モルフォ蝶
それがなんなのか私には解らなかった。ベッドの上でなにかがのたうっていた。ヌメヌメと蛞蝓のように光っている。なんだかすえた臭いもする。私はわけの解らなさに気が動転していて、身じろぐことができず、瞬きもできずにただ扉の隙間から眺め、ようやくそれが何か解った頃には、乾燥した眼球にまぶたが張り付いていた。これはラードだ、巨大な豚の脂だ。白いラードと黄色いラードがベッドの上で絡み合っている。グチュグチュグチュグチュとラードが溶け合い、混ざってドロドロのマーブルになっていく、その度に嫌な臭いが増していく。遠くから獣の唸り声と鳥の金切り声が聞こえた。どれほどそうしていたのか私には解らない。気がつけばラードたちの動きは止まっていた。僅かに蠕動する姿はやっぱり蛞蝓に見えた。不意に白いラードが黄色いラードから分離し起き上がった。高さは一七〇センチ、やけに薄い肉感、非力な私でも殴れば折れてしまうんじゃないだろうか。白いラードがこちらへ突き進んでくる。白いラードが扉に手をかける。白いラードが私を扉の影から引きずり出した。
「ごめんなさいね」
白いラードに顔が浮かび上がった。絵画のようにひどく美しいかんばせだ。憎らしいまでに美しい顔貌であった。
「ねぇ、あなたじゃ啓治くんと釣り合わないから別れて」
もう白いラードなんてどこにもいなかった。美しい裸体の女が毅然としてそこに立っていた。私はこの女の人を知っている。
「てゆうか、なんでこんな冴えない子と付き合ってんだか」
この人は戸塚さんだ。学年一の、とびっきりの美少女。
「かわいそうに出会いがなかったのね。幼なじみだっけ。まあ、そうでもなきゃ、ねぇ……」
亜麻色で、長い艶のある、綺麗な髪。スレンダーな青白い肢体。胸だけは控えめだけど、美人はそれすらも高評価に変えていた。
「ね、そういうことだから。解った」
みんなの視線を一身に集める戸塚さんがどうして。
「民谷さん、返事をしてくれないかな」
どっと汗が噴き出した。干からびた目や口、それだけじゃなくて心臓に蓄えられている水分まで搾り取ったのかと思うほど汗が噴き出した。
「何を言って」
言葉が出てこない。言葉すら干からびてしまっている。
「なんなら啓治くんと話し合って決めたら。どうせ答えは決まってるんでしょうけど」
戸塚さんが道を開けた。空気が揺れると爽やかな香水の匂いとすえた臭い。ベッドの上では啓治くんがベッドの上で面倒臭そうに座っていた。
黄色いラードなんてどこにも見当たらない。
「あの、」
なにか言葉を吐き出さなければ。
「けい、ちゃん」
なにか言葉を吐いていないと、吐いてしまう。
「えっと、」
部屋に入りたいのに、けいちゃんに駆けよりたのに、すえた臭いが邪魔をする。
「あのね、」
ねばねばとすえた臭いがゲル状に固まって部屋の中を埋め尽くしている。私はそれに触れることすらできないのだ。
「わ、私ね、」
触れたら壊れちゃう。
「ごめん」
けいちゃんは気だるげに、こちらをみようともせず、言った。私の何かが崩れた。
「ね、ねぇ、待ってよ、それどういうこと。私のこと嫌いになったの。待って、戸塚さんのほうが綺麗だから。ど、どうして、待ってよ。なんでこんなことするの、待ってよ。で、でも私のほうがけいちゃんのことよく知ってるよ。だって、十年も一緒にいるんだよ、けいちゃんの好きな食べ物も嫌いな食べ物も、あと、ほら、マッサージ、好きでしょマッサージ、ねぇ。それにね私のほうが、胸大きいよ。男の子は好きだもんね、胸。ついつい目がいっちゃうんだもんね。大丈夫、けいちゃんならいいよ。好きにしていいから、今日だって一周年だから、びっくりさせようと思って、ね、待ってよ。一周年なんだよ、ずって一緒にいてよ、これからもずっと一緒にいてよ、待って、ねぇこっち見てよ!!」
大きな溜息が聞こえた。くすくすと可愛らしい笑い声が聞こえた。
けいちゃんは、鬱陶しそうにこっちを見た。
「お前、うざい」
頭が真っ白になる、というのだろうか。けいちゃんの言葉だけが反響して、体に浸透する。私は動けない。動けるわけがなかった。そうしていると戸塚さんが甘い声で囁くのだ。悪魔のように耳元で、囁くのだ。
「そういうことなの、負け犬さん。犬というよりあなたは虫ね。惨めに地面を這い回る芋虫よ。踏み潰されて、はいおしまい。お疲れ様」
私は弾かれた、一目散に逃げ出した。遠くの方で声がしている気がした。それが錯覚なのか、それとも二人の声なのか、私には解らない。さっきまで身動ぎ一つできなかった体が嘘のように軽かった。けいちゃんの家を飛び出して、私は走った。涙が溢れてくる。干からびていたはずの目からとめどなく涙が溢れてくる。私の体にまだ水分が残っていたなんて。じゃあこれは心だ。目から流れ落ちているのは汲み上げられた心だ。だったら、泣いていれば楽になるかもしれない。
私は無我夢中で走った。どれくらい走ったかなんて解らない。足がもつれて勢いよく転ぶ、地面に突っ伏した。下は柔らかい土だった。それでも鼻が痛い。起き上がると、私はへたりこんでしまった。さっきまであんなに動いていた足が少しもいうことを聞いてくれない。今日の為に買った、少し背伸びしたパンプスがなかった。走ってる最中に脱げてしまったのか、それともけいちゃんの家に忘れてきたのか。今日の為に用意した花柄のワンピースも泥だらけだ。今日の為にメイクの練習もしたのに、どうせ泥だらけだ。両手を握り締めると、今日の為に練習したネイルが刺さった。今日は二人が恋人になって一周年の記念日だった。
私はまた泣いた。このまま涙に溶けてしまいたかった。
急に気持ち悪くなって、お腹を抱え込む。今更土にまみれるなんて気にならなかった。気持ち悪くて仕方なくて、涙はとめどなく流れた。喉の奥からこみ上げるものを抑えきれなくてそのまま流れに任せたら、胃液だった。ツンと鼻をつく臭いがする。服に黄色いシミが出来た。また涙が溢れた。
もう全部ぐちゃぐちゃだ。もうどうだっていい、どうにでもなってしまえ。
お腹が痛い。肋骨の少し下辺り。この位置には何があるんだろう。この位置は肝臓じゃないのかな。肝臓が痛い。肝臓がとても痛い。怖気がした。つるりとした肝臓の表面を無数の蛆虫が這い回っている。蛆虫は私の肝臓を小さく、削るように齧りとっていく。少しずつ、だが確実に肉を貪るのだ。肉の中に潜り込む、蛆虫達は血の一滴もこぼさない。蛆虫は同時に蛭でもあるのだ。血をゆっくり、確実に舐めとる蛭。そうして私の肝臓は齧られ、ねぶられ、貪られ、跡形もなく消えていく。この蟲はどこから来たのだろうか。きっとこの蟲も私なのだ。蟲は肝臓が終われば別の肉を食うのだろう。一箇所ずつ丁寧に、丹念に喰らうのだろう。そうして内側から喰らい尽くされた私は蟲になる。惨めにのたうつ蟲に成り下がる。蟲は私の心なのだ。涙になって流れた心の残滓なのだ。
どれくらい泣いていたのか解らない。気がつけば私は見知らぬ公園で、泥と涙と胃液にまみれていた。
どうして私はこうしているのだろう。もはや涙は枯れ果てた。私の心は蟲になった。ぼーっと空を見上げる。痛々しいほど爽やかな青だ。乾いた目には本当に痛い。こうしていると空に落ちてしまいそうだ。いっそ空に溺れてしまいたかった。でも、それは無理だ。私は這い回る蟲だ。
「けいちゃん。ねぇなんで、」
そんなに可愛くなかったからだろうか。でも不細工ではないと思う。そういえば前髪を切れと何度か言われたっけ。じゃあ趣味じゃなかったのか。解らない。それに美醜なんて戸塚さんと比べられたらひとたまりもない。じゃあ、どうして。そんなにうざかっただろうか。十年間ずっと一緒だったから、それが当たり前のようになっていた。私は甘えていたのだろうか。解らない。戸塚さんはどうしてあんなことをしたのだろうか。どうしてけいちゃんを選んだのだろうか。どうして私達に目をつけたのだろうか。彼女は何がしたいのだろう。そんなにけいちゃんが好きだったの。よりどりみどりなのに。どうしてけいちゃんなの。解らない。解らない。もうなにも解らない。
私はもうがらんどうだ。空っぽで、出来の悪いお人形さんだ。だから、もうなにも解らない。
空を見上げるのに疲れて私はもそもそ立ち上がった。でも、そこからはよく覚えていない。霧の中を歩くようなふわふわとした感覚で、気がついたら家で寝ていた。服が寝巻きに変わっているし、体に泥もついていないのでシャワーも浴びたようだ。足は包帯が巻いてあった。ほとんど裸足で走ったり歩いたりしていたのだから当然だろう。どんなふうに怪我したかはよく覚えていないのだけれど。
包帯を見ていると自分がとても惨めに思えてきた。いや、それだけじゃない。体の中から何かが湧き上がってくる。体が汗ばんだ。湧き上がるこの衝動はなんだろうか。これは蟲だ。私の心だ。これは残りカスなどではなかった。最後まで手離さなかった私の怒りであり憎しみだ。そう、私は自覚した。
「ゆるさない」
仕返しをしてやろう。見返してやろう。報復してやろう。復讐してやろう。
私は傷つけられたのだ。訳も解らず意味も解らず傷つけられたのだ。理由ならそれで十分でしょう。私は復讐してやるんだ。あいつらに復讐してやるんだ。
私の中で、蟲が喜ぶ声が聞こえた。
それからの私は今までとはまるで別人だった。私はファションやメイクにそれほど明るくない。意識は払っていたが、そこまで熱心ではなかった。彼さえそばで笑ってくれていればそれでいい、そう思っていたのだ。それがいけなかったのだろうか。だが、今となってはそんなことはいい。とにかく私はひたすら自分に磨きをかけた。誰よりも美しくなろうと努力してみせた。やれることならなんでもやった。そうすると次第に彼女というものが解ってきた。彼女の美しさは本物だ。本物だが、それは彼女の努力の賜物だ。彼女は自分の美しさを最大に引き出す方法を熟知している。それがなければ彼女は一山いくらのとても可愛い女の子になってしまう。そして、いつしかその美しさも失われてしまうだろう。だからこそ彼女は自分を磨き続けているのだろう。でもどうして彼女はあんなことをしたのか、それだけは解らなかった。
私は以前よりもずっと可愛くなった。なんのことはない。周りの子よりも少し努力しただけだ。その気になれば私よりも可愛い子、彼女よりも可愛い子はきっといるのだ。その気になることがないだけで。
私は勉強にも力を入れた。あらゆる面で、彼と彼女に勝りたかった。スポーツにも力を入れた。人間関係も広く、深い関係が築けるように努力した。
そうしていると、復讐なんてどうでも良くなった。
ここまで来るのには時間と労力をかなり費やした。それこそ彼らを恨み続ける余裕なんてないくらいに。それにいつからか彼のアラが目につくようになった。彼は弱い人間だったらしい。結局、彼にとって私がどんな存在だったかは解らない。嫌われてはいなかった、と思う。だが、好かれていたのかは解らない。彼は怖かったのだろう。だから、私とずっと一緒にいたのだろう。
彼らのしたことを許したわけはないし、彼らに対する怒りがなくなったわけではない。だけど、もう復讐なんてどうでもいい。誰かをずっと憎んだり恨んだりするのは、それだけで疲れるのだ。
あの二人は別れた、と噂に聞いた。事情を察している親しい友達はざまあみろと言っていたが、存外なんの感慨もわかなかった。もう終わったことなのだ。彼も彼女も、もう過去の人なのだ。彼とは同じ時間をとても多く共有したから、いつか話がしたいとは思う。それだけだ。私は今の生活が嫌いじゃない。友人に恵まれた。ここにこうして居るのは全て時間の積み重ねだ。だから、過去を消したいとは思わない。思い出して切なくなることはある。憤ることもある。でも、私は今を生きるので精一杯なのだ。過去を生きるのはとても疲れることだ。疲れて、擦り切れ、壊れてしまう。だから私はここに居ようと思う。
空を見上げると爽やかな青が目に映る。
ふいに、その青の中を泳ぎたくなった。
私はもう芋虫ではないのだから。
たぶん、これも一つの青春。




