侯爵令嬢は恩を返したい ~あの日の泥と薬草の香り~
【第23作目】一番下の子が道路で躓いたのをたまたま見て思いつきました。
なんたる親だ…不謹慎なww
------------------
アルセリア侯爵家の三女、リリアーナ・アルセリアは才女として名高かった。
学問よし。礼法よし。政治も経済も同年代の令嬢たちを寄せつけない。
ただし、それらすべてを台無しにする欠点が一つあった。
とにかく高飛車なのである。
「その程度の計算もできませんの?」
「その知識量で議論に参加なさるの?」
「まあ、それなりに努力は認めますわ」
悪気はない。
本当にない。
だが言われた側はたまらない。
結果として、貴族社会では「能力は素晴らしいが関わりたくない令嬢」として有名になってしまっていた。
二十三歳。
すでに貴族としては結婚適齢期を過ぎている。
しかし婚約者は未定。
侯爵である父は日々頭を抱えていた。
「せめて愛想がもう少しあれば……」
「お父様? 何かおっしゃいました?」
「いや何も」
侯爵は遠い目をした。
大商人でもいい。
地方貴族でもいい。
誰か嫁にもらってくれないものか。
それが最近の切実な願いだった。
そんなある日。
リリアーナは侍女ミレイユを伴い、変装して城下町へ出た。
見聞を広めるためである。
「商人の娘に見えまして?」
「ええ、お嬢様。少々偉そうな商人の娘ですが」
「少々ではありませんわ。堂々としていると言いなさい」
「はいはい」
長年仕える侍女は強かった。
町は活気に満ちていた。
露店の呼び声。
行き交う人々。
荷馬車の列。
リリアーナは興味深そうに辺りを見回していたが、不運は突然やって来た。
「あっ」
人波に押された。
気づけばミレイユの姿が見えない。
「ミレイユ?」
探して歩く。
さらに歩く。
そして。
「ここはどこですの……?」
迷った。
完全に迷った。
しかも追い打ちのように、財布がないことに気づく。
「す、スられましたわ……?」
生まれて初めての経験だった。
屈辱で顔が熱くなる。
慌てて歩いたところで足を滑らせた。
「きゃっ!」
べしゃり。
盛大に水たまりへ転ぶ。
服は泥だらけ。
顔にも泥。
手をついたせいで掌には擦り傷。
もう最悪だった。
もし今この姿を社交界の令嬢たちに見られたら、その場で失神していたかもしれない。
「大丈夫?」
不意に声がした。
見上げると、一人の青年が立っていた。
二十代半ばだろうか。
質素な服装。
穏やかな顔立ちをしている。
青年は迷いなく手を差し伸べた。
「立てる?」
「え……」
リリアーナは固まった。
同世代の男性にこんなふうに接されたことがない。
青年は特に気にした様子もなく彼女を起こす。
さらに懐から手ぬぐいを取り出し、泥を拭ってくれた。
「顔にもついてる」
「…………」
声が出ない。
青年は鞄を開いた。
「手の傷、切れてるね」
小さな壺を取り出す。
「薬草の軟膏だよ」
そう言うと、優しく傷口へ塗った。
ひんやりとして心地よい。
「これで大丈夫」
青年は笑った。
「気をつけて帰りなよ」
「あ、あの……」
ようやく声が出た。
しかし。
「あ、ごめん。急ぎなんだ」
青年は去っていった。
本当にあっという間だった。
呆然と見送るしかなかった。
その後、無事に侍女と合流し屋敷へ帰る事ができた。
夕食の席でリリアーナは昼間の出来事を父へ話した。
「なるほど」
「見返りも求めず助けたのか」
「そうですの」
「立派な青年もいるものだな」
侯爵は感心した。
リリアーナも頷いた。
そして次の瞬間。
固まった。
「あ」
「どうした?」
「わたくし……」
顔から血の気が引く。
「お礼を申し上げておりませんわ」
沈黙。
リリアーナは椅子から立ち上がった。
「恩を受けながら礼をしなかった!」
「落ち着け」
「貴族としてあるまじき失態ですわ!」
目に涙まで浮かんでいる。
完璧主義の彼女にとって、それは耐え難い失敗だった。
「探します!」
「誰を?」
「恩人を!」
「情報は?」
「ありません!」
「無茶だろう!」
だがもう遅かった。
翌日から大捜索が始まった。
手がかりは少ない。
若い男性。
薬草の軟膏を持っていた。
急いでいた。
以上。
「無理では?」
騎士団長が言った。
「探しなさい、礼も言わなかったなどアルセリア家の名折れよ。」
リリアーナは答えた。
「はい」
侯爵家総出の捜索が始まった。
恩人を探したはずが、まず財布を盗んだ盗っ人が捕まった。
一週間。
二週間。
一か月。
捜索範囲は拡大した。
使用人も増えた。
騎士も増えた。
なぜか商人組合まで協力を始めた。
町では噂が広がる。
「侯爵令嬢が男を探してるらしい」
「逃亡者か?」
「違う」
「命を狙った極悪人?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
やがて一つの説が誕生する。
「恋だ」
「恋か」
「想い人だな」
町中が納得した。
リリアーナだけが知らない。
二か月後。
ついに彼女自身も捜索へ乗り出した。
「人任せでは駄目ですわ!」
変装して町を歩く。
そして。
本当に偶然だった。
「あっ」
通りの向こうに見覚えのある顔を見つける。
あの日の青年だった。
リリアーナは駆け出した。
「お待ちなさい!」
青年は驚いて振り返る。
「え?」
「あなた!」
「はい?」
「やっと見つけましたわ!」
青年は困惑した。
完全に困惑した。
「誰……ですか?」
リリアーナは衝撃を受けた。
「覚えていませんの!?」
「えっと……」
「水たまりで転んだ娘ですわ!」
「?!……、あっ!ああ!」
青年が手を打つ。
「泥だらけの」
「言い方!」
「ごめん」
だがようやく思い出したらしい。
事情を聞き終えた青年は目を丸くした。
「二か月も探してたの?」
「もちろんですわ!」
「なんで?」
「お礼をしていませんでしたもの!」
青年は思わず笑った。
「そんなことか」
「そんなことではありません!」
断言する。
「恩義を受けた以上、返礼は当然ですわ」
その真剣さに青年は少しだけ感心した。
高飛車な服装の女性だと思っていたが、筋は通っているらしい。
「それで?」
「褒美を差し上げます」
リリアーナは胸を張った。
「何でも望みなさい」
「何でも?」
「ええ」
青年は少し考える。
金か。
商売の支援か。
そんな予想をしていたリリアーナだったが。
「じゃあ石畳を直してほしい」
「……はい?」
「北通りの角のところ」
「石畳?」
「君が転んだ所さ。あそこガタガタなんだ」
青年は説明した。
「馬車で商品を運ぶとき毎回揺れるんだよ。荷物も痛むし」
実に現実的だった。
夢も色気もない。
「それだけでよろしいの?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
リリアーナは初めて知った。
世の中には、自分の利益より町の便利さを願う人がいるのだと。
後日。
北通りの石畳は見事に修繕された。
町の人々は大喜び。
青年も喜んだ。
「ありがとう」
「当然ですわ」
リリアーナは少し誇らしかった。
そして、それを機に交流が始まった。
青年の名はエリオット。
薬草や雑貨を扱う弱小商人だった。
決して裕福ではない。
だが誠実だった。
リリアーナはたびたび町へ出るようになった。
最初は恩人だからと。
次は知人だからと。
その後は理由を考えなくなった。
エリオットは気負わない。
侯爵令嬢と知っても態度を変えない。
「また難しい顔してる」
「考え事ですわ」
「肩に力入りすぎ」
「あなたは失礼ですわね」
「慣れた」
「慣れないでくださいまし」
二人の会話を聞くたび、侍女は笑った。
リリアーナも少しずつ変わっていく。
相手を見下すのではなく。
相手の事情を聞くようになった。
間違いを認めるようになった。
ありがとうと言えるようになった。
数年後。
侯爵家の応接室。
侯爵は目を丸くしていた。
「リリアーナを嫁にほしいと…」
「はい」
エリオットは緊張しながら答えた。
「弱小商人ですが、必ず娘さんを幸せにします」
侯爵はしばらく沈黙した。
そして笑った。
「ようやく嫁ぎ先が見つかったか」
「父上!」
リリアーナが抗議する。
「失礼ですわ!」
「事実だろう」
「違いますわ!」
しかしその顔は笑っていた。
かつて社交界で恐れられた高飛車令嬢の面影は、もうほとんどない。
もちろん誇りは失っていない。
けれど、それを人に向けて振りかざすこともしなくなった。
結婚式の日。
町の人々は祝福した。
「あの恋人探し、実ったんだな」
「だから恋じゃありませんでしたわ!」
リリアーナは顔を赤くして否定した。
するとエリオットが笑う。
「最初はね」
「最初は?」
「今は違うだろ?」
リリアーナは反論できなかった。
少し考え。
そして静かに頷いた。
「……そうですわね」
石畳を直してほしい。
それが二人の始まりだった。
見返りを求めない親切と、お礼を忘れたくない誇り。
その小さな出会いが、高飛車な令嬢と一人の商人を結び合わせたのである。
ちゃんちゃん!
-----------
最初は、王子と少女の設定だったのですが、シンデレラっぽくなりそうな気配になったので性別反転させましたww
もしよければ、以前に書いた作品も見てください。5分前後で読めるものばかりです。




