政略結婚
(……これが、雪?)
窓の外に降り始めた真っ白な結晶を捉えて、フローラから感嘆のため息が漏れた。
たった一人で馬車に揺られる旅路も、もうすぐ終わる。
一度も訪れた事のない隣国。その国境付近に差し掛かった所で、外の景色が変わった。
知識としてしか知らなかった雪という存在に感動すると共に、もう後戻りできないという恐怖がそれ以上に押し寄せてくる。
扉の隙間からひんやりとした空気が入ってきて、その冷たさが更なる不安を煽った。
けれど、感動を分かち合う友人も、恐怖を慰め合う仲間も、揺れ動く感情をただ見守ってくれる侍従も、誰一人としてここには居ない。
馬車の速度がゆっくりと減速し、馬の小さな嘶きと共に、やがて完全に停止した。
どうやら、国境に到着したらしい。
「お待ちしておりました」
知らない男性の声に、一瞬ビクリと身体を震わせる。
だが今更、逃げ出す事など出来ない。
大きく深呼吸して心を落ち着かせ、フローラは覚悟を決めて立ち上がった。
今まさに境を超えようとしているこの国の、第三王女であるフローラは、数日前たった一人で王城を出た。
蛮族の国と呼ばれている隣国の王の元へ、人質として嫁ぐ為に。
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数日前の、昼下がり。
「喜びなさい。何一つ取り柄のないお前が、ようやく国の役に立てる時が来ましたよ」
王宮のどこにも居場所のないフローラが、唯一落ち着ける場所である裏庭。
派手な装飾の施された城内や、大輪の花々ばかりが咲き誇る庭園とは違って、フローラは控えめな花々がひっそりと咲くこの場所が、大好きだった。
王女という立場でありながら、日がな一日花の世話をしているフローラを見咎めては、「じめじめした所が、お前にはお似合いね」と馬鹿にしていた血の繋がらない母が、普段は近寄りもしないこの場所に突如現れ、嬉々としてそう声を上げた瞬間。
フローラは「とうとう追い出されるのだ」と覚悟するのと同時に、ようやく解放されるのだと、どこかほっとしてもいた。
フローラの暮らすこの国は、遙か昔一人の偉大なる魔法使いによって立国されたと伝えられており、複数の国が点在する世界の中でも、特に歴史の長い国だ。
魔法国家として、類を見ない財を築いてきた自負もある。
だがその分、富と財だけで長く続いた王家は腐敗が進んでおり、他国と自国とは歩んできた歴史が違うというプライドもこびりついていて、閉鎖的な国でもあった。
遙か昔は取るに足らなかった小さな国々が、少しずつ力を付けていることに気付けなかったのは、慢心による所が大きい。
新興国が次々と力を伸ばして来ている昨今、魔法の力だけに頼り切って他国に高圧的な態度を取り、発展を蔑ろにして来たこの国は、じわじわと後退の一途を辿っている。
その事実に、一体どれくらいの国民が気付いているだろうか。
この国では、今でも魔法だけが正義であり、魔法が不得意であったり使えなかったりする者に対する人権が、著しく低い。
それが国を導く王家の者ともなれば、尚更だ。
そしてフローラには、多少の魔法は使えるものの、王家の人間として期待される程の力は、備わっていなかった。
それは、フローラの実の母親に由来する。
王宮の厨房に出入りしていた、野菜売りの娘。それがフローラの母だった。
この国の王が、まだ継母である王妃と結婚して間もない頃。
何を思ったか当時の王は、「真実の愛を見つけた」等と言って、魔法も禄に使えないただの町娘である母を、後宮に上げたのだ。
「何故このタイミングで」と、誰もが思った事だろう。
王と母、身分差の大きすぎる二人の間には、確かに愛はあったのかもしれない。
実際、王は後宮に入ったばかりの王妃には目もくれず、世界が違いすぎて戸惑い心細く暮らしている母の元へ、足繁く通い続けたという。
そして母は、まもなくフローラを腹に宿す。
だが、一度も貴族社会に身を置いたことなどない、ただの野菜売りの娘が生きて行くには、後宮というその環境は、あまりにも厳しすぎた。
フローラを生んで数年後、心労が祟って母は静かに息を引き取ったのだ。
今でこそフローラは第三王女とされているが、本来の生まれ順でいうと第一王女である。
母の死後、王が母の面影を求めて娶った側妃との間に二人の姫が生まれ、出自の高貴さという観点から、その順位が繰り下げられたに過ぎない。
フローラの母の死後、王妃との間には継承権を持つ王子が生まれた。
だが、まるでそれで義務は果たしたと言わんばかりに、二人の関係は冷え切っていると噂されていて、王妃の子はその第一王子一人きりだ。
そして、まるでその証拠であるかの様に、王女達だけでなく続く第二王子も第三王子も、母に似た容姿であるという理由から後宮に上がった、幾人かの側妃から産まれている。
王妃として嫁いできたばかりの時期に、王は町娘に夢中になっていたあげく、母の死後も似た娘ばかりを側妃に迎える王。
王妃という立場だけを与えられた継母の心情は、如何ばかりか。
継母にとって唯一の幸運は、王の寵愛がフローラには向かなかった事だろう。
まるで憂さ晴らしをする様に、ずっと厳しく当たられてきたフローラでさえ、継母の気持ちを推し量るのは容易い。
フローラにとって更に不幸だったのは、魔法の力に関して、王族である父ではなく、平民である母の血を色濃く継いでしまった事だ。
もし、強大な魔法を使える力が備わっていれば、母が亡き後も王家の人間として、受け入れて貰えたかもしれない。
母の面影を宿すフローラならば、王にも目をかけられ、穏やかに生きて行けた可能性もあった。
けれどフローラに与えられた力は、力強い炎を操る力でも、人々を癒やす聖なる力でもなく、植物を元気にするという地味なものだった。
野菜を育て売っていた母の様な生き方だったなら、きっと重宝しただろう。
だが、植物を育てる必要のない王宮の中で、ましてや王族として生まれたフローラにとっては、全く必要とされていない能力で有り、役立たずと罵られるに充分な理由となった。
高貴な血を引き、高い能力を持つ王子や王女が生まれる度に、ますますフローラの居場所はなくなっていく。
元々、母娘共にこの後宮では嫌厭されていた。
侍女も碌についておらず、まるで存在しない人間であるかの様に扱われ、放置されている。
ただ後宮内を歩いていただけで、継母に見つかれば躾と称した鞭が飛んできたし、王子や王女達からはあざ笑われ、何をしても抵抗できないフローラは都合の良い苛めの標的だった。
虐げられ続ける生活に、耐えきれず逃げ出そうにも、城内にも城外にもフローラを助けてくれる人は誰一人居ない。
ただ縮こまって全てを諦め、悪意を黙って受け止め続けるしか、幼かったフローラが生きていく術はなかった。
そうして身も心も凍らせて生きていたある日、その話が舞い降りてきたのだ。
「……縁談? 私に、ですか?」
「そうです。お相手は、隣国イザイアのハロルド王。学のないお前でも、噂くらいは聞いたことがあるでしょう」
「イザイア国……」
その言葉通り、最低限の教育しか受けさせて貰えていないフローラでも、隣国の噂は知っていた。
曰く、乱暴で毛むくじゃらな、獣のような王が治める蛮族の国。
凶暴で野蛮な国民性で、枯れ果てた地を這いながら、人が人を食らって生きる弱肉強食の国。
女性を物の様に扱い、力なき者は奴隷のような生活を強いられるという。
声のトーンが落ちたフローラを満足そうに眺めて、継母はまるで良い事をしているのだと言わんばかりに、声を張り上げる。
「我が国の姫を妻にと、ハロルド王のたっての希望です。格下の国ではありますが、最近力を付けてきているという噂もありますし、手を結んでおくに越したことはありません。進めてよろしいですね?」
継母は格下だと嘲っているが、昨今のイザイア国の勢いは留まるところを知らず、今のままではいずれこの国にも、攻め入ってくるのではないかという話もちらほらと聞く。
恐らくそれは、ただの噂ではないのだろう。
疑問形の問いかけではあったものの、フローラには肯定の選択肢しか用意されていない。
継母からは、フローラは強国への人質にはもってこいであり、かつ厄介払いが出来て好都合だという歓喜の表情が読み取れる。
「はい」
頷くしかなかったフローラを前に、継母はまるで積年の恨みが晴れたかの様に、艶やかに笑ったのだった。
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