バーンアウトシンドローム
ドアを開けると、部屋の中はカーテンに守られるように包まれ、僅かな隙間から差し込む白光が蓮の横顔を浮き上がらせていた。
割と片付いた居心地のよさそうな部屋に足を踏み入れる前に、私は感じてしまう。無駄なのではないかしらという直感に戸惑い、言葉をかけるのをためらった。
そんな私を見透かすように目だけを動かし、蓮が先に口を開く。
「ウチの母さんに頼まれたんだろ?」
相変わらず勘の鋭い幼馴染だ。遊びに来ただけだよなんて嘘はつけないな。
「お母さん心配してたわよ、もう一ヶ月近く学校に行ってないんですってね」
体調どうとか気分良くないのとか、優しい言葉を先にかければいいのに、いつも私は直球すぎる。
「それで? 美月は仕方なく俺のところに来たって訳か」
「なにそれ、私だって気になったから来たんじゃない。蓮に会ったらもっと心配になっちゃったわよ、こんな薄暗い部屋で文庫本を読んでるなんて……」
フッっと軽い溜息を吐き文庫本を膝の上に置いた蓮は、本を閉じた自分の手に目を落とした。
「心配はね、何の役にもたたないよ」
「そうだね、じゃあこうするね」
私はカーテンに手をかけ祈りながら、部屋一杯に光を入れた。
眩しそうに目を細める彼の青白い表情の上には、更に濃い青が目の下を縁どっていた。
「眠れてないの?」
「……うん、あんまり……暗くしておけばいつかは寝れるだろうかと思って……。
いらない心配されるのもイヤだけど、無理やりこじ開けられるのはもっと気分が悪い」
カーテンを閉めていたのには理由があったのかと、無神経な自分の行動に、蓮の顔色を窺いながら戸惑うしかなかった。
私は幼馴染の助けになるどころか、腹を立たせるために来てしまったのだろうか。
彼の心に届くような言葉を持ち合わせていない丸腰の自分に焦り、急いで言葉を紡ごうとしたが気の利いた言葉が思い浮かばない。
少し距離を開けて隣りに座り、テーブル上の重なっている文庫本を手に取った。興味があるふりをしてパラパラとページをめくる。
蓮もまた本を広げ、気まずく居心地の悪い時間がゆっくりと二人の間を流れていく。
文字を絵のように眺めて、この部屋から早く逃げ出したい気持ちはストレートすぎる言葉を投げかけてしまった。
「ねぇ、蓮。あんなに頑張って受験勉強して希望校に入れたのに、どうして、行かなくなっちゃったの?」
「…………よく分からない……なんとなく」
「えっ、理由がないの? あるでしょ?」
素っ頓狂な声をあげる私を見もせず、それでも出て行けと言わずに俯いて眉をしかめるだけの蓮に、居たたまれない時間は重みを増した。
待つという行為はこんなにも辛かったのだろうか、返事を返してくれない無言の時間が拷問にも思えてくる。
二人の呼吸音が止まった時間を刻んでゆき、蓮の身体に纏わりついている堅い空気が、少しだけ緩んだ。
「……なんだろう……クラスメートのノリが嫌になったっていうか、くだらない事でよく騒げるなとか、アウェイを感じる……が、始まりだったかも……知れない」
ゆっくりと、考えながら言葉を選んでいるのが分かった。
「あっ、それ少し分かるような気がするよ、なんか無理して周りに合わせようとすることが私もあるから」
「……美月が? ……そうなんだ……」
アイドルの話で盛り上がったり、彼氏や恋愛の話でキャーーッと突然打ち上がる甲高い声に、興味が無いのに話を合わせるなんて女子にとっては日常茶飯事で、そうしているうちに本当に興味が湧いたり、好きになってしまうこともたまにあったりしてコミュニケーションは成り立っているから。
「意外って思ったでしょ。あんな狭い所での集団生活だとね、周りをよく見て合わせていかないと生き残れないよね。私、これでも必死でがんばっちゃっているんだぁ。
……特に同性は怖いからね」
「……これから先もさ、例えば大学に行っても社会人になって就職先でも、結局、同じことの繰り返しなんじゃないかなとか考えるんだ」
なんとなく、蓮の言っていることが分かる。枠の中ではみ出さないように自分を抑え、周りに協調することで、社会に組み込まれ。その先もずっと殆どの人がそうするのだろう。
枠から外れ、周りなど気にせず生きられるのは、ほんの一握りの才能のある人達だけに許される特権だと思うから。
そんな変えられない環境を嘆いても仕方ないし、どうにもならない事って沢山あるし、それでも生きていかなきゃならないしなあ。
でも、今の状況はやっぱり良くないよね。
部屋の中に籠る蓮を、なんとか外へと目を向けさせる切っ掛けってないだろうか?
余計なお世話で、お節介なのは分かっているけどほっとくなんてできないよ。
「ねえ、蓮が中3の時に作った、ビオトープ見せて!」
「いいよ、玄関脇にあるからどうぞ」
「蓮も一緒に行ってよ」
「……え、あ、うん」
気乗りしない様子の蓮は、大きなため息をつきながらゆっくりと立ち上がった。
蓮の作ったビオトープは、直径1メートルほどの陶器の鉢に小さな流木やトンネルを入れ、水草とスイレンを植えてある。
その中で、メダカや沼エビ、タニシが生息していて自然のサイクルが維持され循環しているのだ。
受験勉強の息抜きなんだと言い、メダカにエサをやりしゃがみ込んでずっと見ていた姿を思い出す。
メダカたちを驚かさないようにそっとしゃがんだ。
「蓮が作ったこの小さな世界で、メダカたちは生きて死んでいくんだね」
あっ!ああっ、私はなんて馬鹿なんだろう。この水蓮鉢の世界の出来があまりにも良いものだから、メダカたちは幸せだろうという意味で言ったのだけれど、さっきの言葉は刺さったかもしれない。
私の後ろで蓮が中腰になり、肩越しに顔が近付いた。
「そうだろ……学校や社会みたいだろ? ただ生きて、死んでいくんだ。つまらないだろ?」
やっちゃったかな。生きるや死ぬは、弱っている蓮には言っちゃいけないキーワードだったんだ。家を出る時にうっかり口を滑らさないようにって決めて来たのに。
「う、うん。虚しいような気もするけど、この中は宇宙みたいで美しいと思うよ」
メダカには色々な種類があることを以前、蓮から教えてもらった。黒、オレンジ、白、肌色、20匹近いメダカが澄んだ水中を活発に動いている。日の光が水面に入り込みキラキラと揺れ、底から生えた水草は青々と茂り水底に影を落としている。
光と影の中で舞う生物の営みを、私は本当に美しいと思った。
「すごく綺麗だよ! ただ生きているだけでも美しいじゃない。それじゃダメなの? つまらない?」
「こんな小さな鉢の中でも……生きているだけで……美しい…か?」
「うん、とっても!! メダカがエサを食べて糞をするでしょ、それをタニシと沼エビが掃除をして、バクテリアと植物が食べて、植物は酸素を出して循環するんでしょ?
それぞれに役割があるんだよね、狭い世界だけどメダカ一匹だけでは成り立たないって、蓮が言ってたんだよ」
さわさわと風が渡り、水面から伸びたスイレンの葉を揺らした。茎が水面を優しく動かし波紋を作っていく。
「一匹だけじゃ、成り立た……ない……。
……ハァ……俺なにやってんだろう。情けないな……」
「蓮は頑張りすぎちゃっただけだよ。いっぱい休んだらまた動けるようになるよ……大丈夫だよ」
静かな長い溜息を背後に感じた。それはまるで張りつめていた風船の空気が抜けるように……。
同時に、ふにゃりと蓮の身体の力が抜け、膝が折れる気配がする。
後ろから、そっと両肩に手を置かれた私は、ビオトープを見ているふりをして蓮の心に意識を這わせた。
額が背中に寄り添い、蓮の体温が背中いっぱいに広がった。
「……美月、少しこのまま……いさせて……」
「……う、うん。好きなだけ、そうしてていいよ……」
暖かいのは体温のせいだけじゃない、小刻みに吐く息が背中から胸に伝わってくる。
蓮は泣いているんだ。声も出さずに泣いている。
繊細な幼馴染の、生きづらいもろ刃の剣の感受性を和らげる術が、私にあったら良かったのに。
こんな無理やりなやり方でしか、外の光を見せてあげられなかったのだなあ。
でもね、蓮ならきっとできるよ。
またこの、メダカたちの世界に戻って来れる。
私の肩に軽く触れているだけの両手に、自分の両手を重ね少しだけ力を込めた。
そして、私は目を閉じ両手を通して願う。
どうか蓮の心にエネルギーが満ち、再びこの世界で生きる力が戻りますようにと。
4週間が経ち、その間、何度か会いに行ったれけど蓮は登校はしなかった。
会いに行ってしたここといえば、エサやりを再開した蓮の傍らでメダカたちを眺め、他愛もない話をするだけの短い時間だった。俯いていた彼の表情は揺らめく水面の光の反射かもしれないけれど、少しだけ明るさを取り戻したように見えたんだけどな。
私はといえば、いつもの朝を迎えている。時計を見ながらトーストをかじり、口をモグモグさせながら小走りに玄関を飛び出し、バス亭に向かう。
毎日代わり映えのしない日常の風景が繰り返されている。それが普通なんだって思っていた。
生きる事自体に疑問を感じちゃう蓮と一緒に、あの小さな世界を見つめる時間は、私自身がこれからどう生きていこうかなんて、柄にもないことを考えさせてくれる貴重な時間だったのかもしれない。
蓮の家が見えてきた。道路を渡って向こう側には、私が毎日使うバス停がある。
口に中に残っていたトーストを飲み込み、走るスピードをあげようとした時、バイクのエンジン音が聞こえてきた。
あぁぁ、音のする方角は蓮の家だ。
ダッシュで門の中を覗くと、蓮がバイクに跨りヘルメットを被るところだった。
「れーーんっ!! おはよう! 行くのー?」
「ああ、おはよう! うん、ビオトープに行ってくる」
クスッと笑ってヘルメットを被った蓮は一度エンジンをふかすと、私の頭をポンポンと叩いた。
「俺みたいに、あんまりいろんなことを考えないほうがいいぞ! 美月はそのままでいい。ありがとうな」
きょとんとしている私をよそに、門の出口までゆっくりとバイクは進んだ。
フルヘルメットとエンジン音で私の声は聞こえないだろう、だから本当のことを言ってあげるよ。
「蓮!! カッコイイよっ!!」
エンジン音の高鳴りと共に急発進した蓮の背中が遠ざかってゆく、すぐ先の交差点で左折する直前に右手を上げ人差し指を空に向けた。
えっ、うそ、まさか聞こえていたのかな?
空に向かっていた腕が傾き、人差し指は前方のカーブから顔を出したバスを指す。
「あっ、バスが来た。急げー!!」
道路を横切る途中で、 蓮を乗せたバイクは交差点の左に吸い込まれ、見えなくなった。
反対方向に向かうバスに乗り込み、後ろの窓から見えるはずのない連の後ろ姿を追う。
走りだしたバスの振動に我に帰り、座席に腰掛け前方を見つめた。
さあ、行こう。
蓮とは違うビオトープが、私を待っているから……。