レシート・オブ・ラブ
中学生とは変にプライドが高く、恐ろしく単純でバカな生き物です。そんな彼らの一つのエピソードをご覧ください。
彼女を初めて見たのは確か小学校四年の頃だったと思う。母親に無理矢理通わせられていたスイミングスクールでたまたま同じコースを泳いでいた。しかし、その時はさしあたって彼女を意識したことは無く一度も声を交わしたことはなかった。同年代の子だとは思っていたが、異性だしどこの小学校に通っているのか、そもそも名前は何と言うのか知らなかった。間もなくして彼女はスイミングスクールをやめた。それを機に俺も彼女の事はすっかり忘れていた。
それから月日が経ち俺は中学生になった。入学式が終わり各教室で自己紹介が始まった。俺は苗字が50音順でも先の方だったので、自分の後がとても長かった。
俺の席は窓際の前から5番目で教室全体を見渡せる位置だったが、自己紹介してるクラスメイトに興味は無かったので頬杖を突いて窓の外をぼんやり眺めていた。
すると、不意に担任が俺を呼んだ。
「おい、麻倉。ちゃんと聞け。」
入学早々担任を敵に回したくはなかったので素直に従った。といっても他人の自己紹介を一気に聞かされても頭に入ってくる訳がない。なんて非合理的なんだろう。天井の中央にある薄汚れた火災警報器は果たして鳴るのだろうか、ぼんやりと考えていた時だった。これまでとは明らかに、何か言葉では言い表せない決定的な違いがその声にはあった。俺は突き動かされた様に声の元を見て確信した。あの時の彼女だった。かつての面影がうっすらと残っている。ショートカットの髪型も変わっていなかった。しかし身体的な成長は随所に見られた。背はそれほど高くは無かったが発育は良い方だった。彼女の名前は神崎冴子と言うらしい。
何日か経つと中学校生活にも慣れ、友人も何人か出来た。俺は身長が172cmあり、クラスで一番高かった。そのため掲示物を高い所に張る時、背の低い女子にはよく重宝された。
そんなある日の放課後、図書室で歴史資料を探している時だった。神崎冴子が分厚いハードカバーを4冊重そうに抱え持って俺の前を通り過ぎた。ほのかに甘い香りが俺の鼻腔を刺激し、思わず彼女の行く先を目で追ってしまった。
彼女は3冊を床に置き、1冊を右手に持って背伸びをした。本棚の比較的高い所にある本と本の間のわずかな隙間に、持っている本の角を滑り込ませようとしているがギリギリのところで彼女の身長が足りない。彼女は顔を真っ赤にして背伸びをしていたが10秒程して力尽き、本を持った右手を力なくだらりと振り下ろした。彼女はそのハードカバーを3冊の上に積み、そのままどこかに行ってしまった。
代わりに本を収めてあげようかな。という善意が心の奥底にはあったが、先ほどの1冊はまだしも残りの3冊を収める場所が分からない。というか、彼女はなぜ本をここに置いて行ってしまったのか、俺に対するしまってくれというメッセージなのか?思考を巡らせている間に彼女が戻ってきた。しかし彼女は本棚の隙間を見上げるや否やまたどこかに行ってしまった。俺は彼女をつけることにした。彼女は図書室の通路という通路をしらみつぶしにキョロキョロ見渡していった。気が付くと貸し出しカウンターの前までついて来ていた。彼女は図書委員を探している様子だったが、カウンターには『不在』という飾りっ気のない明朝体がでかでか書かれた三角柱の置物が置かれたいた。彼女は元来た通路を戻り、本のところまで戻ってきた。彼女は先刻の一冊を手に持ち再度収めようとチャレンジしていたが『無駄な努力』であるということは誰の目にも明らかであった。この図書室には彼女と俺しかいなかったが・・・。
彼女の無駄な努力にいたたまれなくなった俺は彼女が力尽き、右腕を振り下ろした瞬間その握っていたハードカバーを取り上げ、手を伸ばし本棚の本と本の間に無造作に突っ込んだ。呆気にとられた彼女は顔を真っ赤にし、ぽっかりと口を開けていた。
初めてまじまじと彼女の顔を見た気がする。目鼻立ちは綺麗に整っていて、その無垢な子犬の様な表情はかなり可愛かった。俺は時を忘れ、彼女の顔を熱い視線で見つめていのだと思う。急に彼女は顔を逸らし俯いた。見る見るうちに耳が紅潮し背中がプルプル小刻みに震えだした。俺は彼女から一歩引き、優しい声で尋ねた。
「本片づけるの、手伝おうか?」
今までにないくらい物腰柔らかに聞いた。すると彼女は面を上げ意外だ、といった表情で俺を見据えてきた。
「お、お願いします。」
か細い綺麗な声だった。
俺は残りの3冊を両手で抱え上げた。すると彼女は俺の制服の袖を指でつまんで引っ張った。
「本は大事に扱ってください。」
上目づかいに俺の顔を覗き込んできた。こんな視線を送られるのは生まれて初めてで大変ドギマギし、思考がどこかに行ってしまった。そのため何のことを言われたのか一瞬分からなかったが、すぐに抱えた本に目を落した。
「あ、ゴメン。」
そしてどこにしまえばいいのか尋ねた。
それからのことはあまりよく覚えていない。たわいもない世間話をしたような、しなかったような。そのくらい俺は彼女に首ったけだった。彼女の後姿、細身だが出るところは出てる身体。綺麗なショートヘアは夕日に照らされほのかに栗色がかった淡い輝きを見せていた。その姿を近くで見ているだけで俺は幸せだった。
全ての本を収め、成り行きで一緒に帰ることになった。彼女は最近学区内で引っ越しをしたらしく俺の家の近くに新しく出来た分譲地に住んでいるらしい。
一緒に帰る事になったはいいが今日初めて喋った仲では話のネタが無い。俺はどちらかというと人との会話が苦手で友人たちの中でも聞き役に回る事の方が多かった。彼女もクラスでの様子を見ると休み時間は一人で読書をしているという印象が強かった。
俺はすぐ隣を歩いている彼女との空気が妙に気まずくなっているのに気が付いた。恐らく彼女も気付いていただろう。俺は200m先にセブンイレブンがあるのを見つけた。
意を決した俺は彼女に問いかけた。
「「あの」」
その瞬間、彼女も全く同じタイミングで問いかけてきた。俺と彼女の声は完全にハモった。
しばらく沈黙が続いたが、彼女が突然ハッとした様子で顔を真っ赤に染め、あたふたし出した。
「ど、どおぞ。」
俺も遠慮したかったがここで早々に切り上げなければ、このやり取りが延々と続くだろうと察した。
「セブン寄りませんか?」
文字にして9つ。全く気が利かない誘い方だった。
セブンに入ると客は一人もいなく、レジには店員と思しき中年のオッサンが一人手持無沙汰に突っ立ていた。
彼女はオレンジ色のカゴを持ち、お菓子売り場に歩いて行った。俺は雑誌コーナーの上から二番目にあるビッグコミックを一冊引っ張り出し、レジに向かった。
コンビニに寄った時は必ず肉まんを買う俺は、レジスターの傍らに置いてある蒸し器の曇って水滴だらけのガラス窓を見て絶句した。肉まんが売り切れ、そのブースだけ空っぽなのだ。不服だが、から揚げ棒を2本買った。
一足先に会計を済ませた俺は彼女のいるお菓子売り場に歩いて行こうとしたが、彼女は何を買うか決めたらしく買い物カゴを片手に嬉しそうにしている。
俺はレジに向かう彼女に近づき、カゴの中をそっと覗いた。中にはアーモンドチョコの箱とオレオの小袋が入っていた。甘い物好きなのだろうか。
「何買うの?」
カゴの中身は知っているが少しでも話したかったので聞いてみる。
「アーモンドチョコとオレオだよ。このオレオがね、期間限定でいちご味なんだよ!いいでしょ。」
女の子はチョコレートが好きなんだよな、一昨日のワイドショーでやってたぜ。とりあえず彼女からカゴを受け取ろうと手を伸ばした。しかし彼女は俺の手をかわすようにカゴを持ち替え、少し怒ったような表情で俺を見つめた。
「だ、ダメです。私が買うんだから、私が払わな・・・」
「まあそう堅いこと言わないでお兄さんによこしなさい。」
彼女が喋り終わる前にカゴを取り上げ、レジのカウンターに置き千円札を出そうと両手をポケットに突っ込んだがクシャクシャに丸まったレシートが右ポッケから、左ポッケからは五百円玉・五十円玉がそれぞれ一枚ずつ、それと百円玉二枚と薄汚れた十円玉四枚が尻ポケットから出てきた。液晶画面に表示された金額は315円、大丈夫だ買える。五百円玉をカウンターに出し袋とお釣りを受け取った。レシートは右ポケットに突っ込んだ。貰ってもしょうがなかったが。
俺が支払いを終えた時には店内に彼女の姿は無く、雑誌コーナーの窓ガラス越しに彼女の華奢な身体が見えた。トーンを落とした夕焼けの中にひっそりとたたずんでる。間もなく店をでた俺に彼女が駆け寄ってきた。彼女は両手に缶コーヒーを持ち、片方を俺に差し出してニコッとはにかんだ。俺はゆっくりと差し出された缶コーヒーを受け取った。ダイドーのコーヒーだ。
「あ、ありがとう。」
彼女は無言で頷き、俺の右手からコンビニ袋を受け取った。
日没まであと数分というところだろうか、西の空だけ濃いオレンジ色に染まっている。頭上はすっかり紺色で対照的な色どうしが混ざり合う境界面が妙になまめかしい。
女の子相手に何を話せばいいのか分からない俺は話題を模索していた。その時ふと図書室での出来事を思い出した。そうだ、なんの本を借りていたのか聞いてみよう。
「あ、あの神崎さん?」
「・・・冴子でいいよ。」
彼女は顔を少し傾け、照れくさそうに呟いた。頬がほんのり朱色に染まっていたのは夕日のせいだけではないようだ。
「さ、冴子・・・何の本借りてたの?」
ほぼ初対面で相手にいきなり名前を呼び捨てで言わせる人を俺は初めて見た。そして俺は初めてほぼ初対面の相手を呼び捨てで呼んだ。
「百科事典と小説だよ。」
「何ていう小説?」
彼女は少し考えるように間を置いた。
「塩の街っていう本です。有川浩さんが書いてるんだけど、お話の中に銃とか戦闘機とか、知らない言葉がたくさん出てきてね、どんなモノか分からかったから百科事典で調べようと思ったんだ。」
今時百科事典で調べものをするとは、古風な女の子だ。
「塩の街か、それで分かったの?」
「うん、大体分かったよ。」
「銃とか戦闘機が出てくるって、もしかして戦争もの?」
「ううん、戦争ものじゃ、ないと思うな。どっちかっていうと、恋愛モノかなぁ?」
「恋愛モノに銃や戦闘機か、おもしろそうだね。」
冗談を織り交ぜて皮肉ったつもりだったが、彼女は真に受けたらしい。
「おもしろいと思う?なんなら貸すよ、読んでみて。」
そう言って肩から提げているバッグから淡いピンク色のブックカバーに包まれた一冊の文庫本を取り出した。俺は彼女の行動が全く読めなかった。
「え、もう本返したんじゃ?どういうこと?」
俺の頭の中は『?』マークで一杯だ。
「実はその本、文庫版で持ってたんだ。でももともとハードカバーだから、文庫化するにあたって所々端折られちゃんだよね。だから、文庫で読んだ後にハードカバーを読んで物語を補完しようと思って借りたんだ。その時ついでと思って百科事典も借りたんだけど・・・。」
そういうことか、頭の中の『?』マークは揃い揃って成仏した。
「そんじゃあ、読んでみようかな。塩の街。」
わざわざ女の子の方から薦めてくれたんだ、男の俺が断る理由が見当たらない。
「ホントに!?嬉しいな。」
彼女は満面の笑みで本を手渡してきた。俺はその本を丁寧に受け取り、ショルダーバッグの普段何も入れない内ポケットに静かにしまい込んだ。
そうこうしている内に彼女の家の前まで来た。
「今日はありがとう、本当に。」
彼女はそう言ってコンビニ袋を見せ微笑んだ。
「いや、こちらこそ。コーヒーありがとう。借りた本、読んでみるよ。」
俺は片手を上げ帰路についた。その時だった。
「ねえ!・・・、総司くんって呼んでいいかな?」
背後で彼女が突然叫んだ。俺は驚いて後ろを振り向いた。ドアの前で彼女が後ろ手を組んでもじもじしていた。俺は短く息を吸い。
「いいよ!冴子。」
彼女は満足そうに二回ほど頷いて手を振ってきた。俺は歩き出し、見てるかどうかわからないが、右手を軽く振りポケットに突っ込んだ。
クシャリ。
丸まったレシートが二枚、指先に触れた。このレシートはとっておこう、今日の記念にでも。
最後まで読み進めていただきありがとうございました。
至らない所だらけでしたが少しでも楽しんで頂けたら幸いです。