第3話:お嬢様と、画面の裏側の約束
2018年、3月。
「スマホ一台で、あなたも今日からバーチャル配信者!」
そんなキャッチコピーを掲げた配信アプリが次々と産声を上げ、機材の知識を持たない素人たちが、夢と野心を抱いて一斉にネットの海へ飛び込んだ狂騒の春です。
しかし、生配信という魔物は、初心者に容赦なく牙を剥きます。
これは、設定とプライドの間で溺れかけていた一人の「お嬢様」と、それを見過ごせなかった底辺配信者の、不器用で、最高にスジの通った出会いの物語です。
2018年、3月。
大学生にとっての春休みは、自由と堕落の象徴だ。しかし、親からの仕送りがない俺――ゼンの生活が、春になったからといって劇的に華やかになるわけではなかった。
相変わらず週に四日は深夜の物流倉庫で重い段ボールと格闘し、朝焼けの眩しい東京の空をすかし見ながら、始発の各駅停車に揺られて帰る。
時給は深夜割増で千二百円。その大半は家賃と、日々少しずつ買い足している配信用の機材代、そして十九円のモヤシ炒めに消えていく。
「あー……マジで腰痛ぇ。昨日運んだウォーターサーバーの塊、絶対あれ一人で持つ重量じゃなかったろ……」
六畳一間の木造アパートに帰り着いた俺は、着替えもせずに冷え切った布団に倒れ込んだ。
時刻は午前八時。普通なら泥のように眠る時間だが、肉体の疲労とは裏腹に、アドレナリンが出ているのか妙に頭は冴えていた。
俺は仰向けのまま、画面にヒビの入ったスマホを顔の上に掲げた。
開いたのは『ミラトーク』という、最近リリースされたばかりの新しい配信アプリだ。
ほんの数ヶ月前まで、Vチューバーになるには高スペックなPCと複雑なソフトの設定が必要だった。だが、「虹生」が巻き起こした2D生配信ブームを追いかけるように、今では「スマホのカメラで顔を認識し、あらかじめ用意されたアバターを動かせる」という手軽なアプリが次々と誕生していた。
ミラトークのトップ画面には、玉石混交――というより、ほぼ石ころのような素人配信者のサムネイルが無数に並んでいる。
「どれどれ、今日の新人発掘といくか」
俺自身のチャンネル登録者数は、あれから一ヶ月経っても「15人」という超底辺だ。相変わらず同接は『匿名希望』を含めた数人しかいない。
だが、他の奴らがどんな配信をしているのかを観察するのは嫌いじゃなかった。
しばらく画面をスワイプしていると、ふと一つのサムネイルで指が止まった。
デフォルトの安っぽいアバターではなく、明らかにプロのイラストレーターに依頼したであろう、クオリティの高いオリジナルモデル。豪奢なドレスに身を包み、見事な金髪の縦ロールを揺らす美しい令嬢の姿だった。
『没落貴族の令嬢、セリナの優雅なお茶会・初配信ですわ!』
「へぇ。設定濃いなぁ。没落貴族ねぇ……」
当時のV界隈において、「キャラクター設定(ロールプレイ=RP)」は絶対の掟だった。配信者はアニメのキャラクターとして振る舞い、中の人の現実を感じさせることはタブーとされていた。
どうせ中身は、承認欲求を持て余した普通の女の子だろう。
俺は軽い冷やかしのつもりで、そのサムネイルをタップし、配信部屋に入室した。
――しかし。
スマホのスピーカーから流れてきたのは、優雅なお茶会とは程遠い、地獄のような惨状だった。
『ご、ごきげんよ……ピ、ピピ……ワタクシは……ガガッ……セリ、ナで……ザザッ』
俺は思わず眉間を寄せた。
画面の中の美しい令嬢のアバターは、スマホの処理落ちか通信環境のせいか、首がカクカクと不自然な方向に折れ曲がっている。
何より酷いのは「音声」だった。
彼女が喋るたびに、まるで壊れたロボットのような激しいノイズと電子音が混ざり、何を言っているのか全く聞き取れない。完全な放送事故だ。
同接は、目を引くサムネイルのおかげか、初配信にもかかわらず五十人ほど集まっていた。
だが、そのチャット欄に温かい言葉は一つもなかった。
『声キモすぎw 耳障りなんだけど』
『お嬢様じゃなくてサイボーグだろww』
『設定守れよ、放送事故じゃん。萎えるわー』
『てか画面揺れすぎで酔う。初心者丸出し。やめちまえよ』
匿名という盾に隠れた、容赦のない石投げの連鎖。
生配信というエンタメにおいて「不快な音」は致命的だ。リスナーは少しでもストレスを感じれば、あっという間に暴言を吐き捨てて次の配信へと去っていく。
画面の中のセリナは、必死にスマホの設定を直そうとしているのか、アバターの目が激しく左右に揺れ、口元がパクパクと動いている。だが、直そうとすればするほど、スピーカーから流れてくるのは悲痛な電子音の乱高下だけだ。
『ち、ちがいま……ピガッ……これは、お屋敷の……ザザッ、電波が……』
泣きそうになりながらも、無理やり「没落貴族のお嬢様」というキャラクター設定(RP)を守ろうとしているのが、かえって痛々しかった。
「すいません、マイク壊れちゃいました!」と素の声で謝れれば楽になれるのだろうが、彼女のプライドがそれを許さないのだろう。
初心者に、生配信のプレッシャーと心無いコメントの嵐の中で、スマホの不具合を直すなど至難の業だ。このままだと、彼女の初配信は「サイボーグ令嬢の放送事故」という笑い話として終わってしまう。最悪の場合、心が折れて明日にはアカウントごと消えるだろう。
「……あー、クソ。こういうの、一番寝つき悪くなるんだよな」
俺はため息をつき、布団の上に身を起こした。
別に俺が助ける義理なんて何もない。見ず知らずの他人の放送事故だ。ブラウザを閉じればそれでおしまいだ。それに、今の俺には彼女を助ける影響力なんて微塵もない。
だが。
俺の脳裏には、自分が初めて配信のボタンを押した時の、あの心臓が口から飛び出そうになるほどの緊張感が焼き付いていた。
画面の向こうで、顔も見えないリスナーの嘲笑を浴びながら、一人でパニックに陥っている彼女。せっかく勇気を出して高いお金を払ってアバターを用意したのに、その最初の一歩を、こんな連中に踏みにじられるのは、あまりにも救いがない。
「……ここで見捨てるのは、俺の美学に反するわ」
俺は自分のチャンネルの配信用アカウントで『Mutter』を開いた。
検索欄に『セリナ』と打ち込み、彼女のアカウントを特定する。フォロワーはまだ十人足らず。
チャット欄で堂々と「設定直せよ」と指摘するのは簡単だ。だが、それでは彼女が公衆の面前で「素人に教えを乞うた」という恥をかかせることになる。彼女の『お嬢様』という設定を守りつつ、事態を解決しなければ意味がない。
「よし。お嬢様、失礼するぜ」
俺は、彼女のアカウント宛てに、直接ダイレクトメッセージ(DM)を送信した。
> ゼン:
> 突然すまん。今、ミラトークの初配信見てる。
> 声がロボットになってるのは、スマホのバックグラウンドで動いてる他のアプリが干渉してるか、マイクのサンプリングレートの設定ミスだ。
> そのままだと埒が明かない。恥かきたくないなら、一旦『機材トラブルですわ!』って言って配信を切って、スマホを再起動しろ。その後、設定画面のここを弄れ。やり方は画像で送る。
俺は、以前自分がミラトークを触った時にキャプチャしておいた操作手順のスクリーンショットを数枚添付して、迷わず送信ボタンを押した。
数秒後。
配信画面の中のセリナが、ピタリと一瞬、動きを止めた。スマホの通知に気づき、DMを確認したようだ。
彼女は、ほんの数秒だけ沈黙した。
そして、次の瞬間。彼女は震える声で(まだ激しいロボット音だが)、精一杯の虚勢を張り、見事な演技を放った。
『……お、おーほっほっほ! 皆様、大変失礼いたしましたわ! どうやらお屋敷の古びた魔力通信機が、少々……反抗期を迎えましたようですの! 一旦、通信を切って、メイドに修理させますわ!』
ブツッ、と。
見事な言い訳と共に、配信が強制終了された。
残された待機所のチャット欄には、『逃げたw』『魔力通信機ワロタ』という面白半分のコメントが少しだけ流れたが、俺は小さくガッツポーズをした。
「……へぇ。やるじゃん、お嬢様」
パニック状態の中で、俺の送ったDMの意図を瞬時に理解し、見事に「設定」を守り抜いたのだ。ただの素人じゃない。あの土壇場での度胸は、配信者としての才能だ。
十分後。
Mutterに『お茶会、再開いたしますわ!』という通知が飛んだ。
俺が再び配信部屋に入ると、そこには、先ほどのロボット音が嘘のように、透き通った、少し緊張した女性の声が流れていた。
『皆様、お待たせいたしましたわ。……ええ、メイドの修理が完了しましたの。これで、ワタクシの美しい声が届いておりますわよね?』
チャット欄が、手のひらを返したように一気に盛り上がる。
『お、直った!』
『めっちゃいい声じゃん!』
『お嬢様、ポンコツで可愛い』
『魔力通信機の修理おつ!』
さっきまで暴言を吐いていた連中が、何事もなかったかのように「可愛い」と褒めそやしている。ネットのリスナーなんて、本当に現金な生き物だ。
だが、画面の中のセリナのアバターは、今度はカクつくこともなく、本当に嬉しそうに、そして安堵したようにふわりと微笑んでいた。
俺はそれを見届けて、満足げに鼻を鳴らした。
「よし。ミッションコンプリート、と」
俺がそっと配信を抜け、画面を閉じようとした時だった。
Mutterに、一通のDMが届いた。
> セリナ:
> 先程は、本当に、本当にありがとうございました。
> パニックになっていたワタクシを、あのようにお気遣いいただいた形で救ってくださるなんて……。
> ゼン様。ワタクシ……いえ、私は、この御恩を生涯忘れません。
> いつか必ず、この貸しはお返しいたしますわ。
俺は、天井を見上げて呆れたように笑った。
「貸し、ね。……ったく、お嬢様設定なら、そこは『助けて当然ですわ!』って踏ん反り返ってりゃいいのによ。裏ではバカみたいに義理堅いねぇ、あんたも」
俺は、スマホのキーボードを適当にフリックした。
> ゼン:
> 気にすんな。俺が勝手にお節介焼いただけだ。
> そんなことより、待ってる客がいんだろ? とっとと極上のお茶会とやらで、そいつら楽しませてこい。
> 次、お嬢様が俺のところに来る時は、段ボールじゃなくてシルクの座布団用意して待っとくわ。
送信ボタンを押し、スマホをベッドの脇に放り投げる。
徹夜明けの身体は限界だったが、不思議と気分は悪くなかった。
2018年の春。
数字を持たない底辺同士の、誰にも知られることのない、画面の裏側の小さなやり取り。
後に界隈を牽引する「伝説の兄貴分」と、トップをひた走る「ポンコツ令嬢」と呼ばれることになる二人の、これが最高に不器用で、最高にスジの通った出会いだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
2018年春のスマホ配信アプリの乱立と、初心者ならではの「放送事故」。
当時のV界隈で「RP」がいかに重要視されていたか、そしてそれを裏から守ってあげるゼンの男前なスジの通し方を描きました。
表では「没落貴族のお嬢様」を演じながら、裏のDMでは素直に感謝してしまうセリナ。この2人の「戦友」としての関係は、ここから8年間にわたって続いていきます。
次回、第4話は『Vランクの残酷と、俺のマナー』。
界隈に蔓延し始めた「数字至上主義」と「相互登録の罠」。誰もが登録者数を気にして狂騒する中、ゼンが語る「配信者としてのマナー」とは?
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少しでも「ゼンの助け方、スマートでカッコいい!」「ポンコツお嬢様との関係、これから楽しみ!」と思っていただけましたら、
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