第一部 八
知財本部を出た頃には、すでに時刻は十時を回っていた。
今日午前中の本来の目的は、むしろこれから行く場所にあるといっていい。
だが、今日、城倉の元を訪れてよかったと、琉也は心の底から感じていた。盗聴器のことだけではなく、もっと大事なものを教えてもらったように思う。
いや、教えてもらったという考え方は、少しだけ違うのかもしれない。いつも心の奥底に溜まっている思いを――佐岐野事件を引き起こした人間の身内だという引け目を見抜かれ、その上で気にしなくていいと、これは自分たちの仕事なのだと、彼女はそう励ましてくれたのだ。
開発本部の建物は知財本部のすぐ隣りに建てられている。地上七階、地下三階という階数に加えて、知財本部の三倍ほどの敷地面積を占めるため、量錬機構の中でも最大規模を誇っており、名実共に機構の中枢と言える。
開発本部もまたセキュリティには力を入れているが、建物の規模が大きいこともあり、知財本部に比べれば全体的に緩い印象が否めない。たとえば、知財本部では開発本部で開発されたばかりの磁気共鳴型遺伝子認証を随所に取り入れているが、開発本部ではこの最新技術はまだ導入されておらず、至る所指紋や静脈、虹彩といった従来型の認証が標準である。
数日に一度は顔を出していることもあり、琉也の足取りは知財本部の中を歩くのに比べて遙かにスムーズだ。すぐに目的の部屋にたどり着き、生体認証を経てインターホンに話し掛ける。
「岡森です」
それだけで充分だった。すぐに扉が解錠される。
すっと横開きで開いた扉から中へ入り、靴をスリッパに履き替えて、内側の扉を開く。
十畳ほどの部屋の左右の壁際にはオフィスデスクが一つずつ備え付けられており、中央には応接兼休憩を目的とした小さなテーブルと椅子が置いてある。
左側のデスクには誰も着いておらず、琉也はひそかにほっとため息をついていた。デスクの主は、坂垣弥生、琉也の苦手とする人物である。
「その反応を見せてやりたいよねぇ」
しみじみと呟いたのは、右側のデスクの主にして、今日琉也が会いに来た人物、森河麻美である。弥生と同じく開発本部生物課に所属し、遺伝子工学を専攻とする研究員だ。研究方面では着実に成果を出している優秀な人だそうだが、のほほんとした外見と、ゆるゆるした話しぶりのせいで、ケーキ屋さんとかお花屋さんとかそういった職業が似合いそうに見えてしまう。
「やめて下さいよ、実はそこの扉の向こうで聞き耳を立ててます、みたいなドッキリ」
入り口の扉と反対側には、ラボに繋がる扉がある。このオフィスだけでなく、同じグループに属する複数のオフィスが、一つの大きなラボを取り囲むような構造になっており、高い確率でラボには誰かがいるはずである。
「大丈夫だって、ちょっと聞き耳立てたくらいで何か聞こえるような作りじゃないから」
「ですよね」
改めてほっとしながら、琉也は部屋の中央を占めるテーブルへと着いた。
「用件は、佐岐野に持ち込むシードのことね?」
森河には、昨晩のうちにシードの件で相談したいとメールを送ってあった。ただし、詳しい内容はセキュリティの問題もあるので一切書き記していない。メールだとどうにも表現しにくいと感じたせいでもある。
「お忙しいとは思うので単刀直入にお話ししますが――」
つい今し方の城倉の「プロに任せとけ」という言葉は、力強い反面、彼らには彼らの仕事があるのだということを琉也に意識させた。森河や城倉のところだけでなく、日頃から機構の職員とは話す機会の多い琉也だが、振り返ってみれば結構邪魔になっていたのではないかとふと気付いたりする。
そんなことを漠然と考えていたせいもあって、琉也はできるだけ短く済むように、要点をかいつまんで話していく。
今回、機構長から琉也の保持する全てのシードを所持していく許可が出た。が、許可と言いつつ、機構長の言い様からすると、むしろ義務に近いと考えていい。琉也の所持するシードは生物や薬学を中心として百種類を越えており、全てを持ち歩くだけでも相当の苦労が予想される。それぞれは大した大きさでも重さでもないが、シードは通常一種類ずつ別々の容器に格納される上に、低温、真空、液中といった特殊な保管環境を要するものも数多く、むしろ容器の方が問題となる。
「――で、まずこいつらをまとめて保管できるちょうどいいケースはないものかな、というのが一つ目の相談内容なんですけども……どうでしょう?」
伺いを立てると、森河はふぅ、と小さくため息をついた。呆れられたか、それとも面倒ごとをとうんざりされたか、と焦った琉也だったが、琉也を見る森河の視線が温かいことに気付いて、続く彼女の言葉に聞き入る。
「……その才気走ったところ、姉弟だなぁって思うよね。まあ、大分タイプは違うみたいだけどさぁ」
不意に飛び出した、懐かしむようなその言葉の意味するところに、琉也はどきっとする。
この人は、観雪を直接知っているのだ。
たまにちらっとそういった話を臭わせることはこれまでにもあったことだが、どことなく避けている風にも感じられて、琉也の方から観雪について話して欲しいと頼んだことはなかった。
だから、今回も何かを訊き返すようなことはせず、森河を見返すに止める。森河は、琉也の方を見たり、窓の外を見たりと視線をふらふらさせながら、本題からずれた話をのんびりと楽しむように続ける。
「そういえば、君もそろそろ、あのときの観雪さんと同じくらいの年になるんだっけ?」
「そうですね。あと半年くらいで追いつきます……まあ年齢だけですけど」
苦笑すると、森河もふふっと笑う。
「あの人に能力で追いつける人なんて、そうそういないよ」
「森河さんでも?」
「ぜーんぜん。私なんて足下にも及ばないよ。私だけじゃない。今、開発本部にいる連中で、あの頃の観雪さんに敵うほどの人なんてほとんどいないんじゃない?」
その言葉は、何か聖なる光でも浴びたような、新鮮な感動を琉也にもたらした。
飛び級を繰り返したすごい人だとは、聞いていた。でも、琉也が知っている観雪といえば、目玉焼きを作ろうとしてなぜか落とし卵ができあがってしょげている顔だとか、気に入ったスナック菓子の食べ過ぎで気分が悪くなって青い顔で横たわっている姿だとか、そんな家庭の一コマばかりだ。彼女のすごさを、彼女自身はもちろん、父・誠一でさえ琉也に語ったことはなく、機構に入ってから初めて記録上で知ることになったというのが実情である。
それだけに、こうして観雪を直接知っている人から、生きた言葉で聞く観雪の人となりが、ひどく尊いもののように感じられてならない。
思わずじっと森河の顔を見つめているのを、森河の方が気付いて、くすりと笑う。
「もっと聞きたいって顔ね。けど、今はそんな話してる場合じゃないから、また今度」
「あ、はい、すいません……」
「謝らないの。いつ坂垣が戻ってくるかわかんないし、あいつと顔会わせたくないんでしょ?」
「そう、……ご想像にお任せします……」
誘導されてつい肯定しそうになって、慌てて言いつくろうと、くすくすと森河は楽しそうに笑った。笑いながら、デスクの上から書類を一枚取り上げて、琉也に手渡す。
「さて、君の質問だけど、一応そういうものはなくはない。なくはないけど……」
琉也はもらった書類に目を落とす。「野外携帯用シード保管容器『ミストシェル』利用申請書」と題されたそのプリントには、容器の詳細な仕様に加えて白黒の写真が一枚添付されている。わかりにくい写真ではあったが、角張ったアタッシュケースかスーツケースのような形をしているらしい。
「何か問題があるんですか?」
「セキュリティがやや特殊。これ、簡易型の遺伝子認証を搭載してるのよ。で、それをアクティベートするために君に専用のワクチンを打たないといけない。ちなみにこのワクチン自体が実は私のシードだったりします」
「……えーと、つまりちょうどいいから僕をテストケースにしてしまえと」
「やだなぁ、人聞き悪い。困っている君に救いの手を差し伸べただけじゃない」
言いながら頬が緩んでいるのは、足下を見ている余裕なのか、単にからかって楽しんでいるのか。
さすがにシードのワクチンと聞くと、どんな副作用があるかもわからないので、躊躇わずにはいられない。たぶん教えてくれないだろうなと思いつつ、一応前例があるのかを聞いておく。
「今までの使用回数は?」
「……うーん、それはレベル6なのでちょっと教えられないかな」
「ですよねぇ……」
「ま、今のところは大丈夫そうよ。今のところはね」
不安になる言い方である。来年くらいになったら、違うことを言っていそうだ。
「もし他に何かあるか訊いたら、別のものが出てくるんですか?」
「そう言うかもと思って、別のも探してあります」
そう口に出す前から、すでに別の書類を取り上げて目を落としている。やけに準備がいいところからして、昨日のメールで大方のところを推測していたのだろう。
「……えーと、それも何か問題が?」
「問題というか、だいぶ大げさね。保安課が使ってるやつなんだけど」
森河が書類を琉也の前に示す。それは、琉也でも構内で見かけたことのある、無骨な四輪駆動のバンだった。
「これは正式に認可されて実用化されてるやつだから、セキュリティもしっかりしてるし、かなり大量に持ち運べる。ただし、当然だけど山中の獣道なんかには乗り込めない」
「そしてすごい目立つ」
「そうね。付高の学生が乗り回してたら何事かと思われるでしょうね」
付高の学生は、圧縮教育のための特例事項として十六歳から車両運転の免許取得が認められ、なおかつ推奨されているため、琉也もすでに車の免許は持っている。が、さすがにおまけの身分でこの専用車と共にあの救助隊に紛れ込むだけの勇気はない。
「……誰か保安課の人が持っていくのについでに搭載してもらうというのは」
「それはセキュリティ上ダメでしょうね。運転者イコールセキュリティ解除者、ってことになってるから」
結局、シードを巡る状況は、一にも二にもセキュリティを優先するようになっているのだ。実用化前には情報拡散を最小限にしなければならない、という要請を考えれば当然のことだが、そのために生じる不都合は生半可ではない。
どうやら、諦めるしかないようである。
「……わかりました。森河さんのシード、使わせて頂きます」
「わかればよろしい。なぁに、心配しないでも大丈夫だって。私もすでに使ったけど何ともないし」
「自分で使ったんですか。でも、そんなにいろんなシードを持ち歩く機会あるんですか?」
「逆よ、逆。私がまず簡易型の遺伝子認証を開発した。そしたら、運用本部の連中が、こういうシード運搬用ケースに応用したいって言ってきたのよ」
「あぁ、なるほど」
やはりこの人は目の付け所がいいなと感心しつつも、褒めるのはおこがましいような気がして、ただ頷くだけに止める。
書類に目を落とし、ケースの大きさを確認すると、どうやら四、五十種類のシードを格納できるようになっているらしい。もう少し入るといいのにと思いながら訊ねる。
「あの、これ、もっと大きいやつはないんですか?」
「もっと大きかったら不便でしょ。これだって、すでに大型のスーツケース並みよ」
「たしかに……だったら、これ、五つお願いしていいですか?」
ダメではあるまいと思いつつも自信を持てずに、おずおずと訊ねた。
森河が、一瞬きょとんとしてから、あははと快活に笑い出す。
「五つときましたか、五つと。百種類以上とかいって、実はその倍くらいあるんでしょ?」
「……えーと、最高でレベル7です」
「はいはい、了解。手配しとくけど、それだけあると、結局目立つっていう意味じゃ車とあまり変わらない気がするよねぇ」
「ですねぇ、自分でも思いました」
だいたい、大型のスーツケース五つを自分で持ち歩けるわけもなく、誰かの手を借りるなり、車に積み込んでもらうなりは必要になるのが目に見えている。そうなれば、いったいこいつは何でこんな大荷物なのか、という話にもなるだろうし……。
「……あの、何かこう、偽装する手はないですかね? 僕のシードだと気付かれないよう、食糧か何かと思い込ませるような」
「さすがにそういうヘンなこと言い出す人は今まで現れなかったみたいだね。むしろ、誰が見ても特殊なケースだとわかるようにしてたみたいだけど。まあ、君が自分で塗装したりステッカー貼ったりするのは自由なんじゃない?」
「あぁ、まぁ、それで充分かもしれないですね」
そうするとステッカーやら塗料やらも用意しておかないとな、と頭の中で調達先を算段する。時間もないし、今晩辺り、近くのホームセンターに出かけるのがよさそうだ。とはいえ、この奇特で無骨なケースにいったいどんなデコレーションを施せばいいか、ぱっとイメージが浮かばない。
「で、二つ目の相談内容っていうのは?」
一瞬ぼうっとしたところを、森河に問われてはっとなり、慌てて答え返す。そうだ、相手は仕事中の忙しい身で時間を割いてくれているのだ。
「あ、そうでした。えーっと、これは相談というより質問に近いんですが、シードって増産できましたっけ? あまり聞いたことがないんですけど、量に制限があるって話も聞いたことがないので」
「増産って……要するに、ファーストランでできた以上の量を作りたいってこと?」
「そういうことです」
アルケミック・コクーンを稼働させることを、開発本部の人たちはよくファーストランと呼ぶ。ここでシードの生成に成功した場合、生成量は最初に指定した程度となる。無駄に大量に作る意味がないため、通常は初期評価を行うために必要な最低限の量とするよう定められている。
だが、琉也の保持するシードの中には、汎用性の高いものも含まれているため、そうしたものに関してはできれば多めに携帯していきたいと思っているわけである。あくまで念のため、という程度で、機構長言うところの「手札は多い方がいい」ということだ。
「そういうの、セカンドランっていって、一応制度上はできるんだけど……出発まであと三日でしょ……」
森河は、デスクに向かってパソコンを操作し、スケジュール表のようなものを表示させる。
「それは……ACの稼働予定表ですか?」
「うん。いやぁ、さすがに三日前だといっぱいだねぇ」
「リアクタだけ使えればいいんですが」
「っていっても、プリディクタだけ使うってことはあまりないから、リアクタだけ空いてるってこともないんだよねぇ」
アルケミック・コクーンはプリディクタとリアクタの組み合わせからなるが、ファーストラン後は生成手法がわかっているため、リアクタを走らせるだけで済む。そういうわけで、両方使うファーストランよりは空きを見つけやすいのではと思っていたが、うまい話はないということだ。
「他のラボはどうですか?」
「ちなみに、生成内容は? わかってると思うけど、うちのACは遺伝子工学専用よ」
「わかってます。生成内容は、……」
ここで言うべきなのか、言わずに他の手段を探すべきか、という逡巡が一瞬の間を生む。その間を、森河は楽しむかのようににやにやしている。そのチェシャ猫を思わせるにやにやぶりが、バカにしているかのように琉也の目には映る。
「……おかしいですか?」
「んー、べつに~。なんかこうあれだね、映画とかの主人公が、いったい俺はどうしたらいいんだ、とか悩むみたいだなぁと思っただけ」
「バカにしてますよね……」
「そうともいう」
のんびりと言われると、何だか迷っているのがバカバカしく思えてきて、琉也は白状することにした。
「二つは遺伝子工学系ですが、薬理系が六つ、無機材料系が三つ、それに――」
「ちょっちょっ、ちょっと待った。全部で何個?」
「えーっと、全部で十五個、ですね」
森河の慌てた様子を見てやはりちょっと多いかと思いながら告げると、案の定、森河は呆れた様子も露わにため息をついた。
「一つ二つならともかく、三日で十五ランもできるわけないじゃない。しかもそんないろんな分野って……」
「いやでも、機構のACって全部で三十台ありますよね。三日で累計七百二十時間使える、と。で、一ランが二時間として、累計三十時間だから割合的には余裕かなと思ったんですけど」
「なわけないでしょ。君は開発本部を乗っ取るつもりか。とはいえ、」
森河がふっと口をつぐんでスケジュール表に見入る。その突き刺さるような眼差しは、彼女が真剣に可能性を検討してくれているのだと示している。
待つこと数分、森河はためらうようなゆっくりした調子で口を開いた。
「私の考えでは、君がメンバーに入ってる大きな理由の一つが、この異常なほどの数のシードだと思うのよね。これ全部持って行けって、機構長から直接言われたわけでしょ?」
「そうですね」
「つまり、必要性が高いと言っていい。緊急性も高いと言っていい。ただねぇ。タイミングからいって同じこと考えてる人だって結構いると思うのよねぇ」
「あの、どういうことでしょう?」
「いや、ごく稀に使う特例措置があることはあって、無理矢理予定を変更してねじ込む方法がないわけじゃないってこと」
「あー……やっぱりそうなっちゃいますか……」
さすがに本業の人たちを押しのけてまで、と思わないでもないが、こちらは場合によっては命がかかるかもしれない問題だ。この十五種類のシードは、余分に持っているだけで、何か大きな助けになるかもしれないものばかりである。できれば、充分な量を揃えていきたい。
「そうねぇ、たとえば種類減らして、っていったら減らせる?」
「……物理的にACをそれだけ動かせないってことでしたら、何とか絞りますけど。できれば全部増やしておきたいです」
「開発本部を敵に回してでも?」
物憂げな視線が琉也の眉間の辺りを貫く。胡乱な目つきは、付高生のくせに生意気な、と語っているように見えてならない。本職の人たちの邪魔をできる立場じゃない、と理屈の上ではわかっている。
それでも、引きたくない。
何のために、朝から晩まで新しいシードのアイディアを考えているのか。
観雪に追いつきたいという最初の動機は今も継続している。けれども、今、琉也がアルケミック・コクーンという技術の虜になっているのは、結局のところ、それが見せてくれる夢に希望を抱いているからに他ならない。アイディアさえ供給すれば、人の手で地道に実験するより遙かに高速に、そのアイディアが実現可能かどうかを示してくれるのがアルケミック・コクーンという装置だ。技術的な側面にはあまり気を遣わずに研究を進められる装置であるからこそ、琉也のようなそれぞれの分野の門外漢であっても、今までにない新しい物質や薬を生み出すことができる。それは、他のどんな方法でも救えないものを、人を、救えるかもしれない、という希望を琉也にもたらしている。
琉也にとって、それは希望であると同時に、強迫観念に近いものでもあった。自分は人を救える存在でありたい、と切望している。
だから、森河の問いかけに対して正直に答えることに、迷いはなかった。
「誰を敵に回しても、です」
森河が琉也に探るような視線を存分に注ぐ。居心地の悪さが上昇していき、やはり多少はオブラートに包んだ言い方にすべきだったかと後悔し始めた頃、森河がはぁと一際大きくため息をついた。
「わかった。協力するけど、さすがに私一人の力じゃ方々から十五ランもぶんどって来れないわ。遺伝子工学用のは何とかうちのラボのを空けてあげるけど、何だっけ、他は?」
「薬理六、無機材料三、有機材料二、触媒二、ウィルス一です」
「じゃあそのウィルスと薬理のは、私が話をつける。けど、材料系とか化学系とはほとんどコネクションないからさすがに無理よ」
「ありがとうございます、本当に助かります」
ほっとして頭を下げると、森河は「乗りかかった船だしね」と呟いた。
「乗りかかった船、ですか?」
意味をつかみ損ねてオウム返しに訊くと、森河は琉也の目をまっすぐに見た。
「私も行くの、佐岐野。うちのグループから二人って話だったから、立候補したのよ」
一瞬驚きはしたものの、たまに彼女の口から出る、観雪への憧れを思わせる台詞を考えれば、自然な選択なのかもしれない、と思えてくる。
「よろしくお願いします」
自然とそんな言葉が出て、琉也は頭を下げていた。
「よろしくね。ところで、なんで私のところに来たの? 君、他にも開発本部の知り合いたくさんいるでしょ?」
今さらながら、森河が不思議そうに訊ねてくる。琉也としては話しやすいと常日頃思っていたからこその人選であったが、言外に親しくないだろうと言われているようで地味にショックだ。
「……えーっと、面倒見がよさそうだから、ですかね……?」
「何で疑問系なのよ……まあいいわ。で、他のシードはどうするの? 材料系に知り合いがいるんだったら、直接頼みに行くのがいいと思うけど」
「そうですねぇ……いなくはないんですけど、若干頼みにくいというか、頼む前からだめそうな気がするような、そういう人で……」
「男?」
きらり、となぜか森河の目が光る。
「そうですけど、それがどうしました?」
「思ったんだけどさ、要するに君、単に女の人が好きなだけなんじゃないのぉ~?」
森河がにやにやしながら、琉也の顔を覗き込んでくる。
そんなことはありませんよ、と主張しようとして、ふっと思考が過去にとぶ。決して機構の知り合いが女性ばかりということはないが、たしかに女性の方が身構えずに済む傾向はあるかもしれない。
「まあ、好きかどうかはともかく、話しやすいのはたしかですね……」
「お、うまいことかわしたね。ま、いいや、とにかく材料系の知り合いはだめ、と」
森河が椅子の背もたれに深々と背を預け、天井を見上げて口をつぐむ。どうやら、琉也の出した十五種類という数を達成すべく頭を働かせてくれているらしい。
琉也の方でも、できる限りのことをしたいとは思うが、何が必要なのかがそもそも分からないのだ。
「あの、そのセカンドランを緊急で通したい場合に必要な要件とか、書類とか、何か決まりはあるんですか?」
念頭にあったのは、場合によっては機構長に直談判しに行くのもありだなという考えだ。それに対して、森河は天井を見上げたまま気のない返事をよこす。
「すっごい面倒よ。緊急なのに意味ないじゃんってくらい。たしか七、八枚承認とる書類があったはず。もちろん、一件当たりね」
うわぁ、とつい声に出てしまう。
が、この際、うだうだ文句を言っても仕方ないだろう。
「それ、森河さんが請け負ってくれたのに関しては、いらないんですよね?」
「ん~そりゃね、無理言って予定ずらしてもらうだけだし。ま、佐岐野救助隊のため、っていえば、知り合いならそう嫌な顔しないでしょう」
「だったら、残りの七件は僕の方でその正式な手続き踏んで何とかしたいと思います。なんか、詳しい説明が載ってる文書とかあります?」
琉也が言うと、ようやく森河が視線を落として琉也の方を向く。なぜだか、呆れたような表情をしている。
「……なんですか?」
「いやぁ、よくやるなと思って。参考までに、君のそのやる気はどこからきてるか、訊いてもいい? そもそも使うかどうかもわからないものを、量増やしてまで持っていこうというその心意気は何なわけ?」
口調こそおどけたようなその言葉が、その実かなり真剣なものであることに、琉也は森河の目つきで気付いていた。
だから、あえて間を取ってゆっくり考え、それをゆっくり言葉にしていく。
「まず、大きいのは、僕が付高生で、おまけだってことです。元から期待されてないのはわかってますけど、だからこそ、僕しか持っていないものに関しては大げさなくらい備えておくべきなんじゃないかと。つまり、結局は、備えあれば憂いなし、なんですけど」
「まあ、それはある意味、全員そうあるべきよね。私も含めて」
「いえいえ、付高生である僕はなおさら、ってことです。あとは、機構長から言われたことがありまして」
「君、仲いいよね。私、どうもあの人だめなんだわ、なんか妙にガキっぽくて……」
時々、さらりとすごいことを言うのが、この森河麻美という人の面白いところである。琉也は聞かなかった振りをして、機構長との会話の概要を話す。興味津々という雰囲気だった森河の表情が、「全滅」のくだりで強ばる。
「――で、まあそういう話を聞かされると、九十九パーセント無駄かもしれなくても、残りの一パーセントで誰か助けられる可能性があるなら、それだけで充分意味はあると、僕は思うんです」
どうも改まって言うと照れくさいな、と俯きがちになった琉也を、しかし、森河はからかったりはやし立てたりするでもなく、神妙に見つめて、ぽつりと呟く。
「やっぱり、君は観雪さんとはだいぶタイプが違うよね」
「姉はどうだったんですか?」
その話はまた今度と言われたばかりだったが、琉也は訊ねずにはいられなかった。そして、森河もそのつもりだったのか、今度はすんなりと語り出す。
「ものすごいできる人だったけど、もっとこう、子供っぽい感じだったね」
「というと、機構長みたいな?」
「いやぁ、ちょっと違うかな。機構長はほら、なんか面白いことがないかいつもわくわくしてる人でしょ。喩えるなら、小学生の男の子、みたいな」
その表現は言い得て妙で、琉也はあぁたしかに、と大きく頷いていた。機構長になってからは忙しくて自分の手を動かす機会もないようだが、研究員として最前線に立っていた頃は、こんなことができないかな、あんなことができないかな、といつも目を輝かせていたものだ。
「で、その喩えでいくと、観雪さんは中学生の女の子って感じ。まあ、年齢も中学生とそんなに変わりないくらいだったんだけど、大人顔負けの優秀な人だったから、やけに齟齬感を感じてたのよねぇ」
森河の喩えは、琉也にはわかりにくいものだった。中学生の女の子のような子供っぽさとは、どういうことなのか。
当時、琉也から見て観雪は遙か先を歩く大人のように見えていたものだ。けれども、時が経ち、折に触れ思い返すうちに、大人というのとは違ったのかもしれない、と次第に思うようになった。
森河が語る子供っぽさとは、そういう意味だろうか。
考え込んでしまった琉也に、森河が確認するように訊ねてくる。
「君だってある程度は憶えてるんでしょ? 君から見てどんな人だった?」
「と言われましても、事件があったとき、まだ小学生でしたからね……」
日常の一コマやちょっとした会話といった、断片的な欠片ならいくらでも拾い上げられるが、人となりについて語れるほどの鮮明な印象を伴う記憶は……。
「……そういえば、あの頃は深く考えずに見過ごしてて、後になって考えるほど変だなと思うことがありましたね」
「そうそう、そういうのを待ってた」
森河が興味津々とばかりに身を乗り出す。結局、この人も観雪の話をしたくてしょうがないのだろう。
「父と一緒になって研究に打ち込んでいる姉を見ていて、いったい何でそこまでするんだろうと疑問に思って訊いたことがあって」
あれは佐岐野事件が起こる何ヶ月か前の、休日だったはずだ。休みの日なのに、家に誰もいなくて寂しいと感じていたことを記憶している。
真夜中、トイレに起きると、いつ頃帰ってきたのか、珍しく観雪がリビングでテレビを見ていた。風呂に入ったばかりなのだろう、濡れた髪を乾かしきることもなく、Tシャツにショートパンツというラフな格好でソファに丸まっていた。
観雪の目が真剣にテレビに見入っているように見えて、しかも流れているのが流行りの服だか化粧品だかのコマーシャルで、意外に感じて訊いたのだ。
――お姉ちゃん、こういうの興味あるの?
――あるよ、当然でしょ。
――でも、全然持ってないよね。
――お洒落する時間ないからね。
その言い方は、時間があればしたい、と言っているようだった。
――少しは息抜きすればいいんじゃない?
――そういうわけにはいかないの。
――何で? そんなに仕事が楽しいの?
後から考えると、琉也の訊き方はすこし変だったし、観雪の答えも変だった。
――追いかけ続けてないと追いつけなくなっちゃう気が、するんだよね。
琉也にはその意味するところが、さっぱりわからなかった。不思議なことを言う、と感慨のようなものを覚えた。観雪が笑った。
――リュウにはまだ分からないかな。
そう言って、観雪は琉也の頭を撫でてくれた。
「――という一幕がありまして。後から思い出してみると、姉は誰かを追いかけていたのかな、とか。父かとも思ったんですけど、一緒に働いていたにしては妙な言い回しかなと。ともかく、僕が思ったのは、必ずしも楽しくて研究してたわけじゃないんだなぁ、ということです」
琉也の説明を深刻なほどにじっくり聞き入っていた森河は、しばらくして、なるほどねぇ、とぼそっと独り言のように呟いた。どうやら、それ以上のコメントはないらしく、窓の外へと視線を移してぼうっとし始めた森河に、琉也は「それじゃ、僕はこれで失礼します」と声を掛けた。
森河がはっとなったように視線を琉也に戻す。
「ごめんごめん、ちょっと色々思い出してた。何だっけ、緊急割り込み用の書類一式ね。メールで送っとくから、出来るだけ早く記入して提出しなさい」
「はい、どうもありがとうございます。ケースの方も。そうだ、ワクチンって――」
「あ、そうだったね。明日にでも寄ってくれる?」
「わかりました」
明日もまた大忙しだなと思いながら、改めて琉也はお辞儀をしてから森河のオフィスを去った。去り際、室内から森河と弥生のものと思しき会話が聞こえてきたような気がするが、気のせいだと思っておく。よもやこっそり聞き耳を立てていたなんてことはないに違いない。