リップのRGBのRが濃すぎると婚約破棄されたので、王家の色彩儀礼から手を引きます
「お前、リップのRGBのRが濃すぎる。婚約破棄だ」
ザイード殿下は、夜会の真ん中でそう言った。
音楽が止まった。
踊っていた貴族たちも。
杯を持っていた夫人たちも。
こちらを見ている。
私は一度だけ瞬いた。
「はい」
「……はい?」
「承知しました」
私はオルティア。
ザイード殿下の婚約者だった。
つい先ほどまでは。
殿下の隣には、私の妹、ミュゼが立っている。
淡い桃色のリップ。
白いドレス。
困ったように伏せた目。
なるほど。
そういうことか。
「王族の隣に立つ女が、そんな下品な赤を使うな」
殿下は勝ち誇ったように言った。
「ミュゼのほうが清楚で、よほど王太子妃にふさわしい」
「そうでございますか」
「明日の隣国歓迎式にはミュゼを連れていく」
「はい」
「お前はもう来るな」
「分かりました」
私は礼をした。
「では、色彩儀礼の確認も、ミュゼにお任せいたします」
殿下が眉をひそめる。
「色彩儀礼?」
「はい」
「なんだ、それは」
「明日の歓迎式で使う、色の決まりです」
殿下は鼻で笑った。
「色くらい誰でも分かるだろう」
「そうですね」
私はうなずいた。
「では、私は手を引きます」
後ろに控えていた宮廷書記官が、小さく息を呑んだ。
でも、殿下は気づかない。
ミュゼも気づかない。
私が何をしてきたか。
誰も見ていなかったのだから。
◇
翌朝。
屋敷の応接室で紅茶を飲んでいると、玄関が騒がしくなった。
「オルティア! いるのだろう!」
ザイード殿下の声だった。
早い。
思ったより、ずっと早い。
執事が困った顔で私を見る。
「お嬢様、いかがいたしましょう」
「通してください」
殿下は青い顔で入ってきた。
髪は乱れている。
襟元も曲がっている。
いつもなら、私が直していたところだ。
「戻ってきてくれ!」
第一声がそれだった。
「嫌です」
「式典が始まるんだ!」
「そうですか」
「隣国の使節団が怒っている!」
「そうですか」
「ミュゼを見た瞬間、大使が固まった!」
「でしょうね」
殿下は机に両手をついた。
「どういうことだ!」
「昨日、申し上げました。色彩儀礼です」
「だから、それが何だ!」
「隣国では、赤の濃度で意味が変わります」
「赤の濃度?」
「はい」
私は淡々と答えた。
「歓迎、敬意、警告、拒絶、開戦準備。すべて赤で分けます」
殿下の顔が白くなっていく。
「そんなもの、聞いていない」
「私が毎回確認しておりましたので」
「……」
「昨日、殿下がおっしゃった私のリップの赤」
「あれか」
「あれは、隣国王家に対する最大限の歓迎色です」
殿下は喉を鳴らした。
「では、ミュゼの桃色は?」
「未亡人への弔意です」
「は?」
「生きている国王陛下の使節団に、弔意を示しました」
「まずいのか?」
「かなり」
殿下は椅子に崩れるように座った。
「なぜ言わなかった」
「昨日、言いました」
「もっと分かりやすく言え!」
「婚約破棄の直後でしたので」
「撤回する!」
「私は撤回しません」
私は紅茶を置いた。
殿下は焦った顔で私を見る。
「オルティア。頼む。お前しか分からないんだ」
「何がでしょう」
「その、あれだ。赤の……」
「RGBですか」
「そう、それだ! お前しかRGBが分からない!」
「言い方」
思わず素が出た。
殿下は気づかない。
「Rだけでいい! Rだけ教えてくれ!」
「昨日、私のRは濃すぎるとおっしゃいました」
「あれは言葉のあやだ!」
「下品な赤、とも」
「悪かった!」
「王族の隣に立つ女が使うな、とも」
「それも悪かった!」
殿下は頭を下げた。
夜会で私を笑った人が。
今は、赤の数値ひとつに縋っている。
滑稽だった。
けれど、笑えなかった。
私は、ずっとこういうものを整えてきた。
衣装の色。
宝石の意味。
花の組み合わせ。
席次。
挨拶文。
贈答品。
ひとつ間違えれば、相手国を侮辱する。
ひとつ整えれば、場は何事もなく進む。
何事もなく進むから、誰にも見えなかった。
そして、見えないものは、ないものにされる。
「殿下」
「なんだ」
「私のリップの赤が濃かった理由を、ご存じでしたか」
「……隣国への歓迎色だろう」
「いいえ」
殿下が顔を上げた。
「殿下の瞳の色と、隣国の国花の赤。その両方に合わせておりました」
「……」
「王太子であるあなたが、使節団から好印象を持たれるように」
応接室が静かになった。
殿下は何も言わなかった。
私は立ち上がる。
「ですが、もう必要ありませんね」
「オルティア」
「清楚で淡い桃色のミュゼと、どうぞ歓迎式へ」
「待て。頼む。今だけでいい」
「今だけ、ですか」
「ああ。今だけ助けてくれれば――」
「今だけ」
私は小さく笑った。
「殿下は、いつもそうでしたね」
「……」
「今だけ助けてくれ」
ミュゼが招待状の名前を間違えた時も。
「今回だけ黙っていてくれ」
殿下が隣国の大使夫人に、不適切な花を贈ろうとした時も。
「この場だけ整えてくれ」
夜会で席次を崩しかけた時も。
「明日からはちゃんとする」
全部、私が直した。
何事もなかったように。
「でも、もう終わりです」
「そんな……」
「私は昨日、婚約破棄されました」
「だから撤回すると――」
「私は、受けません」
殿下の唇が震えた。
「王家が困るんだぞ」
「でしょうね」
「国交問題になるかもしれない」
「そうでしょうね」
「それでも来ないのか」
「はい」
私は扉のほうを見た。
執事が静かにうなずく。
「お引き取りください」
「オルティア!」
「次に無断で来られたら、衛兵を呼びます」
殿下は信じられないという顔をした。
きっと、昨日までの私なら折れていた。
国のため。
王家のため。
殿下のため。
けれど、それを続けた結果。
私は夜会の真ん中で、リップの赤を笑われた。
もう十分だ。
「最後にひとつだけ」
私は言った。
「ミュゼの桃色は、今すぐ落としたほうがよろしいかと」
殿下の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
まだ、私が助けると思ったのだろう。
私は続けた。
「ただし、何色に塗り直すかは、私の知ったことではありません」
殿下の表情が凍った。
「オルティア……」
「さようなら、殿下」
執事が扉を開ける。
殿下は何か言いかけた。
けれど、言葉にならなかった。
やがて、ふらつくように応接室を出ていった。
◇
その日の夕方。
隣国歓迎式は、予定より3時間遅れて始まったらしい。
ミュゼはリップを落とした。
そして、何も塗らずに出席した。
そのせいで今度は、
「喪中でもないのに色を避けた」
と受け取られた。
大きな戦争にはならなかった。
ただ、王家の評判は真っ赤になった。
もちろん、悪い意味で。
◇
私は鏡の前に座った。
新しいリップを引く。
昨日より少しだけ赤い。
もう、王家のための赤ではない。
私のための赤だ。
「お嬢様、本日のお色もよくお似合いです」
侍女がそう言ってくれた。
私は少し笑った。
「Rが濃すぎないかしら」
「いいえ」
侍女も笑った。
「今のほうが、ずっと綺麗です」
私は鏡の中の自分を見る。
悪役令嬢と呼ばれた女。
下品な赤だと笑われた女。
けれど、その赤の意味を知っていた女。
ないと言われた価値は、たしかにあった。
見えなかっただけだ。
もう、誰かに見つけてもらう必要はない。
私は立ち上がる。
唇の赤が、夕日の光を受けて静かに輝いた。




