第一部 六
翌朝、琉也はソファの上で爽やかな目覚めを迎えていた。時刻は七時、窓はブラインドモードからノーマルモードへと移行する、ちょうど中間くらいの透明度で、室内はうっすらと明るんでいる。
昨夜のうちに寝室から持ち出しておいた衣服を持って洗面所へ行き、顔を洗ってからささっと着替える。
いつも朝食を摂るのは学食なので、流れでそのまま外に出そうになるが、由奈の存在を思い出して立ち止まった。
さて、こういう場合どうするのが正しいのだろう。起こして一緒に行く、放っておいて一人で行く、という二つのオプションがすぐに思いつくが、昨夜由奈が見せた料理の腕を鑑みれば、彼女に朝食を作ってもらうよう頼んでみるという手もあるかもしれない。
というか、そもそも由奈はまだ寝ているのか?
念のため、キッチンや居間の方も見てみるが、姿は見えない。とすれば、少なくとも寝室にはいるに違いない。
こんこん、と軽く扉をノックしてみる。が、返事はない。勝手に外に出て行ったのでなければ、まだ寝ている、ということになるだろう。
琉也は、一人扉の前で腕を組んで熟考に入った。それぞれの選択肢に伴うメリットとデメリットを挙げていき、それぞれの場合の彼女の反応や思考を予想し、それに対して自分がとるべき対応を絞り込み、――しかし、十分経ってもどうするのが最適なのか分からない。
ぐるぅ、とお腹が鳴り、空腹感―― というより、もはや飢餓感が琉也を苛む。。
うん、と頷く。やはりシンプルにいこう。
「まいいや、一人で食べてこよう」
そう呟いて扉の前から踵を返した三歩目で、すっと寝室の扉が開いた。
ぎょっとして振り返ると、恨めしそうな由奈の視線に襲われる。
由奈は、すでに身支度を整え終わっているようだった。服装は、ぱっと見ると昨日と比べてスカートの色が違うだけに見えたが、よく見れば上のシャツも柄が違う。髪は、さらっと下ろしていた昨日とは打って変わって、両側からまとめて頭の後ろで髪飾りで留める、というかなり凝ったヘアスタイルになっている。
どう見ても、起きたばかりには見えない。
「や、やぁ、おはよう、由奈」
「おはよう。今、一人で外に食べに行こうとしたでしょ?」
怒っているというより、不満で仕方ない、といった表情を浮かべ、呪いの儀式のような低い声色で言う。
「いや、うん、まあね。ほら、寝てるなら起こすのも悪いと思って」
「悪くない! 私、今か今かと待ってたのに」
「……えーと、一応訊くけど、何を?」
「もちろん、起こしてもらうのを」
ややはにかんで言う由奈は、しかしどう見ても起床して大分経っている。よもやその完璧に整いきった格好で狸寝入りを決め込むつもりだったのか。というか、そもそも、今か今かと起こしてもらうのを待っている、という状態がすでにおかしいとわかっているのか。この子の考えることはよくわからない。
「……まあ、一人で食べに行こうとしたことは謝るよ。校舎に学食があってさ、いつもそこで朝食べるんだ」
別に謝ってほしいわけでは、などと由奈はぶつぶつ呟いたが、はぁと諦めるようなため息をついた。
「明日からはちゃんと私のこと、起こしてね」
「わかったって。で、どうする? 一緒に学食に行く?」
「行く」
当然とばかりに頷いた由奈と、琉也は部屋を出た。
寮の外は、すでに学食へと向かう付高生が数多く歩いており、明らかに由奈は彼らの注目を集めている。雰囲気としては、動物園で観客がレッサーパンダを見るような目である。もちろん、一緒に歩く琉也にも、時折ちらほらと視線が飛んでくる。
何だか歩きにくいなぁ、と肩身の狭さを堪えつつ、由奈に合わせてのろのろと歩いていると、由奈が視線を前に向けたまま、囁くように訊ねかけてきた。
「あの、もしかして、私が来ること、前から知ってた?」
また、意味の分からない質問だ。素性の知れなさもさることながら、こうして時々理解に苦しむ言葉を口にする辺りが、まるで遠くの山を眺望するかのような隔たりを感じさせる。その距離感は、そのまま応じる琉也の口調に困惑という形で現れる。
「……えーと、どういうこと? 誰かから話聞いてたかっていう意味なら、ノーだよ。誰からも聞いてない」
「じゃ、それ以外の意味では?」
それ以外の意味? 誰かから聞いたわけでもなく知っていたか、と訊きたいのか?
さらに琉也の困惑を深める質問に、もはや何と返せばいいのかわからず、いや、と首を振るのが精一杯だった。
「突然、なんでそんなこと訊くの?」
「だ、だって、……」
訊き返すと、由奈は言いよどんだ。やがて、付け足すようにぽつりと呟く。
「……部屋とかすごい片付いてたし、ベッドもきれいにメイクされてたし、なんかホテルに泊まるみたいだったから……」
その、なぜか困ったような台詞を聞いて、ようやく琉也は納得できた。
「そんなの、昨日の夜、食後にちょっと片付けただけだよ。ほら、由奈がソファでとろんとしてるときにさ」
「あぁ、……って、とろんとしてるってなに!? 私普通に起きてました!」
由奈が目くじらを立ててそう力強く主張するが、別に琉也は咎めているつもりはない。どちらかというと微笑ましいものを見た気分だったので、あぁうんわかってるわかってる、と適当にあしらっていると、由奈がふふんと不敵に笑った。いきなり携帯電話を取りだして操作し始めたが、何かを言ってくる様子もないのでそのまま放っておく。
由奈と並んでそれぞれ適当なメニューを頼み、三分の一ほど埋まった学食の中から、あまり注目を浴びなさそうな席を選んで座る。由奈はすでに機嫌を直したようで、時折付高生から掛けられる挨拶の言葉にも、臆することなくにこやかに応対している。そうしていると、まるですっかり慣れきった普通の付高生にしか見えない。
結局この子はいったい何なんだろうなぁと頭の片隅で考えながら食事を進めていると、よぅ、と聞き慣れた声を掛けられた。誠である。
振り返れば、同じく朝食を摂りに来たばかりであろう誠が、トレーを持って佇んでいる。にやけた表情は、琉也の向かいに座っている由奈との組み合わせを揶揄するものであろう。
「隣り、座るぞ」
誠は、琉也の返事を待たずに隣りに陣取った。そして、椅子を引きつつ、向かいの由奈に愛想よく笑いかける。
「由奈ちゃん、おはよう」
「おはようございます、東条さん」
対する由奈も、よそ行きといっていい華やかな笑みで応じる。
「驚いたな。名前、憶えててくれたんだ」
「もちろんですよ。兄の仲のいいお友達なんですよね」
「お友達とか言われるとなんか違う気がするけどね」
打てば響くといった具合に、互いにぽんぽん言葉を交わす。旧知の仲である琉也より、由奈相手の方が話しやすそうにさえ見える――いや、単に女の子と話すのが好きなだけか。
隣りと向かいの間で弾む会話を聞くともなく聞きながら朝食に集中していると、ふっと二人の会話に間ができた。
訝しく思って顔を上げて二人を見るが、別に何かあるわけでもない。二人とも、食事に集中し始めただけらしい。
と思いきや、誠が今日の天気予報でも確かめるかのような軽やかな口調で言う。
「由奈ちゃん、君、こいつの妹じゃないよね?」
どきっとしたのは、しかし、琉也だけだったようで、由奈の方はきょとんとした顔をしている。
「え、いきなり何ですか。私、琉也の妹ですけど」
当事者にもかかわらず、琉也はその由奈の表情に、台詞に、そして口調に、他人事のように感銘を受けていた。どこにも一欠片の不自然さも漂っていない。
どこからどう見ても無垢な女の子といった顔付きの由奈を見ながら、琉也は考え込んでしまう。やっぱりスパイ確定かな、と。ただの女の子が、ここまで完璧な演技をとっさにできるとも思えない。
感心したのは、誠も同じだったらしく、へぇ、などと面白そうに笑っている。
「いやぁすごいね。ただ者じゃない気配を感じるね~。けど、残念。由奈ちゃん、君、本当のところは一人っ子でしょ?」
「いえ、そこの琉也が兄ですが。何ですか、すごく失礼な言い方じゃありません?」
由奈の目つきが剣呑になり、口調には毒々しさが混じり出す。
が、誠は一切気にした様子もなく、ポケットから携帯電話を取りだして見せた――琉也の方に。
画面に映っているのは、誰かの寝顔と思しき写真である。ヨダレまで垂らして、何て情けない、などと思ったのもつかの間、琉也は愕然とした。それは、どう見ても琉也自身の写真である。うまいこと目元が隠れるように細工してあるようで、誰が見ても人物を特定できるような写真ではないが、本人には簡単にわかる。
背景の様子からすると、ソファに寝ている琉也を写したものと思われる。ということは、昨晩から今朝方にかけてしかあり得ず、当然犯人は由奈しか考えられない。
誠が念を押すように訊ねてくる。
「これ、お前だろ?」
「そうだけど、何だよこの写真」
「これ、学内の掲示板にさりげなくアップロードされてた。タイトルは惰眠」
ひどいな、と呆気にとられ、琉也はすぐに先ほどの一幕を思い出す。携帯電話をいじっていたのは、昨夜勝手に撮影した寝顔をアップロードするためだったというわけだ。で、溜飲が下がった由奈は機嫌を取り戻した、と。
思わず恨めしさ全開で由奈を見るが、由奈はけろっとした顔でこんなことを言い出す。
「私は寝てないの。琉也の見間違い」
まだ言うかという感じであったが、琉也としてはもうどうでもいいという気分だったので、はいはいと頷いて訂正しておく。
「僕の見間違いでした。由奈は普通にテレビ見てました」
「そう、それでいいの」
由奈は満足げににっこり笑った。このたった一言の言質を取るがためにここまでするか、と琉也としてはそのかわいらしい笑みに戦慄さえ覚える。
隣りで黙ってやり取りを見ていた誠が、再び口を開いた。
「何か話まとまったとこ悪いけど、こっちの話はまだ終わってないんだよね」
携帯電話を再びポケットにしまいながら、誠が由奈の浮かべているのとそっくりの晴れやかな笑みを浮かべる。普段あまり笑わない男であるだけに、琉也にとっては怖気を感じるほどに不気味だが、由奈は動じた様子もなくにこにこと笑っている。
二人とも何か怖い。
「何でしたっけ? 私が琉也の妹じゃないのではって話でしたか。でも、そのこととこの写真と何の関係があるんです?」
「例の佐岐野救助隊。昨日の夜、告知が更新された。変更内容は、メンバーに二年生を一人加えるってことだけ。一方、ほぼ同時に、二年生に一般高校からの編入生が加わることが発表された。名前は、岡森由奈。つまり、君だね」
「私が、佐岐野救助隊に加わるのでは、と訊きたいのでしたら、はい、とお答えしますよ」
「潔いんだな」
「すぐにわかることですから」
二人の間で、淡々とした、だがどこか不穏な気配を滲ませた言葉が交わされていく。
それにしても、と琉也は内心少し焦っていた。
昨日のうちに由奈から聞いていたとはいえ、こうして公の告知内容として聞くと、ものすごく不自然である。誰の目にも、由奈は何かおかしな権力でねじ込まれてきた不審人物と映るだろう。
「まあ、ここまでは別にいいんだ。君の言うとおり、誰でもすぐに予想がつくことだし、俺だった大して気にしやしない。が、今朝、あの写真を掲示板で見つけて、ちょっと気になってね」
誠がほんの少しだけ身を乗り出し、由奈を鋭く見つめる。
「何でしょう。たわいない妹の悪戯ですよ」
「やっぱりね。君はそう思っているわけだ。が、……そうだな、琉也。お前はたしか姉貴がいたよな」
誠が突然話を琉也に振ってくる。姉・観雪の話は誠にもしているし、当然彼女が佐岐野事件に巻き込まれたことも、彼は知っている。そこまで知った上でも、さらりと話を振れる、その遠慮のなさを、琉也は誠の一つの個性だと肯定的に捉えている。
なので、別に気にすることもなく応じる。
「ああ。それがどうした?」
「お前さ、姉貴の寝顔を不特定多数の他人に見せたいと思うか? よだれとか垂らしてるやつ」
その誠の言い様に、琉也は彼が言いたいことをきれいに理解した。
たしかに、これは由奈の失点だ。彼女は兄弟姉妹といった近しい間柄ならありがちな悪戯、くらいの軽い気持ちでやったのだろう。だが、――
「いいや。それはないな」
「なぜか、この自称妹に教えてやってくれ」
「もちろん、恥ずかしいからだ。それにまあ、一緒に暮らしてれば、そう珍しいもんでもないしな」
琉也が言うと、由奈はそれまで浮かべていた余裕げな笑みを打ち消して黙り込み、やおらきっと琉也の方をにらみつけてきた。
「もしかして、この人に話したんじゃないでしょうね?」
それは、事実上、由奈の敗北宣言である。
琉也はあわてて否定しようとしたが、その前に素早く誠が機先を制する。
「勘違いしないでくれよ、由奈ちゃん。俺は何も聞いてない。この写真がこいつだと気付いたってだけだ。逆に言うと、写真の人物が誰かわかる奴なら、誰だって君が岡森由奈じゃないことに気付く可能性があるってことだよ」
誠の言葉に、由奈はしゅんとなって俯いた。
琉也としては、何もそこまで厳しく言わなくても、と思わないでもなく、つい誠に言葉を掛けていた。
「まあまあ、それくらいで。彼女だって、必ずしもあくどい目的があるとは限らないわけだろ。もしかすると、やむにやまれないもっともな事情があるかもしれないしな」
が、その言葉は、逆に由奈を刺激したらしく、何だかほとんど涙目になって必死に言い返してくる。
「それ、全然フォローになってないからね!」
そして、誠もまた、琉也を呆れたような目で見やって言う。
「お前、お人好しすぎだろ。事情もよく知らずに、妹ってことにしてくれとか言われてオッケーしたってオチだよな。なに、何か報酬あんの? それとも、もうもらった後だったりとか?」
誠がにやけた顔で言う。
言われてみて、そういえばたしかに報酬の一つもあってもいいのかな、と琉也は思い至る。が、さらに、そういえば昨日の夕食は、報酬といってもいいものだったかもな、とも思い至り、琉也はああ、と頷いた。
「まあもらったといえばもらったかな」
「ほぉ、なぁるほどねぇ」
誠が何か深遠な真理でも発見したかのような口調で言いつつ、にんまりとしか表現しようのない表情を浮かべる。
何か含むところがありそうだな、と琉也が問い質そうとしたところで、由奈がだん、とテーブルを拳で叩く。
「報酬なんて何もありません! 琉也も適当なこと言わないで下さい!」
「え? だって、昨日、夕飯作ってもらったじゃん」
「え? あ、あぁ、そういう、ことね……」
風船がしぼむように勢いを失った由奈とは逆に、誠が勢いづいてからかうような口調で言葉を繰り出す。
「あれぇ、由奈ちゃんは何を想像してたのかなぁ? 遠慮しなくていいから正直に言ってごらん?」
「何でもありません! それより何ですか、私がニセモノだと言い出したのは、私をからかいたかっただけなんですか!」
由奈がそうきりきりと言い募ると、誠はふっと真顔に戻った。
「まさか。いや正直、君がどこの誰で何が目的とか、そんなことはどうでもいいんだけどね」
「……お前から女の子相手にそんな台詞が出るとは驚きだな」
「いやいや、もちろん、聞かせてくれるなら喜んで聞くけど、言う気ないよね?」
「ないですね」
由奈は華やかに微笑みながら、すかさずそう言い返す。
この二人のやり取り、なんかすごいな、と感心しながら、琉也は誠に続きを促す。
「つまり、お前はいったい何が言いたいんだ?」
「俺が訊いときたいのは一つだけだ。由奈ちゃん、君がこいつに何らかの形で害を及ぼすつもりがあるのか、ってこと。どう?」
問いかけて、誠は由奈をじっと観察する。
対する由奈は、それまで浮かべていた微笑を一切崩すことなく、逆に誠の方をじっと観察している。しばらくして、由奈が口を開く。
「もし私にそのつもりがあったとして、ここで認めると思います?」
「いいや。あれだけ完璧に妹を装ってみせた君のことだ。上手いこと言って否定するのは訳ないだろうね」
「だったら、無意味な質問でしたね」
「そうかな?」
そこで、またはたと会話が途切れる。二人とも笑っているのに、まるで居合いの真っ最中かのような緊迫感が漂う。琉也の方が逃げ出したくなるが、そうもいかない。
「……なぁ、誠、心配してくれるのはありがたいが、ここでどうこう言ったって仕方ないって」
思わず口を挟むと、誠が呆れたような視線を向けてくる。
「お前は緊張感の欠片もないなぁ。そんなことで大丈夫なのか先が思いやられるが、まあ差し当たって俺の方のテストは終了だ」
「テスト?」
「ま、大丈夫なんじゃない? 俺の見たところ、いきなり寝首を掻かれるようなことはないだろうし」
「寝首を掻くなら昨夜のうちに済んでると思いますけど」
ふふふと素敵に笑って言う由奈。対して、誠はいやぁ、と首を振って淡々と説く。
「たとえば、の話だけど、由奈ちゃんがどこかの宗教団体から派遣されてきた神官みたいなのだとするだろ。で、佐岐野までは大人しく妹のふりしてついてく。けど、佐岐野に行った途端、琉也を生け贄として捧げるべく、ばっさりと首を切断、首なしの死体を電信柱に吊してあがめ奉る、なんていう展開もあり得るかもしれないしな」
「お前、想像力飛躍しすぎだって。とか言いつつ、突然怖くなってきたな」
言いながら、思わず琉也が由奈の顔にまじまじと見入ると、由奈はぎろりと凄みのある顔つきになる。
「私がそんなイカレた電波系に見えるわけ?」
「いやでも、そういうのって往々にして一見まともらしいし」
「そんなこと言い出したら――」
由奈が不満げに反駁しようとしたところを、まぁまぁ、と誠が割って入った。
「だから言ったろ、由奈ちゃんはたぶん大丈夫だって。琉也、お前はむしろラスボスの機嫌損ねないように注意する方が大事だと、俺は思うぞ」
「たぶんって……ラスボス? 何ですか、それ」
由奈がなおも不満げにしつつ、唐突に飛び出した名前に首を傾げる。
が、誠は話は終わりとばかりにトレーを持って立ち上がった。
「その辺はこいつに聞いてくれ。俺は一限の講義があるんで失礼する。ま、何がどうなるかわからないから充分気をつけろよ。あと、事前の準備もしっかりな」
誠はどちらにともなくそう言い残して、足早に去って行った。
由奈と二人、何となく誠の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、琉也もまた、立ち上がった。
「僕たちも行こうか。今日は午後にブリーフィングもあるし、いろいろ準備もしないといけないだろうし」
「ええ、そうね」
学食を出て、二人でどこへともなく歩く。琉也はこの後持ち出すシードに関連して行っておきたい場所があるが、由奈のスパイ疑惑が濃厚である以上、そこに由奈を伴うことはできない。
校舎内を歩いていても、由奈はかなり人目を引いている。元々、顔立ちが整っていて、ぱっと目立つということもあるのだろうが、かなりの数の学生がさらりと挨拶していくところを見ると、昨日寮中を挨拶して回ったお陰で誰からも印象がいいという側面の方が強そうだ。
ちなみに、琉也の方もおこぼれを預かるかのように、いつもより大分挨拶を交わす生徒の数が多い。琉也も、どちらかといえば学校にはなじんでいる方だが、大多数の生徒とは何となく距離を感じることが多い。その点、今日はまるで人気者にでもなったかのような気分である。
一々挨拶の度に軽く会釈している由奈に、それとなく声を掛けてみた。
「この後は、どうするんだ?」
「琉也の方は? 私、今日は琉也について回ろうかと思ってるんだけど」
これは困ったぞと思いつつ、何とか遠征の準備にでも気を向けられないかと試みる。
「荷物の準備とかはいいのか?」
「ブリーフィングで詳しい説明があると思うから、その後でいいかなと思って」
確かにその通りだった。矛先を変えてみる。
「じゃあ編入関係の手続きなんかは大丈夫なのか? 昨日の今日だし」
「それも大丈夫。編入っていっても、要するに書類上だけなの」
「じゃあ誰か挨拶しとく人とかはいないのか。親御さんとか、友達とか、――」
言いかけた瞬間、由奈がふっと琉也の方を向いて、どこか剣呑な目つきになる。
「もしかして、私が邪魔?」
ストレート過ぎる物言いに、しかもそれが正鵠を射ていることにぐっとつまり、琉也はそっと目を逸らしながら、そこはかとなく頷いた。
「まあ、実はちょっと、個人的な用事があってね」
「今日? 今から?」
「う、うん、まあね」
「どこで? ひとりで? それとも誰かと?」
問い質す、という表現がぴったりの、責めるような素早い口調で言いながら、由奈が詰め寄ってくる。思わず後ずさりしながら、琉也は両手を盾にしてストップ、と声を上げた。
「悪いけど、午前中は一人で行動してくれないか? そうだな、十二時頃にさっきの学食で待ち合わせして一緒にお昼食べるってことでどうだ?」
由奈の質問をあえて無視してそう持ちかけると、案の定、由奈は不機嫌そうに黙り込んだ。顔は俯きつつ、視線だけは上目遣いに睨んでくるのが、どこかお化けめいていて、えも言われず恐怖感を煽る。やっぱりこの人、結構イカレた電波系だったりするのでは、とにわかに琉也の中で猜疑心が芽生え始める。
「……人と会うんでしょ」
「……えーっとノーコメントで」
「……女の人?」
「……そこもノーコメントで」
「……年上?」
「……さっきから何も答えてないってことに気付いてね」
言い返しつつ、琉也はますます恐怖に飲み込まれていた。一切何も答えてないにもかかわらず、ほとんど正確に言い当ててくるのは、勘か何かなのか、それとも実はスパイらしく事前の情報収集ですでに色々知っているのか。あたかも精密誘導ミサイルに追尾されているかのような恐怖だ――実際にそんなものに追尾されたことはないけれども。
見つめ合う――というより睨み合うこと数分余り、ようやく由奈がふん、といって顔を逸らした。
そのまま、何も言わずに歩き去って行ってしまう。
先ほどまでより少しだけ早足で、とはいえ人から挨拶されれば頭を下げたりしつつ、由奈は廊下の奥へと姿を消した。
悪いことをしたような気もしないでもないが、全て琉也を油断させるための演技という可能性も高いように思う。今頃、「うまくいかなかったか」などと忌々しそうに舌打ちしているかもしれない――あまり当たって欲しくない憶測だが。