stage1_ゴロツキと魔女 6
この世界には目には見えない壁のようなものが存在している。これは疑いようもない真実で、程度の差こそあれ、私たち魔法使いならば誰もが感覚的に理解していることです。
向こう側を想像するのは楽しい物。女神を妄信していた教会時代、そこには私だけの楽園がありました。美しい自然と、芸術的な摩天楼。翼の生えた白馬にエル・リール様。女神は透き通る湖から地上を見下ろし、私たちに知恵と勇気を授けて下さるのです――。
「いや、本当に助かりました。マヤさんは命の恩人です」
「壊されたのが屋敷の左半分で良かったな。そうでなければ、さすがの私も怒り狂っていたと思うぞ?」
崩れかけの屋敷の右半分、ここは奇跡的に屋根が落ちてこなかったマヤトーレの部屋の中です。
私が呼び出した黒い腕は滅茶苦茶に暴れ回った挙句、魔法陣を自ら破壊して制御不能に陥ってしまいました。鉈でマヤトーレの屋敷を押し潰し、空間を切り裂いて地面を抉って、ついでに遠くの木々を粉微塵にして可憐な草花を吹き飛ばしたんです。
「すみませんでした。私が危険な事をしたばかりに……」
奴が何なのかは呼び出した私にも分かりません。敵味方関係なく襲い掛かってくる凶刃に私は大泣き。本当に久しぶりに心の底からエル・リール様に祈りを捧げました。
狡賢い女神は死んだ振りを決め込んだように黙っていましたが、何と今まで戦っていた相手、マヤトーレが私を助けてくれたんです。仕組みは良く分かりませんが、壊れた魔法陣に別の魔法を掛け合わせて相殺したとかなんとか。マヤトーレは「浄化の炎」だと言っていました。
それにしても、彼女は本当に尊敬できる女性です。腰を抜かした私を見て、危険を顧みずにあの化け物から守ってくれました。そして泣きながら震える私を優しく抱きしめてくれたんです。
ベッド代わりに使っているというソファに腰かけさせてもらい、料理をする彼女の背中を眺めます。赤を基調とした内装は落ち着いた感じで大人の雰囲気。壁を埋め尽くす魔導書の数々には圧倒されますが、他は至って都会的で森に棲む魔女という暗い印象は受けませんでした。
「まあ、そう何度も謝るな。貴様との戦いは中々に心躍る物だった。この私に対抗しようと思えばあれくらいの無茶も必要だっただろう」
思い切り魔法を使って満足したということでしょうか。やはりマヤトーレは本物の天才で、しかも相当な変わり者のようです。戦いに快楽を求めるがそれ以外のことには特に固執しない。楽しそうに笑う姿からそんな印象が伝わってきました。
「でも、迷惑をかけた上に食事まで作ってもらえるなんて、何だか心苦しいです」
「例の放火のこともあるしな、今回でお相子としようじゃないか」
それは素晴らしい考えだと思いました。ぐつぐつと煮え立つスープの音、果物の甘い匂いが漂ってきます。沢山動いて疲れたせいか、まるで夢の中にいるような気分でした。
「言っておくが、俺は納得してねぇからな」
私の足元でジークベルトが声を上げました。強力なコロリで傷を癒してやりましたが、その反動でさっきまでは気持ちの悪そうな顔をしていたはずです。
「もう良いじゃないですか。今回はジークさんの負けです。あんなにされたのに見苦しいですよ」
悔しそうな歯ぎしりの音が聞こえてきますが事実とは残酷なもの。マヤトーレに喧嘩を売りたいんでしょうが、しばらくは立てもしないでしょう。私たちの好意で全身包帯でグルグル巻きにされているんです。
「だいたい、ロージィの件はどうなるんだよ。こいつが犯人って話だったろうが」
「ああ、すっかり忘れていました!!」
「何だと、この野郎。ぶっ飛ばすぞ!!」
「冗談ですって、忘れるわけないじゃないですか」
寝たまま飛び跳ねるジークベルトが可愛らしいです。ギシギシ揺れて屋根が落ちてこないか心配ですが、多分大丈夫でしょう。
「それは何の話だ。私にも聞かせろ」
「わぁ、美味しそうなスープです!!」
「色々な果物が一緒に煮込んである。浮いている白い実はラスフの実だ」
見覚えのあるそれは、私が森で食べた実と同じ物でした。背の低いテーブルの上に煮え立つスープの入った鍋が置かれます。マヤトーレが器によそっていきました。
「ああ、やっと食事にありつけますよ……!!」
焦げ目の付いたラスフの実は香ばしくてジューシー。果物主体のスープなんて初めてでしたが、まろやかなコクがあって美味しくいただけました。町の料理人ジョリー・ジョリーよりも腕が良くらいでしょう。
「さあ、ジークさんも食べて下さい」
私が体を起こして、マヤトーレがスプーンを差し出します。最初は頑なに口を閉じていたジークベルトも、美味しそうな香りにやられたのか黙ってマヤトーレにアーンされていました。
「それでですね。実はマヤさんにお聞きしたいことがあるんですが」
「はっはっは、何でも聞くが良い。だが、その前に私からも一つ質問をして構わないか?」
「ええと、何ですかね?」
何となく察しは付きましたが、マヤトーレの質問はやはり私が呼び出したあの化け物についてでした。あれは一体何だったのかと。気になるに決まっていますよね。
「あれはその、恥ずかしい話なんですが実は以前にペガサスを呼び出そうとしたことがありまして」
陣魔法はこちら側と向こう側、神々の世界を繋ぐ魔法だと言われています。神々の世界と言ってもそれが真実かどうかは定かではありません。けれど、こことは違う別の空間が存在していることは間違いないようで、そこから力を引き寄せて陣を通して発動するのが陣魔法という訳です。
準備段階として陣の構築が必要で、使用の際にも様々な手順を踏まなければ成功が難しい、どちらかと言えば使い勝手の悪い魔法だとされています。
それでも私が修行しようと思ったのはなぜか。理由は単純で、神々の楽園と繋がるという行為に魅力を感じたからです。今では馬鹿らしいことだと思っていますが、当時はそれがロマンティックに感じられて仕方がなかったんです。
「ペガサスだと……?」
「ええ。実は一時期、ペガサスに憧れていたことがありまして」
手引書を参考に聖なる光の陣の構築に成功した私は、次なる目標としてペガサスを呼び出すことを心に決めました。昔物語に良く出てくる翼の生えた白い馬。その美しさから教会の壁画等にも描かれていますが、所詮は架空の生き物だと考えられています。
「笑われそうな話ですけど、当時の私の頭の中では絶対にいるということになっていたんです」
白馬の背中に乗って空を飛びたい。そんな子供じみた夢は、常識という壁を軽々と取っ払ってしまいました。私は研究に没頭し、あれこれ陣の構成を変えながら向こう側に探りを入れていたんです。
「それで結局はどうなったんだ?」
「残念ながら、ペガサスを見つけることはできませんでした。その代わりに、何か良く分からない禍々しい物を引き当ててしまったんです」
「向こう側から、偶然に意図しないものを呼び寄せてしまったと。似たような話は聞いたことがあるが、まさか本物を見ることになるとはな」
「私はエル・リール派の魔法使いですから、本当ならエル・リール様のお力しか引き出せないはずなんですけどね。だけど、向こう側って私たちが考えているよりずっと混沌としているんですよ。手引書の順序から外れるともう何が出てくるか分からなくて……」
「さっきは失敗したようだが、貴様は自由にあれを使いこなすことができるのか?」
「いいえ、無理だと思います。何だか怖くって、最初の一回とさっき使った以外は試してもいません」
明らかにエル・リール様の印象を悪くしてしまいますから、教会の目が届く場所で使えばどんな恐ろしい罰が待っているか分かりませんでした。誰にも言わずに黙っていましたが、ロンベルンに来てからはいつか使う機会が来るかもと密かに期待をしていたんです。「すぐに陣を消してしまえば、大丈夫」そう思っていたんですが、どうやらそれは間違いだったようですね。
「命が惜しければ二度と使わないことだな。今回は上手く消すことが出来たが、次があっても保証はできないぞ」
「良く分からねぇが、結局こいつは何を呼び出したんだよ?」
「さあ、それは私にも分かりません」
恐らくはエル・リール様とは別の神様の力を引き出してしまったんでしょう。本来ならば信仰対象以外の神々から力を得るなどということは、まずあり得ないはずなんですが、陣魔法という特殊な魔法だからこそ起こり得た偶然なのかもしれません。
それよりも、私が気になったのは力の現れ方についてでした。あの巨大な腕は明らかに意思のようなものを持っていました。私が知っているどの魔法よりも生々しく、それでいて通常の生き物が持たない禍々しさを感じたんです。最初は魔物に似ているとも思いましたが――。
一つの可能性が脳裏に過って思わず苦笑いしてしまいました。もしかしたら、あれは神自身の腕だったのではないだろうか?
それは何とも恐ろしい想像でした。私たちの世界のすぐ隣にはあんな化け物たちが眠っていて、もしかすると何かの拍子で簡単に目を覚ましてしまうかもしれない。神々はもはや力を持たぬ抜け殻のような存在。そう思っていたのに、まるで急に息を吹き返してきたような気味の悪さを感じます。
「だからって、今更エル・リール様を褒め称えたりはしませんけどね」
気づけば口に出していたそれは、決して神を恐れての言葉ではありません。これは決意の表明。教会に背を向けた放浪の修道士としての矜持です。
「さっきから、ミステルは何を呟いている?」
「時々あるんだよ。修道士ってのは頭がおかしいんだ」
「さっ、それじゃあ本題に入りますよ。ロンベルンで起きているロージィの異変についてお尋ねしたいんですが……」
事件のあらましを話すと、マヤトーレは興味深そうに笑みを浮かべて見せました。おもむろに立ち上がり、棚から何かを取り出してきます。
「おい、そいつは……!!」
「見ての通り、ロンベルンの酒だな」
杯に注がれたのは赤色の液体でした。間違いないでしょう。これは今まさに話題に上っていた、ロージィから作られたお酒です。
「どうして、マヤさんがそれを?」
「ほらみろ。やっぱり、こいつが犯人じゃねぇか!!!」
マヤトーレが酒を口に含み艶のある表情を浮かべます。喉を鳴らし、私たちの方に向き直りました。
「勘違いするんじゃない。これは私が自分で買った酒だ。勿論、出入り禁止になる前にな」
「ああ、なるほど。別におかしなことではないですね」
「そうだろう。貴様らは私を犯人だと考えているようだが、それは間違っているな」
「私はそんなに疑ってないですけどね。ロンベルンの有力者会議で決まったから尋ねに来ただけです。他に犯人らしい人物の候補がないのは確かですけど」
マヤトーレは放火魔で頭のおかしい危険な奴、だから犯人だ。今更ながら、これにはちょっと無理があるような気がしてきました。彼女の人となりを知った今では特にそう思います。
私の中でマヤトーレに対する疑いはすっかり晴れてしまいました。嘘を吐いているという可能性もあるでしょうが、直感的にそれはないと断定してしまっています。
「こいつが犯人で良いじゃねぇか。そうすりゃ、全部丸く収まるぜ」
「そう思いたければ勝手にすれば良い。だが、それでは何の解決にもならないだろう。そもそも町の奴らはどうして私が犯人だと?」
「やっぱり、放火の件があるからですかね。あと魔法使いだからって」
「奴らの考えそうなことだな。まあ、魔法使いが犯人だと考えるのは悪くないだろう。だが、貴様らは大きな過ちを犯しているぞ?」
「どういうことでしょう?」
「植物の育ちを変化させる魔法があるとして、まず使い手の候補に挙がるのは土魔法が得意な者だろう。そうでなければ、呪術か他のかなり特殊な魔法を嗜んでいる者だ。私は全くの専門外じゃないか」
魔法というのは神々から授かった力がその根本。信仰する神によって扱える魔法の種類は限定されてきます。実際に戦った感じからして、マヤトーレが炎の魔法に長けていることは間違いないでしょう。様々な分野に精通している魔法使いも存在しないとは言いませんが、それは相当に珍しい才能のはずです。
「そう言われてみればそうですね。これは新しい着眼点ですよ。そう考えると怪しいのは土魔法の使い手になります」
「ちょっと待て、俺は犯人じゃないぜ!!」
「分かってますよ。ジークさんにそんな器用な真似ができるとは思えません」
しかし、こうなってくると犯人探しは一層難しくなるでしょう。元々が信仰に無関心な土地だからか、ロンベルン周辺で私たち以外の魔法使いの名前なんて聞いたことがありません。遠方からやってきた人間という線も考えられますが、もしそうなら、地道に聞き込みをする他どうしようもないでしょう。
「もしかして、何か薬を使って成長を止めているとか、そういう可能性はないですか?」
「それは難しいだろう。ロージィ畑は広いからな。その全てに薬を撒くのは簡単ではない。真夜中ならあるいはと思うが、夜も起きている人間が多い町だ。恐らくは誰かに見つかってしまうだろう」
もしやと思いましたが、マヤトーレの言う通りでしょう。そもそも、そんな薬を作れそうな人物にも心当たりがありません。それに、仮に魔法使いではなく普通の人間が犯人だとしても、犯人を見つけることが容易でないことには変わりがないでしょう。
「困りましたね。兎に角、情報が足りないです」
「誰か怪しい人間を見たとか。そういう話は出なかったのか?」
「ええと、ロンベルンの外れでマヤさんを見たって話くらいです」
そういえば、どうしてマヤトーレは町に近づいたんでしょうか。これは小さな引っかかりでした。当然、町の中に入れるはずもなく、悪くすれば誰かに石を投げつけられるというのに……。
「疑う訳じゃないんですけど、どうしてまたロンベルンなんかに?」
「人を探していた。私の師匠でレミーニャという男だ」
「ああ、師匠がいたんですか」
教会に所属していない魔法使いなら、師匠と呼べる人がいるのは当然でしょう。誰だって最初は初心者ですから、ジークベルトのように誰からも教えを受けたことがないという魔法使いの方が珍しいんじゃないでしょうか。
「ちょっと待て、そいつは魔法使いなんだよな?」
今のところ他に不審な人物もいませんからね。ジークベルトなんかはもう決めつけているみたいです。確かに疑わしいかもしれません。マヤトーレの手前、犯人だと考えるのは悪いかもしれませんが。
「分かったぜ。そのレミーニャって奴が犯人だ。そいつ、土魔法を使うんだろ?」
「いいや、使わないな」
「探していたって話ですけど、詳しく教えてもらっても良いでしょうか?」
取りあえず話を聞いてみることにしましょう。事件の解決に繋がるかは分かりませんが、思わぬところから手掛かりが掴めるかもしれません。こうやって少しずつ情報を探っていくのが上手なやり方という奴です。
「レミーニャが失踪したのは一月ほど前のことだ。ある場所の探索中にな、いつの間にか姿を消していたんだ」
「おいおい、ロージィがおかしくなり始めたのと時期が重なるじゃねぇか。こいつはいよいよ怪しくなってきたぜ!!」
「マヤさんはどう思います?」
「奴は仮にも私の師匠だ、魔法の腕は並大抵ではない。だが、さっきも言ったが土魔法を使うわけではないし、他の手段を使ってロージィに細工をするとも思えないな。ロンベルンに対する恨みや思い入れも特にないだろう」
ジークベルトは当然のようにレミーニャを疑っていますが、彼を良く知っているマヤトーレはその可能性が低いと考えているようです。果たしてどちらが正しいのでしょうか。頭が良いのは断然マヤトーレの方だと思いますが、対象が自分の師匠となれば、その目が曇るということもあるかもしれません。
「じゃあ誰が犯人だってんだよ?」
ジークベルトが頭を抱えています。仮にレミーニャが違うとしたら、私たちにできることは、町に戻って地道に聞き込みをするくらいしかないでしょう。そうなると途方に暮れてしまいそうです。とはいえ、私だって好きでこんな役目を引き受けた訳じゃないんですから、それはそれで良いのかもしれません。酒場で適当に情報を集めつつ事の成り行きを見守る。結果としてロージィは元通りにならないかもしれませんが、それはそれで仕方のない事でしょう。
「ああ、畜生。こんなことなら畑で寝泊まりしてりゃ良かったぜ!!!」
この葛藤は何でしょうか。余所者の私が頑張る必要なんてないはずなのに、喚くジークベルトを見ていると、どうしてか他人事ではないように思えてきてなりませんでした。ロンベルンは大嫌いな町。けれど、離れることができないのはこの町で修道士をやると決めたからです。最初はラッカに戻りたくないという消極的な理由から、今だって惰性で続けているだけ。そのはずなのに――。
「レミーニャではないだろうが……」
マヤトーレが口を開いた瞬間、私は確かに期待をしていました。何としても解決させたいと強く強く願っていたんです。
「解決への鍵は奴の近くにあると見た」
「どういうことです!?」
いつもは願いを叶えてくれないエル・リール様が、久しぶりに私に微笑んでくれたような気がしました。マヤトーレは明らかに何かを確信している顔。その瞳の奥に灯る炎を見て手ごたえを感じました。
「重要なのは一月前ということだ。レミーニャの奴があの迷宮を見つけたのが一月前。それからすぐ、私と一緒に探索を始め、奴だけがいなくなった」
マヤトーレの口元がだんだんと吊り上がっていきます。この顔は私も知っている顔、とても楽しそうに夜空に火炎を放っている時と同じ表情です。
「そう、怪しいのは迷宮だ。私の記憶が確かなら、あの場所にあんなものは存在しなかった。分かるか? 元々そこにあったのではなく一月前に突然出現したんだ」
「迷宮って何のことです。ロンベルンの近くにそんな場所が?」
「はっはっは。これは良いぞ、貴様らを生かしておいたのは正解だったらしいな。朝になったらレミーニャを探しに行くから付いてこい。きっと事件解決の手掛かりもそこで掴めるはずだ」
「面白いじゃねぇか!! 話は全く分からねぇが燃えてきたぜ」
これは私がエル・リール様から与えられた大いなる試練。きっと、多分そうなんです。今の所はそう思って頑張ることにしました。まだまだ謎が多いですが迷宮探索なんて楽しそうじゃないですか。マヤトーレとジークベルトの笑い声に合わせて私も修道士らしく微笑を浮かべます。
「さあ、ロージィの酒を飲め。貴様らは久々の客人だ。今夜は大いに語り合おうではないか!!」
私たちは酒を飲み、果物をかじりながら互いの夢を語り合いました。やがて夜は更けていき、朝日が昇って――。
「お日さまが輝いています。まるで、祝福されているみたいですね……!!」
誰かがあくびをして、私たちは眠りにつきました。迷宮探索は夜になりそうです。もう結構良い時間ですから。