日常
「・・嶺桜・・・帰ってたの。」
聞こえてきたのはお母さんの声だ。私は俯いたまま「うん。」と頷く。面倒なことになるのはわかっていたので、一刻も早くこの場を去りたくて腰を上げる。でも、お母さんは廊下を塞ぐように立ちはだかっていてどうやら逃げられそうになかった。
「ずいぶん遅かったわね。・・・・全く、こんなところを近所の人に見られたらどうするの。あそこは不良だ、って噂されたらたまったもんじゃないわよ。お父さんにでも知られたらどうするの。」
苛立ちを隠さない声が私の心に突き刺さる。俯いて新聞紙を握りしめながら振り絞るように「ごめんなさい。」と呟く。俯いた先の無意味に伸ばした長い髪の毛が邪魔だ。爪先で床を叩く音でお母さんの苛立ちを嫌というほど伝えてくる。どうにか逃げられる方法はないか、と思考を巡らせていたとき、
「何してんのよ!マットが濡れてるじゃないのっ!」
と耳をつんざくような声が聞こえてきた。慌ててマットに目を通すと、ずぶ濡れになった私が座ったことで玄関フロアのマットが水浸しになってしまっていたようだ。
「・・・・・ご、ごめんなさい。」
顔を上げられないまま、震える声で謝った。怒り狂っているであろうお母さんの顔を直視できる勇気はない。とにかく洗面所から雑巾を取ってこうと思って廊下に足を出した瞬間、お母さんが「ああっ!」とこの世の終わりのような悲鳴をあげた。びくりと全身が震えて足が止まる。
次の瞬間、ものすごい勢いで迫ってくる手のひらを視界の端で捉えた。考えるより先に体が動いて、両手で頭を抱えて肩をすくめる。バシッと空気が破裂するような音と同時に、庇いきれなかった左耳に衝撃と熱が走る。
「そんなことしたら廊下も濡れちゃうじゃないのっ!馬鹿なんじゃないの!」
私は廊下もまとめて拭けば良いと思ったのだけれど、それを言ったら火に油を注ぐようなものだとわかっているので、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と反射的に謝った。「雑巾を持ってくるから大人しくしてて!」はい、と小さく答えて真っ暗な玄関に立ちすくんでお母さんを待つ。
しばらくしてからお母さんがぶつぶつ文句を言いながら洗面所からでてきた。バスタオルを受け取りながらほとんど囁き声で「ありがとう」と言ったけれど、彼女の耳には届かなかったようだ。
「まったくもう、、、何をしてんだか知らないけど、わざわざこんな雨の日に外に出てびしょびしょになって、、、、 」
「・・ごめんなさい。」
「どうしていつも私の仕事を増やすのよ!・・・・嫌がらせのつもり!」
「ごめんなさい、、、ごめんなさい。」
情景反射のように繰り返し謝っていると、玄関の方から何かが倒れる音がした。
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