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 喉の奥には、まだ棘のような酸味が残っているが、取り敢えずは落ち着いてくれたらしい。

 味覚がおかしいのなら、自分の唾液の味をそういう風に表現することもあるだろうが、生憎と私は好みの薄味をまだ知覚することが出来る。

 そして、この酸味の正体が自分自身がこさえた吐瀉物の名残、すなわち胃液である事も知っている。

 なんということはない。何度か、胃の内容物を逆流させてみれば解る事だとは思うが、この喉が絞まる感覚と込み上げてくる独特の酸味は、覚えるに容易い。

 何度目かのうがいを負え、一区切りとばかりに大きく深呼吸。鼻から息を吸い上げて口から吐き出してみると、文字通り吐気を催すような残り香が鼻をついた。

 一番の被害者である女性用トイレ最奥の個室には、今朝の朝食と共に汚臭まみれの吐瀉物が流されたわけだが、それは高機能の排水ポンプと芳香剤によってなんとかなっている。

 しかし、口腔から食道にかけての通り道は、幾らうがいをしても嫌なにおいが取れたような気がしない。

 いくら馴染み深いとはいえ、今日は仮にもデートであり、その最中である。

 気分を悪くして、貧血や嘔吐、動悸や眩暈などということは、私にとって他愛の無い日常茶飯事といっても、今日ぐらいは自重してほしかった。

 だいたい、待ち合わせに遅れた私にも責任はあるが、目の前で食事を取るあいつにも責任があると思う。

 私がご飯ものに弱いことを知っていながらドリアを貪るとは、いい度胸とばかり、さして空いてもいない腹に無理に油っこいものを詰め込んだのが災いした。

 化粧室という別名のために、なんとか破水寸前の早産を執り行うことが出来たが……いや、これは言葉の綾だが。

 しかし、あまり長い憚りでは、また別の誤解を生み出してしまいかねないばかりか、せっかく誤魔化した一連の『デートに冷や水』をかける状況まで露見してしまう。

 とはいえ、口臭が残っていては、幾らなんでも感付かれてしまうかもしれない。

 あいつは──天城秋信という男は、その辺りにおいて妙に敏い。それ以外ではからっきしだが。

 そうだ。思えば、最初あったときから、秋信は妙にずれた部分で人の気分を察知して、無意味な優しさを振りまいていくような人間だった。

 口腔の苦酸っぱい名残は、中学はじめのあの昼下がりを思い出す。

 自宅療養を許され、やっとの思いで進学した中学。その最初の思い出が、入学式で気分を悪くして倒れたことだった。

 別に長時間立っていたというわけではなく、新入生は皆パイプ椅子に腰掛けて、進学の喜びを長話と共に感じ入っていた筈なのだが、恐らく私は久し振りの就学機関による式典とあって、多分に緊張していたのだろう。

 そして前日の睡眠不足も祟り、気付いたら視界がホワイトアウトしてしまっており、それを自覚した途端、眩暈と共に平衡感覚を失って椅子から転げ落ちてしまったのだ。

 全身から力が抜け、手足が急速に熱を失っていくような錯覚、滝のように発汗しているのに脳天や背筋は血の気が引いたように寒くなり、眠りに落ちるよりも早く意識は遠のいていく。

 そんな中で、恐らく最後に味わうであろう、体育館のフローリング材に身体を打ち付ける痛みは、不思議と感じなかったのを疑問に思いつつ、白んだ視界は一気に真っ暗に落ちた。

 保健室で目を覚ましたときには、とっくに入学式は終わっていた。

 大きく溜息を吐いた拍子、自分の口臭に酸味が効いている事に驚いたのを憶えている。

 ああ、意識を失ったときに吐いたのだと、すぐに解ったのだが、それ以上に──

 隣のベッドに、何故か上着を脱ぎランニング姿で居づらそうにしていた男子生徒の姿が気になった。

 話を聞くと、どうやら椅子から転げ落ちる瞬間、私が地面に倒れこむ前に、その男子生徒が身体を滑り込ませていたらしい。

 周辺の教師をも上回る早業だったようだが、そのお陰で私の嘔吐を直撃する羽目になり、辺りは一時騒然となったようだ。

 正直言って、当時の私は、今ほど無愛想ではなく、それなりにデリケートな年頃だったため、まともに聞けた話ではなかったのだが、

 その男子生徒こと──天城秋信は、たいした被害にならずに済んだ、と見当違いなことを言ってくれた。

 もう少し慰めるなり、嫌味を言うなりしてくれれば、馴れ合うことも憎むこともできた筈なのだが、秋信はそのときから妙にその辺りが鈍く、それでいて自分自身にあまり頓着しない馬鹿だった。

 それから、“ゲロカップル”だの“不登校コンビ”だのと色々言われつつも、基本的には私が秋信に頼りきるような形で送ってきたここ数年間の学生生活は、それなりにかなり楽しかった。

 申し訳ない気持ちと、それでももう少し長く傍にいたい気持ちを抱いたのは、いつからだったか。

 この喉の奥が酸っぱかった頃からだろうか。それとも、微妙な距離感を保とうと努力し始めた頃からだろうか。

 ともあれ、それも今日で終わりにする。

 そのためにわざわざこちらから誘ったのだ。


「あの、春日……さん」


 控えめに名前を呼ぶ声。聞き覚えがあるが、思い出せない。

 鏡で確認すれば済むことなのだろうが、どうしてか回想を打ち切られて反射的にそうなったのだろうか、身体ごと振り返っていた。


「ああ、君は確か……」


「柏崎です。あの、お体の具合でも悪いんですか?」


 小柄な体躯に、親しみやすいファミレスの制服を着込んだその姿は、秋信のバイト先であるこのレストランで働く後輩だったか。

 そういえばお互いに自己紹介をしたのを憶えている。

 身体は小さいが、行動力と発言力はそれを感じさせないほどの活力をにおわせる。


「秋信はどうしている?」


「……お会計を済ませて、外で待っているそうですけど……」


「そうか」


 うろたえた様な少女の瞳に若干の険が差し、快活そうなまなじりがじろりと吊り上がる。

 最初に見た感じでは、いつも笑っているようなポーカーフェイスだと思ったが、割と顔に出やすいのだろうか。

 それとも、質問に答えず話を飛ばしたのが、それほど気に食わなかったのか。


「いや、ここの料理が不味かったわけじゃない。生まれついて、消化器官が弱くてな。油っこいものを取りすぎると、すぐ下したり戻したりしてしまう。悪いことをしたな」


「いいえ、お代は頂いてますから……じゃなくて」


 何か気に食わないことをいってしまったか、柏崎……確か下の名前は千夏だったか。

 ともかく千夏はいっそう不機嫌そうに視線を外しながら、ワイシャツの胸ポケットからエチケットガムを取り出し、それを差し出しながら密かに舌打ちをもらした。

 いくらトイレ……もとい、化粧室とはいえ、客商売がなってないような気もするが、それを差っ引いても気に食わないことでもあるのだろう。

 納得しつつ、千夏の言い分が出るまで、受け取ったガムを口に放り込んで待つことにした。


「先輩と付き合ってるんですか?」


「ん、いいや。なかなか段取りが悪くてな」


 表情が完全に消えた千夏の口から出たのは、案外というべきか、生真面目に語らうような話題とは思えなかった。

 しかし、真剣になり得る条件を深読みする程度の邪推だけは、どういうわけか働いてくれたようで。

 千夏が、そういった意図をもって訊いてきたと思い至るには、容易い。


「ガムを有難う。これで何とか、取り繕えた。ついでと言っては難だが……」


「何ですか?」


「秋信を、頼めないかな」


 怪訝顔のままの千夏を残し、トイレを後にしようとしたところ、不意に魔が差した。

 考えたくもない先の話を、何故だか思い浮かべてしまった。そのついでに口を滑らせたのは、もはや魔が差したとしか言い様が無い。


「嫌です」


 敵意にも似た視線を、背に感じる。どうやら、千夏とはあまり良好な関係を築けてはいないようだ。

 否、今こそはそれでいい。今の私は悪役を演じてしまっているとしても、まるで構わない。


「秋信には、支えが必要だ。私の所為で、いくつも無理をさせてしまった。どうしても、駄目だろうか?」


「お断りします。あなたの言うことなんか、ききたくない」


 どうやら、完全に嫌われているらしい。それで構わない。

 どうせ私には、誰かと馴れ合う術など無い。そんな心得知らずがどうこう頑張るという余裕も時間も無い。


「だって……」


 背にかかる千夏の声は、かすかに震えている。

 この場所で目が合ってからも、千夏の瞳は赤みを帯びていたのだが、それでも恐らく本人が認めはしないだろう。

 誰だって、よく知りもしない相手の前で涙を見せるのには、抵抗がある。


「私なんかよりもずっと! あの人を好きだからに、決まってるじゃない!」


 誰に向けての言葉であろう。それを理解できるよりも先に感じたのは、千夏の悔しさだった。

 肩が震えるほどの嗚咽だったろう。しかしそれでも、恨み言にも似たその声は、間違いなく私の責めるものだ。

 タイル張りの化粧室に反響する少女の声。しかし、それが止むと、途端に音が無くなる。

 低音量で流れる音楽すらも、まるでなりを潜めたかのようだ。

 それでも、この張り詰めた感覚の中ですらも、私は千夏のほうへ振り返ることは出来なかった。

 何故ならば……


「私には、あいつのために大声で喚き散らすことは出来ない。千夏が羨ましいよ」


 それもまた、私にとっての悔しさだった。

 直接的なことを言ったつもりはない。ただ、彼女の利発さがあれば、私の言いたい事の一片くらいは、汲んでくれると願っている。

 否──

 化粧室を後にし、背後に残る小さな嗚咽を聞こえない振りで通そうとしていたところ、落胆にも似た思惑が浮かび上がる。

 きっと、何もかも知っていようと、柏崎千夏は赦してくれはしないのだろう。

 何故だか、そんな気がした。



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