レポート2
「ちょっと!何で俺だったんですか?」
株式会社リターの第二開発部門の一室で、谷津辺タイナは上司の佐渡江須磨子に激しい勢いで返答を求めていた。佐渡江は自分の席で湯呑に淹れた熱いお茶を飲んでいる。谷津辺は佐渡江の机に手をついてさらに詰め寄ると、佐渡江は湯呑を谷津辺の手の上で少し傾けた。溢れたお茶が谷津辺の手にかかる。
「あつっあつっあつっ!熱いじゃないですか!」
谷津辺は反射的に机から手を引いた。そして、お茶を掛けられて軽い火傷を負わされた手の患部に自分の息を吹きかけている。
「あら、ごめんなさい。でも、お茶を飲む邪魔をしたあなたが悪いのよ」
佐渡江は悪びれた様子もなく谷津辺に謝罪の言葉を掛けると、再びお茶を口に運んだ。谷津辺は恨めしい顔で佐渡江を睨み付けている。
「絶対、罪悪感を感じていないよ、あの人!」
「こらこら。自分の上司をあの人呼ばわりするのはやめなさい」
谷津辺と佐渡江の間に萌炉りえちが割り込み、萌炉は佐渡江が机にこぼしたお茶を布巾で拭き始めた。身長が低いので相対的に腕も短いため、全身を伸ばしてどうにか拭き終えることが出来た。
「萌炉先輩、次は俺の火傷のところに優しく息を吹きかけて癒してください」
「黙れ変態。セクハラで訴えるぞ!」
火傷の患部を指差す谷津辺に萌炉は敵意に満ちた視線を送り言い捨てた。
「それなら、俺は佐渡江部長をパワハラで訴えますよ!」
「その火傷は仕事中の事故よ。だから労災の申請なら通してあげるわ。でも、それ以外の事は全てもみ消すわよ。それでも消えないなら、最後に谷津辺君自身を消してあげるわね」
谷津辺は佐渡江を睨み付けたけれども、佐渡江はそれを意に介さずにパソコンの画面を眺めている。
「そんな。酷い!佐渡江課長はご存知ですか?最近の俺は身体の調子がおかしいんです。頭が縛られるように痛くて、次第に眩暈や耳鳴りもして夜も眠れません。もしかしたら一生治らない病気かもしれません。そう思うととても不安で憂うつで、だから俺には優しくして下さい!」
谷津辺は眼に涙を溜めながら陳情すると、それを聞いていた佐渡江はパソコンのマウスを操作してキーボードで文字の入力を始めた。その後、再びマウスを操作してパソコンの画面を見ながら話し始めた。
「あら。それ、検索結果ではストレスによる身体的症状と一致するわね。だから私に言わないで病院で医者に言いなさい。ちなみに労災は下りないわよ。うちは言いたいことは溜めずに言うことが出来るとても風通しの良い職場環境だからストレスとは無縁だもの」
「それは佐渡江課長だけですよね?!」
谷津辺は佐渡江を睨み続けながら尋ねた。
「そうね。主に私と萌炉君よね。でも、私たち2人でここの8割の仕事をこなしているのだから、残りの2割が何を言おうと数の正義の前では無力よね」
佐渡江は谷津辺の方を向いて微笑んだ。
「くそぉぉ!何をどうしても勝てない!」
「ここでは谷津辺君が底辺なのよ。入社して3年も経つのにまだ先輩への態度が出来ていないわね。これは再教育が必要かしら?」
佐渡江は悔しがる谷津辺を見てうれしそうに頬を緩めた。底辺という言葉に反応して谷津辺は悔しがるのをやめると、冷静な表情で佐渡江を見た。
「ここでは俺が一番下ですか?いいや、それは違いますよ。なぜならば、背の順で言うと出内係長が一番上で次が俺、その次が佐渡江課長で、一番下はお前だ!萌炉りえち!」
谷津辺は佐渡江に説明をしているように見せかけて、萌炉の名前を言うと同時に萌炉を指差した。
「あーっ!!それを言いやがったな!私が一番気にしていることを!お前は開けてはいけないパンドラの箱を今開けたんだぞ!覚えていろよ!」
萌炉は背の順と聞こえた時点で谷津辺の言動に警戒していた。そして、予想通りの内容だと分かると間髪を入れずに言い返した。
「何だ?ずいぶんと楽しそうだな。何の話をしていたんだ?」
開けられたままの入り口から一番背の高い出内係長が第二開発部門の部屋に入ると、そのドアを閉めた。
「一番上は出内係長で、一番下が萌炉先輩という話をしていました」
谷津辺は出内に話の内容を端的に説明した。そして、一番下が萌炉だと言う時に谷津辺は萌炉の顔を見ると、小ばかにする目でほくそ笑んだ。
「佐渡江課長!谷津辺にいじめられたー!」
萌炉は佐渡江に助けを求めて少女のように駆け寄ると、佐渡江は萌炉を抱きしめてその頭を優しく撫でた。
「あら可哀想に、でも大丈夫よ。後で思う存分にこらしめてあげましょう。りえちちゃんも一緒にね。大丈夫。谷津辺君は私に逆らえないから」
「うん。ありがとうございます」
佐渡江は萌炉を優しい眼差しで見つめると、萌炉は救われたような顔で佐渡江を見つめた。そして、その二人は一斉に谷津辺の方を向いた。谷津辺にはそれはまるで悪魔が何かを企むような顔に見えた。谷津辺の背筋には凍り付くような悪寒が走る。まずい。この二人が手を組むとろくなことがない。谷津辺はこの状況に身の危険を感じた。
「お前ら、仕事しろよ。特に谷津辺!お前には大事な仕事があるだろう」
出内は緩んだ空気の引き締めようと谷津辺を注意した。
「でも、谷津辺君がいつまでもダメなのは、教育係の出内係長のせいですよね?」
「俺のせいかよ?まあ谷津辺は俺がどんなに教育しても開眼しないままだからな。もう俺は諦めたよ」
萌炉は谷津辺を注意する出内を見て、その責任の矛先を出内に向けた。出内はため息交じりに谷津辺の教育を放棄した事を認めた。
「出内係長の教育はあれですよね?俺をゲイに育て上げようとしていたあれですよね?それは失敗しますよ!当然ですよ!何故なら俺は、女の子が好きだからです!男には興味はありませんからね!」
谷津辺は出内の教育内容に対する不満を洗いざらい吐き出した。谷津辺はおおよそ業務には関係のない出内の趣味による教育が施されようとしていたと暴露した。
「残念だなあ。良い素材なのになあ」
「“素材”とかやめて下さい!俺の後ろは永遠に童貞のままで良いですよ!」
逃した獲物の大きさを思い返しながら出内はまだ諦め切れない表情で谷津辺の顔を見た。谷津辺はお尻を両手で押さえると後ずさりして出内との距離を空けた。
「冗談だよ。それより早く準備しろ。それとも谷津辺、お前はVRMMOの管理人になるのがそんなに嫌なのか?」
出内は真面目な顔で谷津辺に尋ねた。
「そんな事ありませんよ。と言うかむしろ嬉しいですよ。管理者権限でログイン出来てゲームをして給料が貰えるなんて、どう考えても最高ですよ。断る理由がありませんよ!」
「それなら、どうして佐渡江課長に詰め寄るような真似をしたんですか?」
谷津辺は仕事の顔に切り替えて、自分のお尻から手を放して返答をした。谷津辺の返答を横で聞いていた萌炉が口を挟んだ。
「それは、会長が俺を指名した本当の理由を知りたいからですよ!例えば俺の将来性に期待しているとか、俺には実は隠れた才能があるとか、この任務は俺にしか出来ないと見込んでの事とか!会長は俺の事をどういう評価をしていたのかを知りたいんですよ!」
谷津辺はその理由を真剣な顔で説明した。
「会議中に寝ていたダメな社員」
「そのせいで、第二開発部門内で調査チームを編成する事になったんだからね!もう仕事を増やさないでよ!本当に困るから!」
「う、ウソだ!あの会長が俺の事を悪く言うはずがない!俺が抜擢されたのは会長にしか見えない何かがあるからに違いないはずですよ!」
佐渡江は冷ややかに、萌炉は不機嫌な声でその理由を説明したけれども、谷津辺はその現実を受け入れられないばかりか、誇大な妄想を膨らませて、それが現実だと信じ込んでいた。
「どこから出てくるのかしらね?この自信は…」
「そろそろ現実というものを受け止めて欲しいですね」
佐渡江と萌炉は互いに谷津辺への不満を漏らした。
「まあ、その気持ちは分かる。男には自分の才能を磨いて何か大きな事を成し遂げたいという願望が心のどこかにあるものだからな」
「出内係長にもあるんですか?分かりますよね?そういう気持ちが!」
出内だけは谷津辺を擁護した。谷津辺は自分と同じ気持ちなのかを確かめずにはいられなくなり出内に尋ねた。
「もちろんあるぞ。俺はな、この世界を救う救世主になりたい」
「…」
「さ、仕事仕事」
「さすがにそれは無理かと…」
出内の言葉を聞いて佐渡江は閉口した。萌炉も返す言葉は無いので仕事を再開した。期待外れの内容に谷津辺は肩を落とした。
「そんなことは無い!昨日、俺はその野望を叶えるための第一歩を静かに踏み出したところだ!誰かに邪魔をされなければ、もうすぐ俺は世界を救う存在になれるはずだ!お前には俺の傍らで目撃者となり、後世まで俺の功績を語り継いでくれ!」
「良く分からないけど分かりました!俺は先輩程の器ではないので、せめて仮想世界を救う男になります!」
出内は谷津辺にその思いを熱く語りかけた。やはり出内係長は変な人だということだな。深く関わらないようにして俺も仕事しよう。谷津辺は出内から逃げる口実から仕事を始めようと決意した。
「そうだ!その意気だ!良し。それならGRAWへログインする準備をしろ!」
「はい、分かりました。準備します!」
谷津辺と出内の二人はGRAWへログインするための準備を始めた。第二開発部門の部屋にある簡易ベッドの側でVRMMO用のヘッドギヤをパソコンにつなぎ、パソコンでGRAWを起動させた。
完全型VRMMO方式では五感や神経系統が仮想世界と接続されると、現実世界の身体の姿勢を保つことが出来なくなるので、簡易ベッドの上に寝た状態でヘッドギヤを装着してログインする形になる。
「はい、では谷津辺君はここに寝て。ヘッドギアは自分でつけてね」
出内の準備を手伝う萌炉は谷津辺に簡易ベッドの上に寝た状態でヘッドギヤを自分で装着するように指示を出した。
「萌炉先輩、付けて下さいよ」
「ほら、私、背が低いから谷津辺の頭まで手が届かないよ。だから、その首を切り落としても良いなら付けてあげるけど、どうする?」
谷津辺の甘える声を聞いた萌炉は笑顔で自分の首に当てた手を横に動かして、切り落とす仕草をした。笑顔で話すその声には怒気が含まれている。
「ええと、自分で付けます」
「聞き分けの良い後輩で助かるなあ」
谷津辺がおねがいを取り下げても、笑顔の萌炉の声には怒気が含まれていた。
「それじゃあ、ログインスタート」
萌炉がパソコンの画面に表示されているGRAWのログインボタンを押すと、谷津辺の意識は全て仮想世界につながれた。谷津辺の視界にはGRAWの起動シーケンスの画面がいくつも現れては消えた。確かこの後にNPCが現れてゲームについての説明が始まるんだよな。そういえばまだゲーム内の名前を決めていないな。何て名前にしようか。谷津辺が考え事をしていると、ゲームについて説明する案内係のNPCが現れた。ところが、そのNPCはゲームの説明を始める前に不自然な状態で停止した。パソコンがフリーズでもしたのか?
「ちょっと、何か止まりましたよ!どういう事ですか?」
谷津辺は戸惑い、大きな声で呼び掛けた。けれども、仮想世界から現実世界に声は届かない。それを承知の上で谷津辺は今の状況を確認せずにはいられないので再び声を上げた。
「ちょっと、ねえ!」
すると、黒い画面が現れた。その画面に文字が表示されるとすぐに消えた。早すぎて書かれた内容を読み取れない。すると、案内係のNPCが消えてログインシーケンスが再開された。
「あ、再開した。でも見たことのない画面だな」
見たことのないログインシーケンスが終わると通常のログイン時と同じ状態に回復した。ただ、そこにいるはずの案内係のNPCは消えていた。
「あのNPCに色々と装備をしてもらわないとログイン出来ないのに、どうすれば良いんだよ!」
「谷津辺、聞こえるか?」
文句を言う谷津辺の耳に出内の声が聞こえた。マイクを通したような声で、出内の姿はそこにはない。
「え?出内係長の声だ。はい、聞こえます!何か、変なんですよ!」
谷津辺は声のする方に呼びかけてみた。
「それは、これからお前を管理者権限でログインさせるために、通常とは違うログインシーケンスを実行したからだ。案内係のNPCの代わりを俺たちがひとつひとつ設定するんだよ」
「おおっ。何か特別な感じ!選ばれた者のみがここに来れるということですね?」
つまり、普段は出来ないような設定でもお願いすれば出来るという事だよな。パラメーター値が全て最大とか、全スキル習得済みとか、最高だな!良いな、これは。
「まあ、選ばれた理由は最低だけれどもね」
佐渡江の冷めた声が聞こえた。
「あれ?佐渡江課長も居るんですか?」
「私もいるよー」
佐渡江は答えない。代わりに萌炉が谷津辺に呼び掛けた。
「いや、別にいなくても良いですよ。それよりも現実の世界に残して来た俺の仕事を片付けておいて下さいよ」
「お前、それが先輩に対する態度か?起きた時に自分の身体があると思うなよ!」
殺意の滲む萌炉の声を聞いて、谷津辺の顔は青ざめた。
「う、ウソです!ごめんなさい!」
「さてと、始めるぞー」
谷津辺は萌炉に謝罪した。出内は準備が出来たので萌炉の返事を待たずに先へ進めようとパソコンの画面に表示されているスタートボタンを押した。その時、谷津辺は思い付いて出内に話しかけた。
「その前にひとつ!お願いがあります!」