、事実ですから」
「でも今日はここで泊って行って貰うから」
「どうして?」
「窃盗容疑で」
「そんな事むちゃでしょう?」
「無茶?いいか、これは殺人事件の取調である事を忘れて貰っては困るよ!」
「・・・」
「柏谷さん本当に思い出せないのか?」
「はい」
「では明日は是が非でも思い出して貰うから、今日はここで頭を冷やして泊まってくれるか」
翌日になり柏谷たち三人が四年前小田原には行っていなかったが、伊豆方面へ行っている事が柏谷の家族の証言で知る事になった。それは大学生活最後のお別れ会である事も判った。
柏谷誠、下部幸雄、飯村博の三人で下部の車で出かけている事も判った。
「柏谷いろんな事が判って来たぞ。お前たちは四年前の冬伊豆下田方面に行っているな。下部幸雄の運転する車で。其れでホテルへ泊まっている事も判っている。全部昨日から調べ上げた。
柏谷素直に言ってみろ。そこで何があった?戸上康之と接点があるだろう?逃げられないぞ、」
「・・・」
「何もかも白状して楽に成れよ。」
「出会ったな?戸上と?何とか言いなさい。お父さんを呼ぼうか?」
「解りました。俺どうすればいいのか・・・俺の口から何も言いたくありません。言っちゃいけないと思う。貴方方が何もかも判っているなら勝手に取り調べをしてください。
下部や飯村の事も判っているなら、勝手に彼らに聞いて下さい。俺の口からは絶対言えないです。」
「そうか、つまり何かを庇いあっているのかな?お互い友達だから」
「そうかも知れません。だから何も言う積りはないです。」
「柏谷、では下部と飯村の二人をしょっ引くから」
「・・・」
❼
翌日になり下部と飯村の二人の男は任意同行を求められ取り調べられる事となった。
終日同じような質問が繰り返され、比較的真面目な飯村が泣きだし、困り果てた顔をして俯いてしまった。
また当時運転をしていた下部も自責の念に駆られて、とうとう真実を口にしたのである。
「伊豆半島の西海岸を走っていて、深夜に道に飛び出してきた男性を車で撥ねました。それが誰であったのかは判りません。年配の男性であった事位です。行き成り車の前に飛び出すように出てきて、鞄の様なものを振りかざされ、そこはカーブであったので、ついその人に目が奪われる様に成ってぶつかってしまいました。
その人は車に弾き飛ばされるようになって、草むらに転げ落ちたのか姿が判らなかったです。
救急車と考え又三人で話し合いましたが、柏谷が逃げるように口にした時、三人は可也飲んでいた事もあり、また春から社会人に成る大事な時であった事もあり、柏谷の言うように怖くなってきて 逃げる事としました。
飯村も随分悩んでいましたが、みんな就職活動に骨を折っていたので、卑怯な判断をしてしまいました。
道路に男の人が持っていたカバンが横たわっていて柏谷がそれを車の後部座席に放り込んでその場を立ち去りました。
その後あの人がどのように成ったのかは誰も知りません。東京へ帰って気にしていましたが、新聞にも載らない毎日が続いたので、大した事が無かったのではないかと次第に思うようになり、ただあの時後部座席に乗っていた飯村が、男が持っていたカバンに大金が詰まっている事を見つけ、我々はとんでもない人を撥ねてしまったと思うようになりました。
あの時三人で話し合った事は、正しく裏金と言うか裏社会の人ではないかと感じていたのです。
だからそれまで飯村始め私も警察に言わなければと思っていたのですが、あのお金を見つけてから気が変わり一目散に逃げる事を考えたのです。」
「そうか・・・それでどの場所で男を撥ねたか判るか?」
「いえ真っ暗闇でしたから、ただ伊豆半島の西海岸であった事だけは確かです。叱られるでしょうが可也飲んでいましたから」
「そうか・・・戸上はあんたに撥ねられながら、前の日に殺人を犯していたから、必死で逃げたのだろうな。西伊豆で事故は何件かあったが、戸上では無く他の人だったから・・・何処かの骨も折っていたかも知れないが逃げたんだろうな。
其れで鞄を奪って三千万もの金はどうした?」
「置いてあります。誰も手を付けていません。もしあのお金が裏社会の人のお金ならと思うと、家族の事なんか考えたら捨ててしまいたいくらいです。」
「どこにあるのだ?」
「飯村が持っています。分ける事も考えませんでした。ですからみんなで相談して慎重な性格の飯村に預けてあります。
別の取調室では飯村博がガタガタ震えながら刑事の言葉に耳を傾けていた。
「あんたが戸上から取り上げた現金を持っている事は聞いている。間違いないか?」
「はい」
「それでその金は今どのように成っている?」
「はい実はあまりにも怖くなって伊豆で起こった事を俺こっそりと親父に相談したのです。
俺はあの事故を起こしたとき、警察や救急車を呼ぶものだと思っていたのですが、柏谷が声を張り上げて、そんな事すれば何もかも無茶苦茶に成るって言って、みんな就職先も決まっていた事もあり、またお酒を飲んでいたので、柏谷の考えも一理あるなと思うようになり、さらに轢いた男が持っていたカバンの中身を見た途端に気持ちが変わりました。
何千万円ものお金が入っていて怖くなってきて、逃げる事を俺も思いつきました。お金が欲しかったのではなく怖かったからです。
その後、俺がそのお金を管理するように二人に言われ、渋々その様にしましたが、それでも俺はあの事故はやはり警察に言うべきであったと後悔するように成ってきて、とうとう何もかもを父親に相談したのです。」
「其れであんたの親父さんはその時どのように言った。」
「一人息子のお前がそんな事になっているとは残念だな。でも父さん聞かなかった事にしておく。お前も言わなかった事にしてこのまま粛々と生きなさい。
お金は怖いのなら父さんが預かってやるから、もし父さんがお前を叱って警察に行きなさいとなれば、少なくともお前達三人の将来は無茶苦茶になる事は言うまでもないな。運転をしていた下部君の罪はかなり重いだろうな。飲酒運転で轢き逃げ更に現金強奪・・・随分罪は重いだろうな。
其れで下部君に轢かれた人はどんな様子だった?まさか死んでしまったって事はないだろうな?」
「解らない。道端の雑木や草むらに放り投げられるようにして飛んで行ったように思う。それ以上は判らない。柏谷君が車から降りて見ていたけどすぐに立ち去ったから判らない。」
「大きな事故になっていなかったら良いのだけどな」
「でも翌日新聞を隅々まで見たけど載っていなかった。その後何度もニュースを気にしていたけど、それらしい事は一切なかったから、大した事なかったのだと思うようになり、心の中の動揺は次第に収まって行ったと思う。」
「そうか・・・これからは充分気をつけなさい。お金はとりあえず父さんが預かっておくから」
「そのように言われて今に至っています。」
「それならあんたの親父さんも来て貰わないとな」
「・・・」
「現金横領とか言う罪になるかも知れないぞ」
「そうですか。俺父さんにも迷惑掛けてしまったと思うと辛いです。」
「あんた達は大学と言う高等教育を受けながら、エゴか何か知らないが、ボタンを掛け間違った事が大きく成ってしまったわけだ。罪はきっちり償って貰わないとな」
「はい」
それから二日後に飯村博の父親飯村明が警察の尋問に答えていた。
「お金は今どのように成っているのですか?」
「預かったままで置いてあります。」
「どこに?」
「はい、でもそれは・・・」
「言えないのですか?どうして?」
「私株式の売買をしていまして」
「何か関係あるのでしょうか?」
「それでですね。実は子供から預かった金は株式に投資して」
「まさか、それで?」
「ですからそれで大きく下がってしまい大変な事になっていて・・・」
「何を言っているのです?」
「ですからあのお金は殆どが消えてしまって」
「まさか、どうもそれが事実なら貴方が一番悪党と言う事になりますよ。情けない父親ですね
全く。弁償出来るのですか?大きなお金ですよ。
どうです。横領詐欺に当たりますよ」
「・・・」
「自分のされた事をしっかり認識されていますか?犯罪ですよ」
「返します。」
「返せるのですか?」
「何とか・・・」
「どのようにして?」
「自宅を売却してでも返します。」
「とにかくこの儘では横領詐欺になります事を言っておきます。」
「はい申し訳ございません。」
「お金の事は警察は踏み込めませんが、今貴方が口にした事しっかり守られるように、相手がある事ですから、」
「はい、どんな事になっても、弁護士さんに相談して最悪自宅を売却してお金をお返し致します。覚悟しています」
「その覚悟した気持ちをしっかり守って下さい。判決で考慮される事もあると思われます。この儘では間違いなく横領詐欺罪が成立すると思いますよ。」
「解りました」
伊豆の轢き逃げ事故は被害者が見つからないと言う事で処理され、下部幸雄以下戸部誠、飯村博は三千万円窃盗と高価な磁器の窃盗などの罪であったが、お金は飯村博の父親が使い込んでいた事でその罪は逃れ、また飯村博の父親は自宅を売却してお金を作る約束をして事が収まった。
磁器も骨董品店から返却され岩下家に戻る事となった。
よってこの轢き逃げ事件は大きな罪を受ける者もなく略式起訴て事が収まった。
ただ戸上康之は誰一人すでに死んでいる事など知らないから、警察は家族からの要望で捜索願のポスターを作り、更に大阪老夫婦殺害及び金品強奪事件の重要参考人として指名手配のポスターを作っていた。
柏谷誠の親も飯村博の親も言わば親ばかである。
子供の為に役に立とうとして墓穴を掘った。
凛として何事にも正々堂々と対処しなければならない筈が、決してその様にはいかない。
家族が上手く行く事は誰もが望み、その為には片目も瞑る。
下部は社会人と成り係長の位も身に付いて来て、戸部誠も貫録が出てくる歳となり、二人とも結婚して子供も授かり、悠々自適な毎日になっていた。ただ飯村親子はお金が災いして躓いたので、決して上手く行っておらず、父はその後自宅を売却して三千万円は都合つけたが、大病になり長年勤めた証券会社も退き、二年前息を引き取った。真面目であった博は、その性格から決して上手な生き方は出来ず、東北の漁師町で魚加工工場で働いている。
時が流れ、大坂の岩下夫妻が殺された時から数えて八年近くが流れ、それは戸上康之がお伊勢参りに行ってくると言って旅行に出てからと同じであった。
丁度八年が流れた。
戸上の妻も既に六十三歳になり、どこから見てもおばさんである。まだ夫が居た頃は浮気もしたが、其れも金が無くなってアパート暮らしに成った時に鳴りを潜めた。
当然主人としての戸上康之の面影など微塵もなく、父親である事さえ時折口にする程度になっていた。強盗殺人で重要参考人扱いである父など、係わりたくなかった事は言うまでもない。
戸上に襲われて主を亡くした大阪の岩下家は無人となり、壊される事なく佇んでいた。
主の居ない大きなその邸宅は、苔むして所々朽ち果て、それでも由緒ある邸宅は見事な姿を今に伝えていた。
ところが二年前、岩下家にとんでもない事が起こってしまった。
実は岩下家はこの界隈では大地主で、大阪市内で住む長男も再三この地を訪ねて、何かと作業をしていたが、本職はサラリーマンゆえに、草刈や農作業などは結構重労働で可也無理をしていた。
其れも突然両親が居なくなった事の皺寄せであった。その無理が祟ったのか山の中で一人で作業をしている時に倒れ、長い時間放置された後、救急車で運ばれたが脳梗塞であった。
以後二年間病院暮らしとなった。
同じように二年前に岩下家にある出来事が起こっていた。
それは戸上康之が八年前岩下家を襲い、三千万円を強奪した事があったが、その三千万円を提げた戸上を伊豆半島で深夜車で撥ね、お金を奪った三人の男たちの一人飯村博のその父親が、三千万円を預かっておくと言いながら、その金で株に手を出し、無一文になって警察沙汰に成ったわけであるが、飯村の父親は責任を取って自宅を売却して三千万円を都合し、そのお金を岩下家に返却した年でもあった。それはその後直ぐに飯村の父親が気苦労と重病で命を引き替えにした年でもあった。
伊豆の河津さくらがシーズン真っ盛りで観光客が目白押しに増え始めたころ、深夜になり国交省の車が何台も連ねて道路掃除に励んでいる。
同時に国交省の職員が蟻のように忙しく白い息を吐きながら道を綺麗にしている。
道端の隅々には枯れ木やゴミや草が山のように積もっていて、熊手でかき集めたその中から、人の骨らしき物を発見する。
「これって人骨では?」
「まさかこんなところに」
「いえ、そうかも知れませんよ。犬にしては太いしイノシシとか鹿とかかも知れないですが」
「いや待って下さい。まだあります。人のようですね。頭がい骨らしき形の骨があります。あー、ここにまだ固まってあります。人です。人に間違いありません。もっと灯りを照らして下さい。」
「人だな。間違いない!大人って感じだな。警察、警察、警察に電話!」
「はいすぐに」
❽
警察の鑑識が来て、木や草の間から骨が重なって見つかった場所の何もかもを集め始めた。衣服も残っていて上着の内ポケットから、財布らしきものも発見する事ができ、夜明けまで鑑識は目を細めて遺留物をほじくるように探した。
免許証も発見され薄く残っていた番号から、戸上康之の持ち物である事がわかる事となった。
重要参考人としいて指名手配されていた戸上は伊豆の幹線道路で白骨化して八年ぶりに姿を現した。
数日経ったのち鑑識により、戸上は行方を眩ませた頃に亡くなった可能性があると見解が出て、それは大学生の三人組がお酒を飲んで西伊豆を車で走っていて、男を撥ねて逃げた時と重なった。
翌日大きく新聞にそのニュースが出て、三人の当時の大学生は身柄を拘束され所轄に連行されていた。
大坂の岩下家にもそのニュースは警察によって伝えられ、下半身不随になっている長男も、身体を震わせながら涙を流して喜んだ。
身柄を拘束された三人の元大学生下部幸雄、柏谷誠、飯村博は轢き逃げ、現金横領などの罪で再逮捕され、この八年間培ってきた多くのものを失う事となった
特に下部幸雄を筆頭に後日伊豆下田警察へ連行され、手錠をかけられて現場検証に立ち会わせられ羞恥に曝された。
また下田警察署へ連行された三人は警察署長より
「貴方方のような高等な教育を受けたはずの若者が、この様な情けない事を起こして実に悲しい。おそらくこれから牢獄に入って、冷たい飯を食って反省の毎日が続くでしょう。
貴方も貴方もお子さんの居る身、当然奥さんも泣かせてしまったのですね。血が出るほど反省しなさい。二度とこんな過ちを起こさない正直な人間に生まれ変わりなさい。
身勝手で卑怯な人間は、相手が誰であっても通用しないのです。それが奥さんであっても子供さんであっても、
良くお聞き下さい。これから受ける刑とは一番生ぬるいものなのです。
本当はもっと過酷で厳しいものなのです。
何故なら下部さんは一人の男を殺したのですから本来貴方も死ななければならないのです。
でも貴方に課せられる刑はそれほどの刑ではありません。ですからこれから裁判で受ける刑は、貴方の人生の中で、ほんの一部なのです。本当の刑は貴方が心を入れ替えて生涯命の限り償って行く事なのです。判りますね。」
三人は俯いて署長の言葉に耳を傾けた。
大坂の岩下純、茜夫妻の金庫にあった三千万円のお金は、まるで足がついているかのように人の手を渡って長い旅の末、元のさやに納まった。殆ど同じ金額で、
この三千万円のお金はこれからどのような風に動くのかは、岩下氏の家族だけに委ねられた。
それは金庫にこれまでのように眠るのか、或は長男の病気の治療代に消えるのか等と考えられる。
それにしても金は多くの人生を変えていく。
お金は人の幸せを買ってもくれるし、不幸になる切っ掛けにもなる。快楽の原動力にもなり、人を騙す道具にもなる。喧嘩や諍いの元にもなり、信じあう糧にもなる。
それにしても岩下家の金庫に眠っていたこの三千万円のお金は、多くの人の人生を変えた。
戸上康之はこの三千万の為に人生が無茶苦茶になり、命を落とす事となり、三人の大学生は結果的に人生を汚す事になり、トラックの運転手城島聡も百万円を一年待ちながら貰い損ね、大学生の父親たちは一人は親ばかで盗品の骨董品を売りに出し、警察にこっぴどく叱られ、もう一人の父親は思わぬ金に目がくらみ、卑しい根性が生まれ、結果的には家まで失くして、更に自分の命まで縮め、そして一番の被害者である筈の岩下家の長男は、脳梗塞になって下半身不随の身となり、この現実は病気に成った誘因として、両親が殺された事で実家を守らなければならなかった事(欲と常識)と大いに気を病んだからかも知れない。
この様に三千万円に関わった人の周りで、多くの人達が人生を狂わせて仕舞った訳であるが、これから狂いだす人も更に居るようだ。
岩下家の若嫁は夫が若くして下半身不随になり病院生活。当然何もかもが不能である。
つまり嫁は女として考えても、一人の人間としてでも、それよりこの人の人生そのものを考えても不満である。
だから最近憂さ晴らしでパチンコに再三出向き没頭している。
夫は病院で完全看護、腐るほどお金がある大地主の岩下家であるが、何もかも上手くなど行かない。
更に子供に恵まれなかった事もあり、言わば一人暮らし、そこで不安なあまり実家の母を再三呼び更に親父も入りびたりになり、岩下家は嫁がその全てを今は完全に牛耳っている。
おそらくこの家は亭主が戻る事はないだろうから嫁の旧姓の磯村のものに成るのだろう。
涙一杯にして実家へなど戻る気配は更々ない
その嫁は最近堂々とパチンコに出掛け、両親も引き連れて焼き肉や或は寿司と思うが儘の生活に成って来ている。
三つ指をついて大きくお辞儀をして岩下家の仏様に手を合わせたのは、本の僅か十年前、変われば変わるものである。
『そうそうあの岩下家に戻ってきた三千万円、今でも金庫か銀行に眠っているだろうか?
奥さんパチンコに狂ったように成っているようだし、あのお金に手を付けだしたなら、また多くの人の人生が狂い出すような気がして来たなぁ。
あーぁ、お金とはなんと怖いものであるのか、惑わし金よ。次のステージがもうすぐ始まりそうになってきた気がする。
それにしてもあのお金、僅か六十万円ほど少なく成ったようであるが、四人もの命が亡くなってしまって、遣り切れない気がするのは私だけだろうか?
完結
この物語はフィクションです。
実存するものとは一切関係ありません
題名 悲しき行旅死亡人の物語
作者 神邑 凌