プロローグ
現代の魔法と讃える者がいれば、神の業と畏れる者もいた。
アルケミック・コクーン――錬金の繭。それは、古めかしい名とは裏腹に、分野によらず、技術の進歩をそれまでの百倍とも千倍とも言われる速さまで加速する、革新的な装置である。
装置はプリディクタと呼ばれる量子計算機とリアクタと呼ばれる物質生成槽から構成される。プリディクタでの広範囲な計算予測と、それに基づくリアクタでの物質生成および性能評価を連動しつつ、数百回から数万回反復することで、新たな物質や構造を生み出す。いわば、それまで人の経験や勘に頼りながら行ってきた物質開発を完全に自動化し、極限的に高速化する技術である。
二〇二一年に日本国内の小さな私企業でその基本原理が実証されるや、直ちにその有用性・将来性が認められた。四年後には、国全体のサポートの下、専門の研究機関である、量子錬成技術開発運用機構(通称、量錬機構)が設立され、その研究利用が官民一体となって強力に推進された。そして、それからほんの数年の間に、材料、化学、生物、創薬といった様々な分野において活用され、目覚ましい成果を上げて見せた。この間に取得された特許の数は、一万件にも及ぶと言われている。
これらの成果に伴う社会的な変化は大きかった。家電から産業用機器に至るまで多くの機械は飛躍的なネットワーク化・知能化を遂げ、生活の利便性は著しく向上した。材料および物理面での応用は、常温超伝導体の実現や発電の高効率化をもたらし、経済全般を押し上げると共に、国民全体の生活レベル向上に一躍貢献した。生物・創薬分野での発明・発見の数々が、多くの病気を完全に克服し、寿命を延ばすばかりか、老化そのものを十年単位で遅らせるまでに至った。化学における応用は、電池から貴金属分離に至るまで、化学反応を効率的に処理する新たな触媒を無数に生み出した。もちろん、民生用途ばかりでなく、軍事・防衛方面への応用も数限りなく行われ、結果として国際的なパワーバランスの変化さえももたらした。例を挙げれば枚挙に暇がないほどの、俗に量子革命とまで呼ばれる大きな変革であった。
だが、開発されて二十年近くが経とうとする今、アルケミック・コクーンの名を聞いていい顔をする者は、必ずしも多くはない。むしろ、眉をひそめる者の方が、多いかもしれない。そうした者たちが引き合いに出す負の要素が、「佐岐野事件」である。
事件は、二〇三二年、量錬機構の拠点として新しく創設されたばかりの、佐岐野研究所で起こった。
とはいえ、実際のところ、その詳細は今に至るまで知られていない。
知られているのは、次のような、佐岐野という小さな田舎町全体を呑み込んだ客観的な事実と、研究所内部からの曖昧模糊とした報告ばかりである。
七月五日、佐岐野研究所に設置された、アルケミック・コクーンの一台が暴走し、致死性のウイルスが研究所内外に多量に放出された。
ウィルスの感染は、瞬く間に佐岐野町の住民全員に及び、その大多数がほぼ即死に近い状況で命を失った。当然、研究所に勤務する機構職員も、その全員が当日中に死亡したとされる。
幸いにも量錬機構が事態を直ちに把握し、それ以上の事態の進行を食い止められたのは、事件発生直後、研究所内部から二通のメールが送信されたお陰であった。いずれも差出人は、当時暴走したとされるアルケミック・コクーンの使用責任者である、岡森誠一・主任研究員であった。一通目の内容は、「AC五号機が誤作動したようです。多くの人間が倒れましたが、二次感染の危険がありますので、当面救助は行わないでください」。ちなみに、ACとはアルケミック・コクーンの略称で、一部分野を除いて広く使われている。
それから一時間後に送信された二通目の内容は、「私は決してこんなものを意図したわけではなかった。誰も来てはいけない。町全体を隔離しなければならない。生存者はいないと考えて欲しい」。それが、岡森誠一からの、研究所からの、ひいては佐岐野という町からの、最後の連絡であった。この後、電話やメールなど、数多の通信の試みが外部から行われたが、一切の返答は得られなかった。
岡森誠一からの二通目のメールと、あらゆる通信手段の途絶を受け、救助の準備を行っていた量錬機構および自衛隊は、方針を大きく変更した。
佐岐野がたまたま盆地の中程にあることを利用し、佐岐野を取り囲む山々を一種のフェンスとして、町全体を封鎖したのである。さらに、動植物を媒介としたウィルスの拡散を防ぐことを目的として、山中に高さ十メートルに及ぶ土塁を築いた。鳥類の移動を防ぐため、土塁の頂上部には、数十メートル間隔で強力な化学レーザー砲が設置された。皮肉にも、アルケミック・コクーンによって開発されたばかりの、高効率な兵器であった。
直径二〇キロ、外周六〇キロにも及ぶ、この大規模かつ無慈悲な封鎖は、全国民、全社会からの、量錬機構とアルケミック・コクーンという技術への激しい批判を招いた。連日、事件の詳細が明らかにされないことを、事態を明らかにせずに多くの人間を見捨てたことを、そしてそんな事態を招くがままにした量錬機構を、メディアが批判し、世論も悉く同調した。メールの送信者として、また事件の責任者として、名前が表に出ることになった岡森誠一は、もはや犯罪者扱いであった。
だが、結局、そんな禍根深い事件を経ても、量錬機構は存続することになり、アルケミック・コクーンという技術は生き残った。
誰もが批判しながらも、そのあまりにも大きすぎる恩恵を、無視することはできなかったのだ。事件から二ヶ月後、佐岐野封鎖完了という形で一応の収束を迎えたのを機に、時の首相は、「時には痛みと犠牲を抱えることになろうとも、厳重な注意と管理と監視の下に置かれる限りにおいて、国家と国民に著しい貢献をしてきた、そしてこれからも貢献すると期待される科学技術を積極的に活用していくことが、科学技術に依存してきた我が人類、我が国家の歩むべき道であると私は信じる」と結んで、賛否両論の世論が渦巻く中、量錬機構の存続を閣議決定した。
当然のことながら、アルケミック・コクーンを取り巻く何もかもががらりと変わった。アルケミック・コクーンとは、もはやただ人類に恩恵をもたらすだけの技術ではなかった。時には容赦なく鋭い牙を人に向ける危険な猛獣にも等しい、という認識の下、関連する技術の開発から運用に至る過程全てが厳密に吟味され、二度と佐岐野事件の轍を踏まないよう、考え得る限りの対策が行われた。臆病と言っていいまでの慎重さが、遍く求められていた。
量錬機構そのものもまた、他の国立研究機関とは大きく性格を異にするようになった。もたらされる技術は、しばしば軍事転用が可能であるため、テロやスパイといった活動への警戒が常に必要とされた。研究機関であると同時に情報機関としての性格を備え、さらには軍事機関としての要素さえも抱えるようになったのは自然のなりゆきであった。
そんな危うい立場にある機関に勤務する職員が、通常の公務員であっていいわけもなく、また通常の研究者であっていいわけもない。技術を開発するばかりでなく、その技術の重要性・秘匿性・将来性・危険性を鑑みて適宜民間・軍事と振り分けて運用し、必要とあれば情報の保護のための広範な活動を行う、といった総合的な役割が期待されていた。
量錬機構・付属高等専門学校(通称、付高)は、そんな一風変わった人員を養成すべく創立された学校である。学校としての創立そのものは佐岐野事件の前であったものの、佐岐野事件以後はその重要性が改めて認識され、教育課程の抜本的な見直しが行われた。そして、間もなく、異様に入学難度の高い学校として知られるようになった。高校から大学までの教養課程に加え、専門分野については大学院レベルの教育までをも五年間で行う詰め込みぶりであるから、トップレベルの学生のみが入学を許されるのは当然であろう。
そして、時は二〇三九年。
悪名高き岡森誠一の子でありながら、物好きにも付高へと進学した岡森琉也が三年生を迎えて間もない、とある初夏の日。
前触れもなく大出力で放たれた一つの無線信号が、日本中を震撼させた。
発信地は、今なお封鎖されたままの佐岐野。
内容は、たった一文。
――我々は、誇りある死を選ぶだろう。
佐岐野事件から、ちょうど七年が経とうとしていた。