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人の生き方というのは、その一日から言って十人十色である。
例えば自分こと天城秋信の早朝は、起動の遅い頭をフラフラさせながら顔を洗い朝食をとって自転車をせっせと走らせて学校へと行くことから始まる。
自転車を使うのは、徒歩で学校に通うには少し距離があるためだ。しかしこの学校というのがなんともクセ者だ。
どうして学校というものは、山の上にあることが多いのだろうか。それだけ存在を誇示したいのか、生徒に街の様子を眺めさせて、集中力を散漫にさせたいのか、そんなことは定かではないが……
「まったく……なぜ、学校は山の上にあるんだ」
急勾配にわざわざ自転車で張り合うのも億劫で手押しに講じていたところで、隣を行く見知った声が、荒い息で肩を揺らしながら恨み言を吐いている。
珍しくも彼女と意見があった。十人十色の一日を送るにしては、合致が早いものだ。
自分の知る限りである隣の女生徒こと春日美里の早朝は、無愛想な顔に似合わず低血圧の頭を無理矢理引き摺って、常人にすればそこそこ早めに徒歩で家を出ることから始まるらしい。
腰まで届くほどの黒髪は、なんとも重みのある印象だが、性格はそれに反する……こともなく、変化に乏しいすまし顔に則って感情の起伏が読み取りにくい冷静な物言いが多い。
「だいぶ辛そうだな。もう少しゆっくり行くか?」
そのクセ、身体が弱い。身体が弱いのに、誰かに頼ろうという事をあまりしない。
そんなクラスメイトと中学からの縁とはいえ、いちいち登下校なんかに付き合うというのも妙な話かもしれないが、習慣ともなってしまうと、一緒でなければ気持ち悪く感じてしまうわけで……
「気にせず先に行け」
まあ、解りきってはいた。気を遣ったつもりでも、美里はそれが気に食わないのだろう。
口にすべきではなかった気遣いなのかもしれないが、言わずに行動したらそれはそれで不機嫌になるんだろう。そういう性格なのだ。
「自転車が重いんだよ」
だから俺は、そんな風に解りきった嘘を吐く。自分は勿論、美里にもわかるようあからさまな嘘を。
そうしてペースを落とすと、ようやく美里が口元にのみ笑みを浮かべる。
「そういうことにしておこうか。しかし……」
大きく息を吐いて足を止めると、美里は額の汗を拭いながら未だ遥か上方に位置する校門の方へと目を向ける。
「思いのほか、これは堪えるな……」
「後ろ乗ってくか?」
まだまだ理不尽な数式を並べる数学も、眠気が大挙して押し寄せる古文も始まっていない早朝だというのに、そののっけから既に疲労困憊の美里に助け舟を出してみる。
しかし美里は、こちらの提案にしばし俺の顔と自転車と校門とで視線を逡巡させ、諦めたように嘆息すると、
「この坂道で、どうやって人ひとり乗せて発進するつもりだ?」
と明らかに冷めた眼差しを向けてくれた。
「いや、何も漕いで上るわけじゃない。あくまで自転車は押してくつもりなんだけど」
「なるほど……」
不足していた要点を説明して、ようやく合点したように美里は口癖のように「ふむ」と鼻を鳴らす。
しかし納得していたのも少しの間のようで、また別の問題が出来上がったらしく、その瞳に迷いが生まれる。
「……しかし、それは少し格好がつかないな」
どうやらこちらの提案した条件で、坂道を乗り切るというシチュエーションを想像したようだ。
確かにその状況は、遠巻きに見れたものではないかもしれない。簡単に言ってしまえば、人力車のようなものだし。
とはいえ、その辺りを気にする気には、あまりならない。俺の意識としては、自転車の荷台に乗せるという感覚でしかないのだ。
「この時間帯じゃ、そんな人もいないし、気にすることもないと思うけどな」
「む、そうか……」
結局、体力の無さが敗因なのか勝因なのか、渋々といった様子ではあるが、美里の承諾を得る形となった。
なんだかんだで押しに弱いのだ。
先ほども述べたが、早朝、登校時刻として最も生徒の行き交う時刻にはまだ早く、どちらかというと出席に定評のある生徒がちらちらと登校しだす時間帯である。
自分はそれほど出席にこだわるほうではないのだが、病気がちだから登校に支障が出やすく、遅刻しないように早朝から登校するという一風変わった美里に合わせている内に、この時間に登校するようになってしまった。
俺は、いつの間にか美里に生活スタイルを合わせるようになっていた。
単純に付き合いが長いからというのもあるのだが、ひとえに彼女の体調が気がかりというのがほとんどだ。
昔から、中学の頃から、遅刻や早退は数多く、欠席もクラストップの座を譲らなかった。美里の病弱さはその域に達している。
単に身体が弱いだけなのか、それとも何らかの病魔に侵されているのか、そこまでは知らない。
だが、いつしか自分が何とかしてやらなければという、そんな気持ちになっていたのは間違いない。
おこがましい事とは思うが、俺が守ってやらなければならない。なんて、そんな使命感を感じているのかもしれない。
それはつまり──
「ここでいい。結局、校門前まで世話になってしまったな」
気が付けば、たいして会話する事もなく、すっかり地面は平らになっていた。
荷台に足をそろえて腰掛けていた美里が降りようとして、少しバランスを崩したようで、思わずその手を取る。
「おっと、気をつけろ。まあ、気にすんなよ。お前、身体弱いんだから」
「ああ、すまない──っ! くっ」
乾いた笑いを交し合うのもそこそこのまま、唐突に蹴つまづくように美里が胸をおさえてうずくまる。
がしゃり、とアスファルトを掻き鳴らす金属音が耳を打つ。知らぬ間に自転車を手放してしまっていたらしい。
「どうした?」
「な、んでも、ない……少し、息切れしただけだ……」
肺が空回りするような呼気を洩らしながら、こちらを手で制する。
表情は見えないが、先ほどとは種類の違う汗が噴出しているのは見て取れる。
心臓が早鐘を打つ。見慣れているはず、うろたえるのは俺の役目ではない。だというのに、身体がいう事をきかない。
動揺するこちらをよそに、美里は思いのほか早く呼吸を取り戻したようで、再び持ち上げた顔にはいつものポーカーフェイスが浮かんでいた。
「すまないな」
かすかに視線を逸らすその顔に、自分の表情を意識する。ああ、そうか。きっと今、俺は病人に見せてはいけない顔をしている。
心の中で叱咤するついでに自分の頬を殴っておくと、咀嚼嚥下するように表情を直す。
「気にすんなよ」
「気にはしてないさ……心の問題じゃない」
軽い笑いに、美里は珍しく苦笑で返してきた。
俺はそれに気付かない振りで、倒れた自転車を起こす。
思えば、付き合いの長さの割に、俺たちは嘘ばかり吐いている気がする。
俺が酷い顔をするたびに、美里はどれほど傷付いてしまうのだろうか。
俺が顔を偽るたびに、美里はどれほどその嘘に付き合わなければならないのか。
美里が苦しむたびに、俺は幾つ……
そんな億劫な事に気付かない振りをしながら、俺はとりあえず、美里を保健室に連れて行くことから──
一日を始める事にする。