余談ですわよ
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【ディル視点・過去】
俺は王弟ではあるが昔から王になる気などさらさら無かった。兄は素晴らしい王になると思っていたし、そもそも俺自身王位など煩わしさしか感じられずそれならばいらぬ諍いが起こる前に王位継承権を放棄して王直属の密偵として動く方が余程性に合っていた。今回俺は数人の信用できる部下を連れモロノートン王国に潜入する。
モロノートンは昔から余計な事をしでかしては国内で膨れ上がる民衆の不満を他国へ向ける事で何とか持ち堪えてきた国だった。その国がまたきな臭いという情報が入ったので俺が潜入する事になったのだ。
中でも現在の王はより愚かな頭をしており、散財も酷いと聞く。その様な奴らなのでその内我が獣人の国にもまた密猟や誘拐に小競り合いをしてくる可能性が高い。兄からの指令はその調査と、予想よりは長く国庫が持ち堪えてる理由を探る事、あわよくば獣人に偏見の無い優秀な人材の勧誘だった。
モロノートンへ着くとすぐに幾つかの企業が国の支えになってるのが発覚した。というよりも国に寄生されている。
ーー国が国の大切な血肉である民らに無心をするなど、本当にどこまでも救いようのない。
✳︎✳︎✳︎
「それにしても優秀ですね」
拠点の1つとして借りた小さな倉庫で部下の1人が呟く
「ああ。できれば1つだけでも潜入できたらいいんだけどな」
「まあ、優秀な企業ってのは働いてる奴も上の奴も優秀な可能性が高いですからねー。
だからこそ獣人の国に来て欲しいんすけど」
別の部下も寄ってくる。ダラダラと話していても時間の無駄なので其々担当の企業を割り振り解散となった。
ーーさて、あの企業はそもそも責任者が誰なのかこの国の人間でも知らないとされているが………
果たして自分が引き抜きたい人物は誰なのか。年寄なのか、若いのか。それどころか男なのか女なのかさえ分からない。
カサ
「!」
物音に顔を上げればうっかり獣姿のまま考え事をしている事に気が付いた。どうやら見知らぬ広場に出ていたらしい。今までこんな事など無かったのに完全に注意不足だ。少し疲れが溜まっているのかもしれない。それにしてもここはなんとも寂れた、悲しげな場所である。そしてそんな閑散とした場所に似付かわしくない人物が1人。
ーーあれは………何をしているのだろうか
こちらを爛々とした目付きで見つめる栗色の髪をした若い女。一瞬、討伐対象としてみられているのかとも思ったがあんな細腕では武器は持てないだろうと思い直す。
ーーならば一体何を………
さり気なく周りを見回しても特に変わった物は見当たらない。という事はやはり彼女の視線の先にあるのは俺で間違いないのだろう。
さて、どうするか。悲鳴を上げられ人が集まってきても迷惑だ。
ーー殺しておくか
無用な殺生は好まないが致し方ない。そう思った瞬間だった。
「もっ…………………」
ーーも?
突然女が声を上げて胸を押さえ苦しみ出した。持病だろうか。もしそうならばこちらが手を下さずとも済むし、好都合だ。
そう思っていたのに。
「もっふぁぁぁぁぁ!!!!」
ギャンっ!!!
理解不能な言葉を発したと思った女が凄まじい速度でこちらへと近付き体当たりをしてきた。しかしそれ自体はいい。女に比べこちらの体の大きさは随分と大きいので細い女の体当たりなど大した事ではない。問題はその後だ。
スリスリスリスリスリスリスリスリ
ーーひぃいいいい!!!!
あろう事か女は俺の脇腹や首元に顔や腕を擦り付け、撫で回し、そして度々そこで深々と息を吸う。それも、呼吸なんて物ではない。「すぅうううううう」とまるで生気でも吸われているのではないかと思う程長く吸われ、そしてまた顔やらをスリスリと擦り付けては恍惚とした表情を浮かべている。
怖い。
生まれて初めて人間が怖いと思った。なんだこの女は。普通街中でこんなに大きな狼を見れば誰でも悲鳴を上げるか一目散に逃げる。それが当たり前の反応だし、それに素早く反応し返し生殺与奪の権利をこちらが握るのも当たり前だと思っていた。思っていた……のに。
「可愛い……可愛い…でっかいわんこ……ああ、このもっふもっふの癒し……連れて帰りたい……」
今の俺は女の一挙手一投足を見逃さぬ様ビクビクとしながら見つめている。しかし、通常ならば近付いただけでも問答無用で喉を掻き切ってやる筈の腹部への接触や頬擦り等も不思議と悪く無くなってきた。いや、未だになぜか湧き起こる恐怖心は消えないが。
ーーん?
そこで俺はふと気が付いた。
ーーこの女………俺の事を「犬」だと思っているのか?
いやまさか。そんな筈は。
「でっかいわんちゃん、貴方どこから来たの?もしかして野良?野良なの?名前付けても良いかしら?そうね……「ディル」なんてどう?もし飼い主の方がいらっしゃらないのなら私の所へ来てくれないかしら?あ!勿論ご家族がいらっしゃるのなら是非、是非!ご家族も方も纏めてご一緒に!わたくし、これでも中々稼いでおりますのよ。それくらいの甲斐性はあります」
うふふ、と何ともいい笑顔でこちらを見上げる女。いや、おかしいだろう。犬を見上げている時点で何かがおかしいと気付け。そしてやはり俺の事を犬だと宣ったな。俺は狼だ。
ふっ
しかし何故か心地いい。生まれ落ちた瞬間から王族として傅かれ、王位継承権を放棄した後も公爵という決して影響力の小さくは無い地位についた。獣人は人間の国に比べれば王族と国民の距離が近いとは思うがそれでも俺に対しここまで無遠慮な態度の者は存在しなかったし、腹を撫でさせてもいいと思える相手も現れなかった。
返事もしない(当たり前だが)犬にも相変わらず話しかけている女を他所に耳を澄ませれば何人もの部下達が様子を伺っているのが分かる。大方俺の帰りが遅かったので様子を見に来たのだろう。
ーーんん、これは。
少し厄介な者に捕まってしまったかもしれない。そろそろ離れるべきだと理解はしているが何とも離れ辛い。ならば。
ーーいっそこちらに引き込むか
いずれにせよ人間側の協力者は欲しいと思っていたのだ。なに、もしこちらの正体を話した所で逃げたり他人に口外したりしようとすればその時点で命を奪えばいいだけの事。そう思って俺は目の前の女を協力者に選んだ。
ーーどうか拒絶しないでくれ
獣化を解き人型へと戻る瞬間、出逢って間もない人間におかしいとは思いながらも無意識の内に祈っていたがエキナセアは驚いた表情はしつつもすぐに両手を上げて喜んだ。念の為に他の仲間達を呼べばそこには恐ろしがるどころか、俺達を見て狂喜乱舞する女が居るだけだった。何とも拍子抜けである。そしてこの時俺はしっかりと決めた。
ーーよし、この女は何があっても連れて帰ろう
その時はまさかそのエキナセアがあの正体不明の人気小説家“バレンギク”であり、それどころか王族でも中々手に入れる事が出来ないと言われているオートクチュール“murasaki”のデザイナー兼経営者で、俺達が必死に探している人物だとは夢にも思わなかったが。
今ではエキナセアの右腕として働けているこの事実に、俺はとても満足している。
【獣人部下視点・後日談】
「なあ、ディルさんっていつになったら本当の名前エキナセアさんに言うのかな〜?」
「いや、うーん……「ディル」って獣姿の時にエキナセアさんに付けて貰った名前なんだろ?あの人なんならもう改名しても良いとか本気で思ってそうだからな……」
「ああ……あの人恋愛するとあんな感じになるんだな」
「うん……流石『狼』だ」
「「はぁ」」
部下達の心は1つになった
ーー俺も奥さん欲しいなぁ……。
後日エキナセアに「ナスタチウム」と本来の名を呼ばせ、慣れない名前にドギマギする自分の伴侶を愛おしげに見つめるディルを目撃した2人は白眼を剥きながら砂を吐き、翌日はヤケ酒による酷い二日酔いに苦しんだ。
【エキナセア追放後】
「ふふふふふ……あ、あは、あははは!これでまた一つ潤沢な資金源を手に入れる事が出来たな!」
上機嫌で顎肉を揺らすのはモロノートン国現国王チャービル・モロノートン。
「ええ。あの事業はこの国の為にこそ生かすべきで御座います。所で陛下、マビクロウに代わり私を宰相に、我が娘ベルガモットを第二王子の王子妃にして頂けるというお話は……」
そして国王の私室で揉み手をしながら彼の顔色を伺うのはエキナセアやベルガモット、ヤロウらの父であるサイプレス・バートム。
「ああその話か、任せよ。全てはお前の希望を聞き入れてやろう。此度の功績を称えてな」
フンと鼻で笑う国王。慇懃に腰を折るサイプレス。夜は、まだ明けない。
《一年後》
●王城
そこには不機嫌な表情を隠そうともせずに臣下へと不満を露わにするチャービルが居た。
「おい、最近私の身の回りの物の質が落ちているのでは無いか?王たる私に相応しい物を用意せよ。それすらできん能無しなぞこの国には要らんぞ」
「も、申し訳ございません。何ゆえ国庫の状態が厳しく……」
「貴様、この私に口答えをすると?どうやらその首はそろそろ身体と別れたい様だな」
「ひっ!お、お許しを……」
●バートム邸
「クソ!一体どうなっている……何故こんなにも我が家に金がないのだ!去年よりも支出はかなり少ない筈だろう!」
大量の書類がバサバサと執務机から滑り落ち、それを苛立った様に見詰めるサイプレス。そしてそんな父親を見つめながら首を傾げる息子のヤロウ。
「父上、エキナセアの行っていた紡績の事業はどうなっているのですか?確か去年まではあいつがあの事業による利益の一部を我が家に入れていたと記憶しているのですが………」
「それなら国の事業として私を代表にやっている!その利益の一部を受け取る契約でな。しかし何故か利益どころか事業が全くと言ってもよい程回らんのだ。注文も入らなければ材料の仕入れ先もあの店独自の紡績のノウハウも不明。全く間者は今まで一体何をしていたのだ!
このままでは事業を失敗させたとして私が責任を取らされるではないか!!」
父親の剣幕に驚くヤロウ
「そんな……で、ではエキナセア!エキナセアを呼び戻してアレにやらせれば良いではないですか」
「しかしアレは国外追放を受けている。ここで暮らさせる訳には……」
恐らくそれはサイプレスとて考えたのだろう。しかし国王が直々に国外追放を言い渡した身。それをバートム家が勝手に連れ帰る訳にはいかない。
「問題ありませんよ父上。あれはもはやバートム家とは何の関わりも持たぬ者。我々はたまたま紡績事業に関して覚えのある者を見つけ、その力を活かす場を作ってやるだけなのですから。なに、地下に居ても書類仕事くらいはできるでしょう」
「ああ……ああ、成る程な。ふむ、そういう事ならば早速その様に手配をしよう。して、お前の話は何だ」
「ええ。ひとつお願いがございまして」
サイプレスはヤロウが自分の執務室を訪ねて来た時からソワソワと落ち着きが無い事には気が付いていた。
「なんだ」
「実は可愛いベルガモットが新しいドレスが欲しいのだそうです」
その言葉にサイプレスは顔を顰めた。正直、今のバートム家にはそんな余裕は無い。ただでさえ浪費癖が酷い正妻を筆頭に金を湯水の如く使用する側室やその子供達が多いのだ。それにベルガモットのドレスならばつい先日作った所だと聞いている。サイプレスの言いたい事が分かったのだろうヤロウは少し困った様に眉を下げると
「それが……先日の物は望んだオートクチュールの物では無かったようで」
と溜息混じりに話す。
「ああ、確か“murasaki”だったか……王妃様も何故か急に手に入らなくなったと騒いで居られたな。近々行われる他国との公務に着て行く物が無い、と。しかし王妃様ですら手に入らんのだ。我が家にその様な伝手はない。それに先日のドレスとてベルガモットが第二王子妃となる者の威厳として必要だというから作ったのではないか。」
「そうなのですが……」
「分かったのならこの話は終わりだ。私は忙しい」
尚も言い縋りそうなヤロウから書類へと視線を移す。
「分かりました。失礼致します……」
数分後、屋敷には新しいドレスは買って貰えないと知ったベルガモットの金切り声が響いた。
《3年後》
●王城
「貴様っ……!巫山戯ているのか!!私を馬鹿にするのも大概にせよ!何故バレンギクの書物が1つも手に入らんのだ!!」
ついに王は我慢出来ずに顔を真っ赤にさせながら臣下を怒鳴り付ける。その訳は数年前迄この国でも簡単に手に入れる事が出来たある作者の書物である。
バレンギク
その作者が一体いくつなのか、性別はどちらなのか、一体どの様な身分の人物なのか。名前以外は一切不明のその作者は実に様々な書物を書いた。恋愛物、冒険譚に英雄譚、歴史書を元に様々な国のかつての偉人達に想いを馳せ作者なりの解釈で書いた創作物語。そのどれもが平民・貴族だけでは無く国内外問わず人気で、ここ数年では諸外国との会談には皆バレンギクの書いた書物の話を緩衝材代わりに話すのだ。
しかし、それがある時を境にパッタリとモロノートン国で出回らなくなってしまった。国と国を駆け回る商人達にも金は払うのでなんとしても手に入れろと言い付けてあるのだが、これが中々上手くいかない。
「も、申し訳……」
「ええい、言い訳なぞどうでもいい!とにかくどれでも良い。一冊でもよいからバレンギクの書物を用意せよ。でないと他国の者達と顔を合わせた時にまたまだ読んでいないのかと馬鹿にされるであろう!!いいか、これは王命だ。多少金が掛かっても構わん。何としてもバレンギクの書物を手に入れろ!!」
●バートム家
「これはどう言う事だ……なぜ小娘1人の行方が分からん?!生死すら不明だと………?城下の兵士や役人共は一体何をしている!全く、仕事の出来ん奴らめ……貴族の女の移動できる距離などたかが知れているだろう!」
サイプレスは調査結果の書類をグシャリと握り潰す
「父上、どうされたのです。まだエキナセアが見つからないのですか?」
「ヤロウか……ああ、そう言えばお前もエキナセアと同じローズマリーの子であったな。ヤロウよ、お前はエキナセアが行きそうな所に心当たりは無いか?」
「心当たりですか……」
ヤロウの眉間に皺が寄る
「何でも良い。アレの好きそうな物や興味のある物、付き合いのあった人物。手掛かりになる様な物ならば何でもいいのだ。先程、アレの母親であるローズマリーに話を聞いてみても何も知らんそうでな。全く見当も付かぬらしい……それどころかいつから顔を見ていないのかも分からんなどとほざいておる。全く、母親ともあろう者が嘆かわしい」
そう言ってサイプレスは首を振る。しかし残念ながらヤロウも分からなかった。かつて自分の姉であった人物が何を好んで何を嫌い、普段何をしていたのかさえも。そもそも彼女に興味も無かった。自分よりも格下の女に割く時間など、一欠片とて存在しなかったのだ。そしてそれは父親であるサイプレスにも言える事だった。
2人の間に沈黙が落ちた頃、その場にそぐわぬ能天気な声が響く。
「お父様っ、わたくしお父様にお願いが………ってあら?ヤロウお兄様?一体どうなさったの?もしかしてヤロウお兄様もお父様に私のドレスを買って頂ける様にお願いをしにきて下さったの?」
いつもの様に甘い猫なで声ですり寄り、上目遣いをしながらヤロウの腕に自らの腕を絡ませるベルガモット。しかしいつもなら可愛くて仕方がない彼女のその表情や態度も、今のこの状況では異様に映りヤロウは思わず身を固くする。何故この様に緊迫した状況でそんなにも能天気な声が出せるのか。
「ね、お父様。お兄様もこう言って下さっているの。やっぱり私には"murasaki"のドレスが必要だわ。」
ーー言ってない
思わずヤロウは眉を寄せる。今までと同じ口調、態度。しかしそれらがどうにも異常に見えて2人は何も声を発する事が出来なかった。部屋には不思議そうな表情で小首を傾げながら彼等を見つめるベルガモットと口を噤んだ男が2人何とも言えぬ空気の中、少なくない時間を過ごした。
《4年後》
●王城
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!誰か!誰かおらんのか!兵士!近衛兵はどうした!」
だだっ広い広間に充満する鼻が曲がりそうな異臭に「ンゴァ、ンゴァ」と耳をつんざく程大音量の声。
「ひ、ひぃいい!来るな!来るなぁぁぁ!」
既に手入れはされておらずかつての輝きを失った王冠が玉座にしがみつき喚く男の頭部から滑り落ち、押し寄せてくる大群の中へと転がり落ちた。
「誰か!誰か私を助けろ!助けた者には褒美も出す!さあ!皆私を助けろ!!」
しかし聞こえてくるのは自身への救済の声でも、賛美の声でもなく、ただただ力無い者を蹂躙する前触れの声だった。
「父上!」
その時、玉座の間へと飛び込んできたのは息子である第二王子のクラリセージだった。
「ああ、我が息子よ。良い所へ来た。私を助けよ」
するとクラリセージは王越しに見える景色にザッと顔色を無くし、そのままくるりと背を向けて走り去ってしまった。
「クラリセージ……?」
直後、唖然とする王の耳には嫌だ、許してくれ、向こうにエサがあるからそちらにしろ、痛いと泣き叫ぶ息子の物と思われる絶叫が届いた。
「な、何故だ………何故こんな事になった…………」
乱れた髪を振り乱しながら泣く泣く玉座を捨て、這いつくばる様にして玉座裏の隠し通路を歩く。
「いつからだ……いつからおかしくなったんだ………」
男の目からはもはや光が消え、正気ではなかった。正気では無かった故に、だんだんと増す前方からの異臭と騒音にも気が付かなかった。
「ンゴァ」
数分後、そこにはいつもと変わらずただ本能の赴くままに過ごすポポラという獣が居るだけだった。
●バートム家
「おい……これは悪い夢か何かか………?」
この家の主、サイプレスは屋敷の窓から見下ろした外の景色に思わず膝から崩れ落ちた。
「国の金が尽きてポポラの討伐が行えず奴らが大量発生したという報告は受けていたが……まさかここまでの物だったのか……?」
ちなみに忙しい自分に向かい一刻も早くポポラを可能なだけでも討伐するべきだと訴えた報告の男は有無を言わせずにクビにし、放り出した。
「我が家のあの門を突き破ってきたと言うのか?」
ここ数年の金策に難航したお陰でこの屋敷を覆う大きく立派な門は久しく手入れがされておらず薄汚れているものの、それでもそれなりに強度はあった筈なのだ。間違っても、今眼下に蔓延る害獣共をこんな所まで通す程脆くも無い、筈だった。
ガンッ!ガリガリガリガリ……
「!」
背後の扉から聞こえた何か大きな物がぶつかる様な音に、何かが爪を立てている様な音。それはまるで………
ンゴァ
聞こえた鳴き声で全てを察した。もう、執務室の前まで来ているのだ。
「し、死にたくない……死にたくない………」
ガタガタと震えだす身体は恐怖の余り一歩も動く事が出来なかった。
そうして人知れず、この家の主は屋敷から姿を消した。そして同時刻、同じ屋敷内では大声で喚き散らす女とその女を怒鳴り散らす男が押し寄せる獣から逃れる為必死に足を動かしていた。
「どう言う事よ!何よこれ!」
「どうもこうも無い!見たら分かるだろう!この屋敷にポポラが押し寄せているんだよ!」
男の言葉に目を吊り上げる女
「そんな物見れば分かるわよ!馬鹿にしているの?!そう言う事を言っているんじゃ無いわよ!なんで、うちにポポラが押し寄せてきてるかを聞いているのよ!」
「そんな物知るか!こちらに聞いてばかりいないで少しは自分で考えろこの馬鹿女!」
「な……なんですってぇ……!!」
わなわなと震える指先を握りしめながら男を睨む。そこにはかつての美しさも、庇護欲を唆られる様な愛らしさも残ってはいなかった。
「ふん、こんな状況なのにいつまでも自分を着飾る事しか頭にない様な女などもう面倒を見きれん。ベルガモット、ここからは別行動だ。足手纏いだからな。付いてくるなよ」
そう言ってこちらに背を向け別方向へと走りだすかつて兄と慕った男。いつだって熱の篭った瞳でこちらを見つめ「可愛い、愛らしい」と褒めそやしてくれた男。そんな自分の言いなりだった男に足手纏いだと見捨てられた事に一瞬思考が停止し、思わず言葉に詰まってしまった。
「こ、こちらだってあんたなんて願い下げよヤロウ!あんたなんて……」
しかし、彼女の言葉が最後まで紡がれる事は無かった。少し先を走っていた男が通り過ぎたある部屋から突然ポポラ達が何匹も飛び出し、あっという間に男の姿は見えなくなったのだ。
「あっ……あっ…………」
くるりとこちらに首を向け、少し首を傾げた様に見えた獣。その様子が言外に「次はお前だ」と言った様に見え、彼女は震える足からヒールを脱ぎ捨てとにかく走った。
走って、走って、とにかく逃げた。
はぁ、はぁ、はぁ
騒然とした屋敷内で、やけに自分の荒い息遣いが響く。ドレスが重い。足が痛い。喉が渇いた。
「ひっ!」
しかし相手は待ってはくれなかった。一匹一匹の速度は決して早くない筈なのにどこからでも現れる獣に戦々恐々としていた彼女はどうにかして逃げ出す策が無いかと頭を働かせていた。そしてそうこうしている内に来たこともない場所へと辿り着いている事に気が付いた。
「どこなのここは……」
闇雲に走ったお陰で敷地内ではあるものの屋敷からは既に出ており、その後はどこをどう通ってきたのか全く記憶にない。そして目の前に広がるやけに汚い色をした小さな水場も、同じく人生で一度も見た事が無い。
「汚い色ね。泥だらけじゃない」
それは、元々は厩舎近くにあった馬達の給水用の水場だったのだが、現在そこには大量のポポラの糞尿が溜まり肥だめの様になっていた。勿論ベルガモットは今まで糞尿がたまった肥だめを見た事など無かったし、そもそも知識としてもそんな物の存在は知らなかった。それでも通常ならば臭いでそれらが一体何かなどを気がつく所なのだが、現在の彼女は長時間濃厚なポポラの異臭に晒された事で鼻が利かなくなっていた。
ンゴァ
勿論、ポポラの臭いにも。
「やだ……やだやだやだ。来ないでよ!」
鳴き声に振り返ればそこには思ったよりも大きな獣。ズリズリと後ずさっているとガツンと踵に打つかる硬い感触。それが一体何なのかを理解する前にぐらりと揺れる視界、尻餅を突いた直後に感じる生温いぬるりとした何かの感触。そしてそれに合わせた様にビシャビジャと糞尿を垂れ流し出す目の前の獣。
「え……………」
ゆっくりと手の平を持ち上げ、見つめる。白魚の如き美しかったほっそりとした手には、理解したく無いと脳が拒否する液体が伝いドレスに染み込んでいる。
まさか
「い………いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
喉が張り裂けそうな程の絶叫を上げる彼女の声を聞いて一匹、また一匹と集まってくる獣達。その後のバートム家について知る者は誰も存在しない。ただ、最近になって発見されたのは『ポポラが実は完全なる草食動物では無く、繁殖によりある一定の数を越えると雑食へとその嗜好を変える事』だった。
【ディルの部下視点・4年後】
「あの件はどうなっている?」
書類を見ながらふと思い出した様にこちらへと問い掛けるディル様の声に何の事かを察してひとつ頷く
「滞り無く」
「よし」
その返答に自分の答えが間違っていなかった事を確認する。
ーーああ、そういえば
「所でディル様」
「何だ」
相変わらず書類から視線を動かさぬまま上司が答える
「モロノートン国が遂に滅びました」
「へぇ」
するとそれまで書類から顔を離さなかった男はこちらを見てにやりと笑い、視線で先を促す
「直接的な原因は民達の暴動による革命だと言う事になっていますが実際は様々な要因によりほぼ壊滅状態だった所を周りの諸外国からいいように食い物にされた挙句国を飲み込まれたようですね。
聡い者達は既に逃げ出し他国へ保護された後ですし、我が国にも多くは有りませんが亡命してきた者は居ります。勿論獣人からの選定は済んでおりますので其々に適した働き口の斡旋等も行っております」
『様々な要因』それが指すものがほぼポポラという獣の異常な大繁殖からなる物だと悟っているのだろう。そして大繁殖を利用してあの国の王城と、目の前の上司が愛してやまない女性を苦しめた彼女の生家へと獣達を誘導したのがディルだと自分が悟っているのだという事を。
彼は何も言わずにスッと目を細めた。
「エキナセア様には未だ誰もお伝えしておりません」
その一言を受けた上司は満足気に口角を上げると1つ頷く
「成る程。ではその件に関しては俺の口から伝えよう。君らも引き続き余計な事は伝えぬ様に」
そう言って部屋を立ち去る
──ここから先は私の与り知らぬもの……
私は心の中で拳をぐっと握った
ーーエキナセア様………これからも末永くそこの物騒な上司の手綱、頑張って握って下さいね!!
思ったよりも番外編が長くなってしまったので、次も番外編を挙げる予定です。
こちらとは別で幽霊と女の子のお話や、異世界に飛ばされた女の子のお話も書いておりますので気が向けばそちらも読んで頂けると嬉しいです。幽霊のお話はホラーでは無いです。