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リップのRGBのRが濃すぎると婚約破棄されたので、王家の色彩儀礼から手を引きます

掲載日:2026/04/29


「お前、リップのRGBのRが濃すぎる。婚約破棄だ」


 ザイード殿下は、夜会の真ん中でそう言った。


 音楽が止まった。


 踊っていた貴族たちも。

 杯を持っていた夫人たちも。

 こちらを見ている。


 私は一度だけ瞬いた。


「はい」


「……はい?」


「承知しました」


 私はオルティア。


 ザイード殿下の婚約者だった。

 つい先ほどまでは。


 殿下の隣には、私の妹、ミュゼが立っている。


 淡い桃色のリップ。

 白いドレス。

 困ったように伏せた目。


 なるほど。


 そういうことか。


「王族の隣に立つ女が、そんな下品な赤を使うな」


 殿下は勝ち誇ったように言った。


「ミュゼのほうが清楚で、よほど王太子妃にふさわしい」


「そうでございますか」


「明日の隣国歓迎式にはミュゼを連れていく」


「はい」


「お前はもう来るな」


「分かりました」


 私は礼をした。


「では、色彩儀礼の確認も、ミュゼにお任せいたします」


 殿下が眉をひそめる。


「色彩儀礼?」


「はい」


「なんだ、それは」


「明日の歓迎式で使う、色の決まりです」


 殿下は鼻で笑った。


「色くらい誰でも分かるだろう」


「そうですね」


 私はうなずいた。


「では、私は手を引きます」


 後ろに控えていた宮廷書記官が、小さく息を呑んだ。


 でも、殿下は気づかない。


 ミュゼも気づかない。


 私が何をしてきたか。


 誰も見ていなかったのだから。


     ◇


 翌朝。


 屋敷の応接室で紅茶を飲んでいると、玄関が騒がしくなった。


「オルティア! いるのだろう!」


 ザイード殿下の声だった。


 早い。


 思ったより、ずっと早い。


 執事が困った顔で私を見る。


「お嬢様、いかがいたしましょう」


「通してください」


 殿下は青い顔で入ってきた。


 髪は乱れている。

 襟元も曲がっている。


 いつもなら、私が直していたところだ。


「戻ってきてくれ!」


 第一声がそれだった。


「嫌です」


「式典が始まるんだ!」


「そうですか」


「隣国の使節団が怒っている!」


「そうですか」


「ミュゼを見た瞬間、大使が固まった!」


「でしょうね」


 殿下は机に両手をついた。


「どういうことだ!」


「昨日、申し上げました。色彩儀礼です」


「だから、それが何だ!」


「隣国では、赤の濃度で意味が変わります」


「赤の濃度?」


「はい」


 私は淡々と答えた。


「歓迎、敬意、警告、拒絶、開戦準備。すべて赤で分けます」


 殿下の顔が白くなっていく。


「そんなもの、聞いていない」


「私が毎回確認しておりましたので」


「……」


「昨日、殿下がおっしゃった私のリップの赤」


「あれか」


「あれは、隣国王家に対する最大限の歓迎色です」


 殿下は喉を鳴らした。


「では、ミュゼの桃色は?」


「未亡人への弔意です」


「は?」


「生きている国王陛下の使節団に、弔意を示しました」


「まずいのか?」


「かなり」


 殿下は椅子に崩れるように座った。


「なぜ言わなかった」


「昨日、言いました」


「もっと分かりやすく言え!」


「婚約破棄の直後でしたので」


「撤回する!」


「私は撤回しません」


 私は紅茶を置いた。


 殿下は焦った顔で私を見る。


「オルティア。頼む。お前しか分からないんだ」


「何がでしょう」


「その、あれだ。赤の……」


「RGBですか」


「そう、それだ! お前しかRGBが分からない!」


「言い方」


 思わず素が出た。


 殿下は気づかない。


「Rだけでいい! Rだけ教えてくれ!」


「昨日、私のRは濃すぎるとおっしゃいました」


「あれは言葉のあやだ!」


「下品な赤、とも」


「悪かった!」


「王族の隣に立つ女が使うな、とも」


「それも悪かった!」


 殿下は頭を下げた。


 夜会で私を笑った人が。

 今は、赤の数値ひとつに縋っている。


 滑稽だった。


 けれど、笑えなかった。


 私は、ずっとこういうものを整えてきた。


 衣装の色。

 宝石の意味。

 花の組み合わせ。

 席次。

 挨拶文。

 贈答品。


 ひとつ間違えれば、相手国を侮辱する。


 ひとつ整えれば、場は何事もなく進む。


 何事もなく進むから、誰にも見えなかった。


 そして、見えないものは、ないものにされる。


「殿下」


「なんだ」


「私のリップの赤が濃かった理由を、ご存じでしたか」


「……隣国への歓迎色だろう」


「いいえ」


 殿下が顔を上げた。


「殿下の瞳の色と、隣国の国花の赤。その両方に合わせておりました」


「……」


「王太子であるあなたが、使節団から好印象を持たれるように」


 応接室が静かになった。


 殿下は何も言わなかった。


 私は立ち上がる。


「ですが、もう必要ありませんね」


「オルティア」


「清楚で淡い桃色のミュゼと、どうぞ歓迎式へ」


「待て。頼む。今だけでいい」


「今だけ、ですか」


「ああ。今だけ助けてくれれば――」


「今だけ」


 私は小さく笑った。


「殿下は、いつもそうでしたね」


「……」


「今だけ助けてくれ」


 ミュゼが招待状の名前を間違えた時も。


「今回だけ黙っていてくれ」


 殿下が隣国の大使夫人に、不適切な花を贈ろうとした時も。


「この場だけ整えてくれ」


 夜会で席次を崩しかけた時も。


「明日からはちゃんとする」


 全部、私が直した。


 何事もなかったように。


「でも、もう終わりです」


「そんな……」


「私は昨日、婚約破棄されました」


「だから撤回すると――」


「私は、受けません」


 殿下の唇が震えた。


「王家が困るんだぞ」


「でしょうね」


「国交問題になるかもしれない」


「そうでしょうね」


「それでも来ないのか」


「はい」


 私は扉のほうを見た。


 執事が静かにうなずく。


「お引き取りください」


「オルティア!」


「次に無断で来られたら、衛兵を呼びます」


 殿下は信じられないという顔をした。


 きっと、昨日までの私なら折れていた。


 国のため。

 王家のため。

 殿下のため。


 けれど、それを続けた結果。


 私は夜会の真ん中で、リップの赤を笑われた。


 もう十分だ。


「最後にひとつだけ」


 私は言った。


「ミュゼの桃色は、今すぐ落としたほうがよろしいかと」


 殿下の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。


 まだ、私が助けると思ったのだろう。


 私は続けた。


「ただし、何色に塗り直すかは、私の知ったことではありません」


 殿下の表情が凍った。


「オルティア……」


「さようなら、殿下」


 執事が扉を開ける。


 殿下は何か言いかけた。


 けれど、言葉にならなかった。


 やがて、ふらつくように応接室を出ていった。


     ◇


 その日の夕方。


 隣国歓迎式は、予定より3時間遅れて始まったらしい。


 ミュゼはリップを落とした。


 そして、何も塗らずに出席した。


 そのせいで今度は、


「喪中でもないのに色を避けた」


 と受け取られた。


 大きな戦争にはならなかった。


 ただ、王家の評判は真っ赤になった。


 もちろん、悪い意味で。


     ◇


 私は鏡の前に座った。


 新しいリップを引く。


 昨日より少しだけ赤い。


 もう、王家のための赤ではない。


 私のための赤だ。


「お嬢様、本日のお色もよくお似合いです」


 侍女がそう言ってくれた。


 私は少し笑った。


「Rが濃すぎないかしら」


「いいえ」


 侍女も笑った。


「今のほうが、ずっと綺麗です」


 私は鏡の中の自分を見る。


 悪役令嬢と呼ばれた女。


 下品な赤だと笑われた女。


 けれど、その赤の意味を知っていた女。


 ないと言われた価値は、たしかにあった。


 見えなかっただけだ。


 もう、誰かに見つけてもらう必要はない。


 私は立ち上がる。


 唇の赤が、夕日の光を受けて静かに輝いた。

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― 新着の感想 ―
散々後回しにした結果が出ました。 「後でやる」と言う人は大抵やらないからな~♪
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