第37話
「……世界の敵は既に失われしもの、だが今は西にその影、残滓があり。名を伏せし民よ、今はただ力を溜めよ、求めよ」
婆様の、厳かな低い声が天幕に響く。
世界から失われしものの影……?
何かひっかかるものが、あるような、ないような。ってあ、さっきの相談役の話の?
【……なるほど。祖霊さんたちが力を取り戻した結果、最古参、はじめのひとりが起きてきたと。
今のお告げはそのひとりからだそうです。それだけは教えてもらえました】
《あら、よく観たらそこにいるのってセルファじゃん、久しぶりー!よく生き延びてたわね?》
突然、脳裏に知らない女性の声が響く。おいなんだこれ、セルファって……ああ、ファズのこと?知り合い???
いったいどこから聞こえてくるんだ、この声。
【……は???この声……まさか……シャキヤール……?】
全力で混乱しています、という雰囲気を垂れ流し状態のファズ。落ち着け、取り合えず答えは要らないから落ち着くんだ。俺まで引っ張られる。
《ご名答!みんなの可愛いシャキヤールちゃんですよ!体無くなっちゃったけどね!ああもう、今後はヤニもサケも無し生活だなんて!》
しかし、随分とはっちゃけた人?だなあ……んで、俺のことは意識もしてなさげだな?
【ああ、ケスレルくんすみません。今頃になって知り合いが新たに現れるなんて思ってもみなかったものですから動揺しました。
……あのですね、シャキヤ?今のあなたが生身の人にご迷惑をかけたりしたら】
《しないしない!そもそも通常の生物に物理干渉するのは今の存在状態では無理だし、そもそも長年力不足で眠ってて、さっき起きたばかりで本調子じゃないのよ。
あとでどのくらい君との通信が繋がるかだけ確認させてね!もっかい寝るわ!おやすみ!》
シャキヤールさんはその声を最後に気配自体が消えた。本人の宣言通り寝たんだろう。
ううん、頭がなんかくわんくわんしてる。
【ああ、大丈夫ですか、今ちょっと調整してみます。
……まったく、こちらの状況を確認もせず、言いたいことだけ言って後は丸投げ……あの人何ひとつ変わってないですね……】
ぼやきながらファズが何かしたようで、程なく平常の状態が戻ってくる。
「おにいちゃん、どうかしたの?だいじょうぶ?」
気付くと、座っている俺の膝に手を置いて、妹が下から俺の顔を覗き込んでいた。あれ、いつの間に。
だめだ、これ下手な返事ができない奴だ。ああいや、今はもう落ち着いたし、大丈夫、ってことにしよう。
「ん-、もう大丈夫。大した事じゃないから」
うん、言葉も平常通りに出る。妹の眼に一瞬だけ碧い光。あ、また。
「そういうことにしとくの。わかったの」
そう言うと、妹はまた婆様の横に戻った。なんていうか、見逃されてる感が酷いが、まあ、良しとしよう。
「……長老よ、世界の敵とは、いったいどういうことで御座いますか」
俺の様子を見定めていたらしい相談役が、軽くうなずいてから、話を元に戻す。
「現状では儂には判らぬ。西といえば件のエルロムスがまず思い浮かぶ場所ではあるが……
そこより遥かな西、西方大山脈を越え、山麓の大砂漠を越えた先にも人の住む地はあると申すことであるしのう」
何時もの声音に戻った婆様は首を振る。
「あの旅の男の話ですか。話に聞くその男は、我らとほぼ同じ言葉を話しておったという話ゆえ、正直眉唾だと思っておりました。
それほどに遠い地でも言葉が同じなどあるのだろうかと、ね。
ただ、この東方に至った結果、いささか考えが変わり申した。こちらの民も、ほぼ我らと同じ言葉を話すのです」
あれ、なんだ、噂の西方人も、言葉は同じだったのか。そんな広い地域で、というかひょっとして、地図上の人の住む地域すべて同じ言葉?
【……前時代はそうでしたね。極東と最北のごく一部を除いて、世界の大多数の民はだいたい共通の言語で意思疎通できていました。
それなのにドンパチやらかして滅びたのですから、言葉とはかほどに無力なものなのかと思ったものです。
現代で話されている言葉は、そういわれてみれば当時の共通語と同系の言語ですね、音韻がそれなりに変化していることもあって、特に意識していませんでしたが】
「相談役は知らない言葉とか見たことが……ああ、遺跡の書物か……」
訊ねかけて、自分で答えを思い出す。そういや遺跡から出た本は、読めない言語のものがたくさんあると言っていたっけ。
【多分博物館の所蔵物だったものでしょうね。前時代の、更に古い時代の、滅亡寸前の頃にでも解読できなかった言語や、話し手が完全に失われてしまった言語の資料を、破損しないように強化処理したうえで収蔵した場所がいくつもあったんですよ。言語資料以外にも、美術品ですとかね】
えっと、前時代からみても古代の言語?昔過ぎて想像がつかないや。
「そう、それさ。坊はよく覚えているな。その話をしたのは随分前だった気がしているが。
まあ今はそれは置いておくとしてだ。
思うに、その西から来た男は『まぼろしのひつじ』を求めて果たせなんだという話。
しかるに、坊はこの東の地で『まぼろしのひつじ』にまみえた。違うかね?」
言葉を切って、相談役がこちらを見たので、無言で頷く。多分、『まぼろしのひつじ』は、アレのことでいいはずだ。
まあファズにきいたら、あれは羊ではなく『龍』というものですよ、と言われたわけだが。なんだそれ。
【今の世の人が知らなくても仕方ないですね。東方の民ですら、あの龍を間近に見たものなどいないでしょうし。
前時代のそのまた前の時代には、いろいろな龍の伝承があったのですが】
そういえば、『まぼろしのひつじ』なんて言い始めたのは誰なんだろう。その男なんだろうか。
俺もひつじって言葉に引っ張られて、あれを羊のようだ、と感じていたけど、今思い出すと、羊っぽいのはくるくる巻いた角と、ふわふわの毛だけな気がする……。首は長いし、翼もあったし。美しかったのは間違いないんだけど。
相談役は話を続ける。婆様も黙って聞いている。
「実は、その男の話で、一人だけ、その最期に立ち会ったというものに会ったことがあってね。
そいつは、死の間際、ずっと譫言を言っていたのだそうだ。
――『まぼろしのひつじ』を求めよ、さもなくば、世界は失われん――
世界とは大げさな、と思ったと言っておったから、今思えば、そいつはちゃんとその譫言を覚えていたんだろう。
正直、私もすっかりそのくだりは忘れていた。なにせ譫言の話だし、実際には、何か別の言葉を聞き違えたんだろうと思っていたのでね。
まさか、本当に世界が関わる話になるなどとは、当時は思い浮かびすらしなかったのだよ」
まあそうだよね。俺だって世界とかいきなり言われても困るもん。集落の人はだいたいそうじゃなかろうか。
「そうさのう、儂ですら、世界の敵やら行く末やらを語らう日が来るなどとは思いもせなんだわ」
婆様はそう言うとほほ、と随分と余裕そうに笑う。
「だが、そうすると、世界の敵、とやらが告げられるより随分と前に世界の危機が伝えられたということになるな。この話の男が死んだのは、十数年前だから……ちょうど坊が生まれた頃の話であったような」
相談役が指折り数えつつ言う。最期に立ち会った人の話を聞いたのは、その男が死んでから、だいぶ経った頃の事らしい。
それで余計に眉唾に思っていて、そのまま忘れていたんだそうだ。
「ん-。せかいってどのくらいのせかいなのかな」
突然妹がそんな事を言い出した。なんだその、どのくらいって。
「ほう、そうか。確かに知識によって世界の広さは随分と変わるものだからなあ……今こうやって話している我々としては、大西方からこの東方、あと北方あたりを想起している、とは思うんだが」
あーはいすいません、俺の頭の中には現在の世界地図去年版が展開中ですね……ってなんで去年版?
【流石に全世界版は毎年は作っていないので、これが最新版なんですよ。中西域版は変動が激しいので比較的更新が多いのですが。
相談役氏の挙げた地域に加えて、南部沼沢地の南にも人類は住んでいますね。それ以外は現状では探査の手が及ばないため、判っていません】
そうなんだ。あの毒沼の先、人いるんだ。えっと……ほんとだ、毒沼表示の南東側、結構広い範囲に土地がある。その先は海だ。
俺の故郷は、氾濫する前の毒沼から南西に下ったあたり。思いのほか遠いな?
ああそうか、故郷から出て、クタラに着くまでは、親父の患者さんの伝手で借りた馬で移動だったから、あまり遠かった気がしてないんだな。
今よりずっと小さい子供の頃だったから、そこまで明快に覚えていないせいもあるだろうけど。
【物理的にあの沼を越える手段が基本ないので、陸からの接触はほぼ不可能です。実はこちら側の、極東に近い区域から海路で交易がありますね。氾濫前の区域はこう】
ファズが地図を弄って、古い境界線を示してくれる。わあ、村三つだめになったって聞いてたけど、実際に呑まれた村、五つもあったのか。
【二つは、全員助からなかったらしいですね。避難する間もなく沼に沈んだようです】
なるほど、誰も知らないまま滅びたのか。怖いな。
「えーと、今相談役の言ってた以外に、毒沼の向こう、ずっと南のほうにも人がいるって。東の人たちが海路で交易してるらしいよ」
この情報は出してもいいと言われたので、一応伝えておく。情報源?ハルムかフェイさんに聞いたと思うんじゃない?
「ほう、海路?毒沼は越える手段がないと聞いてはいたが、海とは……見たことがないなあ、書物で知ってはいるが……」
相談役が何やら悔しそうに言う。
「俺も聞いただけだからね?……ただ、そうだ、俺も旅をする前は、世界とか言われてもそもそも良く判らなかったと思う」
なんたって、俺は妹のためだけに東の森を越えたんだからな。あの時の俺なら、世界とか知らん。って断言してたと思う。
「それで、って訳ではないんだけど、その男の世界、ってのを知ることがもうできない以上、その話はいったん置いておいていいと思うんだ、結論は出ないだろうから。
で、個人的には、やっぱり西のどのへんかってとこが気になるかなって」
どの部分を取っても抽象的すぎるから、具体的な話に詰められる気がしないけど。
そもそもなんでこんな回りくどい表現でお告げをするんだろうな?
【集落の人向けでしょうね。具体的に語りすぎないほうがよい時もありますから。長老どのは具体的な内容まで案外聞いているのではないですか?】
それが、『まぼろしのひつじ』の時は、全然判らないって言ってたんだよね。
ああでも、祖霊様が力を付けて、できることが増えたと言っていたっけ。
以前は無理だったけど、今は具体的な情報を持ってるとかはありそう。
俺が旅に出た頃以前は、そうしょっちゅうお告げを受けていたわけでもなかったようだし。
「私は失われしモノが何か、が少し気になるな」
相談役はそっちを気にするのか。
「それらも良いが、そなたら、後半までちゃんと聞いておったか?力を溜めよ、求めよと」
婆様が呆れたように言う。流石に益体もない事をごちゃごちゃ考え過ぎたろうか。
「いや、そこは長老様から何かしらご指示があるものと」
「えっいやそこは婆様から何か指示があるもんだと」
ほぼ同時に同じことを言う、他人同士でもなるんだな……こないだ笑ってしまってごめん、相談役。
また変なのが増えた……




