第一部 七
念には念を入れ、校舎内を余計に歩き回ってから、さらに念には念を入れるべく、付高から歩いて十分ほどの場所にある、百メートル四方の六階建てという威容を誇る建物を訪れた。アルケミック・コクーンに関するあらゆる情報の保全と収集を行う、知的財産本部である。
開発本部には頻繁に出入りしている琉也だが、知財本部にはあまり用がないため、ただ足を踏み入れるだけでも緊張するものである。まずは生体認証を通してようやく受付までたどり着き、ここでとある人物に伝言を頼む。
数分ほどして、先方からの許可が下り、琉也は中に進むことを許された。
回数も忘れるほどの生体認証を通過した後、エレベータに乗って三階へ、さらに五分ほど歩いて、とある部屋の前に立つ。
ようやく最後の生体認証か、とうんざりしつつ、網膜スキャンと指紋認証を待っていると、やおら向こうから扉が開いた。
「……いらっしゃーい」
眠たそうな表情に、地を這うようなだらけた語調。
知財本部所属、城倉美里である。
「こんにちは。お仕事中すみません、ちょっとどうしても確かめて頂きたいことがありまして」
頭を下げつつ、そう言葉を掛けると、城倉は黙って室内に入るよう促した。
言われるまま、部屋に入り、入り口でスリッパに履き替える。
知財本部は、情報機関としての性質上、複数人で一つの部屋を共有する、という就業形態を嫌う。情報の拡散を最小限に止めるため、所属している者には一人一部屋が宛がわれる。その分、一部屋の大きさは六~八畳程度と小ぶりで、代わりに建物内の部屋の数が著しく多い。もちろん、付高生に過ぎない琉也には、詳しい数は全く分からない。
当然、この部屋も城倉一人だけの私的スペースとなっており、室内にはハーブのような爽やかな香りが漂っている。いつものようにハーブティーを飲んでいるのだろう。
城倉美里は、付高を卒業してそのまま量錬機構に就職した、いわゆる持ち上がり組で、今年で入構三年目になる。在学中から特に電子工学と情報学に目覚ましい才能を示し、入構後間もなくから知財本部の中でも随一の信号解析のエキスパートとして活躍しているという。
その高名ぶりとは裏腹に、外見や立ち居振る舞いは決して冴えていない。いつも覇気のない表情で、夢の中に住まうかのようなとろんとした動作を繰り返すその有様と、実能力との激しすぎるギャップから、城倉仙人などと呼ぶ人もいる。
琉也は、一年ほど前にシード関係の書類を提出したり訂正したりしているうちに彼女と話すようになった。今日のように真剣な用事があって訪れるのが基本であるが、たまに暇なのでお茶しよう、と誘われてお邪魔することもある。
「で、今日はどうしたの?」
問いかけつつ、城倉は自分の席へと戻る。琉也は、ほんのおまけとばかりに置かれている、小さな来客用のテーブルへと着いた。
「お忙しいと思うので単刀直入に言いますけど、昨日付けで付高の二年に転入した生徒のことは、ご存じですか?」
「由奈ちゃんでしょ? 君の妹さんだよね」
瞬間的に返ってくる辺りはさすが情報屋である。何も不思議なことはない、とばかりの自然な言い様である。
果たして、知財本部は彼女の素性を把握しているのか。
「当然ご存じだとは思うんですけど、僕に妹はいません。で、もし彼女の素性をご存じだったら教えて頂けないかな、と」
淡々と訊ねると、城倉の眠たげな表情の奥に一瞬だけ、光が宿り、またすぐに沈んでいく。
目まぐるしい速さで城倉の両手がキーボードの上を走り、すぐに止まる。城倉は、しばらく目の前のディスプレイをじっと見つめていた。
やがて、ぼそっと呟くように言う。
「ごめん、わからない」
その言葉に、琉也はがつんと殴られたような衝撃を受けた。
知財本部がわからない?
それは、事実上、この日本国内で誰も知らない、と言っているのにも等しい。
「えーっと、本当の本当に知財本部として何も情報を持ってないってことですか? それとも、何か理由があって僕には言えないってことですか」
後者の可能性をまだしも期待した琉也だったが、城倉の次なる言葉はその期待を裏切る。
「情報がない。顔写真と偽造された戸籍くらいしかない」
「それはつまり、どういうことでしょう? さすがにおかしいですよね?」
「おかしいね。あり得るとしたら、国外から潜入した工作員か、でなければ――」
言いながら城倉は改めてじっくりとディスプレイに見入り、やがて小さく呟く。
「――でなければ、レベルナインに関係してるかも」
またも、平衡感覚を揺らがすような衝撃が琉也を襲う。
レベルナイン。
それは、量錬機構内ではほとんど隠語に等しい。言葉として発される機会自体がほぼゼロといっていいほどの、高度な機密レベルを示す。
レベル8までは、特別に性質の良い材料や将来性の高い薬物などに適用されることもあり、極端に珍しいものではない。佐岐野事件に関する内部資料の多くもこのレベルに分類されている。
だが、レベルナインはレベルの存在自体が秘匿されるほどの機密事項であり、付高生はもちろん、量錬機構内でもその存在を知る者は多くないという。琉也は、シード生成実験の過程で色々な職員と話す機会があり、そんな中でたまたまちらりと耳にしてどうやらそういうものがあるらしいと知っているだけである。
「つまり、もし工作員でないなら、彼女は機構の関係者ということですか?」
「それはわからないね。ただ、機構関係者が彼女に協力している可能性はある。まあでも、どちらかというと、工作員の方がまだあり得るってくらいだけど」
「そこまで怪しいのが、何ですんなり編入できたんでしょう? それに佐岐野救助隊にも潜り込んでますけど」
「一見特に怪しいところはないからね。戸籍だって私が本気で調べたから偽造とわかっただけで、普通に処理したら問題なく通るくらいちゃんとできてるし、役所の方にも記録が入れてある」
「つまり、知財本部としても見落としていた、と」
「そういうことになる、のかなぁ。それも変な気がするよねぇ」
また、城倉がかたかたとキーボードを叩き始める。その様子をぼうっと眺めていると、城倉が手を休めることなく雑談のように訊ねかけてきた。
「君の印象はどうなの? しばらく一緒にいるんでしょう?」
「昨日の夕方くらいから、ですけど、正直、よくわからないです。明らかに何か目的があって僕に近づいてきたのは間違いないんですけど、それが何なのかは見当もつきません」
「なるほど。そりゃ手強いってことだね」
「ですね。手強いです」
やがて、城倉の手が止まり、傍らのビニールパックから何かクッキーのようなものを取り出してぱくつきながら、またしゃべり出す。
「かなり巧妙だね、寮の認証、付高編入、佐岐野遠征、それぞれ別の人間を代理に立てて書類をほぼ同時刻に電子送信してる。怪しいと思って見てなければ気付かないね」
「いやでも佐岐野遠征なんて、機構長が直接関わってるんじゃないんですか?」
「そうだよ。だから機構長から許可が出てるよ……ってこれも偽造じゃない、すごいなこれ」
ぱくぱくとクッキーを摘む手は止めずに、城倉はさらにキーボードを叩く手を速めていく。まるでクッキーが彼女の作業の燃料になっているかのような光景だ。
しばらくの間、そんな光景が続き、城倉はふぅ、と背もたれにもたれかかった。相変わらずクッキーだけはぱくぱくと食べながら、琉也の方に視線を合わせる。
「そこら中偽造だらけっていう以外、何も尻尾は出してないから断言はできないけど、状況としては、もっともらしい書類が十件近く一斉に飛び交って、誰も全部まとめて調べることはまではせず、みんなで見過ごしたって感じみたい。ほとんど手品よ。ただ、……」
一度言いよどみ、改めてディスプレイを見つめ、再び琉也に目を戻す。
「少なくとも機構長だけは、何か知ってるんじゃないかって気はする」
その言葉をきいて、琉也がまず思い浮かべたのは、つい昨日見たばかりの、高原日向の人のいい笑顔であった。彼が、何かを知っているとしたら。
琉也の考えを見透かすように、城倉が素早く口を挟んでくる。
「君なら、直接訊くことも容易だろうけど、だからこそ注意した方がいいかもしれない」
「どういうことでしょう」
「君と機構長はたしかに個人的に親しい。けど、どれだけ親しい間柄でも言えないことっていうのはある。特に機構関係の機密に触れるようなことはね。そうかもしれないとわかっているなら、親しいからこそ訊かないでおく、という配慮をする方がいいかもしれない」
必ずしもよくあることではないが、城倉の言うことには憶えがあった。
機構長として、高原は佐岐野事件に関して量錬機構が持つ全ての情報にアクセスできるだけの権限がある。だが、だからといって、琉也の方からそれらを教えて欲しいと頼んだことはない。それは、まさに城倉が言った通りの配慮であった。
「わかっています。さすがにレベルナインかも、なんて言われたら何も訊けないですよ」
「そうだったね、君には今さらの話だね」
城倉はそう言って、ばつが悪そうに目を逸らした。
話を逸らすかのように、城倉は「お茶、いる?」と訊ねながら、すでに新しいティーバッグに手を伸ばしている。「いただきます」と答えながら、琉也は今日ここに来た本来の話題へと口火を切っていた。
「実は、今日伺った本当の目的は、別にありまして。お時間の方、まだ大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。佐岐野に持ってくシードでしょ~? なんか偽装したいのがあるとかそういう話かな~?」
さらりと何手も先を読んでみせるのは、別に今に始まった話ではないが、それでもどきっとするものである。いえいえ、と両手を振って否定する。
「その前にですね、念のために盗聴器や発振器の類が付いてないか、調べて頂けないかな、と」
琉也が言うなり、城倉はにやり、と笑ってカップに入ったハーブティーを差し出した。
「君も人が悪いねぇ~、今までの話、由奈ちゃんに聞かれてもいいと思ってしてたわけだ」
「いえいえ。仮定つきですよ。もし彼女が盗聴器を仕掛けるような人なら、挨拶代わりにこちらの手の内もある程度知らせておいてもいいかな、と思ったまでで」
と言いつつも、よもやレベルナインなどという話になろうとは想像もしていなかったというのが正直なところで、話がやや深みに潜りすぎた感は否めない。
琉也がカップを受け取って紅茶を飲み始めると、城倉は立ち上がってデスクのすぐ脇に設置された十九インチラックに手を伸ばした。ラックに収められた機器の電源を手早く入れていき、それらの発するファンの音で一気に室内が騒々しくなる。
常温超伝導体が開発されたとはいっても、いまだにどこにもでも利用できるほどには価格が下がっておらず、多くの電子機器は相当量の排熱を伴うものである。
「はーい、じゃあそこの壁際に立って」
城倉に指示された通り、壁際に立つ。
茶飲み話では、こういった作業こそ彼女の本領発揮するところだと聞いていたが、実際に頼んだのは今回が初めてである。何をするのかと興味津々にラックの方を見つめていたが、どうやらラックの機器は全てデスクのコンピュータに接続されているらしく、城倉はただしばらくキーボードに手を走らせるばかりだった。
十分ほどそうしていただろうか。
意外と退屈だな、と感じ始めた頃、「はーい、オッケー」と声を掛けられ、琉也は再び椅子に座り込んだ。
「で、どうでした?」
宝くじの結果でも聞くような気分で問いかけると、城倉はにぃっと笑った。
「君~、もうちょっと妹さんを信じてあげなきゃだめだよぉ。何もなし。念のために体内の方も調べといたけど、まっさら何にもなし」
「そうですか……」
宝くじで言えば外れたようながっかり感もあるが、しかし総じてほっとした感想の方が心を占めている。信じたい、と思っていたのだ、とこんなことで気付く。
「さらについでにちょっと健康診断もしといたけど、一切問題なし。君、健康だねぇ」
いったいどこをどう検査されたのか不明だったが、琉也はともかく頭を下げた。
「どうもありがとうございます。想像以上にほっとしました」
琉也の言葉に、城倉はほんのりと頬を緩めた。それは、遠い記憶の中、観雪が折に触れて琉也に見せた優しさを思い起こさせるものがあって、こんなとき、彼女が琉也を弟のように見ているのだと、直感的にわかってしまう。
「こういうことは頼まれたらいくらでも検査してあげるけどね。君は、君が感じたことをそのまま信じればいいと思うよ。君、由奈ちゃんのこと、別に嫌いじゃないんでしょ?」
「……まあ、今のところは」
何しろ、まだ会って一日も経っていないし、と心の中で付け加える。
「だったら、それでいいじゃない。こういうのは結局シンプルなのが一番正しかったりするんだって」
城倉はそうもっともらしく曰うが、彼女は信号解析のプロ、いわば疑っては調べて回る方の権化である。それとも、そうして調べて回った結果の結論であろうか。
「……まあ、もう少し一緒に過ごせば、色々と見えてくるものもあると思うんですけど、それまではまた何か頼らせてもらうかもしれません」
「うんうん、いいねぇ、青春だねぇ」
城倉はなぜか嬉しそうだった。
そろそろ次に行かなければ、と立ち上がりかけて、先ほどの城倉の言葉を思い出した。
「そろそろお暇させて頂きますけど、さっき仰った佐岐野の件で、また伺うことになるかもしれません。たぶん明日くらいになるんじゃないかと」
「明日って、たしか訓練があるよね?」
「はい、時間とかよくわかんないんですけど」
「私も参加するから、まあその前の方がいいかな」
さらりと城倉が放った言葉に、琉也は浮かせ掛けていた腰をすとんと椅子に落としていた。
「えーっと、それってつまり……」
「そう。私も佐岐野に行きます。ま、状況を考えれば当然でしょ、信号屋の腕の見せ所よ」
信号屋というのはまた珍妙な語感の専門家もあったものだと、どうでもいいことをつい考えてしまう。
この人も、行くのか。
頼りになる。力強い、とは思う。だが、行き先は何があるかわからない、危険な場所だ。機構長に言わせれば、全滅の可能性もあるという――だが、よく思い出せば、その見積もりを出したのが知財本部だ。危険性は誰よりも把握しているはずだろう。
「その微妙な顔は、心配してくれてるの?」
凍りついたような琉也に、城倉が笑いかける。
「いえ、僕がどうこう言う問題じゃないですけど、危険だと聞いているので」
「それはわかってる。私を誰だと思ってるの。自慢じゃないけど、佐岐野の現状を一番よく知ってるのは、私なんだから」
「ですよね」
たしかに、彼女の能力と立場を考えれば、知財本部の中でも最適な人物なのだろう。だがしかし、だからといって現地に一緒に行かなくてもいいのでは、という思いが、琉也の中で燻る。
「今日のブリーフィング、楽しみにしててね。きっとびっくりするよ。質問があったら遠慮なくしてくれて構わないからね。うちで把握してることは全部公開するつもりだし」
悪戯っぽく笑いながらそう言うところからして、おそらくは城倉がブリーフィングにおいて、現地に関する情報を提供する役割を担うのだろう。
「はい、楽しみにしときます……」
今度こそ椅子から立ち上がり、改めて頭を下げて礼の言葉を述べてから、琉也は扉の方へ向かった。その背中へ、城倉が言葉を掛けてくる。
「君が気にすることじゃないよ。向こうで何があったとしても。それは、君のせいじゃない」
穏やかで、柔らかで、包み込むような口調は、全く城倉らしくない。
でも、だからこそ、それが彼女の誠意なのだと、よくわかる。
「わかってますよ。僕はあくまでおまけで付いていくだけです」
「そうそう。君は先輩たちから色々学べば、それでいいの。プロの仕事をよく見てなさい」
自信に満ちた城倉の言葉は、たしかにそうすべきだ、と思わせるだけの風格を備えていて、だから琉也は振り返って笑った。
「はい、よろしくお願いします」