3/
そうだな、どこから話せばいいのか……語れる事は数多いが、いざ語ろうとすると口が重たくなってしまうのは、やはり私に覚悟が足りないからなのだろうか。
いかに強がってみても、どう足掻いてみても、所詮は平凡な高校生には変わらない。
何より私が望んだ。平凡である事、普通である事。敢えて異端に居座る必要など無い。
単なる日本人として成長し、ただ平凡に日々を生きていければ、それで満足だった。
不要なものは幾つもある。どうにもならないことも解っている。だが、だからこそ……私は普通でありたかった。
それは何かに秀でた者の僻みである場合が多いのかもしれない。
私に秀でたものがあるだろうか。それは解らない。だが、もしもあるというなら、それは普通であるべきではない。
誰かと違うことは、普通のことだ。それを敢えて消し去る事はあってはならない。
それならば、この重たい身体も、人より秀でた何かなのだろうか。
そうは思いたくない……
陽はまだ高い。
教室の窓から覗く青空は絶好の洗濯日和であるが、寝起きの眼には少しばかり眩し過ぎたのか、美里は眉根を寄せて目頭を手で覆った。
やけに騒がしい。授業終わりの教室は、さながら悪童の玩具箱を引っくり返したかのようだ。
もっとも、静謐なままであったなら気だるげに美里が目を覚ますことも無かったろう。よって、少しばかり煩わしいものの、それはそれで僥倖と言うべきだろう。
「お~い、起きてるか?」
しばらく何を考えるでもなく窓の外を眺めていた美里の前の机に腰掛けたのは、もはや腐れ縁と言うべき友人の秋信だ。
聞き慣れた筈の声だったが、寝起きの頭には少し響いた。
「タイミング悪かったか?」
「いや、気にするな。寝起きが弱いのはいつもの事だろう?」
しばらく頭を抱えて俯く美里が再び頭を上げるのを待ってから、秋信はようやく笑顔を向ける。
寝起きにナーバスになるというのが典型的な低血圧ともいえるが、それを笑顔で迎えるというのいうのもなかなかシュールな光景である。
「まあ、早く起きろ。次は移動教室だからな」
「そうだったか……ふむ」
秋信の小脇には、科学の教科書が抱えられている。この学校では、選択授業科目によって教室を移動することになっている。
当然ながら、それぞれ選択した科目によって授業内容が異なるので、同じ教室で行うわけにはいかないのだ。
幸いかどうかは解らないが、秋信と美里も同じ選択科目を選んでいる。出席率では秋信が勝るが、成績では美里に軍配が上がる。
それはいつもの事なので、二人とも不自然とは思わず、そしてなんとなく二人して科学教室まで移動することもいつも通りの行動だった。
「……すまないが、先に行っておいてくれないか?」
「なんだ、トイレか?」
「違う。座って寝ていたお陰で、足が痺れただけだ」
手で追い払うような仕草をするが、秋信に動く様子は無い。美里の言い分など聞く耳持たない様子だ。
こういった問答は、何もこれが初めてではない。
美里の身体が病弱である事は周知である。その所為で早退や欠席が多いのも入学したときから承諾されている。
そのためか、人より動きの鈍い美里は、しばしば遠回しに他人の同行を遠慮することがある。
しかしそれを解っている秋信は、美里の思惑通りには動かず、必然的に彼女の方が食い下がる事になる。
「なら、肩貸すけど」
「断る。そこまでしてもらう義理は無い。甲斐甲斐しいぞ」
「わかった。相変わらずつれないな」
ぷい、と顔を背けつつ目に見えそうなほどの棘を含んだ拒絶の意を示す美里に、秋信はさして傷付いた風も無く教材を小脇に抱えたままようやく机に乗せていた腰を上げる。
そのまま教室を出て先に次の授業へと向かうかと思いきや、唐突に美里の額に手を当てる。
「──何のつもりだ?」
「やっぱり、熱っぽいな」
無表情のまま秋信の手を引き剥がすが、秋信に悪びれた様子は無く、ただ心なし呆れたように肩を落としている。
美里が秋信と行動を共にすることも、もはやこのクラスでは周知である。
誰もが中学時代からの腐れ縁を知っているし、とっつき難い性格の美里の手綱を巧く手繰れるのが秋信である事を知っている。
他人に気を遣われるのを好まない美里も、秋信だけは積極的にこき使うし、秋信の方も大概に心配性なのだ。
そして、誰かの足枷になる事を嫌う美里の性格を知っている秋信は、彼女の体調が優れない事を予想していたのだ。
「たいした事は無い。少し休めば──」
「保健室、行くか」
こうなってしまうと美里の言い分はもう聞かない。このところの秋信の心配性は、輪をかけて過保護なものとなりつつあり、ついには美里の話すらまともに取り合わなくなるほど強引である。
「人の話を……っく」
焦れたように手を引く秋信に抗議しようと、勢い勇んで椅子を蹴飛ばすように立ち上がろうとした。
少なくとも美里本人はそうしたつもりだったのだが、手引きされる勢いの助けで立ち上がることまでだった。
まず最初に頭の頂点が寒くなるような錯覚、足腰から手先の筋肉が弛緩する感覚、視界が白むノイズ。
警笛を鳴らすかのように混乱する美里の頭の中で、唯一まともな三半規管が、自分の身体の平衡状態を保てなくなった事を告げた。
「お、おい!」
急に脱力して倒れる美里を抱き止めると、電池が切れたようにずり落ちていこうとする身体が崩れてしまわないかと無意味な危惧をしつつ、気圧されるまま秋信も一緒になって膝を落とす。
パニックになって身体を揺さぶる事がなかったのは、一種の放心状態だったからだろう。秋信は何故か美里を抱き締めたまま声を上げていた。
そのお陰か、弛緩していた美里の四肢にはすぐに力が宿り、力なく秋信の胸にうずまっていた頭も持ち上がった。
「心配、ない。ただの、立ちくらみ……」
「すまん、気付かなかった……」
息を整えながら、ゆっくりと落ち着かせるように言葉を紡ぐ美里に心底安堵を覚えつつ、秋信の言葉はまるで今にも泣き出しそうなほど力がこもっていなかった。
完全に力の入れどころを間違えていたそれは、未だ握り締めたままの美里の腕と抱きすくめた肩を圧迫していた。
「痛い。いい加減に離れろ、暑苦しい」
「すまん……」
「謝るな。珍しい事でもない」
「ああ、すまない」
放心状態から抜け切れない秋信をなだめるよう、美里は眩暈がなくなるまで喋り続けた。
指摘されてから秋信の腕からは開放されたが、そのまましばらく美里は繋いだ手を握ったまま、ただ淡々と喋り続けていた。
心配は無い、これくらいは毎日だ、と。恐らく本人にとっては言いたくもないことであろう事は、冷静さを欠いた秋信にも理解できた。
結局その次の授業はサボることしにて、午後から急に熱を出した美里は早退する事となり、そのまま病院へと行く事となった。