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第一部 五

 若干ぎくしゃくした雰囲気が漂ったのもつかの間、食材は、調味料は、調理のコツは、などとぽつぽつ言葉を交わしてつつ食事を進めるうち、すっかり空気は弛緩していた。琉也の方はおいしい食事そのもので、一方由奈は琉也からの賛辞混じりの質問に自慢げに答える過程で、お互いに満足し合った形である。

 使い終わった食器を食洗機にかけるのは琉也が担当し、由奈には適当にテレビでも見ながら休んでいてもらう。時折、ちら、と様子を確かめると、大人しくソファの上でモニタに視線を向けている――が、何となくぼうっとしているようで、番組の中身が頭に入っているようには見えない。今日は寮中にお菓子を配って歩いたようだし、加えて料理したとなれば、相当に疲れているのかもしれない。

 寝室のベッドは彼女に使ってもらうべきだろうし、それならば新しいシーツが当然必要になる――キッチンの片付けをする最中、そのことに気付いた琉也は、携帯電話を起動して新しいシーツ類一式を寮から注文した。

 キッチンを片付け終わって間もなくシーツが届いたので、そのまま寝室へ向かう。

 寝室にはベッドと小さなデスク、クローゼットや衣装棚があるだけだが、衣装棚に下着類を入れている以外は大して使っていないので、下着類を遠征に必要になりそうな分までごっそり取り出す以外は放っておく。そして、敷き布団や掛け布団のシーツだけを剥ぎ取っていき、代わりに新しいシーツを付けておく。使用人にでもなった気分である。

 古いシーツと下着類を抱えて寝室を出て、古いシーツは洗濯に出しておく。この寮では、洗濯をまとめてやってくれるサービスがあるが、自分で洗いたい人のために、各部屋に小さな洗濯機も備えられている。とはいえ、シーツほどの大きさになると、寮のサービスに出すしかない。

 ついでに、遠征の荷物をまとめておくかな、と玄関脇のクローゼットから大型のバックパックを取り出し、持ち出した下着類を詰め込んでおく。

 昼間、暇な時間に作っておいたリストを参照しながら、適当にバックパックに詰めていく。どうせブリーフィングであれやこれやと追加品や禁帯品を指示されるに違いないので、この時点であまりきっちりした準備をするのはあまり意味がないだろう。

 詰め終わったバックパックを再びクローゼットにしまいこんで、今日の仕事はお終い、ということにした。

 時計を見ると、食事を終えてキッチンの片付けを初めてから一時間足らず。そろそろ風呂に入ってから一勉強でもしておくか、と考えながら居間に戻る。

 と、ちょうど、ソファに座ったままの由奈の首がかくん、と前に倒れたところだった。どうやら本当にお疲れのようである。

「なあ、由奈さん。眠かったらもう寝たらどうだ? 風呂、先に使っていいぞ」

 声を掛けた瞬間、思いがけないほどの勢いで首が元の位置に戻り、同時にくるりと琉也の方を向いた。何というか、機械仕掛けの人形のような動きである。

「寝てない。寝てないからね」

 微妙に半眼でそんなことを言われても、説得力ゼロである。まさにかくんといった瞬間を見ているからなおのこと可笑しく、つい琉也は笑ってしまった。

「いやだから、もう寝たら、って言ったんだけど。寝室のベッド使っていいから」

「寝てないって言ってるでしょ! それにまだ十時じゃない。眠くなる時間じゃありません」

 どういうわけか、由奈は意固地であった。早くに眠くなると子供っぽいとか思っているとしたら、その考えの方が子供っぽいと思うのだが。

「わかったって、じゃあお風呂はどうする? 後がよければ僕が今入っちゃうし、先がよければどうぞ」

 風呂の方を指差すと、由奈はマグマをため込んだ火山のような表情で口をつぐんだ。わからん、と琉也は心の中で呟く。何がそんなに気にくわないのか。頼むから噴火とかしないでくれよ、と内心冷や冷やしながら様子を窺う。

 幸いにも、由奈は爆発を迎える前に気分を落ち着かせたようだった。

「……じゃあ、先に入らせてもらいます」

 そう言って、由奈は部屋の隅にあるスーツケースまで歩いて行く。何となはなしにその様子を目で追っていると、きっとにらみ返された。

「じろじろ見ないで! 下着とか出しますので!」

「あ、あぁ、悪い……」

 気まずくなって目を逸らしつつ、そういえば彼女はスーツケース持参で佐岐野遠征に出かけるつもりだろうか、とふと疑問に思う。

 まさか、な。

 にわかに不安になったものの、ぷりぷりしている由奈に訊く気にもなれず、肩を怒らせて浴室へ向かう背中を見送る。

 少し勉強でもしようかとデスクに向かってはみたものの、いつもよりたくさん食べて満腹になっているせいか、どうにも身が入らない。

 浴室の方が何となく気になってしまう、というのもあるかもしれない。なにしろ、友達一人遊びに来たことのない部屋である。会ったばかりのかわいい女の子が風呂に入っているということが、息の詰まるような、目眩を招くような、奇妙な高揚感をもたらしている。

 どきどきしている。

 たぶん、食事の最中の思いがけない応酬が――恋人でもよかったのでは、と琉也の方から言い出した顛末が、変な風に後を引いているのだろう。

 改めて会話を反芻してみるが、やはり彼女の真意はよくわからない。言い方からすると、結局恋人でも妹でもどちらでもよかった、と取れなくはない。そこを勘案すればスパイしに来ていると解釈するのがしっくりくるが、別の目的があって近づいてきたとも感じられるし、単に一番都合がよかっただけという彼女の説明も違和感はない。

 それにしても、とあのとき自分の言った台詞を思い返して、今さらながら愕然とする。ちょっと期待してるかも、と返したのはある意味鎌を掛けたようなものだからともかく、何か言えることができたら言うよ、の方はかなり真剣に言ってしまった台詞だ。いったいどの時点で何をどれだけ語ればいいのか、全然見当もつかない。割と気に入ったら、好きだよ、とか言えばいいのか。で、いまいち気に入らなかったら、嫌いだよ、とか言わなければならないのか。

 佐岐野遠征そのものよりも、何だか遙かに重みのある課題を背負ってしまったような、重苦しい気分に、思わず机に突っ伏す。

 う~、とうなり声を上げつつ、まずいなぁ、どうしよう、と呟いていると、やおら声を掛けられた。

「……あの、食べ過ぎですか? 胃薬とか、用意しましょうか?」

 はっと起き上がると、ネグリジェ姿の由奈が心配そうな顔で琉也の方を覗き込んでいる。

「いや、ちがう、そういうんじゃないから、大丈夫」

「そうですか? あ、もしかして、実は嫌いな食べ物が混ざってたとか」

「いやいや、食べ物には何も不満ありません。最高でした」

 断言すると、ふふ、と嬉しそうに笑った後、由奈は突然きりっと眉をつり上げた。

「食べ物には何も、ってことは、他に何か不満があるんですね?」

 鋭く糾弾されて、琉也は返事に窮した。まさにその通りといえばその通りだが、言い出せない空気が漂っている。

「どうなんです? 言いたいことがあるなら、早めに言って下さいよ?」

 急かすように、由奈がじりっと一歩近寄ってくる。

 自分から言い出したことだし、やっぱりなしってわけには、と考えていた琉也は、ここにきていい妥協案を見出していた。

「あのさ、さっきの、何か言えることができたら言うよってやつ。あれさ、」

「なしにしてくれ、とかいうのは認めませんので。万一ダカツの如くキライとかそういうのでも、とにかくきちんと理由も含めて言ってもらいますからね」

 何でそんなに強気なのかと、疑問に感じるほどのメリハリの効いた口調で、由奈はそう宣言する。いやいや、と琉也は首を振った。

「そうじゃなくて。同時に、由奈さんからも僕に関して思うところを言ってもらう、ってことでどう? だって何か不公平じゃない、僕からだけなんて」

 その提案に、由奈は意表を突かれたようだった。ネグリジェ姿のせいか、黙り込んだ彼女の表情には、ぽけっという表現がよく似合っている。

 何十秒かの沈黙の後、由奈はふっと余裕ある笑みを見せた。

「いいですよ。せいぜい腹を括って心待ちにしてて下さい」

 何かすごいことを言われそうだな、と新たな不安にとらわれながらも、何となく重荷が軽くなったような気がするから、不思議なものである。

 やれやれ、と若干軽やかになった気分で立ち上がり、風呂へ向かおうとして、ふと言い忘れていることがあると気付く。

「そうそう、由奈さん。そこの扉が寝室だから。部屋の内側に指紋認証のインターフェースがあるから、寝る前に中からロックかけといてね」

「あ、はい、わかりました……」

 由奈がこくんと頷いたのを確かめて、風呂に向かう。

 すると、あの、と弱々しく呼び止められた。

 振り返ると、由奈は後ろで手を組んで、微妙に視線を逸らしている。

「あの、名前……」

「名前?」

「えっと、呼び捨てでいいですよ。由奈って呼んで下さい」

「あ、うん、……でも、それだったら、こっちからもいいかな?」

「何です?」

「敬語なしにしない? 堅苦しいし。兄妹っぽくない気がするし」

「……うん、わかった。それと、呼び方……」

「呼び方?」

「あなたのこと。なんて呼べばいい? お兄ちゃん、とか……?」

「……えーと、それなんか恥ずかしい……琉也でいいよ……」

「うん、わかった」

「うん、よろしく」

 ぎこちない空気のまま、とはいえ決して悪くない気分で、琉也はその場を後にする。

 それは、かつて父も姉も健在であった頃、家の中でしばしば味わっていたぽかぽかと温かい気持ちに、少しだけ似ていた。


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