Report Twelve: Treasure
<県内某所・貴士のアパート>
翌日。
ベッドと箪笥とテレビだけが置かれた殺風景な一室の中で眠っていた貴士は、ゆっくりと目を開ける。
見慣れない天井に僅かばかり焦りを覚えるが、日本に滞在する事を思い出した彼は安堵のため息を吐きながら起き上がった。
寝ぼけ眼を擦りながら身体に掛かっていた布団を取り、ストレッチを行う。
「……時間」
どうやら早く起きすぎたようだ。
損をした気分になりながらもキッチンへ向かい、昨夜購入したパンの余りと牛乳パックを冷蔵庫から取り出す。
ビニールに包まれた香ばしい色の炭水化物を手にしながらテレビを点け、一口目を頬張った。
『今日の運勢が一番悪いのは……さそり座のアナタ! 一日の中で災難が降りかかりそうです! 』
「朝のニュースの内容はどこも変わらないんだな。……というかさそり座俺なんだが」
無駄に下がった気分を一新しようと彼は朝食を食べ終え、牛乳を飲み干す。
シャワーでも浴びようと立ち上がった瞬間、胡坐を掻いていた膝がテーブルにぶつかりコップや食器が音を立てて地面に落ちた。
幸い、割れる事はなかったが膝の関節に激痛が走る。
「クソ……早速占いが当たったって事かよ……」
そんな事をぼやきながら貴士は寝間着を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になると浴室のひねりを回して熱湯を出し始めた。
強く回し過ぎたのかお湯は高温の液体と化し、彼の身体を容赦なく熱する。
「熱ッ!? 」
徐々に温度を下げつつようやく身体の洗える熱さになったことを確認すると彼はシャンプーを手に馴染ませ、長く伸びきった髪の毛を洗い始めた。
考えたら彼のマスターであったリー・シャオロンが死んだ後から、髪形を変える事など考えた事も無い。
流行りのヘアスタイルなんて知らないし、自分が似合う色なんて分からない。
「まあ……小百合さんかみどりさんに聞いてみるか……」
ぽつりと残しながら彼は頭に付着した泡を落とすと、毛先に付いた水滴をタオルで拭いながらコンディショナーを塗り込む。
その後、スポンジを取り出してからボディーソープを馴染ませる。
泡立ったものを身体に塗りたくり、一通りの汚れを落とし始めた。
右肩にスポンジを当てた瞬間、刻み込まれた1の文字の入れ墨が鏡に映り込む。
日本に来て自らの名前と生き方を変えたとしても、心の中に深く刷り込まれた忌々しい記憶は決して変わる事はない。
香港やシカゴで大勢の命を奪ってきた。
そして、これからも。
コンディショナーを落とし終えた上で貴士は浴室から出ると下着を着つつドライヤーを点けて髪を乾かし始める。
毛髪が長いせいか思ったよりも乾かすのに時間が掛かり、時計の針は既に7:30を指していた。
このアパートから日々谷警備保障会社の本社は徒歩で30分。
始業時間は8:30からなので、時間が有り余っているとは言い難い。
「えーと、これだな」
小百合達との別れ際に手渡された社員用の制服を、貴士はまじまじと見つめる。
黒を基調としたスーツジャケットに、動きやすい素材のスラックス。
ジャケットの肩から白い紐が伸びており、警備員の制服を彷彿とさせる。
深い青色のシャツをまず羽織り、スラックスに足を通すと次に貴士は黒いネクタイをシャツの襟に結び付けた。
その後ジャケットを着てから鏡を見ると、やけに初々しさを感じさせる姿が映っている。
「……って、照れてる場合じゃなかった。早く行かないと」
ビジネスバッグにM586を突っ込み、これから仕事道具として扱う愛刀の入った刀袋を肩に担ぐと貴士は革靴に足を通した。
こうして、新入社員畑貴士としての第一日が始まったのである。
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<日々谷警備保障会社・オフィス>
「……それで、張り切って出社したものはいいけど道に迷って結局遅刻してしまった、と」
「面目ない……」
「あっはっは、お前さん面白いねぇ! 」
首を垂れながら貴士は飼い犬のように小百合へ頭を下げる。
隣で様子を見ていた二郎が爆笑しながら彼の肩を叩きながらコーヒーを彼に手渡した。
「ま、彼も初日だから緊張してしまうのは仕方ないよ。それに初めて訪れた場所だ、勝手が分からないのもしょうがない。小百合さん、お説教はその辺にしといてやってくれないかな? 」
「あら、二郎君は私が貴士君にお説教してるように見えたのね。二郎君後でお話があるわ」
「ちょっと僕にまで飛び火かい!? 勘弁してくれよ! 」
「冗談よ。……まあ、気にしないでね貴士君。周辺の案内をしていなかった私にも問題はあるから、もう落ち込まないで」
怒られた子供をあやす母親のような声音に貴士は恐る恐る顔を上げ、照れ臭そうにコーヒーを啜る。
今日は災難が続くな、と内心毒づくと目の前の小百合が彼に手を差し伸べた。
「今日来てもらったのは業務説明とかの為だけでね。本格的なお仕事はまだなのよ。だから今日は私が街を案内してあげる。どうかしら? 」
「それは有難い……です、社長」
「やだ、そんな畏まらなくていいんだって。じゃあ決まりね、お財布だけ持って行きましょ」
言われるがまま貴士は二郎に別れを告げながら、財布をスラックスのポケットに突っ込むと二人は階段を下りていく。
途中、段ボールを抱えたみどりとすれ違い彼女は素っ頓狂な声を上げながら二人に視線を向けた。
「おろ? 社長、貴ちゃんとどこ行くの? 」
「ふふ、この辺の案内よ。みどりちゃんも来る? 」
「ぜひとも行かせて貰いたいけど生憎作業で手一杯でさ……。また今度ご飯にでも行こうよ」
そう言うと彼女は軽快な足取りで階段を上っていき、あっという間にオフィスの奥へと消えていく。
貴士と小百合はビルのエントランスを後にすると、眩しい太陽が二人を出迎えた。
「ここから歩いて五分くらいの所に駅があるから、其処は会社に戻りがてら説明するわ。先ずはアナタのアパートから会社の行き方を教えなきゃね」
「……すまない、小百合さん。何から何まで……」
「何言ってるの。貴士くんを引き込んだのは私なんだから、謝る必要ないの。こっちよ、付いて来て」
駅の中心街と近い場所に立地しているこの会社から二人は歩き始め、段々と景色が住宅や小売り店のものに移り変わっていく。
やがて大きな山も見え始め、目に見える店の数も段々と減っていった。
そうして二人は貴士の住んでいるアパートを見つけ出し、次は会社周辺の案内を始めようとした瞬間。
突然小百合の腹から地鳴りのような音が聞こえ、彼女は照れ臭そうに頭を掻く。
「ご、ごめんなさい。朝から何も食べてなくて……」
「じゃあそこにパン屋あるし、寄っていこう。俺も腹減ってたし」
彼が指さしたのは昨日夕飯を買う為に訪れたパン屋であった。
貴士が提案した瞬間に小百合の表情が僅かばかり歪んだが、気にせずに二人は店内へと入る。
「いらっしゃいませー! あっ小百合さん! お久しぶり……って、あれ? 君って……」
「あら美雨ちゃん……ってどうしたの? 」
入店した瞬間、黄色いエプロンに三角頭巾を頭に巻いた黒縁眼鏡の女の子が二人を出迎えるが貴士の顔を見るなり素っ頓狂な声を上げた。
最初は彼女が誰だが分からなかったが、脳裏に昨日の事が思い浮かぶ。
突然ぶつかってきた女の子……だったはずだ。
「君は……昨日の? 」
「そういう君は助けてくれた男の子だよね? なんだ奇遇、また会っちゃった」
手に持っていたバスケットをその場に置き、美雨と呼ばれた彼女は貴士に手を差し出す。
どうやら小百合とも知り合いらしく、彼女は二人を見つめていた。
「私、天音美雨! よろしくね! 」
この出会いが、畑貴士としての運命を変える出来事だとは分かるまい。