七瀬葵
「日向くん待って」
小学二年生になったばかりの日向の後ろを一生懸命追いかけているのは、日向より一つ歳下で、同じ団地に住む幼なじみだ。
「葵ちゃん、早く」
日向は走るのをやめて手招きをした。
4月半ばの土曜日の午後、二人は日向の母が運転する車で、山の麓にある自然公園に遊びにきていた。
葵の母も一緒だ。
田舎の団地は都会のそれとは違い、近所付き合いが深い。
家族ぐるみで出かけたり、子どもだけで互いの家に泊まりに行くことなど、ごく当たり前のことだ。
この自然公園は、日向の団地から車で5分ほどの場所にある。
緩やかに続く坂道がちょっときついが、小学生でも自転車で行けるほどの距離だ。
自然公園という名のとおり、緑一面の広場にわずかな遊具があるだけで、子どもが走り回るには最適な環境だ。
週末ともなるといつも親子連れで賑わうのだが、この日はなぜかこの四人以外には誰もいなかった。
陽が傾いてきたと同時に、厚い雲が流れてきた。
「日向。そろそろ帰ろうか」
日向の母が、公園の隅にあるベンチから手を振った。
葵の母も隣で笑顔で手を振っている。
二人は大きく両手を振って応えた。
この日は4月にしては暖かく、日向と葵は汗びっしょりだ。
日向と葵にはお気に入りの場所があった。
木造の三階建ての小さな小屋。
ジャングルジムのような造りで、二階には梯子を使うか、ロープを使って斜めの壁をよじ登る。そこから三階には梯子で上り、てっぺんからは滑り台で降りてくる。
日向はいつもロープを使って二階に登っていた。
葵も後に続くのだが、いつも最後のあと一歩が登れずに、日向が手を差し伸べていた。
最後にそこに行こう。
二人は手を繋いでジャングルジムの小屋へ走った。
いつものように日向が先に登る。
葵は下で待っている。
雨粒が落ちてきた。
見上げると、いつの間にか空は真っ黒な雲に覆われていた。
二階に登った日向が振り返る。
一瞬、生暖かい風が日向の髪を撫でた。
「葵ちゃん、いいよ」
しかし、日向が手を差し伸べたその先に、葵の姿はなかった。