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G 虚栄の怪物

作者: 青色の猫

あの艶やかな背、長くしなやかな髪、純黒の光沢、彼女は芸術的な美の持ち主なのです。


風呂場の怪物は、俺の人生に「回答」を示した。



今日は朝から、両親がショッピングに出かけていた。学校から帰宅後の夕方、一日の疲れから自室の椅子にもたれかけ、うとうとと気持ちよく数学プリントによだれをのばしていた俺に、その両親から着信があった。

待ってました!

「もしもし」

「正栄、母さんたち帰るの遅くなるから、お風呂洗っといてちょうだい」

「……しかたないな、お駄賃ははずんでくれるんだろうな」

「ないわよそんなの」

呆れのこもった盛大なため息をつかれた。よし、作戦成功だ。

「うーんしかたないな~、今回だけだぞ!」

俺は表面上怒ったような態度で通話を打ち切り、軽快なステップで階段を鳴らして一階へ降りた。

とても気分がいい。というのも、うちは毎日湯船に入浴剤を入れたがるタイプの家庭で、五種類ある入浴剤のうちどれを投入するかは、その日風呂洗いをした人間が決められるシステムになっている。つまり外敵がそろって出払っている今日は、湯船を自由に操れる千載一遇のチャンスなのだ。

こんな機会はめったにない。彼ら二人はそろってカシスオレンジ派で、俺だけがフレッシュミント教徒なので、二対一で普段は圧倒的にカシオレの日が多く、肩身の狭い思いをしている。事実この五日間、俺は異教の果実の甘ったるい匂いに身を侵され続けている。アダムとイヴがミカンをかじってたらおかしいだろう。彼らはミントの清涼感にはまり込んでしまったために、楽園を追い出されたのだ。汚れきった体が芯から生まれかわっていくようなあの新鮮な命の息吹、爽快感、ミントは生命の象徴なのだ。

そうはいっても、今年で結婚可能年齢をむかえる大の高校生が、入浴剤ひとつで一喜一憂しているだなんて知られるのはすごく恥ずかしい。

そこで考えたのが、あえて彼らから電話がくるまで待ち、そこでいかにも面倒くさそうな態度を演じるという作戦。これによって恥ずかしい趣味を隠しつつ、まんまと入浴剤を独占したわけだ。

冷蔵庫でキンキンに冷やしたお気に入りの牛乳瓶をいっきに飲み下し、俺は風呂場へ向かった。あの牛乳もあと三本か~、大切に飲んでやらないとな~。などと考えながら扉を開けた。

風呂洗い用のピンクのダサいゴム靴をはき、かっぱ頭のビラビラを兜、桶を盾、棒たわしを剣に見立てて、鏡の前でいつ使うかもわからない剣技の練習に精を入れていると、はやぶさ斬りを二セット終えたところで、俺はなにか不吉なざわめきを感じた。ぞぞぞ、と背筋が逆立った。

それの正体は一秒後判明した。視界の死角、天上の通気口からアレが這い出てきたのだ。黒茶色のなめらかな塗装の上に、丁寧にニスのコーティングを施したかのような芸術品の光沢と、それをまったく台無しにする、えげつなく下品で扁平なフォルム。ある意味最強の組み合わせによって生み出された、日常世界の「汚い」の化身。油臭い路地裏の隅をかぎ回るあのカサカサ歩きは、人間に本能的な嫌悪感を思い起こさせる。この生き物を好きになれる勇気があれば、あとは全自動でこの世のすべてと仲良くなれそうな気さえしてくる。

黒い化け物、ゴキブリ。

俺はそれの存在に気がついた瞬間、たわしと桶を投げ出して両手で口をふさいだ。悲鳴を飲み込もうとした。しかし努力はむなしく散った。

「きゃあ」

狭い一室にみっともない女子のような声が反響し、それに驚いたのか、空いた窓から隣家の猫がみゃあと鳴いた。化け物から身を守る矛と盾を取り落とした俺は、なすすべもなく立ち尽くした。

静寂。緊張。アレの女の髪のように長い触覚だけが、ふわふわとしきりにリズムを刻んでいる。触覚によって気流の変化を感じ取り、こちらの出方を慎重にうかがっているように思える。

正栄はどうする……?

いたずらに刺激すれば、あの怪物は風呂場を縦横無尽に駆けまわり、俺に一生癒えないトラウマを植え付けるだろう。もう入浴剤なんて言ってる場合じゃない。ゴキブリの細菌がまき散らされた湯船をこれから毎日使っていかなくちゃならないなんて、地獄の釜でゆでだこにされるほうがまだマシというものだ。

時は一刻を争う。

「やるしかない……!」

依然ゴキブリは硬直状態。先手さえ取れば、勝機はある!

俺はすばやく手をのばし、シャワーを最大出力で噴き上げた。頭上に怒濤の噴水が咲く。全身があっというまに水浸しになっていくが、お構いなしに逃げ惑う標的を打ち落とす。あえなく墜落。

しかし。水圧で弱ったはずなのに、隣家の猫も驚きのジェット速度で逃げだすゴキ。俺はへっぴり腰になりながらも、とっさの機転でそこにあった桶をかぶせてやつの動きを封じた。

――無事、湯船を守り抜いた。

「て、手間かけやがって」息をきらしながら桶の中を睨む。

呼吸を万全に整えて、俺はたわしを再装備。かたをつけるべく、勢いよく桶を持ち上げた。

「……」

今度はなにをしでかすのかと身構えていたが、ゴキブリはその場から一歩も動かずじっとしていた。抵抗する気配がなかった。いつまでたってもそうしているから、俺は逆に不安になって、すこしだけ顔を近づけた。

「おーい……」

 それで気がついた。頭部が妙にへちゃげているのだ。さっきのジェット逃走の時、運悪く桶のふちに押しつぶされたのだろうか。足も二本、不自然に折れ曲がっていた。相変わらず、触覚だけはひょこひょこと規則的に動いている。心臓みたいだと思った。

そのいかにも弱者らしい様子を目にして、今まで全力のこもっていた俺の手が、急に力をしぼませていった。女の髪に似ている、と思っていた二本の毛が、本当に女の髪のように見えてきた。つまり、俺はこいつを殺すべきなのか、悩んでしまっていた。

冷静に考えればわかる。ゴキブリなんて百害あって一利なしの害虫の中の害虫だ。ここできちんと処分しておかないと、恐ろしい免疫と繁殖力で、どんどん増えてしまうかもしれない。本当に気持ちが悪い。吐き気がする。

だが一方で、あの弱りきった有様をみていると、ゴキブリだって「生きている」ものなのだという実感が湧いてくる。家畜や魚や虫に、意識はないのだろうか。いやある。そりゃあ人間からすればカスのようなものかもしれないけど、どうみたって今目の前にいる彼は苦しんでいる。ごく当たり前のことだが、ゴキブリも人間も「生き」物なのだ。そういう点で、彼と俺との間になんら違いはないように思えた。

俺は、ただ顔が醜いというだけで通りがかりの禿げたおじさんを殺さない。それと同じで、ただ俺が気色悪いと思ったから。などという傲慢で彼の命が失われることも間違っている。考えてみれば当然のことだった。

悩んだ末、俺は彼をここに放置することにした。生かすも殺すも選べなかった俺が取れるのは、あとを偶然に任せることだけだった。

両親が帰ってきたとき、まだ風呂場にいれば死ぬ。どこかに行っていれば、そのまま生きる。一見無責任に思えるが、俺にはそれが一番まっとうで自然な解決法に思えた。

そのあと、俺は入浴剤のことをすっかりあきらめて、二階の自室に引っ込んだ。ぼーっと考えにふけっていると、いつのまにか帰ってきていた母が部屋の扉を蹴飛ばして、「お風呂洗ってなかったから、母さんがやったわよ!」と文句を垂れてきた。

「すまんすまん。ところで、風呂場になにかいたか?」

「いや別に何もいなかったけど。……って、そうやって話をそらそうとしても無駄よっ」

「まあまあ。結果的に、今日もカシスオレンジを使えるんだからいいじゃないか」

「まあそれはそうだけど……」

どうやら、偶然の神さまは彼に微笑んだようだった。

俺は今、確かに安堵の気持ちを覚えていた。

その夜は考え事であまり眠れなかった。



翌日の朝、俺は普段通り学校に向かった。ただ、今までは自転車で通っていたのを、今日からは徒歩通学をすることにした。

俺の中に、昨日の出来事がやけに印象深く刻まれていた。気持ち悪いからといって命あるゴキブリを殺すことは許されるのか。俺は昨日、それはいけないことだと思ったのだ。だとしたら、それはゴキブリだけに終わらない。美醜関係なく、他のどんな生き物だって人間に勝手に殺されていいわけがない。生き物の一生は穏やかで、自然のものであるべきなのだと、俺なりにそんなふうに考えてみた。

うちの近辺は田舎で、学校は丘の上にある。学校に行く途中に通る田んぼのあぜ道には、今の季節だとバッタやカマキリなどがよくうろうろしている。一寸の虫にも五分の魂というように、こういう虫たちも、みんな俺と同じ生き物である。そこで、自転車に乗っていると気がつかないうちに虫たちをひき殺してしまいそうなので、徒歩通学に変えたというわけだ。

道中、目を凝らして道端を眺めてみると、生き物の死は意外なほどたくさん転がっていた。干からびて動けないところをありたちに運ばれるミミズ、熱湯みたいな田んぼの水の表面に腹を浮かばせて息絶えるオタマジャクシ、丸まったまま永遠に沈黙するダンゴムシなど。

通学路を半分まで歩いたかという時、楽しそうに大笑いする小学生が三人、向かいから歩いてきた。真ん中の太った男子が持っている、細長い針金のようなものが笑いの種らしい。何かと思って見てみると、それはナナフシだった。

三方から伸びる巨大な手に、自分の体をじわじわと毟りとられるナナフシ。一本、また一本と手足がなくなっていくたびに、ナナフシはくねくねと身を曲げ、声もなく呻く。それはナナフシにできる最大の抵抗なのだが、人からすれば何のことはない。むしろ、自分たちが触るたびにくねくねと可愛い反応をするナナフシを見て、三人はドッと声を上げ、真っ白な歯をむき出しにして笑顔を弾けさせている。

命が今まさに弄ばれている現場に出くわし、俺は本当なら怒鳴り声をあげるべきだったのだろう。

だが、俺はこの状況でどんな立ち振る舞いをすればいいのか測りかね、一歩もその場を動くことができなかった。

あのゴキブリを解放し、その命を俺のあずかり知らないところに任せたように、死はまったくの偶然か自然のものであるべきだ。死に他者の介入が存在してはならない。そんなことを俺は昨日、感じ始めていた。

だけど、小学生はそんな難しいことは知らないし、彼らの行動に悪気はみじんもない。小学生は大人とは比べ物にならないほど直感的で、ある意味一番野生に近い生き物なのだ。けど、だからといって悪気がないなら命で遊んでも許されるのか……。

俺は小学生たちをナナフシにとっての「自然」に含めるかどうか、その分類に悩み、結局命が失われていく様子をぽかんと眺めていたのだった。

 もしもすべての悪意からすべての命を守ろうとする頼もしい英雄がいたなら、その人が苦しむのは巨大な秘密結社なんかではなく、道端で出会った、あり地獄に水を注いで遊ぶ子どものような、ちっぽけで純粋で善良で、絶妙に判別のつけにくい人間だろうと思う。

 人間の身勝手な気持ちからほかの動物を守り、穏やかな生死があればいいともやもやした気持ちに駆られ、小さな行動を始めた俺も、つまりそれと同じ問題に立ち向かわなくてはならないのだ。はっきりした善と悪だけでこの世はできていない。

 すべてを守れるだけの力を持った英雄ならまだしも、同じちっぽけな人間である俺に、「線引き」ができるのだろうか? それは傲慢ではないか?

昨日、あのゴキブリと出会ったことによって、俺はとんでもない底なし沼か、出口のない大迷宮に足を踏み入れているのだとこのとき実感した。

振り返ると、真ん中の太った男子が、なにか針金のようなものを投げ捨てているところだった。

目を伏せて、俺は先を急いだ。

 


徒歩通学を始めて一か月。虫の一匹も殺さないよう気を遣いながら登校するのは疲れるし、それが有名になり、まわりにも珍獣を見るような目で見られているが、そんなことは関係ない。俺にはしなければならないことがあるのだから。

田舎だからだろう、ナナフシみたいな小さな生き物が遊びの的になるというのは、日常茶飯事だった。人間と動物の間には俺が思っているよりも深い溝があるようだった。

そのことに気がついてしまった俺には、その断絶を縫い合わせる義務がある。Gと出会って感じた漠然とした気持ちの正体は、突き詰めて言うなら、お互いを守り尊重しあう、穏やかで悪意のない理想の世界を目指せという使命感に近いものだったのだ。


とはいっても、俺は使命を背負ったヒーローではないし、珍獣でもない。四六時中狂ったみたいに足元に配慮しているわけでもない。趣味――入浴も健在だ。

今日は四日ぶりに風呂洗いの役が回ってきたので、朝から気分がよかった。

俺には、人生で一度も友達ができたことがない。

なので放課後、誰とも話さず直行で帰宅してから、真っ先に風呂場へ向かった。

先月のあのことがあって以来、ゴキブリが出てきても決して殺したりしないように、俺は風呂洗いに慎重になっていた。

丁寧に垢を落とした後、水圧を弱にしたシャワーで、側溝の奥になにもいないか確認してからゆっくりと床と湯船を流していく。今日もゴキブリはいない。

「完璧だ」

一連の作業はもはや日々のルーティンのようなもの。約五分で、汚れきった菌の養殖場がまばゆい聖域に生まれ変わった。

ちなみに、前に両親が一度、どちらが速く洗えるかという勝負をしていたことがある。速さばかり気にして磨きが粗くなってはダメなのだが、ともかくその時の最高記録が六分だったそうだ。今の俺の記録より一分も遅い。つまり俺は、すでに生みの親さえ越えたバスマスターなのである。

 さて、せっかく自分で洗った湯船だ、一番風呂は自分でいただきたい。壁の時計を見ると時刻は五時半。うちの風呂はぼろくて湯がわくのに三十分かかるから、入れるのは六時か。

うん、夕方に入る風呂もたまにはいいものだ。

悩むことなく風呂自動ボタンオン。

「今日は体育で汗かいたから、さぞかし気持ちいいだろうなあ~」

鼻息を荒らげながら戸を引いて、俺は洗面所に出た。洗面台の下の収納からカシスオレンジ、戸棚からタオルとバスタオルを準備する。スタンバイOK。

ぼーっとするのも退屈だからスマホでも持ってくるか。そう思って、俺は洗面所を出た。

心臓が跳ねた。

ドア横の冷蔵庫の隙間の影から、見るもおぞましい、黒の物体が這い出てきたのだ。

それがなんなのかを認識するまでもなく、俺はほとんど無心で、反射的に、履いていた部屋用スリッパでそれを踏み潰した。微妙に柔らかい感触が伝わってきた。

その生々しい感触で、俺は我に返った。そして、自分がなにを潰したのかに思い当って愕然とした。

俺は自分の踏み潰したそれを決して見ないように、強く目をつぶって明後日の方向に視線を逃がした。

途端、手が震えて、冷汗がダラダラとあふれ出した。心臓が激しく脈打っていた。瞬きが止まらなかった。やがて、覚悟を決めてぎゅうっとつぶっていた目を開いた。

「ああ……」

ただでさえ扁平なからだが圧縮されてさらに薄くなってしまった、あの黒い生き物の無残な姿があった。

それは、自分の体からあふれた白く粘ったい液体に濡れて、おぼれるようにもがいていた。女の髪のような触覚がゆらゆらと揺れていた。それは、枯れかけたコスモスのように儚げだった。それは、俺にとって特別な意味を持つ死だった。

しまったと思った。取返しのつかないことをしてしまった。

あれだけ人とゴキブリの違いはとか、みんな同じ生き物だとか、死は自然であるべきだとか語ってきた俺が、一瞬の躊躇すらなくそのゴキブリを踏み潰してしまうなんて。

ゴキブリだと判別する暇はなかった。だけど少なくとも、命あるものだとは分かっていたはずなのに。

向かってくるものに対して醜いと思ったその瞬間、頭の中が不快感と恐怖に占められ、生物としての脳が俺の理性を押さえつけて、勝手に指令を出していた。そこに、生き物がかわいそうだから潰しちゃダメ! という思考が介入する余地など、みじんもなかった。

あの日芽生え、以来一か月忠実に守ってきたちっぽけな自然主義は、瞬間の、反射的な不快感にあっけなく負けてしまったのだ。他ならない自分の手によって。

矛盾、滑稽の極み。本当の本当にゴキブリやほかの生き物の命も尊重されるべきだという気持ちがあったなら、こんなことが起こるわけがない。

「動物虐待反対!」「共に暮らす地球のなかまを、思いやりましょう!」

俺はこの一か月、それと似たことを訴えながらも、晩御飯にはゆうゆうと魚や肉を食べていた。

俺は、聞こえ映えの良いことを語るだけの偽善者と何も変わりはしなかったのだ。

自分の醜さに、俺は呆然としていた。

母の車が帰ってきた音がしてようやく我に返り、急いでティッシュを取り、死体をくるんで汁を拭った。嫌な臭いだった。脂と生ごみを混ぜたようなにおい。俺は涙を流しながら黄ばんだティッシュを鼻に押し付け、二度と忘れないよう、その臭いを全身に覚えさせた。

俺は脂と生ごみのかたまりとなってしまったものを、見つからないように、ごみ箱の奥のほうに突っ込んだ。それから急いで二階に上がり、スマホを手に取って洗面所に戻った。

「ただいま~。あ、もう風呂洗ってあるの? 今日は早いわね」

何事もなかったかのような様子で、スマホ片手に洗面所の壁にすがっている俺に、母が言った。

「うん。たまには夕方の風呂も、乙なものだと思ってな」

 画面を見ながら適当な口調でおちゃらけると、母はなにそれと苦笑した。どうやら、うっすら床に残ったシミには気が付いていないみたいだった。ひとまず安心した。

今日俺がゴキブリを踏み潰したという事実は誰にも知られてはいけない。俺はこれまで愚かで中途半端だった。けどこれからは違う。自然を敬いながらも自分のことになれば迷いなく自然を殺す偽善者の殻を捨て、本物になるのだ……!

 やがて、お風呂が沸きました、とモニターが鳴った。普段なら最高にテンションが上がる瞬間なのに、今日はうるさい機械音にしか聞こえない。

俺はぴかぴかの一番風呂に一時間近く浸かった。その間夕暮れを眺める気はみじんも無く、ただ、これではいけないと悲嘆に暮れていた。

こんなにも彼らのことを思っているのに、どうして俺は彼らを傷つけてしまうのだろう。本当に悪いのは誰か。答えるまでもないだろう……。

再び現れたG。今回の死で俺は、俺自身を通して人間の悪性を見た。原始の時代から脳の深くに組み込まれた、「醜いは悪」、「弱きは悪」というどうしようもなく傲慢なシステムを。

俺は人間に絶望した。もう無理だ。こんなに自分勝手な人間に互いを尊重し、守りあうことなんてできない。穏やかな生死を説いても、受け入れられるわけがない。人間とは他を排し、争いをさけられない、他のどの生き物よりも堕ちた獣の名だ。本人の意思とは関係なく、巨大で超越的ななにかによって争うようにつくられた、システムのバグなのだ。まさに今、俺が人類に愛想をつかし、対立の側に付こうとしているように。

平穏を願うこの気持ちさえもシステムに組み込まれた歯車だというなら、ああ分かった。存分に堕落し、平穏を乱す本物の悪と争ってやろうじゃないか。

俺はすべてを守れるような、人間の輪から外れた英雄じゃない。完璧な「線引き」なんて無理だ。ナナフシで遊ぶ小学生を見て、それは傲慢だと小学生を殺すことなんてできない。それでも、俺はやってやる。

結局のところ、俺は人間というものが嫌で嫌でしょうがない、そういう風に生まれてしまったシステムのバグ、ただそれだけのことなのだろう。

いつしか「醜いもの」という印象を植え付けられ、そして人間の意識の中で肥大化し偽物の繁栄を遂げたGがそのことに気がつかせてくれた。いや、気がつかされてしまった。

そうである以上、俺はもとの俺に戻ることはできない……。

いたずらに命を弄び消費するという地球の癌。森を拓いてビルを乱立し、神にでもなったかのように地上を占領する、かわいそうな虚栄の怪獣。目を覚ましてやらないと。

今、俺の中で線引きがなされた。

狂信と思われたっていい。

全人類を殺して、自分も死ぬ。この世界というシステムを作った真の神、それを倒すのはどこかの英雄に任せればいい。

人間がいなくなれば、そこには間違いなく本当の平穏、自然が現れるはずだ――。

風呂を上がった後、ごみ箱から黄ばんだティッシュを探り当てて俺は庭へ出た。固い土を手で掘りかえす。それを埋めてやるために。

「俺だって人間を好きになりたい。ただ平穏さえあればいい。なのにどうして人は……」

 人間を愛したい俺と自然を愛する俺。

 かつての人間を愛したい俺は、風呂場の怪物との出会いによって、漠然と気がついてしまったのだ。どうやら自分に人を愛することはできないらしいと。

 自然と人の断絶を縫い合わせる。それは、どちらにつくこともできなかった負け犬の言い訳に過ぎない。

中途半端はもうごめんだ。

だから俺は自分の種族を諦めた。なけなしの愛想を断ち切り、こちら側に付くことにした。

俺はゴキブリの黒光りする背中を撫でた。以前はあれだけ気持ち悪いと思っていたのに、今は愛しいとさえ思える。もう動かない触覚は、女の髪のように綺麗だった。最後に、夜の月光に濡れたその芸術的な背に口づけをして、俺は彼女を自然に還した。


すべての悩みが消え去った今、俺は生まれて初めて、本物の愛の味、爽快感を味わっていた。俺は幸せだった。

これからはもうフレッシュミントは必要ない。アダムとイヴ。人間の世を追われた俺とGが、この世界を終わらせ、新しい、理想の世界を創るのだ。



四十年後、日本の内閣総理大臣に、真道正栄という男が就任した。


なぜこんな小説を作ったのか自分にもわかりません。

ちなみに自分はゴキブリを新聞紙でたたきます。つい一週間前のことでした。


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