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恐らく、自分の感覚ではほぼ常識問題としてまかり通るレベルで、同僚とも言うべき相手がいる状況において、自分の用事を優先させるのはおかしな事だと思う。
用向きと同行する相手にもよるが、少なくとも今、自分の隣に肩を並べて歩く年下の少女はアルバイト先の同僚であり、少なくとも友人と言っても遜色無い程度には仲がいいつもりだ。
とはいえ、言ってしまえばそれだけの間柄である。わざわざこちらの用事に付き合わせるワケにもいかない。
「この辺りはもう、静かですねー」
「ああ、住宅街だし、もう夜だしな」
それでまあ、何の因果か後輩の柏崎を送り届ける事になったその言い訳通り、アルバイト先のファミレスから歩きだして十数分、まるでまどろむような他愛の無い会話が続いていた。
そもそも「話がしたい」とかいうよく解らない理由で、本来の帰路とほぼ真逆の方向へ歩いているのは、ちょっとした気まぐれと言うのもあるが、その話を持ちかけてきた当の柏崎の様子が、いつもと違うように見えたからだ。
この必要以上に他人に頼らない、いいトコのお嬢様としては珍しいくらいしっかりした後輩が、珍しく無理を通したのだ。
さすがにこちらとしても心配する。
だというのに、
「こっからもう少し行ったところにある、ちょっと大きめの一戸建てなんですよ、ウチ」
「へえ、もう少し規模の大きいのを想像してた」
「そりゃ、世知辛い世の中ですから」
「なるほど……」
交わされるのは、愚にもつかない内容の会話のみ。
足取りはゆっくりとしたものとはいえ、このまま無難な世間話を続けていては、ただ口が疲れるだけで彼女を送り届ける事になってしまう。
それが目的ではない事は明白だ。
女心なんて難解なものに詳しいわけじゃないが、鈍感な自分にだって、柏崎がさっきから無理に話を先延ばししているらしい事は察しがついていた。
温和ではあるが、会話が長続きせず、途切れ途切れになって時折嫌な沈黙が挟み込むのも、そのためだろう。
やがて、その沈黙が長くなるようになると、手押しのママチャリの乾いた音色だけが夜道に虚しく響いた。
居心地の悪さを感じ、もういい加減、こちらからダイレクトに訊いてしまおうかと迷いがてらほぼ等間隔に立て付けられた街灯の明かりを逡巡していると、不意に隣を歩いていた筈の気配が消えていることに気付く。
「あっきーさん」
声は後ろから聞こえた。
いつの間にか足を止めていたのだろう。こちらが歩いた分だけ、柏崎は後方に留まっていたのだ。
あまりにも不意を突いたその声は、いつもの明るく騒がしいそれではなく、静かでありながらよく通る芯を含んでいた。
「悪い、道そっちだったか?」
「いいえ……ちょっと後ろから声かけてみたくなっただけです」
「……振り向いちゃったな」
「ですね。ふふ、何言ってんだろ、あたし」
困ったように笑って肩を竦めて見せる柏崎は、確かに妙だ。
いつも表情豊かな彼女だが、そんな表情を向けられるのは初めてだった。
言いたいことを巧く言えない、それを体現しているかのようなもどかしい仕草。そんなもの見たことも無かった。
自分の知っている柏崎千夏と言う少女は、少なくとも言いたい事はキッパリと言ってのける人物である。
「何かあったのか?」
「そこに居てください」
いよいよもって様子のおかしい柏崎に歩み寄ろうとして、直後の即答で出足を制されてしまった。
それは有無を言わせぬ絶妙なタイミングと、明らかな意思を持った語調もあったが、真正面から見据える柏崎の瞳に鋭さを覚えたからだ。
そこに湛えた意志の強さは、ひょっとして仕事のときなどよりも真剣なのではないだろうか。
「これはあたしの想像だけど……あっきーさん、好きな人いますよね?」
「は?」
「なんとなくわかります。だって、ずぅっと見てましたから。多分、すっごく痛い恋です」
淡く笑い、その豊満とも言える胸元に握り拳を添えて、限りなく憶測の域で問い掛ける。
違う。あらゆる意味で、その言葉を用いてしまいたかった。
それは否定しておきたい事実だった。
それは否定しておきたい憶測だった。
自分の胸にある気持ちと、そして柏崎の言葉に対し、違う、と言い捨ててしまいたかった。
この気持ちが恋慕であるなど、苦痛を伴うものでしかないことなど、既に知っている。
そして柏崎は、そんな事を言いたいのではない筈だ。
何故ならば、笑っていた筈の彼女のその目尻が、唐突にくしゃりと歪んだからだ。
街灯に照らされたその瞳が、うっすらと潤んでいたからだ。
ああ、こんな時に、どうして自分の口は何の言い訳もほざく事ができないのだろう。
それではまるで、彼女の言う『痛い恋』を肯定しているようではないか。
格好悪い。後輩を前に、なにを言に窮するのか。今にも泣き出しそうな少女を前に、どうして気の利いた言葉の一つも出ないのか。
「そういうの、やめてみませんか? ぜーんぶ棄てて、あたしに乗り換えてみませんか?」
「……」
「あたしなら、あっきーさんを楽しませる自信があります。悩んでもらう時間なんてあげません」
唐突だった。
それが素直な心情の吐露だったのだろうか。問い掛けであった筈の言葉は、こちらの返答を待たないまま決壊していた。
止めなければ。それ以上聞いてしまえば、きっと喉が嗄れるまで吐いてしまう。そんな気がした。
「……柏崎」
「あっきーさんが望むなら、身体の御奉仕もします。あっきーさんの好みになってみせます」
「柏崎!」
思わず、捲くし立てる言葉をぶつ切るように声を荒げていた。
びくり、と柏崎の肩が震え、辺りに耳が痛くなるほどの静けさが戻ってきた。
知らずの内に背けた視界に、再び彼女の姿を捉えるが、そこにはもう活発な少女の面影は微塵も感じられなかった。
小刻みに肩を揺らし、顔を俯かせたその面持ちは髪に隠れて読み取れないものの、どんな顔をしているかなど考えたくもなかった。
「悪い、柏崎。そういう風にお前を見るのは、無理だと思う」
それが精一杯だった。
もっと婉曲的に、なるべく痛みの無い言葉を選ぶ事も出来たかもしれないが、それを考えるより気ばかりが先行していた。
ストレートではないにせよ、彼女の気持ちは確かに伝わるものではあったが、それでもそれが精一杯だった。
或は、ここで柏崎の申し出を享受する事もできたろう。だが、その先はどう考えても明るくなどない。
彼女の言い分が正しければ、きっと望む限りの事をしてくれるのだろう。そしてそれが申し訳なく思うことも、恐らく想定しているに違いない。
それですら構わないと、言ってしまうかもしれない。
だが、そんな先行きをどうして無条件で受け入れる事ができるだろう。
そこには虚ろな抜け殻しか存在しないと解っているのに、それを受け入れてしまえば、自分だけではなく彼女すらも駄目にしてしまう。
つまりはそういうことだ。俺は彼女を愛せない。
何故ならば、そのために棄てるものが多すぎるからだ。そう、抜け殻になってしまうほどに。
「……ですよね。どうかしてますよね、あたしったら」
一呼吸、肩が上下する感覚があり、俯いたままの柏崎は、しかしいつも通りの調子を取り戻した口調で歯切れ悪く語尾を濁す。
そして振り切るかのように顔を持ち上げると、そこにはいつも通りの快活な笑みが浮かんでいた。
「送ってくれてありがとう御座いました。またお願いしますね」
小首をかしげるように微笑み、そのままいつもの軽い足取りですれ違い、追い越していく。
湿った風が、柏崎の通り過ぎた残り香のように頬を撫で、乾いた口先が思わず動いた。
「ごめん、ありがとな」
足が止まる。まるでつんのめる手前みたいな急停止である。
背後を振り返るほどの勇気は無い。しかし、唐突に踏みとどまった軽い足音が、やがて小さな嗚咽に変わったのには気付いた。
「……やだなぁ。怒りますよ?」
微妙に意味の通らない、しかしそれだけによく解る痛みを叩きつけて、柏崎は駆け出していった。
振り返ることは出来なかった。
それはきっと勇気ではない。情けないだけだと思った。
たった今、気持ちを断った相手に対して再び目を向けてしまっては、きっと侮辱になってしまうのだろう。
人を傷付けてしまうというのは、そういうことなのだ。
まして自分のために誰かを犠牲にしてしまったのなら、尚更に許される事ではない。
胸に涌いた痛みを振り切るように息を大きく吸い、ママチャリを押す手に力をこめる。
車輪の乾いた音が、閑静な住宅街に響いた。