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The Hound's Sorrow-狼の泪-  作者: 旗戦士
6/13

Report Six. 0になろうとした男

<香港>


目覚めたのは、随分と暖かな日差しが照り返している頃だった。

青年が横になっているベッドの周りには特徴のない箪笥とテレビが置いてあるだけで、殺風景な印象を受ける。


人一人が最低限生活できるようなスペースに、必要最低限の家具。

掛けた目覚まし時計のアラームを気だるそうに見つめる彼は、若かりし頃の畑貴士であった。


否、彼を畑貴士と呼ぶのにはまだ早い。

"アイン"、独語で1という意味のその名を、彼はその当時名乗っていた。


「…………」


寝ぼけ眼をこすりながらむくりと起き上がるアイン。

寝ぐせの跳ねた後頭部を掻きむしりながら彼はゆっくりと起き上がり、すぐ傍にあった携帯電話に手を伸ばす。


「……そうか。もう俺は……」


何処か寂し気に、そうぽつりと漏らす彼は電話の画面を閉じた。

自嘲気味に笑みを浮かべながら立ち上がり、気怠さを纏っていた全身を伸ばし始める。


「戦闘兵器が目的を失うと、こうも生き辛いとは」


北米の中国系アメリカ人の麻薬王、リー・シャオロンの飼い犬として生活していた習慣が身に染み付いていたせいか、起床してから携帯電話で命令を確認するという癖がついてしまっていた。

寝汗を掻いて湿ったTシャツを無造作に脱ぎ捨て、彼はそそくさとシャワールームへ駆け込む。


「……はぁ」


ここ数日間、彼の口から何度深いため息が吐き出された事だろう。

しかし彼が塞ぎ込むの頷ける。


アインの飼い主として君臨していたリーはもう既に、この世にはいないのだから。


「"出たとこ勝負"とは、良く言ったものだな……マーク」


シャワーノズルから溢れ出るお湯に頭を浸しながら、ぽつりと出た名前。

マーク。


自身のマスターであったリーをたった一人で暗殺し、己の強さを信じていた疑わなかった彼自身をあっけなく倒して見せた男。


金髪の美少女を連れて悪戯な笑みを浮かべていた彼は、確かにそう言い残して自身の目の前から去って行った。

自分の全てを彼に奪われてしまったが、アインは妙な爽快感と満足感に満たされていた。


良く言えば、彼はマークの手によって救われた人間である。

肩を竦めながら体を洗い終え、シャワールームのカーテンを開けて下半身にバスタオルを巻いた。


「……もう昼か。やれやれ、自分の自堕落さにはうんざりさせられる」


ドライヤーで頭を乾かし、整髪剤で髪のセットを終えたアインは暗めのダメージ加工が入ったジーンズを穿くと、半袖の白いシャツに腕を通す。

その後白い扉のクローゼットを開け、ナイロン繊維のミリタリージャケットを羽織るとテーブルの上に置いてあった財布に手を伸ばした。


手にした携帯とアパートの鍵、財布をポケットの中へ放り込むと彼は部屋の外へと向かう。

全てを失った男の、何気ない日常が始まりを告げた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<市街地>


 中華人民共和国の特別行政区として籍を置くアジアの大都市、香港。

世界有数の観光地としても知られるこの地にアインは居住しており、島全体を周る事の出来る地下鉄MTRの席に腰を落ち着けていた。


裏稼業に従事している頃なら、今の時のように公共交通機関に乗って何処かへ一人でぶらつく事など無かったであろう。

両耳に付けた音楽プレーヤーのイヤホンからは合衆国のロックバンド・Rage Against the Machineのディストーションで歪まされた重いギターのサウンドが鳴り響いている。


銅鑼(コーズウェイ)(ベイ)駅で降車した彼は繁華街の刺々しい色を放つ電光掲示板を目の当たりにし、不思議と口角が吊り上がった。

普段仕事を終えた後でしか町の景色を見る事はほとんどなかったが、改めて見てみると香港が観光地として有名な理由も頷ける。


「さて……」


繁華街の景色を記憶の底に叩き込んだ彼はその後裏道へと入り、都会の喧騒から僅かばかり離れた住宅街群へと辿り着いた。

アインの目に映るのはアパートの一階を借りて外で営業しているレストランである。


その一角で開かれている中華料理店に足を運ぶと、背凭れのないパイプ椅子に腰を下ろした。

メニューを手に取り、広東語で表示された料理名を一瞥すると店主らしき中年女性が彼の席に訪れる。


「あら、アインちゃんじゃないか! 久しぶりだねぇ、最近見なかったから心配してたのよ! 」

「……どうも、おばちゃん。そっちの方は元気そうだね。お店の方はどう? 」


ふくよかな体系ながらも顔のパーツ一つ一つは整っている様子から、昔はかなりの美人であったと推測される彼女はチャーミングな笑顔をアインに向ける。

この店は彼が初めて香港を訪れてから毎度通っている場所の一つで、店主の夫婦とも関係は友好であった。


無論、彼らは表向きのアインしか知らないのだが。


「うふふ。まあまあよ、顔見知りのお客さんが来てくれるだけでも十分だわ」

「俺みたいにね。おばちゃんの料理おいしいから、いつも通っちゃうんだ」

「もう、褒めても何も出ないわよ? いつものでいいわね? 」


ああ、と相槌を打ちながら彼はガラス製のコップの縁を傾けて冷えた液体を喉の奥に流し込む。

周囲には常連客らしき中年の男性と近くに会社を構えているサラリーマンたちで溢れかえっており、店主が謙遜していた事をアインは確信した。


適当に携帯を弄っていたアインの元にキャベツと餡が掛かった豚の角煮が入ったラーメンのお椀が運び込まれ、香ばしい辣油の香りが彼の空腹感を更に刺激する。

傍にあった割り箸を手に取り、出来立ての鶏がらスープの中に箸の先を突っ込んだ。


小麦色の麺を掴み取り、のびない内に口の中へ放り込むと油っ気のないさっぱりとした口当たりに続いて濃厚なスープが絡んだ麺が口内を支配する。

美味い。


本能的に体が食物を求めていたのか、アインの箸を握る手は止まる事を知らない。


麺を啜る度にとめどない空腹感が彼を襲い、それを満たそうと再び食べ物を口に放り込む。

あっという間に具を食べ尽くしてしまったアインは次にお椀を両手に掴み取り、残っていた暖かいスープを飲み始めた。


「……ふぅ。美味しかった」


まさに神速。

彼の駆使する抜刀術のように一瞬で箸を抜き取り、ラーメンを食べ終える姿は周囲の客でさえも見惚れてしまうほど速い。


「おばちゃん、これお会計ね。お釣りはいらないよ」

「あいよ、ありがとうね! また来てよ、あんたの食いっぷり見てると胸がすっきりするからさ」

「そう言ってくれると光栄だよ。それじゃ、またね」



口元を緩ませ、店主に笑顔を向けるとアインはその場を立ち去ろうと振り返る。

すると突然、彼の視界は3人の屈強な男たちの身体によって阻まれた。


「退けよ兄ちゃん」


言われるがまま彼は退き、彼らをじっと見つめる。

何見てんだ、と睨みつける側近の男を一瞥するとアインは再び家路に付こうとした。


店から離れようとした直後、彼の背後に響く中年女性の悲鳴。

店主のものである事は明白であった。


「シャバ代も払わねえくせして、随分と儲かってるみてえじゃねえか。あぁ? 」

「こ、今月分は払っただろ!? 乱暴は止してくれよ! 」


風貌と会話から察するに地元のギャンググループが地上げ代を集っているようで、3人の男達は派手な金色のアクセサリーをじゃらじゃらと揺らしている。

アインの技術を以てすれば彼らなど腕一本で捻じ伏せる事は可能だ。


しかし、そうすれば自身が被っていた仮面を外す事になるだろう。

表向きのフリーターとしてのアインではなく、"戦闘人形"のアインとしての側面を出す事になるだろう。


「おい何見てんだおっさん、さっさと失せろ」

「お、お前たちの方こそローさんに乱暴な真似するんじゃない! 」

「うるせえなぁ」


流石にその状況を見かねたのか、常連客の中年男性が4人の間に割って入っていった。

だが、結果は既に明白であっという間に側近の一人に倒されてしまっている。


「あ、あぁ……止めて……。誰か、誰か……」


先程向けてくれた笑顔が、あんなにも悲し気に怯えている。

自分に善意を向けてくれている数少ない人物が、恐怖に震えている。



――――あんたなら、どうする。



嘗て己を救ってくれたヒーローの後ろ姿が、彼の脳裏に浮かんだ。

そしてあの男の言葉が、アインの背中を押した。


"明日が来る限り、お前は生きられる"。


「――止しなよ」

「あぁ? 」


中年男性に馬乗りになって拳を振り下ろしていた男の肩を叩き、アインは彼が振り向いた瞬間に鼻へ拳を叩き込む。

骨の折れる音が響き、追撃として中年男性から側近を引き剥がすと彼の脳天にかかと落としを見舞った。


「て、テメェ……! 俺たちが誰だか分かってんのか!? 」

「……知らない。でも、お前たちを止めろと俺の本能が告げている」


アインは殺気の籠った目で残った二人のギャングを見据える。

身体はごく自然に、彼らへと向かっていった。

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