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第一部 四

 シャワーを浴びてから、ごろりとソファに横になって、漫然とテレビを眺める。頭の中ではせっせと遠征にどんな装備を持っていくべきかシミュレートしつつ、そろそろ夕飯でも食べるかと起き上がりかけた瞬間、携帯電話が鳴った。

 誰かと考えるまでもなく、誠である。ちなみに、誠は三部屋離れているだけなので、直接来ることも容易なはずだが、一度も来たことはなく、また琉也の方も誠の部屋まで行ったことはない。寮内では、いつも電話で済ますのがなぜか暗黙の了解になっている。

「何だ、何か天池さんの耳寄り情報でも思い出したか?」

 いきなりそう出ると、誠はちげーよ、と言ってから、こんなことを言った。

「なぁ、お前って妹とかいたっけ? 全然話に聞いたことなかったよな」

 どきっとした。もしかして、由奈がその辺をうろうろしているところを、誰かに見られたのだろうか。

 いねぇし、と思わず返しそうになったのをぐっと堪えた。今し方、妹と名乗ってくれて構わないと了解したばかりなのだ。

「……いることはいるけど、それがどうした?」

「いやなんかさぁ、さっき部屋に来てさ、よろしくお願いしますって和菓子置いていった。どうも寮中の部屋を回ってるらしくて、みんな大騒ぎだぜ」

 愕然とする。

 空腹と合わせて二重の衝撃が、ふらっと琉也の意識を一瞬飛ばす。

「おーい、琉也? 何、これってお前の差し金なのか? って、んなわけないよな、お前がそんな細かいことに気がつくはずがないもんな。見た目も言葉遣いも甲斐性も、お前とは随分違うんで驚いたよ」

 すっかり感心した様子の誠の言葉が終わらないうちに、携帯電話が来客を告げる音を鳴らし、なぜか琉也が解錠する前に扉が開いて、由奈が入ってきた。

 もう訳がわからない。

「悪い、ちょっと切るぞ」

「おう、何だ、由奈ちゃん、帰ってきたのか?」

「知るかよ」

 携帯電話を切るのと、由奈が居間に入ってくるのが、ほとんど同時だった。

 にこっと愛らしく笑いかけてくる。その笑顔は輝かんばかりだが、今の琉也には何かしてやったりといった悪魔性が透けて見える気がする。

「えーと、由奈さん。帰ったんじゃなかったの?」

「何言ってるんですか。兄妹なんですから、今はここが私の家です」

「えーっと。もしかして、寮の生体認証、勝手に追加登録した?」

 この寮は生体認証を採用しているので、通常当人以外は入れないというメリットを持つが、その分、鍵など余分なものは必要ないので、登録さえしてしまえば他人でも簡単に入れてしまうという残念すぎるデメリットも持つ。普通はまず起きない現象であるが。

「はい。こう見えて、私、色々と融通が利くんです」

「そういうレベルじゃないだろ……」

「まあまあ、そう言わずに。一緒に管理課に行って手続きとか面倒だろうなと思ったので、こちらで済ませておきました」

 もう何も言い返す気が起きない。勝手にしてくれ、という感じである。

 だが、ふとさすがに見過ごせない脈絡があることに気付く。

「と言うか、ちょっと待て。ってことはなんだ、これから遠征まで、この部屋で暮らすっていうのか?」

「はい。何もおかしなことはないでしょう? 私は、地方の高校から交換学生として一時的に付高二年に編入するという設定です。当然、兄の部屋に置いてもらうのが、仲のいい普通の兄妹というものでしょう」

 言って、由奈は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

 何を考えているのか全く分からない。よもや刺客的な危ない何かではなさそうだし、いきなり寝首を掻かれるとも思えないが、全く目的がないようにも見えない。一緒に遠征に連れて行け、という辺りから始まって、この少女の本心が見えてこないのが、不気味すぎる。

 つい、由奈の顔をまじまじと覗き込みながら、考え込む。

 不意に、もやもやした曖昧な考えの中から、一つの可能性が泡のように浮かび上がってくる。

 スパイ。

 これは、いかにもありそうだ。

 量錬機構にはスパイが付きものといってもいい。

 生物から化学、物理に至るまで幅広い分野に渡り、次世代を担う新しい材料や物質を絶え間なく生み出す機関である。

 当然、開発されたばかりの材料を、出来る限り早く手に入れて実用化し、商品として売り出すことが、そのままその分野でのアドバンテージに繋がる。国内外の様々な企業が、また場合によっては海外の国家機関が、あの手この手で量錬機構へと探りを入れてくるのは避けようがない事態と言える。

 早くから予想されていたこの問題に対処するため、開発を担う開発本部、シードの実用化に向けた交渉を担当する運用本部と並び立つ形で、知的財産本部という名の、事実上は情報局が設置された。知財本部と略称される彼らの内部事情が外に漏れてくることはほとんどなく、ただ漠然と、七~八十人程度の職員からなるらしい、ということくらいしか知られていない。彼らが実際のところ、何をどこまで把握しているのかは、付高生はもちろん、開発本部や運用本部の職員にさえ全くわからないという。

 今回の件も、あるいはどこぞの有力企業が探りを入れてきている、という可能性が充分にある――どころか、もうそれくらいしかあり得ないような気がしてくる。

 由奈が何度か見せた、かなりの融通を利かせられるところとの繋がりが、何より大きな証拠のように思われる。

 考えは瞬く間にまとまっていく。

 おまけで付いて行く琉也に張り付くのは妙、とも言えるが、そこは由奈の「頼みやすい」という説明が道理にかなっているように思うし、何より琉也にはシードがある。

 あの機構長室での会話を盗み聞かれたとはさすがに考えにくいが、琉也のシードを持ち出すための書類が準備されている過程で、情報を掠め取られた可能性は充分にあり得る。

「どうしたんです、真剣な顔して」

 由奈が、きょとんとした顔で訊ねてくる。

 このあどけない表情の奥で、何とか情報を盗んでやると息巻いているとすれば、それはもうとんでもない役者だと舌を巻くところだが、得てしてスパイというのはそういうものだと聞く。

「いや、別に。ちょっとお腹が減ってね」

 そろそろ夕飯にしようか、と頭の片隅で考えながら立ち上がる。

 問題は、この件を知財本部が把握しているのかどうか、という点にあるだろう。

 彼らは決して間抜けではない。少なくとも表立って機構から情報やシードを盗まれたという話は聞いたことがない。

 由奈がここまで堂々と寮中の付高生に――つまり、全付高生に知らせて回っていることに加え、一部屋に生体認証を追加させるという、目立ちすぎる行動を取っている以上、知財本部が何も気付いていないとは考えにくい。

「あ、だったら、私、何か作りましょうか」

 由奈がぱっと顔を輝かせて、そんな変わったことを言う。

「……何か作れるの?」

 それまでの思考も脇にのけて、つい訊ねていた。この寮では、食べ物は備え付けの食品調理器に任せるのが当たり前になっている。寮側で食材を用意しておき、寮生のリクエストに応じて調理した食糧を出してくれるので、寮生からは食べたいものを好きなだけ食べられる一方、寮全体としてもコスト削減に繋がる、という合理性のみからなるシステムである。これに関して、付高生は料理が全くダメ、という問題がしばしば教員会議で俎上に挙げられるそうだが、これも近年は調理実習の強化で若干ましになってきているとか、そうでもないとか。

 琉也としては、人の手作りよりは、調理器からの食事の方がおいしいに決まっている、という認識で確定しているので、何か作れるのか、という質問の前には、調理器よりおいしいものを、という修飾語が隠されている。

「それは食材によりますよ。どんなものがあります?」

 どうやら本気になっているらしく、由奈は遠征用の荷物を入れてきたらしいスーツケースを部屋の隅まで移動させてから、キッチンの方へと歩いて行く。

 ぐるりとキッチンの装備を一瞥してから、由奈は琉也の方を振り向く。なぜか困惑した表情を浮かべている。

「もしかして冷蔵庫ないんですか?」

「そんなもの各部屋についてないって」

 言いながら琉也はキッチンへと歩み寄って、シンクの横を指差す。

「これがオートキャリアー。寮全体の冷蔵庫と繋がってて、注文したものを持ってきてくれる。で、これが基本的な食材リスト。日によって結構ばらつきがあるんだけど」

 言いながら、琉也は携帯電話を寮の回線へと接続し、「本日取り扱いの食材」のページを表示させる。

「ここから欲しいものを注文すると、だいたい数分くらいで来る」

「へぇ~、いいですね~、自分で買いに行く必要ないんですね~。でも、私はちょっと不満ですけど」

 由奈がぷっと頬を膨らませてみせる。かわいいといえばかわいい仕草だが、わざとらしい気もする。スパイなどと疑い出したせいか、どうにも由奈の一挙手一投足に疑わしいものを感じてしまう。つられて、返す言葉もつい辛辣になる。

「不満だったら別に使わなくてもいいけど」

「使いますけど! 私が言いたいのは、自分でいいものを選べないじゃないですか、ってことです! 腐ったのとかきたらどうするんですか!」

「大丈夫だって、最高級か、まあ準最高級くらいのしか来ないようになってるから」

「……まあ、そういうことなら、とりあえず信じてみます……ちょっとこれ、借りますね」

 由奈は琉也の手から携帯電話を受け取って、食材リストにためつすがめつ見入る。

 えーと注文は、と言い出した由奈に、操作の仕方を教えてから、琉也は居間のデスクへと戻った。さすがにベッドに転がる気は起きない。

 居間からキッチンは簡単に見通せることもあって、琉也はどうにも落ち着かない時間を過ごした。野菜やら肉やらかなり色々と頼んだ様子の由奈は、それから鍋やフライパン、おたまやへらなどの器具を全て丁寧に洗い、食材が到着してからはほとんどダンスでもするかのように、各種器具を振り回して楽しげに動き回っている。包丁裁きはたしかのようだし、二、三の鍋やフライパンを同時に加熱器にかけながらも慌てることなくこまめに調整を繰り返しているし、食材や調味料を加える手つきには迷いがない。

 どうなることやら、と初めははらはらしていた琉也は、途中辺りからほとんどショーでも見ているかのような気分になっていた。なるほど、これが音に聞く料理というものか、と三千年の時を経て古代遺跡が開陳されたかのような感嘆さえ溢れてくるほどである。

 とはいえ、どう見ても料理の腕が確かすぎるという点は、疑いを深めこそすれ、打ち消す方向には至らない。実物のスパイを見たことがないので断定はできないが、やはり何でもできそうな気がする――スパイものの映画とかから察するに。

 世の中の平均的な料理スキルがどの程度のものなのかも、付高生である琉也には判断が難しいが、もしかするとみんなこの程度は当たり前にできるものなのだろうか。単に付高生が絶望的に料理下手なだけ、なのだろうか。

 感心しつつ、一方で悶々としつつ、一時間ばかりを過ごす。

 空腹を加速させるようないい香りが室内を満たす頃、由奈が大きな鍋をデスクへと持ってきた。

「お待たせしました。ここ、置きますね」

 続いて、フライパンやらボウルやらをせっせと運んでくる。手伝おうか、と声を掛ける前に、あらかたの料理がデスク上に並んでいる。

 そういえば皿が足りないな、と気付いて、琉也はキッチンへ赴いた。各部屋備え付けの皿は普段使わないので、棚の奥にしまい込んである。

 適当に十枚ばかり取って、ついでにスプーンやフォークなども載せてデスクへと運ぶと、由奈がにやにやしていた。

「何だよ、その顔は」

「いやぁ、意外と気が利くなぁっと。感心感心」

「からかうなよ、食器がなきゃ食べられないだろ」

「ですよね~」

 琉也が食器を傍らに置いていつもの席につくと、由奈はその向かいに陣取って食器に手を伸ばした。

「適当に自分でとって食べてくださいね。お口に合うか分かりませんし」

 言いつつ、すでに由奈は自分の皿にシチューを大盛りに取っている。どうやら結構食べる方らしい。これ、大食いとかそういうレベルなのでは、と目が点になるほどである。

 じゃ、遠慮なく、いただきます、と唱えてから、琉也は目の前に並んだ料理を見渡した。ボウルにレタスとトマトのサラダ、大鍋にビーフシチュー、フライパンにポテトフライ、小鍋にコーンスープ、そしてやや不釣り合いながらもう一つのボウルには炊きたてのご飯が入っている。高原家で頂く夕食に見劣りしない、まっとうな家庭料理に見える。

 問題は味だよな、と考えつつ、琉也はまずはシチューとご飯を皿に取った。これで味が調理器製の料理に劣る場合、いったい何と言えばいいのだろう、と重大な懸念を抱きながら口に運んだ一杯目――それは誇張でもなんでもなく、ある種の雷撃のように琉也を打ちのめした。

 おいしい。

 とにかく、おいしいのだ。

 肉の旨みを生かしつつも、野菜の味わいが染み渡ったシチューは、高原家で時々出される洗練されたものとは違って、何だか素朴な感じであったが、たぶんだからこそ琉也の琴線に触れたのだと思う。

「どうです?」

 訊ねる由奈の口調には自信が、表情には得意気な笑みが漲っていた。意訳すると、どうだおいしいだろこら、といったところか。

 普段ならこういう態度でこられるとつい反発したくなる琉也だが、今日この時に限っては素直に認めずにはいられない気分だった。

「うん、すごくおいしい。感動した。こんなにおいしいの、何年ぶりかわからないよ」

 が、どうやらそこまでの言葉は期待していなかったらしく、由奈はしばし笑顔を凍りつかせた後、そっか、と呟きながら俯いた。

 それから、二人共食べることに夢中になってしまい、かちゃかちゃと食器の立てる音ばかりが室内に響いた。

 どれもおいしいという幸福感に満たされつつ、一方で琉也は浮世離れした不思議な感覚をも味わっていた。よもやこの寮で、他の誰かと食事を共に摂ることになろうとは、全く想像したこともなかった。しかも、相手は数時間前に突然現れた、得体の知れない少女である。

 会話らしい会話があるわけでもないので、高原家での夕飯風景とはまた一風趣を異にする。だが、こんな訳の分からない相手であっても、一緒に食事を摂るというのは何か温かな風情があるものだ、と感じる。

 もぐもぐと頬を膨らませながらせっせと箸を動かす由奈を見ているうち、自分でも思いがけない疑問が生じていた。

「ねぇ、何で妹ってことにしたの?」

「はい? だって、私年下ですし、外見だって年上には見えませんよね?」

 訳が分からない、とばかりに首を傾げる由奈に、わざとらしいところは見られない。こういう可能性は、考えなかったのだろうか。

「いや、どうせ赤の他人なんだし、恋人とか言い出すこともできたんじゃない?」

 言うなり、由奈の動作が完全に停止する。

 探るような視線が、じっと琉也の目に注がれる。

「……もしかして、私のこと、そういう目で見てます?」

 いやまさか、と即答しそうになって、琉也はふと一計を思いつく。もし、この子が本当にスパイなら、こういう事態にどう反応するべきか。スパイであれば、受け入れるのではないか。

「えーと悪い、ちょっと期待してるかも……」

 言いつつ、これはちょっと恥ずかしいな、という思いがわずかに頬を緩ませるのを自覚する。

 顔を逸らしそうになりつつも、由奈を観察する目だけは逸らさずにいると、由奈が手にしていた茶碗と箸をデスクに静かに置いた。

 お互い、間合いを計るかのように視線を交わしたまま、何十秒か、あるいは何分かが過ぎる。やがて、感情の読み取れない顔付きで、由奈がそっと口を開く。

「私のこと、どう思います? 一人の、女の子として……」

 それが、由奈の心の底からの問いかけであることを、琉也は直感的に理解していた。立場も何も関係ない、一人の人間として心から気になったことを彼女は問いかけている。

 だからこそ、琉也は返答に窮した。

 どう、と言われても、会って数時間で大した意見もあるわけがない。今この時点で琉也の胸の内を占める思考といえば、スパイかもしれないなという疑いと、料理うまいなという感嘆、あとはせいぜいが、活発だなという印象くらいのものである。

 結局、最も適切だとそのとき琉也が思えたのは、答えを保留することであった。

「……ごめん、まだ何か言えるほど思うところがない……」

「ですよね……」

 由奈が、あははと困ったように笑った。

「でも、何か言えることができたら言うよ、必ず」

 琉也はそんなことを力強く言いつつ、さてこれはいったい何の宣言なんだと、心の片隅では不思議に感じてもいた。言わないといけない気がしているが、言ってどうなるものでもないだろう。

 そのあいまいさは由奈も感じたようで、再び箸と茶碗を取り上げて食事を再開しながらも、叩きつけるような口調で言い放った。

「とにかく、です。言い逃れした以上、きちんと兄妹としてのマナーと節度は守ってもらいますからね。変な期待はしないでください!」

 言い逃れしなければ恋人でもよかったのだろうか、と変な方向の疑念に捕らわれつつも、琉也は大人しく頷く。

「わかったわかった。僕も気をつけるから、そっちも気をつけてよ」

「当たり前です!」


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