死んだ姉のことを忘れてほしくなくて呪いをかける妹のお話
「新しい婚約が決まったと聞きました。おめでとうございます」
「ああ……ありがとう」
礼の言葉に対し、伯爵子息フォルギートは固い声で答えを返した。
伯爵家の応接室。テーブルを挟み、二人の男女が対峙している。
男の名は伯爵子息フォルギート。この伯爵家の嫡男だ。短く切りそろえた金髪に澄んだ碧の瞳。がっしりとした体つきの、たくましい二十歳の青年だ。
女の名は子爵令嬢レーアヴィア。肩まで届く金の髪。その瞳は、この王国では珍しい澄んだ深い紫色。年のころは十七歳。
線が細く、顔色もあまりよくない。身体の弱い令嬢のようだ。
二人の間にはピンと張りつめた緊張感がある。レーアヴィアは口元に淑女の笑みを浮かべているものの、その目は笑っていない。
そして、レーアヴィアは鋭い目で告げた。
「姉様が亡くなってからまだ一年ほどしか経っていないのに」
その指摘に、フォルギートの胸は締めつけられた。
伯爵子息フォルギートは、子爵令嬢ディーセピアと婚約していた。二人の仲は良好だった。いずれは伯爵家を二人で支えるものと周囲からも期待されていた。
しかし突然、不幸は訪れた。
ある日のお茶会の後、ディーセピアは伯爵家のタウンハウスから馬車で帰途についた。
その途中、車道に突然、野犬が飛び出してきた。驚いた馬は立ち止まり、馬車は急停車した。ただそれだけの、ごくありふれたアクシデントのはずだった。
しかしその急停止によって、ディーセピアはソファのひじ掛けに頭をぶつけてしまった。その打ち所が悪く、彼女はあっけなく命を落とした。
野犬が現れたこと。馬車が急停止したこと。ディーセピアがバランスを崩したこと。頭をぶつけたこと。その打ち所が悪かったこと。一つ一つはとるに足らない小さな不運。しかしそれらが積み重なったことにより、ディーセピアは命を落としたのだ。
この予想外の訃報に、フォルギートは深く悲しんだ。葬式では棺にすがりついて泣き崩れた。葬式を終えてからは自室に閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。
苦しみに沈み込む彼を救ったのは、幼馴染の子爵令嬢シウレーナだった。シウレーナは根気強くフォルギートのことを励ました。そして三か月の時を経て、フォルギートはようやく部屋から出られるようになった。
シウレーナの献身は愛によるものだった。フォルギートはその気持ちに応えた。ディーセピアの死から一年ほど過ぎた頃。二人は婚約した。
そして、かつての婚約者の妹、レーアヴィアが、フォルギートの元を訪れたのだ。
「姉様のことを忘れて、新しい人生を始めるおつもりですか?」
レーアヴィアの言葉は穏やかだった。しかしその姉譲りの紫の瞳は、まるで射貫くような鋭さでフォルギートに迫った。
フォルギートは苦しそうに顔をゆがめた。
「ディーセピアのことは愛していた。忘れるつもりなどない……!」
「たった一年で新しい婚約者を迎える方が、そんなことを言っても信じられません」
「彼女は……シウレーナは、閉じこもっていた私のことを救ってくれた。癒してくれた。その愛に報いるために婚約したんだ。人はいつまでも喪った人の悲しみに沈んではいられない。立ち直るのが悪いことだと言うのかっ……!?」
「わたしはただ、姉様が忘れられてしまうことが耐えられないのです」
「そんなことを言うためにわざわざやってきたというのか? そんな無理をしてまで……」
レーアヴィアはつらそうに歯噛みした。彼女は幼いころから病弱だった。ベッドで寝込むことも少なくなかった。ここに来るだけでも相当な負担だったろう。
それだけ、姉のことを大切に思っているということなのか。
フォルギートは深呼吸すると、努めて優しい声で語りかけた。
「どうかわかってほしい。確かに一年足らずで新しい婚約者を迎えた私は、不実だとなじられても仕方ないかもしれない。だがいつまでも悲しみに囚われてはいられない。ディーセピアは優しい人だった。彼女だってそんなことは望まないはずだ」
「ええ、姉様は優しかった。病気で苦しんで眠れないでいると、子守唄を歌ってくれました。そんな姉様なら、きっとあなたが立ち直ることを望むでしょう。
でも……新しい女性、新しい生活、新しいしあわせ。それらは姉様の記憶を薄れさせてしまう……」
「それは仕方のないことだ。彼女はもう、帰ってこないのだから……」
フォルギートは潤んだ目元をぬぐった。
「そうですね。姉様は帰ってこない」
レーアヴィアは席を立った。
呼び止めようとすると、鋭い視線に射すくめられた。姉と同じ、澄んだ深い紫の瞳。
「それでも、あなたは一生、姉様のことを忘れられない」
そう告げると、レーアヴィアは立ち去った。
その言葉は、ひどく胸に残った。
フォルギートとシウレーナとの婚約生活が始まった。
シウレーナはハニーブロンドの髪に蒼い瞳の可憐な令嬢だった。穏やかで献身的な彼女との付き合いは、幸せに満ちたものだった。
だがその幸せに、小さな影が落ちるようになった。
最初はなんでもないことだった。何もない廊下で、シウレーナが転びそうになった。そそっかしいと二人で笑いあった。
次の日は、階段で足を踏み外しかけた。その次の日は、庭園の小橋で足を滑らし、欄干にしがみついて落下を免れた。その次の日も、そのまた次の日も……シウレーナは小さな事故に遭い続けた。どれも大事には至らない、ありふれたちょっとしたトラブル。だがその頻度が異常だった。
シウレーナは自らの不注意を恥じた。フォルギートは彼女に注意するように言って、使用人たちにも気をつけるように言いつけた。それでもトラブルは続いた。
トラブルが起きたと聞くたびに、フォルギートはディーセピアのことを思い出した。一つ一つは取るに足らない不運。それらが積み重なって命を落としたディーセピア。彼女のことを思い出さずにはいられなかった。
そうしたことが続くうちに、フォルギートは夢を見るようになった。ゆったりと走り始める馬車。その中にはディーセピアが乗っている。このまま行かせてしまえばあの事故に遭ってしまう。今、呼び止めればそれを避けることができるかもしれない。
でも、声を出せない。ディーセピアは穏やかな笑顔を浮かべてこちらを見ている。紫色の瞳が、自分をじっと見ている。
そして、馬車は走り去ってしまう。そんな夢を、毎晩のように見るようになった。
ある朝、夢から目覚めたとき。フォルギートはつぶやいた。
「これは、呪いだ」
そうとしか、思えなかった。
本来、呪いの解呪は教会に頼むのが正当なルートだ。だが貴族社会において、呪いをかけられたこと自体が醜聞となる。現段階では呪いだという確証もない。秘密裏に調べる必要があった。
だからフォルギートは領内に住む魔女の元へと向かった。
ありふれた平民の旅装に身を包み、顔をフードで隠して魔女の元を訪れた。
魔女は丁重に迎えてくれた。平民に扮してもこちらの身分は分かっていたようだが、そのことは詮索せずに話を聞いてくれた。
これまで起きた小さなトラブルについて話すと、魔女は水晶玉に手を当てて呪文を唱えた。すると水晶の奥に、ぼうっと暗い赤色の光が灯った。
「これは『悪意のしずく』という呪いです」
「『悪意のしずく』? いったいどんな呪いなんだ?」
「しずくが降り注ぐように、小さな不幸に見舞われ続けるという呪いです。不幸と言ってもせいぜい歩いていて転びそうになったり、飲み物をこぼしたりする程度です」
「小さな事故も、重なれば命を落とすことがあるかもしれない」
「いいえ、この呪いにそこまでの力はありません。ほんの小さな不幸に見舞われ続けるという、嫌がらせのようなものです」
「誰がかけた呪いなのかわからないのか?」
魔女は頭を振った。
「『悪意のしずく』は、効果が小さい代わりに術者の特定が極めて難しいという特徴を持ちます。ただ、この呪いを使えるのは対象と近しい者に限られます。呪いの術者は間違いなくあなたの見知った人物です。誰か心当たりはありませんか?」
そう問われてフォルギートは考え込んだ。彼も貴族だ。敵対派閥の貴族から狙われることは考えられるし、知らない間に領民の恨みを買った可能性も十分にありうる。
だが呪いの効果が妙だ。小さな不幸によって、日々不安を感じてはいる。だが、実害と言えるほどの被害はない。敵対する者が呪いをかけるなら、もっと明確な被害があるものをかけそうに思える。
しかし、「あなたの見知った人物」という言葉にひらめくものがあった。
かつての婚約者の妹、レーアヴィアだ。
そんなフォルギートの様子に、魔女は頷いた。
「どうやらお心当たりがあるようですね」
「呪いを解くことはできないのか?」
「可能です。ですが、呪いを解けば確実に『呪い返し』が術者に降りかかります」
「『呪い返し』?」
「術者が呪いの報いを受けるのです。『悪意のしずく』の場合、骨折程度のケガを負うことになるでしょう。できれば話し合いで解決することをお勧めします」
「そうか……」
フォルギートは深くため息を吐いた。
なぜ、小さな不幸に見舞われるなどという呪いをかけたのか。
なぜ、ことあるごとにディーセピアのことを思い出してしまうのか。
それらのことを確かめるため、レーアヴィアに会わなければならなかった。
「わざわざお越しいただいたのに、こんな姿で申し訳ありません」
「いや、楽にしていてくれ」
フォルギートは王都にあるレーアヴィアの子爵家のタウンハウスを訪れた。通された先は寝室で、そこには病床に就くレーアヴィアの姿があった。先日会いに来た時は、やはり無理をしていたようだ。
だがフォルギートはレーアヴィアの様子に違和感を覚えていた。突然の来訪だというのに妙に落ち着いている。まるで来ることがあらかじめ分かっていたかのようだ。
フォルギートは頭を振った。余計なことに考えを乱されてはならない。意を決すると話を切り出した。
「単刀直入に聞かせてもらう。君は私か、婚約者のシウレーナに呪いをかけたのではないか?」
「呪いですって? まあ恐ろしい。なぜわたしが疑われるのですか?」
「シウレーナに不自然な事故が続いている。君しか心当たりがないんだ」
「そうおっしゃっても……事故なんて、呪いがなくても起こることでしょう? 本当に呪いなのですか?」
レーアヴィアは平然と受け答えした。呪いをかけたと疑われているのに全く動じない。それどころか、この状況を楽しんでいるような気配すら見受けられる。
実際のところ、レーアヴィアがかけたという確証はない。魔女から見知った人物が術者と言われて真っ先に思いついたのが彼女だったというだけだ。
それに、実害がないのも妙なことだ。『悪意のしずく』によって確かにシウレーナは小さな不幸に見舞われている。だがそれで怪我をしたことはない。そんな呪いをわざわざかける理由がどこにあるのか。
シウレーナがアクシデントに遭うたびに、フォルギートはディーセピアの死を思い出す。馬車で帰途に就く彼女を、夢に見るようになった。
そのとき、レーアヴィアの言葉が脳裏にひらめいた。
――それでも、あなたは一生、姉様のことを忘れられない。
フォルギートは、彼女がなぜあんな呪いをかけたのか、理由がわかったような気がした。
「呪いをかけてまで、ディーセピアのことを忘れさせたくないのか?」
その言葉を聞いた途端、レーアヴィアは余裕ぶった態度をひっこめた。真剣な顔で、紫の瞳を輝かせ、彼女は口を開いた。
「ええ、そうです。たとえ呪いをかけてでも、あなたには姉様のことを忘れてほしくありません」
レーアヴィアはまっすぐに言い切った。
「なぜ私のことを呪うんだ? ディーセピアのことを忘れたりなんてしていない」
「そうでしょうか? 姉様の死から一年程度で新しい婚約を結んだような方が、本当に姉様のことを忘れずにいられるでしょうか? 姉様と婚約する前から、シウレーナ嬢と親密だったことは知っています」
「誰から聞いた?」
「調べればわかることです」
「私と彼女の間には君が考えるようなことはなかった。ただの幼馴染だ。神に誓ってもいい」
シウレーナの子爵家は隣の領地を治めており、幼いころから交流があった。そうは言ってもあくまで友人としての付き合いだけだ。
ディーセピアの死によって落ち込んだフォルギートのことを、シウレーナは献身的に癒してくれた。その時初めて、彼女の愛に気がついたのだ。
「そうかもしれませんね。でも実際のところ、そのことはどうでもいいのです。あなたは他の女性と新しい人生を始めようとした。新しい女性、新しい生活、新しいしあわせ。それらは姉様の記憶を薄れさせてしまう……それがわたしには、我慢ならないのです」
「だから呪いをかけたというのか」
レーアヴィアは言葉を返さない。ただ静かな目をしている。
「いつまでも悲しみに沈んでいろと言うのか!? 前に進むのは、間違いだと言うつもりか!?」
「姉様はあなたのことを愛していました。そんなあなたが姉様への悲しみを捨てて前へ進むなんて、悲しすぎます。生きている者が覚えている限り、姉様は少しだけこの世界にいられるのです。わたしは少しでも長く、姉様をこの世にとどめたいのです」
「そのために呪ったというのか?」
「わたしはただ、願ったのです。あなたが少しでも長く、姉様を喪った悲しみを忘れないように、と……」
レーアヴィアに悪意は感じられなかった。紫の瞳が希望に輝いていた。そこには純粋でひたむきな願いだけがあった。
それが誰かのしあわせを願ってのことなら、あるいは感動的な光景だったかもしれない。しかし実際の彼女の願いは、フォルギートが悲しみ続けることだ。その呪いのせいで、シウレーナも苦しんでいる。正気な人間の考えることではない。フォルギートは恐ろしくなった。
「いい加減にしろ! 呪いを解かないというのなら、強引に解いてやる! その時、後悔するのは君の方だぞ!」
もう付き合っていられなかった。フォルギートは席を立ち、その場を去ることにした。
部屋を出ようとしたところで、後ろからレーアヴィアの声が聞こえた。
「それでも、あなたは一生、姉様のことを忘れられない」
その言葉は、妙に耳に残った。
フォルギートは再び魔女の元を訪れた。
「『悪意のしずく』を解呪してほしい」
「話し合いでは解決しなかったのですか?」
「ああ、残念ながら無理だった。彼女はまともではない」
フォルギートは目を覆った。あのひたむきなレーアヴィアの態度。まるで信仰に身を捧げる殉教者のようだった。今思い返しても、説得は不可能に思えた。
「先日ご説明したように、呪いを解けば『呪い返し』が術者に降りかかります。本当によろしいのですか?」
魔女は改めて確認した。
フォルギートは逡巡した。確か『呪い返し』は骨折程度の被害を受けるという話だった。病弱なレーアヴィアにそれは酷なことに思える。
だが、放置すればシウレーナに小さな不幸が降りかかり続ける。そのたびにディーセピアのことを思い出し、フォルギートもまた悲しみ苦しむことになる。そんなことには耐えられそうもなかった。
「……頼む」
「わかりました。それでは解呪します」
魔女は魔法陣が描かれた紙を広げると、その上に赤い魔石を置いた。
そして呪文を唱えると、やがて魔石は色を失い、ぱきりと割れた。フォルギートは肩がすっと軽くなったような感覚を覚えた。
「これで呪いは解けたのか」
「ええ、そうです。もともとそれほど強力な呪いではなかったのです」
「確か『呪い返し』があるということだったな?」
「ええ、術者は何らかの被害を受けていることでしょう。誰がどのような被害を受けたかは、わたしにもわかりません」
「そうか……とにかくありがとう」
フォルギートは魔女に謝礼金を渡すと、レーアヴィアのもとへ向かった。
彼女のタウンハウスに着くと、邸内が妙に騒がしかった。何かあったらしい。彼が門をたたくと、慌てたようにメイドがやってきた。
「レーアヴィア嬢に会いに来たのだが、何かあったのか?」
「フォルギート様、残念ですがお嬢様はつい先ほど亡くなりました。急に容態が悪くなって、お医者様の必死の治療も甲斐なく……ううっ」
メイドはそのまま泣き崩れた。
フォルギートは立ち尽くした。
レーアヴィアが死んだ。
『呪い返し』のせいで死んだのか。あるいは病弱な彼女は、もともと死ぬ運命だったのか。
どうしてかはわからない。
――あなたは一生、姉様のことを忘れられない。
彼女の最後に残した言葉が、脳裏によみがえった。
あれから五年の月日が過ぎた。
『悪意のしずく』を解呪して以来、シウレーナに妙なトラブルが起きることはなくなった。
フォルギートはシウレーナと結婚した。結婚生活は穏やかに過ぎていった。二人の仲睦まじさは社交界でも評判となるほどだった。
もちろん、ディーセピアのことを忘れたわけではない。
馬のいななきを聞いたとき。彼女の好きだった紅茶の香りをかいだとき。ふとディーセピアのことを思い出し、悲しくなることもある。それでも悲しみにとらわれる時間は徐々に少なくなっていった。時間の流れと優しい日々が、少しずつフォルギートを癒していった。
そうして過ごすうちに、さらなる幸せが訪れた。シウレーナが子供を産んだのだ。
愛しい我が子を抱き上げた。小さな指。ふっくらした頬。愛おしくてたまらない。
「かわいい子ね」
シウレーナがほほ笑む。
「ああ、とても」
フォルギートも笑った。
これからいくつものしあわせが待っている。そう思った。
そして、子供が目を開けた。その瞳を見た瞬間、フォルギートは笑みを失った。
それはただの偶然か。それとも神のイタズラか。あるいは、これこそがレーアヴィアの呪いだったのか。
――あなたは一生、姉様のことを忘れられない。
レーアヴィアの言葉が脳裏によみがえる。その言葉が絶対のものになったことを、フォルギートは認めざるを得なかった。
愛しい我が子の瞳の色は、澄んだ深い紫。ディーセピアと同じ色だったのだ。
終わり
貴族には瞳や髪の色に合わせたアクセサリーやドレスを贈り合ったりするという習慣があると聞きました。
その色が呪いになったらどうなるかな、みたいなことを考えていたらこういうお話になりました。
今回はプロット段階でAIに協力してもらいました。
それから誤字脱字のチェックもやってもらいました。
なんて言うか、とても便利ですね。




