婚約者が幼馴染を優先した回数を数えていたら、五十回目で婚約が終わりました
2026/6/13
[日間]総合 - すべて 5位
[日間]総合 - 短編 4位
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「セレスティアは、身体が弱いんだ」
ローゼンハルト公爵家の嫡男であり、婚約者のアレクシス・ローゼンハルトは、悪びれる様子もなくそう言った。
今日は、先週見に行けなかった演劇を観る約束をしていた。約束の時間を半刻程過ぎて現れた彼は、開口一番その言葉を口にした。
「すまない、リディア。セレスティアの体調が良くなくて」
またか。
そう思ったけれど、口には出さない。
「アレクシス様。先週も同じことを仰いましたね。セレスティア様は、1度お医者様に診ていただいた方がよろしいのでは?」
――貴方が傍にいる必要はあるのですか。遠回しにそう尋ねると、アレクシスは不快そうに眉を寄せた。
「何度も言わせるな。薬なら飲んでいる」
そして当然のことを語るように続ける。
「だが、俺がいると呼吸が楽になると言うんだ」
その声音には困惑も迷いもない。むしろ、自分だけが彼女を支えられるのだという確信すら滲んでいた。
「セレスティアは弱いんだ。俺がいないと駄目なんだよ」
それは反論を許さない口調だった。これ以上何を言っても無駄だろう。そう判断して、私は口を閉じる。
「そうですか」
私が頷くと、アレクシスは満足そうに微笑んだ。理解してもらえた、とでも思ったのだろう。そして迷いなく踵を返し、セレスティアの元へ向かっていった。
私はその背中が見えなくなるまで見送り、やがて静かに息を吐いた。
セレスティア・エルヴァイン侯爵令嬢は、アレクシスの幼馴染だった。幼い頃から身体が弱く、何度も生死の境を彷徨ったという。当然、社交界にもほとんど顔を出せなかった。
アレクシスはそんな彼女を守ることを、自分の役目だと信じていた。本来であれば、家格を考えても、彼女こそがアレクシスの婚約者になっていたはずだ。アレクシス自身もそう信じて疑わなかった。
けれど、アレクシスの父であり現当主、ローゼンハルト公爵は、首を縦に振らなかった。エルヴァイン侯爵家が問題だったわけではない。問題は、セレスティア本人だった。
病弱な身体では公爵夫人としての務めを果たすことが難しい。さらに医師からは、子を生すことも困難だろうと告げられていた。公爵家の未来を考えれば、見過ごせる問題ではなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが、私だった。
リディア・テレフォード。
小さな領地しか持たない、子爵家の娘。だが、代々交易に強いテレフォード家の長女として育った私は、幼い頃から父に付き添い、契約交渉や交易路の開拓に携わってきた。
その働きを、ローゼンハルト公爵は高く評価したのだ。
身分は足りない。だが、公爵家を支える能力は十分にある。そう判断された結果が、この婚約だった。
もちろん、アレクシスは歓迎しなかった。彼が望んでいた相手は、最初から最後までセレスティアただ一人だったからだ。
それでも彼が婚約を受け入れたのは、公爵家の跡取りとしての責任があったから。
だから私は思っていた。愛情はなくてもいい。せめて互いに尊敬し合える関係になれれば、と。
けれど。私が思っていた以上に、彼の中で婚約者という存在は軽かった。あるいは、幼馴染の存在が大きすぎたのか、今となってはどちらでもよいのだけれど。
彼にとって守るべき人はセレスティア。支えるべき人もセレスティア。愛する人も、セレスティア。
私はただ、公爵家の都合で隣に置かれた相手でしかなかったのだ。
「アテネ」
傍らに控えていた専属侍女が一歩前に出る。
「彼が私よりセレスティア様を優先したのは、これで何度目だったかしら」
アテネは淡々と答えた。
「四十九回目です、お嬢様」
「そう」
本来なら今頃楽しんで鑑賞しているはずだった劇場を遠くに眺めながら、私は目を細めた。
最初の頃は、一つ数えるたびに胸が痛んだ。婚約者との約束を破られるたび。私のために用意された時間が、当たり前のように別の女性へ譲られるたび。
けれど、人は慣れてしまうものらしい。四十九回も繰り返されれば、悲しむより先に数字を数えてしまう。
「次の予定は何かしら?」
「来週の祝賀会でございます」
「ああ」
自然と口元が緩んだ。
来週開かれるのは、隣国との通商協定締結を祝うパーティー。私がアレクシスと婚約してから三年。誰もが難しいと言った交渉だった。
隣国は長年こちらの関税政策に不満を抱いており、歴代の交渉官ですら成果を上げられなかった。
ローゼンハルト公爵が設けてくださった交渉の席に、私はアレクシスの婚約者として同席した。子爵令嬢が口を挟む場ではない。案の定、向けられたのは歓迎ではなく疑念だった。
――たかが子爵家の娘が何をしに来た。
そんな視線を受けながら、私は用意してきた一枚の利益試算書を卓上に置いた。
両国の商人がどれほど利益を得るのか。税収がどれほど増えるのか。数字で示せば、人は驚くほど素直になる。
感情では動かなかった者たちが、利益の前では自ら席に着いた。その後の根回しも、交渉も、全て私が整えた。
それがたとえ、ローゼンハルト家の功績として語られようとも、私は特に不満はなかった。
ローゼンハルト家の次期当主に嫁ぐ身だ。その繁栄のために知恵を尽くし、力を尽くすことは当然の務めであると理解していたから。
「ちょうど五十回目ね」
私がそう言うと、アテネは静かに頷いた。
「はい」
「私、決めたわ」
一度や二度なら見間違いかもしれない。十回なら偶然かもしれない。そうやって自分を納得させ続けてきた。けれど四十九回ともなれば、それはもう偶然ではない。彼の選択そのものだ。
「もし、来週の祝賀会も、セレスティア様を優先なさるのなら」
私は静かに微笑む。
怒りもない。
涙もない。
ただ、長い夢から覚めたような気分だった。
「その時は終わりにするわ」
燃え上がるような恋をしていたわけではない。それでも婚約した以上、尊敬し合える関係を築いていければと願った。
だからこそ四十九回も許したのだ。
けれど。信頼とは、積み重ねるものだ。そして失う時は、驚くほど静かに失われていく。
気付けば私の手元には、もう何も残っていなかった。
「五十回目」
私は夕暮れの空を見上げた。茜色に染まる雲がゆっくりと流れていく。
「彼は何を選ぶのかしらね」
その問いに答える者はいない。
けれど不思議と、もう結果は分かっているような気がした。
そして約束の日が来た。
隣国との通商協定締結を祝う祝賀会。王城の大広間には国内の貴族や商人たちが集まり、華やかな空気に包まれていた。
私は来客への挨拶を終え、入口へ視線を向ける。
ちょうどその時だった。ざわり、と会場が揺れる。
現れたのはアレクシスだった。
そして――その隣にはセレスティアがいた。
私は思わず笑いそうになった。連れて来たのね。今日がどんな日なのか、理解した上で。
「アテネ」
「はい、お嬢様」
「どうやら五十回目らしいわ」
「おめでとうございます」
アテネはアレクシスを一瞥すると、僅かに顔をしかめた。
「…残念ながら、の方がよろしかったですか?」
冗談か本気か分からないアテネの問いに、堪えきれずに笑みを零す。
「いえ、修正は不要だわ」
「承知いたしました」
それだけ言うと、アテネは一礼し、祝賀会の邪魔にならぬよう、私の後ろへ控えた。
周囲からも戸惑いの声が漏れる。当然だ。今日の主役は、この協定に関わった者たち。
ましてアレクシスはローゼンハルト家の嫡男であり、私の婚約者でもある。
そんな男が婚約者の功績を祝う席へ、別の女性を伴って現れたのだから。
「リディア!」
アレクシスは何事もないように歩み寄ってきた。
「今日はセレスティアの体調が良くてね。せっかくだから一緒に連れてきたんだ」
「お久しぶりです、リディア様」
セレスティアは申し訳なさそうに頭を下げる。
「いつもご迷惑をおかけして……」
「気にしなくていい」
答えたのは私ではなくアレクシスだった。
「君は何も悪くないだろう?」
まるで自分が正しいことをしていると信じて疑わない口調だった。ほどなくしてローゼンハルト公爵が現れた。
「アレクシス」
低い声だった。
「今日が何の席か理解しているのか」
「もちろんです」
「ならば何故、その令嬢を伴っている」
アレクシスは本気で不思議そうな顔をした。
「セレスティアの体調が良かったからですが?」
周囲の空気が凍る。公爵は額を押さえた。その反応の意味すら、彼には分からないらしい。
やがて国王陛下が入場し、祝賀会が始まった。
協定締結の経緯が語られ、関係者たちへ労いの言葉が贈られる。そして最後に、陛下の視線が私へ向いた。
「リディア嬢」
広間中の視線が集まる。
「今回の功績、誠に見事であった」
陛下は私が作成した利益試算書にも目を通していた。交渉過程も把握している。だからこそ、その言葉には重みがあった。
「褒美を取らせよう。望みを申してみよ」
私は一礼した。
「勿体ないお言葉でございます」
顔を上げる。
「ですが私はただ、国の繁栄を願い行動したまで。褒美など望みません」
国王はしばらく私を見つめ、満足そうに頷いた。その時だった。
「アレクシス様……」
セレスティアがふらりとよろめいた。アレクシスは即座に駆け寄る。
「セレスティア!」
そして周囲も陛下も見えていないかのように、その肩を抱いた。
「顔色が悪い。休ませなければ」
「アレクシス」
公爵が呼び止める。
だが彼は聞いていなかった。
「失礼します」
そう言い残し、セレスティアを支えながら広間を後にする。国王の御前から、婚約者への褒賞の最中に。
広間は静まり返った。私は玉座の方へ目を向ける。国王陛下は何も言わなかった。隣の王妃殿下も。
ただ二人とも、静かに目を細めていた。
その視線だけで十分だった。
私はゆっくりと息を吐く。
そして背後へ視線を向けた。
「アテネ」
「はい、お嬢様」
「お父様とお話ししたいの。正式に」
アテネは一瞬だけ目を伏せた。
そして静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
五十回目。それで十分だった。
それから二ヶ月後。
私は隣国へ向かう馬車に乗り込もうとしていた。
「リディア!」
怒号と共に現れたのはアレクシスだった。隣には青白い顔のセレスティアもいる。
「どういうことだ?! 隣国へ行くなど聞いていないぞ!」
息を切らしながら詰め寄るアレクシスに、私は首を傾げた。
「もちろん、嫁ぐためですわ」
「嫁ぐ?」
「ええ」
私は静かに微笑む。
「隣国のヴァイスベルク侯爵家へ」
「………は?」
「カイル様の、婚約者として」
アレクシスの顔色が変わった。
「なっ……!」
「ですから、隣国へ参りますの」
「ふざけるな!」
怒鳴り声が響く。
「嫁ぐだと?! 俺と婚約しているだろう! まさか浮気していたのか?!」
どこまでも愚かな男だ。私は小さく息を吐いた。
「そもそも私たちの婚約は解消されましたわ、ローゼンハルト様。ですので、ファーストネームで呼ぶのはおやめください」
アレクシスは呆然と立ち尽くした。
「……は?……婚約解消?」
「ええ」
「どうしてだ?!」
私は思わず目を細める。
「それが分からないからですわ」
「何を言っている!」
「あなたは婚約が解消されたことも、次期当主から外されたこともご存知ないのでしょう?」
「……外された?」
本気で知らなかったらしい。私は苦笑した。
「正式な書類が、何度も届けられていたはずです。ローゼンハルト公爵からも何度もお話があったはずでしょう」
「それは……」
「一度もお聞きにならなかったのでしょうね」
アレクシスは言葉に詰まる。
「セレスティア様の元へ足繁く通っていらっしゃいましたもの。その献身的なお振る舞いは、社交界でも随分と噂になっておりましたわ」
「それはセレスティアが弱いから――」
「そんなに大切な方でしたら、そのまま支えて差し上げたらいかがです?」
私の言葉に、セレスティアが顔を上げた。
「リディア様……」
震える声だった。
「私は本当に体が弱いのです」
青白い顔でこちらを見る。
「もし私が原因でしたら、お詫びいたします」
私は彼女を見つめた。
「ええ、本当に身体が弱いのでしたら、それはお気の毒なことですわ」
セレスティアの表情が僅かに緩む。けれど私は、続けた。
「ですが、それがなんだと言うのでしょう」
「……え?」
静かに続ける。
「本当に身体が弱ければ、婚約者のいる男性を頻繁に呼び出してもよろしいのですか?」
「それは……」
「本当に身体が弱ければ、夜更けまで二人きりで過ごしても問題にならないと?」
セレスティアの唇が震える。
「誰もセレスティア様の病を責めているわけではありません。責められているのは、あなたの振る舞いです」
セレスティアは顔を青くし、よろめいた。
隣でアレクシスが口を開く。
「セレスティアは悪くない!セレスティアは、お前と違って身体が弱いんだ!」
「ええ。その通りですね。そして私は、強かった」
静かな声だった。
「だから選ばれたのです。少なくとも、ローゼンハルト公爵家の、婚約者には」
暗に、そんな簡単なことが分からないから公爵家が求める立場に選ばれなかったのでしょう、と告げると、アレクシスの顔色が変わる。赤くなったり青くなったり、忙しい人だ。
その時だった。馬車の扉が開く。
「そろそろ出発の時間だ」
低く落ち着いた声が響いた。現れたのは長身の青年。アレクシスが目を見開く。
「誰だ」
「私の婚約者ですわ」
アレクシスの顔が歪んだ。
「婚約者……?」
カイル様は私の隣へ立つ。その仕草は自然で、けれど私を庇うようだった。
「婚約者としての最初の役目は君を守ることだと思っていたんだが」
彼は苦笑する。
「どうやら一人で解決してしまったらしいね」
「申し訳ありません」
思わず笑ってしまう。
「本当に」
カイルは肩を竦めた。
「頼ってくれても良かったんだよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。アレクシスは信じられないものを見るように私たちを見ていた。けれど、もう振り返ることはない。
「行こうか」
カイルが自然に手を差し出す。その手を取る前に、私は後ろを振り返る。
「アテネ」
「はい、お嬢様」
少しだけ迷ったけれど、素直に口にする。
「付いてきてくれるかしら。あなたさえ良ければ」
ほんの一瞬だけ。
本当にほんの一瞬だけ、アテネが目を見開いた。
それから、静かに一礼する。
「お嬢様のお茶の好みを把握している者は、私の他におりませんので」
アテネは真顔で答えた。
「それは一大事だわ」
「ええ。ですので、同行させていただきます」
扉が閉まり、ゆっくりと車輪が動き出す。窓の外では、アレクシスが何か叫んでいた。けれど、その声はもう届かない。
ローゼンハルト家との婚約が解消された後。隣国との交渉を継続するため、交渉にあたって隣国の中心となって動いていたヴァイスベルク侯爵家との婚約が結ばれた。
政略結婚であることに変わりはない。
だから私は、今度こそ穏やかな関係を築ければそれで十分だと思っていた。けれど。
隣国へ向かう馬車の中で、不意に彼が呟いた。
「あの交渉の場で、初めて会った時から思っていた」
「何をでしょう」
「君は数字を語っている時が一番魅力的だ」
私は固まった。
「……はい?」
「交渉の席で利益予測を説明していただろう」
平然と続ける。
「あの時の君に惹かれた」
あまりにも真面目な顔で言われて、私は真っ赤になった。
容姿を褒められたことはある。ドレスを褒められたこともある。けれど、数字を突き付ける姿に惹かれたなどと言われたのは初めてだった。
「からかわないでください」
「からかっていない」
即答だった。
「君は自分が思っている以上に魅力的だよ」
すると向かいに座っていたアテネが静かに口を開く。
「ようやく理解者が現れましたね」
「アテネ!?」
「交渉のお話をなさる時のお嬢様は、いつもより三割ほど饒舌でいらっしゃいます」
「なっ……!」
「利益予測をなさっている時に至っては、五割増しで輝いておられます」
「いちいち数字で表現しないでちょうだい!」
「実に分かりやすい評価だと思うよ」
追い打ちをかけるように頷いたカイルに、私は思わず顔を覆った。
馬車の中にカイルの小さな笑い声が広がる。気付けば、先ほどまでの気恥ずかしさも少しだけ和らいでいた。
窓の外では、いつの間にか隣国の街並みが広がっている。あの日見送った夕焼けとは違う景色。けれど不思議と後悔はなかった。
五十回目。
あの日、彼が選んだもの。
そして私が手放したもの。
その全てがあったからこそ、今ここにいる。
馬車は新しい未来へ向かって進み続けていた。
誤字脱字報告について
ご指摘頂きありがとうございました!
大変助かりました。




